君が生きた証を残すから



 私が小学生の頃、父親が亡くなった。
 父は優しくて情に厚い素敵な人だった。それ故に母は父を心の拠り所にしていたから、ショックは大きかったと思う。

 父が亡くなってからは、住み慣れた街を出て今の町に引っ越した。不便だけど家賃が安いからという理由で山の中にあるアパートに二人暮し。最初見た時は、こんなところに住めるわけないと思っていたけど、山の中にある割に内装はそんなにボロくなかったし、時間が経てば慣れていった。

 家の主な収入源は父だったから、亡くなってからは母が生活費を稼ぐために働いていた。
 小学一年生だった私は日が昇り始める時間に起きて、日が沈む時間になると眠っていた。だけど母は、私が眠る時間に仕事に行き、学校に行く前に帰ってくる。そうなると顔を合わせる時間も少なくなり、日によってはご飯も食べず、家に帰ってきたら眠るだけの生活をしていた。
 だから私は当時の母をあまり覚えていない。どんな顔をしていたのか。何が好きで、何をしていたのかも知らない。学校であったことも話せないまま、時間だけが過ぎていった。
 この時、一番辛かったのは母だったはず。それなのに弱音一つ吐くことなく、私と顔を合わせた時には優しく笑ってくれていた。それがどれほど辛いことなのか、今の私には分かる。
 だけどまだ子どもだった私は、暗く沈んだ家に一人でいるのが嫌だった。冷めた料理が置かれたリビングが嫌で、母とまともに顔を合わせられないのが嫌で、話せないのが嫌で、一日中湿った空気の部屋で眠るのも嫌で。
 だからといって直接何かに当たることもできなくて、その溜め込んだ感情を外で吐き出したこともある。

 それでも、目に見えていたものの変化にはちゃんと気づいていた。ずっと近くで見ていた母は、日に日にやせ細っていき、着ている服も同じものばかり。お風呂には入っているけれど、硬いソファの上ではちゃんと眠れていなかったはず。
 ようやく周囲のことに気を配れるようになった私は、自分に何かできることはないかと、学校の先生に料理を教わって慣れない手つきで一食分を用意したこともあった。

 そんな生活が数年ほど続いていたある日、突然母が家に知らない人を連れて来た。
 母よりも年上の男の人。身なりの整ったその人は、金目の物を身につけていた。
 職場先で出会った人とだけ聞かされ、それ以外のことは何も知らない赤の他人。なぜそんな人と一緒にいるのか問い詰めることはしなかったけど、その人といる時の母は笑っていたから何も言えなかった。

 その男性は、私が学生の間、必要な学費や生活費を工面してくれていた。おかげで母と過ごす時間も増えて、一緒のテーブルでご飯を食べることも、話をする時間も増えた。
 だけどその場所に、例の男性の姿はなかった。
 母も理由を話してくれなかったけれど、私が気にすることではないと思い、存在を頭の隅に追いやっていた。
 私は、しばらくこんな生活が続くのだと思っていた。けれど小学校を卒業した次の日、母が家を出ていくことになった。
 『あのね、日和ちゃん。お母さんこれからしばらく家に帰って来られないと思うの』
 母の口から詳しいことは聞けなかったが、それでも私は「いってらっしゃい」と笑って手を振ることしかできなかった。それが母親と交わした最後の笑顔だった。

 母はあの男性と条件付きで付き合っていたらしい。
 それは、私が学生の間に必要な学費や生活費を出してくれる代わりに、母が男性の家に嫁ぐことだった。
 母が付き合っていたのは自分のためではなく、私のためだった。相手の男性にとってどんな利益があるのか知らないけれど、母はあの人のことをどう思っていたのだろう。
 思い返せば私と二人きりの時、母はあの男性の話を一切していなかった。多分ボロが出ないようにするためだったんだと思う。自分が好きであの人と一緒にいるわけではないから。
 その話を知ったのが、母が家を出ていく前日。私は夜中に二人が話していたのをこっそり聞いていた。

 あの男性はこれまでも何度か家に来たことがある。その度に母はこう言っていた。
 『もう少し待ってほしい』
 本来、今すぐこの家を捨てて男性の家に嫁ぐことが条件だったみたいだけど、母は私が小学校を卒業するまでは待ってほしいと説得していた。
 きっと最後まで悩んでいたんだと思う。私一人を残して行っていいのだろうかと。だけど、あの人が自分たちの生活を支えてくれていたことは事実で、まだ子どもの私にはお金を稼ぐことができない。今日まで生きてこられたのは、あの人がいたからだということは十分に理解している。だから私は「大丈夫」と言って、母の背中を押した。

