独特の匂いがする空間に足を踏み入れると、床の上を歩くシューズの音がキュッと鳴り響く。太陽の日差しが届く窓からの光に照らされた場所は、室内でも十分眩しくて暑苦しい。
今日の午後はクラス対抗の球技大会。所謂クラスマッチ。
毎年この時期に行われる行事で、新しいクラスメイトと仲良くなりましょうという遊びの時間。
そもそも球技をやって人との心の距離が縮まるのかは知らない。まぁ運動は苦手ではないから授業をするよりましだけど。
「はぁー」
そして、誰よりも運動嫌いなやつの口から憂鬱なため息がしつこいくらいに聞こえてきていた。
「おい叶山、ため息何回目だよ」
「なんで球技大会なんかやるんだ、普通に授業でいいだろ」
「でもちゃんと出るんだから偉いよ」
「拓巳は優しいな」
「励ましてくれとは言ってない」
体操着に着替えた生徒が体育館に集まってきて徐々に騒がしくなってくる。楽しげに話している人がほとんどだが、中には数人叶山と同じ表情をしている人もいた。
こういうのは強制参加だから、運動苦手な人からしたら嫌だよな。せめて球技以外の種目もあればいいのに。
そんなことを考えながらクラスメイトが集まっている体育館の端に目を向けた。
「あれ、水月ちゃん背伸びた?」
「え、そうかな?」
「なんなら胸も大きくなってる!」
偶然耳に入ってきた会話に思わず視線を逸らす。
「湊大何見てんだよ」
「いや、別に」
「水月さん、体育はできるんだな。体弱いのかと思ってたけど」
「まぁ今日はドッジボールだし、大丈夫なんじゃない?」
「なにお前らまで入ってきてんだよ」
それからも彼女たちは誰が聞いていようが構わず楽しげに談笑していた。
「ほんとだ、水月ちゃん胸大きいね」
「そんなことないと思うけど……」
「いいなぁ」
「そういうあんたもでかいでしょ」
これ以上は見てはいけないような気がして、反射的に背中を向ける。
「女子って胸の話するの好きだよな」
怜斗掘り返すな。
「お前もだろ」
叶山も乗るな。
いや、こいつは話題をドッジボールから逸らしたいだけか。
「ちげえよ」
「え、嫌いなの?」
「好きか嫌いで言うと好きだ」
ついに拓巳まで話に入ってきて今さら話題を変えることもできず、僕も仕方なくその輪に入ることにした。
「だがサイズはどうでもいい。顔が好きとか胸のサイズは大きい方がいいとか、俺はそういう部分で人を判断しないからな」
「「「へー」」」
「そんなあからさまに興味なさそうな反応するなよ」
「いや、友達の恋愛観聞かされた時の正しい反応が分からなくて」
「同じく」
「お前らはそもそも恋愛に興味がないんだろ」
ピーッ!
ようやく試合開始数分前のホイッスルが鳴り、僕たちは指定の場所に移動する。
「じゃあ俺は見学で」
「逃げるな、お前もやるんだよ。何さりげなくこの場からいなくなろうとしてる」
怜斗は素早く反応し、去ろうとする叶山の腕をガシッと掴んだ。
「嫌だ。そもそもなんでボールを人に当てるような競技があるんだよ。ボールは打つか蹴るか投げるかのどれかだろ」
「ドッジボールは正式な競技だから」
「やりたいやつだけでやればいいだろ。てかなんでクラスマッチの競技がドッジボールしかないんだ」
終わりの見えない二人のやり取りを眺めながらそっと呟く。
「叶山って頭良いのに、こういう時だけ異様に知能指数低くなるよな」
「それ本人の前で言っちゃだめだからね」
隣で聞いていた拓巳も否定することなく笑っていた。
もっとも、当人も自覚しているだろう。嫌なことがあると子どもっぽく屁理屈言うところ。
「じゃあ俺と外野やるぞ。それなら狙われないから」
「え、そんなのできるの?」
怜斗の提案に思わず口を挟んだ。体育委員でもないのに、友人の機嫌をとるためとはいえ、勝手に決めていいのだろうか。
「あぁ、うちのクラスに外野行きたがるやついないだろうから。そうと決まれば他のやつらに言いに行くぞー」
「帰りたい」
「強制参加」
「人に向かってボール投げたくない」
「じゃあ内野のやつにパス回せ」
叶山を引っ張る怜斗の後をついていき、僕たちもクラスメイトが集まっているところへ向かった。
