新そよ風に乗って ① 〜夢先案内人〜


「よろしくお願いします」
全ての意味を込めて振り絞った声と共に、離した右手。トリップした幼い頃と同じ温もり。母を、兄を、俺を。これから先、自分も成るであろう会計士の先輩への挨拶として。

部屋を出て、教授とお袋に会わないよう、帰り道を考えながら走って大学から出た。「俺も左利きだ」その言葉で、乱された俺の気持ち。走って鼓動が速くなっているのか、先ほどまでの出来事にまだ心が落ち着かないのか、混濁した感情でどちらなのかわからなかったが、ふと握手を交わした右掌を見ながらゆっくりと拳を作り、先ほどの感触を確かめるよう、その温もりが失われぬよう左手で被う。
あっ……。
そう言えば、銀杏並木で同じような事を彼女もしていた。何をしているのかと、あの時は不思議に思ってみていた。そうだったのか。彼女は……。
堪らず左のポケットから、携帯を取り出していた。
もし世の中に、偶然や奇跡というものが存在するのだとしたなら、俺はその偶然と奇跡を一気に得たのだろう。伯父さんだと思っていた人は、実は父親だった。その父親の職業は公認会計士。俺の目指すべき生業。そこに辿り着くために過ごしてきた21年間というものは、今日という日のためのプロローグだったのかもしれない。父親の背中を見て育ちたかったという潜在的欲求が、端々に人との関わりに無機質になってしまっていた時期もあった。その愛すべき人、愛されるべき人のDNAを受け継いでいた既成事実。父親と同じ、利き手は左だったというほんの些細な事にこんなにも心が乱されたのは、この縁が実を結んだ証。交わされた握手に差し出した右手の温かさは、ずっと待ち続けた人の心恋し温もりだった。理屈では表しがたい、人間の持って生まれた体温を、人肌を通じて感じられる喜びに、すべての蟠りが消えていた。どんな経緯で、今日出逢えたのかはわからない。しかし、この世に俺が生を受けた、否、受けられたのは、お袋と父親が存在したからこそである。動機は不純だったのかもしれないが、父親と同じ職業に就こうとしている俺は、その偶然と奇跡に血縁という見えない糸で導かれたのかもしれない。「人は過去の出来事を記憶して、それを幾度となく蘇らせながら成長していく生き物」と言ったお袋の言葉は、全てが負のスパイラルだけではなかったのだ。電話をしてみたが彼女は出なかった。恐らく仕事だろう。