 本当は私も連れて行ってほしかった。でもそれは決して叶うことがないというのも分かっていた。
 あの人は子どもが嫌いだった。だからあまり家に来なかったし、常に私のことは視界に入れていなかった。
 だから私を捨てるように母に言ったんだ。新しい家に子どもはいない方がいいからと。

 私が子どもだから母は悩んでいた。
 私の存在が母を苦しめていた。
 私さえいなければ、母は毎晩働くこともなく、綺麗な服を着て、美味しいご飯を食べて、温かい布団で眠れていたのかもしれない。
 私さえいなければ、母は幸せだったのかもしれない。
 私さえいなければ。
 あぁ、そうか。
 私なんて、生まれてこなければよかったんだ。



 それから毎月、母親名義で家にお金が送られてきていた。
 余った分は自分の好きなように使いなさいと書かれたメモ。元々物欲がなく、余ったお金を使うことはなかった。それを送り返そうにも相手の住所が分からないからどうすることもできずに、他人から貰ったお金は貯まっていった。

 味のしない食べ物、温度を感じない部屋、色のない景色。何も無くなった場所に、私だけが取り残されている。
 動かなくなった人形のように部屋の隅で、ただじっと座って時間が過ぎていく音を聞いていた。


 そして三年後、私は中学校を卒業した。
 なんて口では簡単に言える。中学なんて一番辛かった時期なのに。

 当時、真面目とは程遠い性格をしていた。というのも、学校に行って授業を受けていた表の顔と、たまにサボる裏の顔があった。
 それは、決められたレールの上を歩くのが嫌な時期で、どうしても学校に行きたくない日があって、そんな時は町をふらついていた。
 家にこんな自分を正す人はいないし、バレないようにしていたから先生から注意を受けたこともない。けれどいつ見られていたのか、知らないところで広まった噂のせいで同級生からは冷たい視線を向けられていた。

 自分の問題行動は自覚しているけれど、他人からどう思われようと正直どうでもよかった。これが集団行動の輪を乱すものだとしても。あるがままに生きることでしか、生きていることを実感できなかったから。

 "水月日和は学校サボって町を歩いている。彼女は不良らしい。先生の前では真面目なふりをする劣等生。"
 実際、勉強はあまり得意ではなかったから何も言い返せなかった。
 それでも私の心は折れることはなく、常に前を向いていた。
 こんな奴らに何か言われたくらいで、傷つく方が馬鹿らしい。そう思っていたから。

 でも、たった一度だけ声を荒らげたことがある。
 それは中学一年生の頃。珍しくクラスメイトに絡まれることがあった。これまで陰口を言うだけだったのに、なぜかいきなり話しかけてきた彼女たち。その時の廊下には自分たち以外、誰もいなかった。

 話を聞いていれば、私が学校にいるだけで空気が悪くなるだの、怖いから近づくなだの。不良が学校に来るなというような文言が多かった。
 そうやってわざわざ本人に嫌味を言うあたり、私のことを相当嫌っているんだろうな、と心の中では思いつつ、顔には出さなかった。

 『そう言えばあんたの母親。男に媚び売って金騙し取ってるらしいじゃん。私の知り合いに見たって人がいてさ』

 その子とは小学校が同じで、私に父親がいないことを知っていた。かといってその後の事情全てを知っているわけではない。
 きっとその相手は婚約者の男性。それを知っている私は特に驚く素振りも見せなかった。

 『え、何。じゃあ水月も学校サボって男に会いに行ってんの?』
 『ないわー』

 よくもまぁそんな戯れ言が思いつく。
 呆れてため息も出なかった。
 このまま何も言わず聞いていれば、彼女たちも満足していなくなってくれるだろう。そう思って無視し続けた。

 『親も親なら子も子だな』
 『……』

 その時、私の周りから音が消えた。
 心臓が一気に冷たくなり、呼吸が浅くなる。
 気分が悪い。
 これまでもこういうことは何度もあったのに、今回ばかりは溢れる感情を抑えることができなかった。
 私は、みんなとは違う。そんなことは自分が一番よく分かっている。でも。