「え!怜斗外野かよ」
「まじかー!即戦力が」
「今回だけな?」
話し合いの末、今回の第一試合では怜斗と叶山の二人が外野になった。
クラス対抗ドッジボール大会は、男女別全三回戦で各クラス総当たり戦。
三クラスの対戦で、ボール以外に準備しなければならないものがないから一番手っ取り早いドッジボールになったらしい。
「湊大はドッジ得意?」
「得意とか不得意で考えたことないな。好きだけど最後まで内野に残れたことない」
「あはは、僕も」
ピーッ。
試合開始のホイッスルが鳴り響き、第一試合が始まった。
体育館を二つに分け、男女それぞれにコートが用意されており、今回は男女共に一組対二組の試合。
両チーム内野にいるのは十二人。試合終了までに相手の内野をゼロにするか、終了時点で相手チームより内野の人数が多ければ勝利となる。そして一度外野に出てしまうと内野に復活することはできないというシンプルなルール。
どのクラスにも積極的にボールを掴みに行くやつと逃げに専念するやつがいる。僕は後者だ。だが毎回最後まで逃げ切ることができずに終わる。
今回も特に活躍することなく中盤くらいで当たった。
「お疲れ、湊大」
「おう」
外野にいても大活躍の怜斗は、ここまで三人を当てている。
僕がやったことといえば、自分より動けるやつを庇って当たったくらい。正直言うとボールを取りたかったが、かすってしまった。一番かっこ悪いやつ。
隣のコートに目をやると、外野に水月さんを見つけた。いつもはおろしている髪も今日は運動するからなのか、ポニーテールにしている。
すると彼女もこちらに気づいて目が合った。ニコッと笑って手を振られたけれど、それが自分に対してのものなのか分からず、咄嗟に彼女と目が合っている人がいないか確認した。
いないことが分かって軽く会釈を返すと、彼女はまた友達と話し始めた。
数分後、ホイッスルが鳴り第一試合が終了。
「拓巳最後まで残ってたじゃん、やるな」
「逃げてただけだけどね」
「でも勝てたじゃん。やったな」
チームの内野に残っていたのは五人。相手は三人で、一回戦は一組の勝ち。
「みんなもお疲れ。叶山もね」
「俺は別に何もしてない」
「今回の叶山すごかったぜ?横で指示出してくれてたんだよ。どこ狙えば当てやすいか教えてくれて」
「え、そんなの分かるの?」
「たまたまだ」
叶山の意外な特技が見つかったところで十分間の休憩時間となった。
拓巳は風当たりのいい場所で休みたいと言った叶山を連れて外へ出る。
「叶山は次も外野でいいだろ。あともう一人はそれなりに当てられるやつが欲しいな」
「じゃああの人は?」
「あー、山田か。ありだな」
水分補給をして軽く話している間に休憩は終わり、第二試合が始まる時間になった。
次の試合、一組は休みだが、怜斗は審判を頼まれていたらしく試合が始まるコートに向かった。
さて、僕はどうしようか。
「ねぇ」
突然声をかけられ振り向くと、そこには水月さんがいた。「どうかした?」と聞くと、彼女は「一緒に休まない?」と一言。
僕は彼女に誘われ、人気のない体育館前の階段に腰を下ろした。
なぜ自分を誘ったのか聞いたら、彼女は苦笑いを浮かべて「みんな胸の話するから逃げてきた」と言われ反応に困った。
でも、だからってなんで僕に絡んでくるんだろう。席が隣だから?店に来たから?僕なんかといなくても、彼女には他に話せる人がいるだろうに。
そんな疑問を抱えながらも口にすることはなかった。
「さっきの試合お疲れ様」
「お疲れ」
「男子勝ったんだよね?おめでとう」
「そっちは?」
「負けちゃった。いいところまでいけたんだけどね」
隣で膝を抱えて座る彼女は、こちらを向いて控えめに笑った。
遠くで跳ねるボールの音に意識を向ければ、歓声もホイッスルの音も誰かの叫ぶ声もうるさいくらいに聞こえてくるのに、自分の心音はそれを上回っている。
彼女と僕の関係性はなんなのだろう。
ただのクラスメイト。隣の席同士。客と店員。多分どれも正解。たけど今のこの状況だけを見れば、どれも当てはまらない気がする。傍から見れば在り来りな会話をする友人かそれ以上……いや、こんなことを考えるのはやめよう。
