「話があるんだけど、放課後時間いい?」

 始業のチャイムが鳴る一分前、後ろのドアから教室に入る一人に意識を向け、久しぶりに顔を合わせた彼女に声をかけた。

「うん、いいよ」

 最後に会った日と変わらない笑顔で彼女は答えてくれた。

 結局彼女が学校に来たのは、クラスマッチから二週間以上経った木曜日だった。
 普段通りの時間に登校していた僕は彼女が来るのを待っていた。今日も来ないかもしれない。そう思いながらも空いた隣の席を見つめ、記憶の中で繰り返される後悔を上書きできる言葉を探していた。



 僕にはずっと気になっていることがある。
 その異変に気がついたのは、彼女が休んだ次の日。クラスメイトのある発言だった。

 その日の目覚めは最悪で、何度目かの過去の夢を見ていた。
 見慣れた町で幼い女の子が泣いていて、僕に憎いと告げる夢。あの言葉をただ受け止めることしかできない自分を恨みながら起きる。目元に温もりの残る涙を溜めがら、静かに垂れる雫を冷たい指で拭った。

 憂鬱な息を抑えながら、緑に染まった並木道を歩き、学校へ向かう。こんな姿は誰にも見られたくないと俯いたままたどり着いた先で、僕は違和感を覚えた。

「ここ新しくできたカフェなんだけど、今度みんなで行こうよ」
「いいよ!三人で行く?」
「そうしたいんだけど、なにか忘れてる気がするんだよね」
「なにかって?」
「私らずっと三人でいたでしょ?でも何かが足りない気がして」
「あ、それ私も思ってた。何を忘れてるんだろう」
「まぁそのうち思い出すでしょ!」

 教室の端で話していたのは、水月さんとよく一緒にいた人たちだ。今年から同じクラスになったらしいが、彼女はすぐに溶け込んでいたように見えた。確かあの三人が最初に水月ちゃんと呼んでいたのではないだろうか。
 今聞こえてきた会話だと、彼女のことを忘れてしまったと言っているようにも思える。
 さすがにそれは考え過ぎかと思っていたが。

「例の子いつ来るんだろうな」
「体弱いみたいだし、まだなんじゃね?」
「今年も来ないかもしんねーな」

 僕の隣の空席を見つめながら、数名の男子が話していた。
 例の子?昨日までみんな水月ちゃんと呼んでいたのに、なぜそんなよそよそしい言い方をしているのだろう。
 もしかして自分の知らないところでいじめられているとか?そんな気配は全く感じなかったが、僕が気づけていなかっただけかもしれない。
 それとも一昨日の打ち上げに行かなかったから?それなら僕も同じだ。
 いくら考えても理由がわからない。昨日まではみんな普通だったのに、どうして。

「なぁ、僕の隣って誰だっけ」

 学校に来たばかりの怜斗に聞いたその声は、焦りを隠しきれていなかった。

「え?水月さんだろ?」

 怜斗の話によると、彼女は二年になってからまだ一度も学校に来ておらず、いつ来られるか分からない状態だと担任から話されていたらしい。
 そんな記憶、僕にはない。覚えていないだけかと思ったけど、毎日つけている日記にそんなことは書かれていなかった。

「湊大が他人のことに気かけるの珍しいな。まぁ隣の席だから気になるのも分かるけど、かわいい子だったらいいな」

 屈託のない笑顔を向けられ何も言えなくなってしまう。
 それから叶山と拓巳にも聞いたが、二人も水月さんのことを知らないような口ぶりだった。
 ここまでくると、みんながおかしいんじゃなくて僕が変なのかと自分を疑ってしまう。

「先生、日誌見せてもらってもいいですか?」

 初めて彼女と話したのは日直の日。頼まれた日誌に僕は文字を書いていない。その証拠に見せてもらったページには、あの日見蕩れた美しい文字が並んでいた。

「あの、この文字誰のですか」
「え、お前のじゃないのか?」

 誰が書いたか記されていなかったせいで、先生は僕が書いたと思っているらしい。普段の僕の字はこんなに綺麗じゃない。
 でもあの日、日誌を提出しに行ったのは水月さんだ。そのことも聞いてはみたが、「覚えてないが、それも宝田じゃなかったか?」と言われた。


 放課後。今日は一人で帰りたいからと、三人と別れて足早に学校を出た。

 水月さんがいない一日が終わる。
 その事実を未だ理解できない僕は抜け殻のようになっていた。
 みんなが覚えていないのだから、それが正解なんだ。おかしいのは僕で、昨日までのことは夢の話だったのかもしれない。
 じゃあ僕が話していた彼女は誰なんだ。もしかして、幽霊……もしくは水月さんではない別の人……。
 考え始めると答えのない闇に囚われて、人にぶつかりそうになる。せめて帰るまではちゃんと前を向こうと、重い頭を上げて日が照る町を目に映した。

 水月日和を誰も知らない。それが当たり前になっているから、僕が見てきた彼女のことは誰にも話さなかった。そのせいで自分のことも信じられなくなっている。

 誰もいない狭い路地に入ると、どこにもぶつけることができない感情を吐き出した。

 初めて教室で話して誤解が解けたことも、かっこよくボールを取って嬉しそうに笑っていたのも、二人で行った打ち上げも、全部夢……?そんなの嘘だよな?
 なんで、どうしてこうなるんだよ。僕のせいなのか?あの日、彼女にひどいことを言ったから。人と関わらないと決めていたのに、近づいたから。

 得体の知れない何かに、お前は他人と関わるべきじゃないんだと言われているような気がして耳を塞いだ。
 過去の後悔は一生消えないんだよ。
 そんなこと、俺が一番よく知ってる。
 だから自分のことは信じられなくても、彼女のことは信じたい。それが今の自分にできる唯一のことだと思った。
 でも、そう簡単に僕の心は強くならなかった。


 光の届かない部屋に閉じこもって何時間か経った頃、ドアをノックする音でようやく目を開けた。

「お兄ちゃんご飯できたよ」

 そうだ茜。
 茜も水月さんと顔を合わせて話している。
 最後の希望に縋るようにドアを開け、その先にある明かりのついた廊下で目を細めながら聞いた。

「なぁ茜。一昨日会った水月さんのこと、覚えてるか?」

 階段を下りる足を止め、僕の方を見た茜は不思議そうな顔をしていた。
 あぁ、やっぱり。妹も忘れているんだ。
 締めつけられるような痛みに胸を押さえ、唇を噛んだ。

「うん、覚えてるよ」
「……え?」

 乱れた前髪の隙間から見えた茜は優しく笑っていた。
 今なんて?覚えていると言ったのか?

「お兄ちゃんが気になってる人でしょ?」
「え、そんなこと言ったっけ」
「言われてないけど顔見たら分かるよ」

 いつもなら何言ってるんだと突っ込むはずなのに、今は何も言葉が出てこない。
 ただ顔を上げて呆然とすることしかできず、息をするのも忘れていた。

「それで、水月さんがどうしたの?」
「あ、いや。何でもない。覚えてるならいいんだ」

 何が違うんだ。水月さんと一緒にいる時間が長いクラスメイトや担任が忘れていて、たった数分しか話していない茜が覚えているなんて……。
 でもこれで分かった。水月日和はちゃんといたんだ。

 だけどこれは僕と妹が覚えているだけで、彼女が今本当に存在しているのかは分からない。

 知りたい。彼女が何者なのか。
 話したい。あの日のことも謝りたい。
 会いたい。会って話がしたい。
 会って、また目を合わせてほしい。
 会って、君がいることを教えてほしい。