 人の生き様をそんな風に笑うな。お母さんも私も辛かったんだ。誰にも相談できずに一人で抱えて、未来を選択した今でも、その道が幸せかどうかも分からないのに。
 何も知らないで騒いでいる奴らに、偉そうな態度を取られる筋合いはないと言ってやりたかった。

 『お前らに何が分かんだよ!』

 喉を潰したような酷い声。とても良い言葉遣いとは言えないセリフ。もう少し他に言い方があっただろう。そう思っていても気にしている余裕はなかった。
 その瞬間、普段静かに席に座っている私しか知らないクラスメイトは呆気にとられた顔をしていた。


 何にも縛られず、他人の力を借りず、一人で生きていきたい。
 今までの人生を振り返った時、そんな生き方ができればどんなに幸せだっただろうと考えたことがある。
 他人の事情に振り回されず、自分一人で生きていく力があれば、大切なものはまだ自分の手元にあったかもしれない。弱音を隠すこともなければ、誰かの陰口に強がる必要もなかったのかもしれない。

 あの日。声を荒らげた日、私は立ち入り禁止だった屋上にこっそり忍び込んだ。
 教室にいるのが辛くて、誰かに相談することもできなくて。少しだけ"今"から抜け出したくなった。
 人気のない階段を上り、屋上へ続く扉を開けた。
 スーッと風が通り抜け、雲の間から太陽が顔を出していた。フェンス越しに見えた景色は騒がしくてうるさくて、私の存在なんてすぐに掻き消してしまいそう。
 それでも視線を上に向けると、大きくて広い綺麗な空が見えた。今、屋上にいるのは私だけ。空を独り占めしているこの瞬間だけは、世界に自分の存在を受け入れてもらえているような気がした。
 私は、この場所に来て、ようやく息ができた。

 目を閉じていても周りの声は聞こえない。私への視線も感じない。こんな時間がずっと続けばいいのに。
 優しい風の音に耳を澄ませ、深呼吸をした。

 教室に戻ったって、私の居場所はないんだ。
 あの家にも、家族の中にも、私の居場所はどこにもない。
 そもそも、私を受け入れてくれる場所なんてこの世界にあるのだろうか。


 私は次の日から学校へ行くことができなかった。
 そりゃあんなに騒いだら行くのが怖くなるのも当然で、廊下に誰もいなかったとはいえ、私の声は間違いなく第三者の耳にも届いていたと思う。

 学校から家に電話がかかってきても、家に誰かが来ても、ただ「大丈夫です」と言って終わる。
 助けを求めたところで、どうせ誰も助けてくれないんだから。助けるふりならしなくていい、綺麗事を言うだけなら話さなくていい。私が求めているのはそういうのじゃないから。

 家に家族はいないし、母親の連絡先も知らない。
 そんな時期をどうやってやり過ごしてきたのか覚えていない。唯一記憶に残っているのは、知り合いと顔を合わせない時間帯を狙って外出していたこと。
 私が不登校だろうが、一日中家に引き籠っていようがあの人たちには関係ない。いつものように決まった金額が決まった日に送られてくるだけ。

 『私、このままでいいのかな』

 久しぶりに発した声は掠れていて、半分吐息が混じっていた。

 澄んだ朝の空気を求めて家の外に出ると、ポストに地元の高校のパンフレットが入っていた。
 中学校よりも大きくて綺麗な場所。その中で楽しそうに笑う生徒の写真に嫌気が差した。

 それでも、一度くらいは行ってみてもいいかな。



 運が良かったのか、進学した高校には知り合いが一人もいなかった。
 中学校から高校までは距離があるし、みんなわざわざ遠い学校は選ばなかったのだろう。それに通っていた中学は女子校で、田舎町の高校に来たがる人はあまりいないだろうと踏んでいた。おかげで窮屈だった女子校とは違い、田舎町の高校は落ち着いていて、家から近いし通いやすかった。

 だけどやっぱり、学校は怖かった。
 人を信用しきれなくて、顔を見るのが怖くて、前を向いて歩けなかった。また誰かが私の悪口を言ってるんじゃないかと思うと、自然と身体が縮こまり、声を荒らげた時のことが蘇ってくる。
 前までは平気だったのに、私弱くなっちゃったのかな。
 外に出ると息ができなくて、深海の底に沈んでしまったように体の自由が効かず、ただ落ちていく。そんな感覚だけが残って、一人静かに消えていった。