視界に映さないようにしていた彼女の方から爽やかな香りがして鼻をくすぐる匂いの方を向くと、彼女は涼しげに結ばれたポニーテールを結び直していた。
さらりと揺れる髪。少し下を向いて強調される長いまつ毛と首元に残る汗が色っぽく映り、目を逸らす。先週まで休んでいたから体力面の心配をしていたが、それは杞憂だったらしい。
「湊大くんボール回ってき時、外野に回してたよね」
「見てたの?」
「うん」
髪を結び終えた彼女は再びこちらを向いて話をする。
こっちのコート見てたの、あの時だけじゃなかったんだ。
試合中の自分を見られることには何の問題もないはずなのに、なぜか胸の奥がキシリと痛む。
濁りのない純粋な瞳を見つめ返すと、奥に眠る言葉を引っ張り出されるような感覚になって少しだけ吐き気がした。
「俺が狙うより、怜斗が投げた方がいいだろ」
視線を地面に戻し、吐き捨てるように呟いた。
「……俺?」
「あ」
やらかしたと思った時には遅く、彼女は不思議そうにこちらを見ていた。
寒気がする。喉に氷が張りついたみたいに冷たく氷って上手く息ができない。それでも背中を強く押す歓声に紛れて咳をして咄嗟に取り繕った。
「ごめん、今のは間違いで」
「間違い?一人称に間違いも何もないと思うけど」
「だめなんだよ」
「何がだめなの?」
僕が何を言っても返してくる。その目には好奇心の色が混ざっているようにも見えて、面倒なことになったと頭を押えた。
「"俺"って使うと不快に思われるかもしれないから」
「そうかな?」
「俺様とは言うけど、僕様とは言わないでしょ?」
窺うように隣を見ると彼女は笑っていた。
「僕様……あははは。なにそれ面白すぎ」
自分の一人称の話を初めて人にした。
話せばからかわれるだろうなとは思っていたけれど、こんな豪快に笑われるとは思っていなかった。
「つまりあれ?僕なんかが"俺"って使うと偉そうに思われるから嫌とか?」
薄らと目に涙を浮かべた彼女は、その水滴を拭いながら聞いてきた。
「そんな感じ。てか笑いすぎ」
今もまだ笑っている彼女に対して、拗ねた子どものようにそっぽを向いて言葉を投げた。
「あはは、ごめん。面白くってつい。でも、俺って使うからって偉そうだなとは思わないよ。君もそう思うでしょ?」
「人が使う分には何とも思わないけど」
僕は人から不快に思われないように振る舞わなければならない。そこで最初に意識したのは一人称だった。
昔は意識して僕と言っていたけれど、慣れてくればそれが普通になる。それでもごく稀に自分の口から俺という言葉が出る時がある。
「どういう時に出るの?俺って。結構レアだよね」
「……自分に対してやけくそになった時とか」
今の自分から俺という言葉が出るのは久しぶりだった。普段生きていて滅多にないから。ましてや人に向かって言うことなんて、これまでなかった。
「え、もしかして私地雷踏んだ?」
「いや、君のせいじゃない」
これは彼女のせいではない。ドッジボールで誰かを狙うことも当てることも出来ない自分がダサいと思っただけだ。怜斗にパスを回せば自分が投げるより命中率は上がる。それが正解だったと思う。でも、勝負を挑まず勝算だけを考えて動いた自分がかっこ悪いと思ってしまった。普段ならそんなこと考えないのに。彼女の前だからだろうか。なんて、一瞬過った考えを払い除ける。
「だから気にしないで。今した話も」
「うーん、昔は俺って使ってたの?」
もしかして、休み時間に無視されたことを根に持っているのだろうかと思うほど踏み込んでくる。
はぐらかすこともできるけど、誰かがいる場所で同じ質問をされるよりここで答えた方がいいと思った僕は正直に話した。
「僕が俺って使ったら不快に思わせるんじゃないかと思って。だから人前では基本僕だよ」
「……不快に思う人なんているの?」
「……いないと思うけど」
「じゃあなんでそんなに気にしてるの?」
「……」
自分でもよく分からない。でも、僕が"僕"を使えば誰かを不快にさせることはないと思っていた。
昔みたいに、知らぬ間に誰かを傷つけ、悲しませることはしたくないから。……本当に?
