君が生きた証を残すから


𓍼ˢ❀

 朝。眠りが深かったのか、目が覚めても動く気力はなく、しばらく布団の中で天井を見上げていた。いつもなら目覚ましが鳴る前に起きるのに、今日は久しぶりに聞いた騒がしい音のせいで若干目覚めが悪い。
 設定した目覚まし音が頭から離れた頃、手を伸ばして枕元に置いていたスマホ画面を見る。

「……は」

 目に入った時間に、残っていた眠気は一気に飛んだ。

 新学期が始まって二回目の金曜日。
 僕は始業のチャイムが鳴る五分前に教室に着いた。

「あれ、湊大がこんなギリギリに来るの珍しいな」

 既に来ていた怜斗が、からかうように言ってきて、その視線を無視して席に座った。

「寝坊した」
「寝坊?ほんとに珍しいじゃん。夜遅くまでゲームをやってても、これまで寝坊したことはなかっただろ」
「……」

 怜斗の言うように、深夜までゲームをやっていても寝不足で起きられなかったことはない。普段なら五時半から六時の間で目が覚めるのに、今日起きたのは家を出る十分前。通りで外が明るいと思ったし、おかげで朝ご飯を食べ損ねた。

「なに、ソワソワして眠れなかったとか?」
「お前と一緒にするな」
「なんで俺がソワソワしてるってわかんだよ」
「単純だからだろ」

 こいつがソワソワしている理由は大体察しがついている。というか、これ以外に理由がない。

「でも実際どうよ?ちょっとくらいは気になるだろ?」

 そう言って僕の隣の空席を指す。
 今日は先週から休んでいた彼女が来る日。
 開いていた窓から入ってきた冷たい風に全てを見透かされているような気がして、フッと息を吐いた。

「……単純だな」
「二回も言うことないだろ」

 今のは自分に対して言ったものだ。
 全く、自分も人のこと言えないな。

 昨夜は中々寝つけなかった。その理由は少なからず隣の席に原因があると思う。夢に出てきたから、名前を知っているから、隣の席だから、どうしても彼女のことを考えてしまう。
 もし彼女が、公園で会ったみずきさんのことを知っているのなら……。

 遠くから聞こえてきたのは、この教室に近づいてくる二つの足音。一つは担任。足のサイズより大きめの靴を履いているのか、歩く音に特徴が出るため近くにいると分かる。
 そして、もう一つ。どこか控えめで誰かのあとをついて歩く足音。その音は教室の前でピタリと止んだ。

「はい、おはよ」

 慣れたように挨拶をする担任に思い思いの反応を返すクラスメイト。その後みんなの視線は一斉に、後から入ってきた一人の女子に向いた。

「新学期が始まってようやく全員揃ったな。自己紹介頼む」

 いきなり振られて一瞬目を見開いていたが、彼女は背筋を伸ばして一歩前に出た。
 この席からはっきり見えるのは容姿端麗な横顔。おろした綺麗な髪は、光に当たってほんの少しだけ茶色がかっている。長いまつ毛に、くっきりとした二重。白い肌にほんのり色づいた頬は桜色。そして、ふっくらとした唇が弧を描くように微笑んだ。

「初めまして。水月日和です。よろしくお願いします」

 そっとお辞儀をするその所作は美しく、思わず見蕩れてしまうほどだった。

「水月の席は窓際の一番後ろだな。何かわからないことがあったら近くのやつに聞いてくれ」

 彼女は担任の言葉に軽く頷くと足早に席に向かう。
 薄茶色のカーディガンの上に学校指定のブレザー。膝が少し見えるくらいのスカートが揺れて、真新しいローファーが音を鳴らす。
 ここは挨拶くらいした方がいいのだろうか。いやでも、席が隣という理由だけで声をかけるのもな……。この第一声で印象が決まるのも嫌だし、やっぱりここは何も言わない方がいいか。
 ずっと目で追うわけにもいかないので、ある程度近づいてきたら視線を黒板に戻し、担任の話を聞くふりをした。

 視界には映さないようにそっと隣の様子を窺う。
 彼女はあまり騒がしくしないように鞄を机の横にかけ、振り向いていた前の席の女子と言葉を交わしていた。

 なんとなく、なんとなくだけど。あの人に似ている気がする。

 彼女を見つめる男子の視線も感じつつ、そこからは何も見えていない風を装い、担任の話に集中した。


 休み時間。
 隣の彼女の席には数名の女子たちが集まってきていた。
 その様子を見た僕と怜斗は空気を読んで、叶山の席へ向かった。廊下側の前から二列目。自分とはほぼ真反対の席。