 結局、高校に通えたのは最初の三日間くらいで、それからはまた家に籠りっきりだった。
 次第に何もするにも億劫になり、一日を布団の中で過ごすことが増えていった。

 私がいなくなって困る人なんているのだろうか。
 家族はいないし、友達もいない。母親からはたまに留守電が入っていることはあるけれど、それを私が聞いているかどうかは伝わらない。
 その感情は少しずつ膨らんでいき、いつしか、自分一人がいなくなったくらいで誰も気づかないだろうという答えに辿り着いた。
 生き苦しさを抱えて生き続けるのなら、私がいなくなって誰も困らないのなら、消えたっていいじゃない。

 『死にたいな……』

 そう考え始めると、それ以外のことは全部どうでもよくなった。何も考えられなくなった。
 死ぬこと以外はかすり傷と言うけれど、死にたいって願った時点で致命傷。もう自分じゃどうにもできない。
 だからといって誰かに弱い自分をさらけ出すこともできなくて、そんなことする気にもなれなかった。

 それでいい。これが私の人生なんだ。

 全てを諦めた私は、いつもより景色がよく見える場所に立っていた。町の光が淡く、優しく、緩やかな線を描いている。
 『この町、嫌いじゃなかったんだけどな』
 普段から下を向いて歩いているくせに、これが最後だと思うと急に寂しくなった。

 試しに一回消えてみよう、なんて馬鹿なことを考えて目を閉じる。

 真っ暗になった世界で脳裏に浮かんだのは、亡くなった父親でも、笑顔を貼りつけた母親でも、お金を渡すあの人でも、先生でもクラスメイトでもなかった。

 それは私がまだ小学生の時。辛い現実から逃げたくて、家を飛び出した先で見つけた、仲睦まじい様子の家族。
 坂道の上から見える人集りの中で、その家族を一番に見つけたのは、私がずっと求めていたものだったからだと思う。

 夕日に照らされた町を並んで歩く両親と子ども。自分と同い年くらいの男の子は父親の隣を歩き、その横には赤ちゃんを抱えた母親がいた。
 家族が家に入った後も男の子だけは外にいて、その呑気な行動に私は腹が立った。

 私は父親を亡くして、必死になって働く母親に構ってもらえなくて泣きたいのに。あの子はどうして笑っているの……?どうしてあんな温かいところにいるの?
 私はあんな風に笑えたことないのに、どうして。

 景色が涙で歪み始める。強く唇を噛んで、私は坂道を一気に下り、その子がいる場所まで走った。握ったままの手が震えて、ちゃんと息が吸えない。それでも、これまで溜め込んできた感情と、目の前に映る現実に言葉が零れた。

 『私は、あなたのことが憎い』と。



 ――……謝りたい。

 あの時、素性も知らない幼い彼に向かって心無い言葉をかけてしまった。彼があの日のことを覚えてないとしても、「ごめん」の一言が言えないと私の後悔は一生消えない。

 死ぬ間際、そんなことを思ったからなのか、生前人に迷惑をかけたからのか理由は分からないけれど、目が覚めると私は何度目かの人生をスタートさせていた。

 それをこれまで何度も繰り返している。
 逃げた私の人生に、終わりはないんだ。


*̩̩̥






 だから彼女は口にしていた。

 『私はね、生きてないんだよ』
 『君はさ、消えてしまいたいと思ったことある?この世から自分という存在がなくなってしまえばいいのにって』
 『私はあるよ。何度も』

 僕が彼女から聞いたのは、早くに亡くなった父親のことと小学生の頃まで一緒に暮らしていた母親のこと。それから中学のことと高校に入学してから死ぬまでのこと。
 その事実だけを淡々と述べられ、それに伴う彼女の心情は教えてもらえなかった。だから死の間際、彼女が何を考えていたのか分からない。
 そこには触れてほしくないのだろう。だから僕は少し気になったことを聞いた。

「えっと、水月さんは幽霊ってこと?」

 彼女は既に亡くなっている。それなら今話している彼女は故人のはず。

「それがね、面白いことにそうじゃないんだなー。だって物に触れられるし、ご飯だって食べられる。それに、一度忘れたからってみんな私のことが見えてないわけじゃないでしょ?」

 だから私は幽霊なんかじゃない、と笑っていた。
 話を聞く限りでは、この世に未練を残した魂のように思えるけれど。

「生まれ変わりって知ってる?私の場合、死んでもまた水月日和になるんだけど、それをずっと繰り返してるの」

 高一の時に初めてこの世から存在を消した彼女は、何日か経って意識を取り戻したという。しかも生前と同じ家にいて、生前と同じ人物の顔をしていて、生前の記憶を持った水月日和として生まれ変わっていた。