「昔からよく見る夢があって。それは実際過去にあったことなんだけど、僕は初めて会ったはずの女の子を無意識のうちに傷つけていたんだ。だから人に不愉快な思いをさせたり、傷つけるような言葉や態度はとらないようにしてるつもりで……」
違う、そうじゃない。
「優しいんだね」
「そんなんじゃないよ。本当は人を不快にさせるのが怖いから、人と関わらないことで自分を守ってる臆病なやつだよ」
これは優しさなんかじゃない。ただの逃避だ。
誰かを傷つけたくないから人と関わらないんじゃなくて、関わった先で失敗した自分を見たくないだけなんだ。
風が止み、シンと静まり返った二人の間に気まずい空気が流れる。
僕が変なこと言ったせいだ。謝らないと。そう思って、自分を落ち着かせてから彼女の方に顔を向けた。
「それでもいいと思うよ。自分のことを守れるなら、自然と人のことも守れるようになるから。実際、傷つきたくなくて自分のことを守ろうとして人のこと傷つけないようにしてるでしょ?だから、そういう生き方でもいいと思うの」
そこには僕の言葉を否定せず、受け止めてくれる彼女がいた。誰にも話したことがないのだから、どう思われるかなんて知らなかったけど、そうやって肯定してくれる人もいるんだ。なんだか少しだけ心が軽くなった気がする。
「君は優しくて繊細なんだね。普段の様子見てると、さばさばしてる人なのかなって思ってたけど、そうじゃなかった」
「そう、だね。さばさばしてるっていうのはよく言われるけど、これでも色々考えてるつもりで」
「それは生きるの大変だね。いつも周りの顔色窺ってるわけだ」
会話が止まり、再び重たい空気になるかと思ったが、彼女が勢いよく立ち上がり階段を下りた先で僕と視線を合わせた。
「あのね、あんまり気にしなくていいと思うよ。もちろん空気を読むことは大事だけど、自分が呼吸しやすいスペースを開けておかないと。いつか押し潰されてしんどくなっちゃうよ。それに人って案外、他人のこと見てるようで見てないから。だからもっと気楽に生きよ。ね?」
そう言って優しい陽だまりのような笑顔を僕に向ける。
「どうして君が、そんなこと……」
言うつもりのなかった声が零れ、それを聞いた彼女は少し困ったように笑った。
「私も知ってるから、かな」
――え。
知ってるって、なにを?息ができなくなるほど押し潰されそうになることを?
今ここで優しく笑っている彼女にも、生きづらいと感じる過去が……。
ピッーー!!
二人だけの空間を刺したのは、体育館の中から聞こえた強いホイッスルの音だった。
それから彼女は何かを思い出したように手を叩いた。
「あ、そうそう実は聞きたいことがあってね。よかったら私にドッジボールのコツ押してえくれないかな?」
「コツ?」
「うん!あ、でもボールは遠くに飛ばせないから、できれば逃げるコツを……」
もしかしてさっきの話を逸らすためにわざと違う話題を?でも彼女から声をかけてきたんだから、初めからこの話をするために僕を呼んだのかもしれない。
どちらにしろ、先程の話はあれ以上聞けないと思い、僕は彼女の頼みを聞いた。
「それなら相手に背を向けずに逃げて、なるべく人の少ないところにいた方がいいよ」
「それよく聞くけど、人のいないところってちょっと怖くて」
「確かに怖いけど、そっちの方がボールが来ても逃げやすいし、周り気にせず動けるから」
なんて、人にアドバイスができるほどドッジボールに詳しいわけじゃない。かと言って適当なことを言うわけにもいかないから、自分が実践していることを伝えた。
そういえば小学校の時の体育教師に言われたことがあったな。
「逃げるから追われるんだよ。逃げずに立ち向かえば、追われないし体力の消費も抑えられる。だからとにかく前を向け」
「何かの名言?」
「昔先生に言われた言葉だよ。結構いいこと言ってるなって思って覚えてた」
自分が昔聞いた話なんてつまらないだろうと思っていたけれど、彼女は興味深そうに聞いてくれていた。
「じゃあ微妙な位置に来たボールは?ジャンプかしゃがむか迷った時」
「どうしても逃げられないと思ったら、胸の辺りでボールを迎えにいってキャッチしてもいいんじゃないかな」
「なるほど」
「最初は怖いかもしれないけど、取って感覚を覚えたら慣れるよ」
ボールが飛んでくることに苦手意識のある人がいることは知っている。反射的に取る人と逃げる人。間違いなく後者の彼女に取ればいいなんてアドバイスは不適切だったかもしれない。それでも。
「ありがとう。やってみるよ」
