「ちょっと外に行かない?」
約束した放課後になり彼女の元へ行くと、そう言って歩き出した。
僕は何も言わずに後をついて行く。
彼女は今日のことをどう思っているのだろう。
一か月前と同じように自己紹介をさせられ、見知ったクラスメイトから初めて顔を合わせたような会話をせがまれて。それに対して、なんとも思っていないような顔で笑って。
まさか、彼女自身の記憶もなくなっているのだろうか。でもそれなら、今こうやって僕と一緒にはいないはず。
分からないことだらけでも何も聞けないまま、僕らは階段を上っていた。
「屋上って立ち入り禁止じゃなかった?」
「そうだよ」
「こっちにはもう屋上しかないけど」
「その屋上に向かってるからね」
彼女はなんの躊躇いもなく鍵のかかっていない屋上の扉を開けた。
立ち入り禁止なら鍵くらいかけておけと思うが、今回はかかっていなくてよかったのかもしれない。
「バレなきゃ大丈夫とか思ってる?」
「思ってる。それに、人に聞かれちゃ困る話をするから」
町を見渡せる場所まで歩き、フェンス越しに景色を見る。
本来なら立ち入ることができない場所。後ろめたさはあるものの、ここから見える景色は真っ直ぐに僕の目に映った。
隣に立って同じように町を見下ろす彼女。その横顔はどこか寂しそうで、見ていると胸の奥が締めつけられる。
「聞いてもいい?休んでた理由」
水月さんはフェンスにかけた手に少し力を込めた。
「それは、人前に出ちゃいけない状態だったからだよ」
今のはわざと言葉を選んでいたように見える。そうやって隠すのは、本当のことを僕に教えたくないから。それでも今日は、その先が知りたい。
「どうして――」
今の僕に躊躇いの文字はない。だから踏み込んだ。
「どうしてみんなは、水月さんのことを覚えてないの」
フェンスがガシャリと鳴って強く揺れた。
掴んでいた手を放し、彼女は僕と向かい合うように振り向く。
「逆に聞きたいよ。どうして君は覚えてるの?」
錆のついた手を握りしめ、何かを抑えるように彼女は俯く。
「私、普通じゃないの」
聞こえた声は小さく、震えていた。
息を吐き出し鼻をすする音が聞こえ、彼女は顔を上げた。
「詳しくは話せないけど、私があることをすると、私と関わった人の記憶から私という存在が消えるの。君が見てきたように、私と出会う前の記憶に戻る」
打ち明けられた言葉がストンと身体に落ちてきた。言っていることは信じられなくても、今日まで見てきた周りの反応を思い返せば彼女の言葉は腑に落ちる。あんな態度を取っていたのは、彼女と出会っていたはずのみんなの記憶がリセットされていたから。
「でも君は忘れなかった。原因は分からないけど、そんな人は初めてだった。……だから近づけば消えやすくなると思った」
より深い関りを持つことで記憶が残りにくくなるのなら、茜の記憶が消えなかったことに関しては納得できる。妹はクラスメイトと比べて水月さんとの関りは薄い。
それなら僕は……?