 そして一度死んでからは一日一歳年をとっているらしく、今日が十六歳だとすると、明日は十七歳になり、約束をした連休最終日には二十一歳になっている。
 生まれた頃の記憶はなくても、時間が経てば自分が生まれ変わりを繰り返している水月日和だということを自覚するらしい。
 時間の進みは僕たちと同じで、カレンダーを捲る日付も同じ。つまり彼女の存在だけがイレギュラーだということ。

「私がこの世から消える度に、私と関わった人の記憶はリセットされる。そして、私と関わった部分だけが切り取られた過去ができる」

 それがみんなの記憶から彼女が消えるトリガーだった。

 生まれ変わる理由も記憶が消える原因も分からないと言うが、そんな話は現実的にありえない。けれど、信じざるを得ない事実を彼女が告げた。

「君が自由の答えを探すきっかけになった人。公園で出会ったスーツ姿の水月さんは、何度目かの生まれ変わりを経てこの世に存在していた私。あの日は桜が舞い散る三月で、君は友達に言われて私の隣に来た」

 彼女にあの日の季節や相手の服装、友達が近くにいたことは話していない。それを知っているのは当人だけだから、あの水月さんは本当に彼女だったんだ。

「そして君は、その話を覚えていてくれた。相手が私だってことは分からなかっただろうけど、覚えていてくれたと知った時、この子の記憶から私は消えてないんだって分かったの」
「どうしてもっと早く言ってくれなかったんだよ!?」
「詳しい事情も知らないのに、あの時会っていたのは私です、なんて言えるわけないでしょ。ちなみに、君のお店に初めて行ったのは三歳の時。適当に口実作って、ひよこのストラップを買いに行った」

 ひよこ……日和……そういうことか。
 そこでようやく合点がいった。水月さんが初めて店に来た時に落し物と言って渡したストラップは、自分で買ったもの。
 そして彼女が口を滑らせて、僕の笑った顔を見たことあると言ったのは、あの時の笑顔を見ていたから。
 もしかしてストラップを僕に渡したのは、自分だと伝えるためだったのかもしれない。

「えっと、つまり、水月さんは僕と会ってから少なくとも二回は生まれ変わってるってこと?」

 公園で会った時から店に来るまでの間で一回。そして、クラスマッチが終わってから数日休んでいた間に一回。

「そうなるね。にも関わらず、君はまた覚えていてくれた」

 ここに来て処理しきれない量の情報が頭に流れ込んでくる。
 彼女はこれまでずっと、その事実を隠して僕と話していた。僕の記憶が消えていないといっても、覚えてなければ忘れているのと同じじゃないか。
 水月さんは、覚えていてくれたと嬉しそうに言うけれど、僕は公園で会ったあの人のことも、店に来てくれたあの子のことも、水月日和と認識していたわけではない。
 結局僕も他の人たちと同じで、彼女のことを忘れていたんだ。それが何よりも悔しかった。悔しくて申し訳なくて、気づけなかった自分を殴りたい。

「それから君がよく見るって言ってた夢の話。というより過去のことかな。ほら、女の子を傷つけたっていう」

 その時、胸のあたりがざわついた。

「……もしかしてあの時の子どもは、水月さんだったとか」
「もしかしなくてもあれは私だよ。でもあの時は生まれ変わりをする前の、本当の子どもの私だから」

 そんな前から僕は彼女と会っていたんだ。

 走って荒ぶった息。泣き跡が残る顔と震えを隠して叫んだ声。強く握り締めた手は、ほんの小さな子どもの手。

「羨ましかったんだ、あんな風に笑って、温かい場所にいる君のことが。羨ましくて、憎いと思った。……湊大くんが過去の夢をよく見るのはきっと、私のせいだと思うんだ。私が死ぬ度に君はその過去の夢を見る。私がその時のことを悔やんでいるから。謝りたと思っても、相手がどこにいる誰なのか分からないから謝れない。……消える度に思う、ごめんなさいって」

 震える声は下へ向かって落ちていく。
 辛い過去を思い出して、隠し続けた真実を打ち明けて、彼女の頭の中はぐちゃぐちゃのはずだ。
 それでも気持ちが前に押し出しているのか、白くて細い手が僕の腕を掴んだ。