彼女は不安な色に染ることなく、前向きな姿勢を見せた。その後、階段を駆け上がって僕を追い越すと、くるりと振り向いた。
「言い忘れてたけど、ボールを投げてる時の湊大くん、かっこよかったよ」
そう言って微笑みかけてくれた彼女は体育館へ戻って行った。
「おー、湊大どこいってたんだよ」
クラスメイトが集まっていた場所に戻ると怜斗に捕まった。
「ちょっと外に」
「なんか顔赤くね?体調悪い?」
「えっ、いや、そんなことないよ、大丈夫」
分かりやすく動揺した言葉に気づかなかったのか、気づかないふりをしてくれたのかは分からないが、怜斗は僕の背中を軽く叩いて「次も勝つぞ」と言った。
三回戦。
一組対三組。前回の試合は二組が勝っているため、ここで一組が勝てば優勝、三組が勝てば全クラス一勝一敗となる。
そんな結果も平和でいいと思うが、一勝一敗なんて曖昧な終わり方にはしたくない。そう思っていたのは僕だけじゃなかったようで。
「ボール回せー!」
「よっしゃ、次俺行くわ!」
一試合目の時よりも声が飛び交い、みんな今まで以上に全力で楽しんでいた。
たかがクラスマッチぐらいで熱くなるなんて、と昨年までは思っていたが、案外熱くなるのも悪くないかもしれない。
外野に目を向けると、叶山もクラスメイトと話していた。感情が表に出るようなやつじゃないけど、嫌な顔はしていない。
「水月さん!」
聞こえてきた声に女子が試合をしているコートの方を見た。
相手チームにボールが渡り、水月さんだけがコートの右側にいる。ボールを持っている女子はそれなりに体格が良く、力強い球が飛んできそうだった。
よりによって彼女は水月さんを狙っている。さすがにあれは危ない。もしかして僕が背中を向けて逃げない方がいいとか言ったから動けなくなっているのかもしれない。
チームメンバーが見つめるなか、相手がボールを投げる。至近距離でその威力はちょっとやり過ぎじゃないのか?思わず声に出して逃げろと言ってしまいそうだった。
「……っ!」
瞬きをすれば当たってしまいそうな速さ。そんなボールを、水月さんは胸の前で掴んでいた。
結んだ髪が揺れ、勢いで宙を舞う汗がきらりと光る。胸の位置で構えていた頼りない両腕。それでも彼女は、一直線に来たボールから目を離さなかった。
「すごいじゃん水月ちゃん!」
「でもごめん、投げるの得意じゃないんだ!」
そう言って、緩やかなボールを味方の外野の元へ投げた。
慣れないボールに正面から構えて、ぶつかっていく姿は誰よりも力強かった。……かっこいい。
自分より強い相手に狙われてボールを取るまでの流れは、素直にかっこいいと思った。あの瞬間をひとつの写真として残しておきたいほどに。
「湊大」
偶然近くにいた怜斗に声をかけられ、自分の試合に意識を戻す。その間にも怜斗の手元にはボールが飛んできていて外野に投げ返していた。
「次に外野から飛んできたボールはお前が取れ。そんで投げろ」
「え、なんで」
「お前、本気出してないだろ」
こいつなんで知ってんだよ……。
的を得ている指摘に耳を塞ぎたくなる。
でも先程の水月さんの姿を見たら、自分も負けてられないと思った。
「試合中なんだから、ボール当てられたくらいで怒るやつなんかいねぇよ。むしろ手を抜かれた方がキレられるって」
「……わかったよ」
言われた通り怜斗が外野に投げたボールは僕の手元に返ってきた。ここでモタモタしていたら確実に取られる。相手チームのコートを視界に映し、一瞬で定めた位置。
ごめん。
心の中ではそう思いつつ、一番狙いやすい固まりになっていた背中を狙った。
「やるじゃん」
「上手い人なら取られてたよ」
僕の投げたボールは運良く当たり、怜斗とハイタッチをした。
「おぉ、ちゃんとボール投げてる宝田初めて見た」
「ボール投げれんだな」
「お前、それはバカにしすぎだろ」
あまり話したことのないクラスメイトにも声をかけられ、その嬉しさと気恥しさを誤魔化すように軽く言葉を返した。時間にすればたった数秒のやり取り。それだけなのに不思議と心は晴れやかだった。
こんな風に熱い汗を流す日があっても悪くないかもしれない。柄にもなくそんなことを考え、コートの中に集中する。
そこから試合は優位に進み、今年のクラスマッチは一組が優勝した。
「二回戦の湊大すごかったね。二人も当ててたよ」
試合中に話せなかった拓巳が終わってすぐに駆け寄ってきた。
「偶然だ。僕より怜斗のがすごいだろ」
「それはいつものことだからな。相手に当てられたらクラス全員からブーイングだぞ」
「怖い怖い」
いつの間にかそこに叶山と怜斗もいて、教室に戻ってからも話は尽きなかった。