「この間行ったカフェで、私のこと拒絶したでしょ?」
重く静まり返ったなかで 、彼女は口を開いた。
拒絶。
『僕が誰かを好きになることなんてないし、人と距離を縮めたいとも思ってない』
『それは君も例外じゃない。なのに、どうして踏み込んでくるの』
僕は近づいてくる彼女と距離を取った。
でも彼女がそうなることを意図して狙っていたんだとしたら。
「本当はあれでよかったの。君は拒絶したままで、よかったんだよ」
「もしかして、わざと記憶に残るようなこと言ったの?」
「そうだよ。それに、あんな距離の詰め方すれば嫌がられるの分かってたから」
『気になるからだよ』
あの時の目は本気で、だけどどこか躊躇いがあった。
彼女は「だから、ごめん」と目を擦りながら頭を下げた。
そこまでして自分の記憶を消そうとしていたのなら、僕も忘れたふりをするのが正解だったのだろうか。いや、そもそも消える理由も分からないのに、そんなこと考えるのもおかしな話だ。
どうして僕は、彼女のことを忘れなかったんだろう。
「水月さんは、みんなから忘れられたいと思ってるの?」
そう聞くと彼女は俯いていた顔を上げた。
「思ってないよ!でも、そういう決まりなの、抗えないの。私がどれだけ覚えていてほしいと願っても、みんな忘れちゃう。だから、君も忘れてくれないと困るの!そうじゃなきゃ、勘違いしそうになるから」
涙混じりの声を荒らげる。こんな水月さんを見たのは初めてだ。
忘れられたくないと思っていても忘れられてしまう。忘れなければ困る……。勘違い……。
だめだ。どうにかしたいと思っても、彼女の記憶が消えるトリガーが分からないから話の核心が掴めない。そういう決まりってなんだよ。なんで全部教えてくれないんだ。
問い詰めようとしても、さっき言われたことのせいでこれ以上踏み込めない。踏み込みすぎたら、僕の記憶から彼女が消えてしまうかもしれない。それだけは嫌だった。
「私は、助かりたいと思ってないから」
沈黙が続いて独り言のように吐き捨てたその言葉を、僕は聞き逃さなかった。
「ごめんね、いきなり変なこと言って。気持ち悪いと思ったら、嫌ってくれていいから」
彼女は何事もなかったように無理矢理笑顔を作っていた。
今の独り言は気づいていないふりをするが、こんなところで終わらせてたまるか。
「そんなこと思わない」
むしろもっと教えてほしい。今君が抱えているもの全てを、打ち明けてほしい。
いつもは僕が取りたがる距離を、今日は彼女が取る。それを強引に引き留めるように、見つめ返した。
「……」
内に秘めた言葉を察したのか、彼女はため息混じりに微笑んだ。それから「何を聞いても驚かないでほしい」と言われ、僕は小さく頷いた。
喉に空気が張り付き、変な緊張感が漂う。
吹く風さえも居心地が悪く感じ、空っぽの空を横目に映した。
「私はね、生きてないんだよ」
淡々と告げられた言葉。戸惑いを隠すように握った手に汗が滲む。
生きてない?それは、つまり……しん――。
「君はさ、消えてしまいたいと思ったことはある?この世から自分という存在がなくなってしまえばいいのにって」
途切れそうになる息を続けながら、僕は「……ない、かな」と乾いた声で返す。
「そうだよね。そんな感じする。だって君、幸せそうだもん」
返されたのはどこか冷たく、遠くから放たれたような声。
幸せそう……。自分が幸せだと感じながら生きているわけではないけど、そんなことないと答えられなかった。
「私はあるよ。何度も」
平然を装って話しているつもりだろうけど、ただ広いだけの何もない場所では誤魔化すことはできない。
追い詰めるように呼吸を続けているのは僕じゃない。彼女自身が、自分の言葉に追い込まれている。息が詰まりそうな場所にいるのは、彼女だ。
「そのうちね、分からなくなるんだ。私はちゃんと今を生きてるのかなって。私は今、ちゃんとここにいるのかな」
何を問うでもないその瞳は、ただ真っ直ぐに僕を見つめていた。
僕が教えないと、ここにいるって。
引っ張らないと、息ができる場所まで。
でも、それってどこなんだ。
彼女にとって息ができる場所を、僕は知らない。今日まで何を抱えて生きてきたのかも、どんな景色を見てきたのかも。僕は何も知らないんだ。
彼女は今、何を思って生きているんだ――?
自分に何ができるだろう。答えのない問いを考えていると、寂しげに笑う彼女と目が合った。
「私の秘密を話したのは君が初めてで、私のことを覚えていてくれるのも君一人。だから今まで通り、隣の席同士仲良くしてくれると嬉しいな」
その言葉を残して彼女は校舎の中に消えていった。
「……」
僕はまた、何もできなかった。
あの時と同じようにただ立ち尽くすことしかできない。
一人屋上に取り残された僕は、最後に向けられた笑顔の意味を考え続けた。