「今更言ったってもう遅いけど、言わせてほしい。……ごめんね」

 ぐっと距離を詰められたせいで、僕の目にはちゃんと彼女が映っていた。

 僕だってずっと気になっていた。あの日泣いていた女の子は今どこで何をしているのだろう。どうしてあんなことを言ったのだろう。今はもう泣いていないだろうか、と。

 ……あぁ、そうか。
 後悔が残っていたのは、僕だけじゃなかったんだ。

 腕を掴まれた手に、そっと自分の手を重ねる。

「大丈夫だよ」

 そう言って彼女の手を自分の腕から離した。

 だから、もう自分を責めないで。



「……湊大くんは怒っていいんだよ」
「えっ?」

 堪えていた涙が溢れたのか、彼女は再び下を向いた。

「あなたのせいで人と距離をとるようになったんだって、僕が僕でいられなくなったんだって、怒っていいんだよ……」

 泣きながら紡ぐ言葉は不安定で、消えてしまいそう。
 だから僕は、紡がれた言葉に寄り添うように、そっと言葉を口にする。

「たとえ君が望んでいたとしても僕は怒らないし、そもそも怒ってなんかないよ。それよりも、ずっと心配してた。泣いていた理由も叫んでいた言葉の意味も分からなくて、なにもできなかったから。……。頑張ったね」
「えっ……」

 自然と零れた最後の言葉。それはずっと、彼女にかけたかった言葉だった。初めて会った時から、なんて声をかければいいのか、あんなに悩んでいたのに。
 今の僕なら、その言葉が言える気がした。

「あの時、君を助けられなかったことを後悔してて。あれからいろんなことがあって、息ができなくなるほど辛かったはずなのに、今こうして会って話ができてる。それは、今日まで水月さんが頑張ったからだよ」

 僕の気持ちを伝えたところで、なんにもならないけど、またこうして出会えたことが嬉しいんだ。こんな言葉で彼女を助けられたなんて思ってない。それでも、伝えたかった。

 そして、彼女の瞳から大粒の雫が溢れた。

「あっごめん」
「違うの……そんなこと言ってくれる人、今までいなかったから……胸が苦しいのに、嬉しいんだ。おかしいよね」

 涙を拭って上げた顔には泣き跡が残っていて、強く擦ったのか、目元が赤く腫れている。

 君と僕がこれまで見てきた景色は違う。生まれ育った環境も、感じてきたことも、平行線で交わらない。それでも。

「僕なら、君の力になれるかもしれない」

 水月さんの記憶が消えない僕になら、何かできることがあるかもしれない。みんなの記憶から消えないように、同じ時間の中で生きられるように、彼女が抱えている現実に、少しでも寄り添うことができたら。

 水月さんは、自分のせいで僕が昔の夢を見ると言っていたけど、原因は僕にもあると思う。
 過去の自分に後悔が残っているのは僕も同じで、あの時の水月さんに僕は何も言ってあげられなかった。
 もしも、その後悔に上書きができるなら。
 僕は、彼女のために生きたい。

「それは……」

 彼女は戸惑いながら視線を外す。

 『だから、君も忘れてくれないと困るの!そうじゃなきゃ、勘違いしそうになるから』
 『私は、助かりたいと思ってないから』

 屋上で聞いた言葉が彼女の本心だとしても、僕は助けたい。
 君と同じ景色を見ていたいから。ずっと隣で笑っていてほしいから。一緒に生きてほしいから。

「君が嫌がっても、僕は助けるから。君が言ったんだよ、生きる意味を見つけろって。……今わかったんだ。僕は、水月さんのために生きたい」
「え……」

 その言葉に彼女は顔を上げた。

「君が僕の生きる意味だから、消えられたら困るんだ」

 僕は今、どんな顔をしているのだろう。ちゃんと笑えているだろうか。僕の言葉は、ちゃんと届いているだろうか。

 雲間に隠れていた月が姿を現し、湖を青く光らせる。優しく降り注ぐ幻想的な月光は、涙で濡れた彼女と熱を帯びた僕をそっと照らした。

「君は、優しいんだね」
「そんなことない。これは僕の自分勝手な我儘だ」
「それでも、そんな風に思ってくれているなら。私にとって君は優しい人だよ」

 視線が合った彼女は、そっと微笑んだ。
 そして手を伸ばし僕の頭に添えると、彼女の声が耳元に触れた。

「ありがとう」

 その手を握り返し、見つめた先の彼女の笑顔を僕はずっと忘れない。