「男が泣くぐらいの恋なんて、しなさんな」
「えっ?」
お袋の凛とした言葉で、急に目の前が素面の世界に変わる。
「本来、あなたが今やるべきことは学問だったのに、その学問を捨ててまで恋した相手を失いたくはなかったのでしょう?だから家も出て行った。やるだけのことをやってそれでも叶わなかった恋ならば、男の涙は綺麗なの。だけど後悔だけが先に立ち、己の未熟さだけを吐き出すための泣くような恋ならしない方がましよ」
お袋……。
何故にそんなに強くいられるんだ?そのパワーはどこから来るんだろう。修羅場を潜ってきた人間が成せる技なのか。
俺は、まだまだ未熟なだけの男ということか。
「貴博、よく聞きなさい。人は過去の出来事を記憶して、それを幾度となく蘇らせながら成長していく生き物なのよ」
「……」
過去の出来事を記憶して、それを幾度となく蘇らせながら成長していく生き物……。
「あなたが今回のことを、必ず思い出す日々が何度も来ることは間違いないと思う。だけどその時、どう成長しているかそれが問題なの。過去を振り返ることが出来る人間は、それだけ心にも余裕がある証拠。けれど過去の柵から抜け出せないでいる人間は、それ以上のものにはなれないということ。貴博、人様に迷惑だけはかけないことよ。アルバイトにしてもそう。お金を貰うためにそれがたとえアルバイトだとしても、始めたのだったら人様から任されている責任があるのだから、引き際を考えて迷惑がかからない時までちゃんと続けなさい。あなたの将来はあなた自身が決めることだけれど、二度と同じ臍をかむような男にだけはならないでちょうだい。あなたはまだ二十歳。これからいくらでも修正は可能よ。いい男の生き様を見せなさい。この過ぎた時は、決して無駄な時間じゃなかったと振り返られる人生を、ね」
「お袋……。俺……」
母親として俺をひとりの人間として、またひとりの男として見てくれたことが手放しで嬉しく思える。母親は幾つになっても偉大だな。
俺の弱点も欠点もすべて知り尽くしているのは、母性本能からくる愛情の賜だからだろう。
俺がお腹にいた時からすでにお袋は、俺のすべてを知っていたと言っても過言ではない。
心の何処かで蟠っていた不完全燃焼に終わってしまった恋の結末に、ようやくピリオドだけは打てるような気配を感じ、安堵とも虚しさとも寂しさともつかない複雑な涙が止めどなく溢れ、テーブルを濡らしていた。
「淀んださっきの涙より、ずっと今の涙は綺麗な男の涙よ」
「好きだった……から。本当に彼女が……好きだった。でも好きだけじゃ、駄目だったんだ。たとえどんなに愛していたとしても、好きだけじゃ……」
「貴博……」
お袋の声と彼女の声が入り交じったまま、俺は酔いと睡魔の葛藤の中、テーブルの上に平伏したまま眠ってしまっていた。
しかし、人生とは必ずしも思惑通りには行かない。予知できないことも多く、自分で自分を軌道修正することなど実に簡単そうに見えて、いちばん難しかったりするのも人間の性。
彼女との想い出の場所に居ることに苦痛を感じ、実家に戻ってはみたものの、生活そのものは怠惰な時が流れるばかり。
楽な方へと流されないようにしなければいけないはずなのに、頭ではわかっていても本能と誘惑には勝てない若さ故、一時期、俺は落ちるところまで墜ちていった。