「しばらく、あーだろうな」
「だな。そのうち収まるだろうけど」

 ここでようやくあの人集りを視界に映す。立って話す女子の間から、座ったまま顔を上げて笑顔を向ける彼女の姿が見えた。

「それまで俺の席に来んの?」
「嫌なのかよ」
「拓巳のとこ行けよ」
「僕のところは真ん中だから狭いと思うよ」

 叶山は嫌がっているが、この席は集まるのにちょうどいい。それなりに余裕もあるし、窓の真横なので開放感もある。

「でもなんで今日まで休んでたんだろうな」
「あ、そのことなんだけどね」

 怜斗の疑問に拓巳がクラスメイトから聞いた話をした。自分は一度聞いた話だが、耳に入れつつ意識は窓の外を向いていた。

 似た雰囲気で同じ名前を持つ女性。確信はないけれど、確かめてみたい気もする。かといっていきなり「前に会ったことありますか?」と聞くのは怪しいやつだと思われるだろうから避けたい。

「……」

 って、何を考えているんだ。
 普段人を避けているはずの自分がこんなことを考えるのもおかしな話だ。
 僕はそれまでの思考を掻き消すように首を振った。

「あれ、そういや今日湊大日直だろ?」

 拓巳の話が終わったタイミングで、黒板を見ていた叶山に言われた。

「あ、そうだった」

 黒板の隅に申し訳なさそうに書かれた日直の名前。そこには自分ともう一人の名前があった。

「え、水月さんとじゃん!いいな!」
「何がだよ。ただの日直だろ」

 このクラスでは席が隣同士の二人が日直をするようになっている。日直といってもあんまり仕事がないから楽だなと思っていたが……そうか、隣。

「話すきっかけになるじゃん」
「お前はたかが日直で興奮しすぎなんだよ」

 そんなやり取りをする怜斗と叶山を横目に、日直ならやはり最初に挨拶くらいしておくべきだったと後悔していた。登校初日でいきなり話すのが日直としての会話だと思うとなんだかな。
 怜斗の言う通りなにか話すきっかけが作れるかもしれないけれど、なんて声をかければいいんだ。
 あくまで彼女のことを知りたいと思っているのは、公園で会った女性との関係性で、それ以外に理由はない。他人であればそれで終わりだし、今後気にすることもなくなるだろう。とにかく今は頭に残るモヤを晴らすため、彼女が何者なのか知りたい。
 そう意気込んで席に戻った。


 授業が始まる一分前にもなると、彼女の席の周りには誰もいなくなっていた。が、その時に見えた顔で全てを察した。
 見間違いであってほしいと願いつつ、少し視線を彼女の方へ向けるとやはりそれは見間違いではなかった。
 真顔のようにも見えるが、ぱっちりとしていた二重の目は三分の一ほど小さくなり、口角が少し下がっている。どこか不機嫌そうに窓の外を見つめるその姿は、紛れもなくあいつに似ていた。
 何か気に入らないことがあったのか、先程まで笑顔で話していたはずの彼女から叶山と同じオーラを感じる。
 話しかけるなと言わんばかりに暗いオーラを放つ彼女と、今距離を詰めるのはやめておいた方がいいことは分かった。
 もしかして、声をかけようとしていることがばれたか?それとも隣が女子じゃないから不機嫌になっていたり……。そうだ、よく考えろ。
 僕は目の前の出来事に、己の過ちを忘れてしまうほど酔っていたのかもしれない。
 過去と同じ過ちを繰り返さないように、他人とは近すぎない一定の距離を保つ。それは日直だろうが隣の席だろうが変わらない。だから安易に話しかけない方がいい。

 そうして僕は、君には全く興味がありませんというように視界から彼女を外し、若干机を怜斗の方へ寄せた。そして授業が始まれば、ノートとペンだけに意識を向けて何も考えないようにした。
 彼女には悪いが、次の席替えまでの辛抱だ。




「悪い、日直!日誌渡すの忘れてた」

 一限目が終わって急いで来たのか、息の上がった担任から日誌を受け取った。
 日直の仕事は教室の戸締りと、この日誌を書くこと。これだけなら一人でもできる。彼女に迷惑をかけないように、いつも通り大人しくしていよう。そう思っていた矢先。

「あの」

 隣から声が聞こえた。それも怜斗ではなく窓際の方。

「日誌、私書くよ」

 それが自分に向けられているものだと分かると、僕はそっと顔を向けた。
 体は正面、しかし僕を映す瞳と差し出された右手はちゃんとこちらを向いていて、この時初めて目が合った。一度見つめられると視線を外すタイミングを見失い、それに答えるように日誌を渡す。
 彼女の声から嫌悪や憎悪といった負の感情は見られず、とても穏やかな表情をしていて先程までのオーラも感じない。

「ありがとう」

 これが彼女と最初に交した言葉だった。

 一瞬で終わった会話のキャッチボール。その後は話すどころか視線すら合わなかった。相手からの視線も感じなかったし、僕は全く興味を示されていないらしい。全然それで構わないのだが、無理をされていないかどうかはずっと気になっていた。