「まぁ、俺のことはどうでもいい。高橋、就職はどうするんだ?」
「就職……ですか?」
「その様子じゃ、まだ何も考えてはいないんだろう」
「はぁ……」
進路すら決めていなかった俺にとって、就職先などまだ遠い先のことだと思っていた。
「良かったら、俺が内定もらった会社を受けてみろ。総合商社だし、監査や金融情報管理などコンサルティング業務もあって働き甲斐がありそうだった。規模的にもまぁまぁ大きいので社員数も多い。高橋が目指す会計士としても、手腕を発揮出来る場が多いはずだ」
「新井さんは、その会社に?」
「あぁ。懲罰にこの先引っ掛かるようなことをしない限り、その会社に就職するつもりだ」
「そうなんですか」
就職か……。
つい昨日まで遠い先のことのように思っていたが、もうそんな間近に迫ってきていることに身をもって感じる周囲の雰囲気。切羽詰まっていなかったのは、きっとこのゼミ合宿に参加している中で俺だけかもしれない。
見識者や一般的な親のお決まりの言い分からしたら、くだらない恋愛にうつつを抜かしたりしているから遅れをとるんだ、などと言われるだろう。
「それと……。俺がバイトで行っていた会計事務所が、来年俺が就職でいなくなるだろう?それで年が明けたら後釜を捜さなきゃいけないと言っていたから、良かったら高橋、お前やらないか?」
「えっ?いいんですか?」
「あぁ。事務所だって、知らない奴よりは俺の紹介の方がいいだろうし」
何だかトントン拍子に事が運んでいくようで、自分でも少し面食らっている。果たしてこんな簡単に、しかも短時間で将来を決めてしまっていいのだろうか?
しかし……。ついさっきまでの俺は、何も将来に希望も期待もしていなかった。正直、就職さえどうでも良くて……。
「高橋」
「はい」
新井さんは浮遊している俺の感情をコントロールするかのように、自分の方に俺を向けさせた。
「決めかねているのだったら、まだ時間はある。公認会計士になって社会で働きたいというのなら、来年の春先にでも俺の就職先の会社OB訪問として来い。実際に自分が働くことになるかもしれない職場は、自分の目で見て確かめるのが一番だから。会社名はあとでメモに書いて渡す」
「ありがとうございます」
煙草の箱とライターを手に取り立ち上がった新井さんにお辞儀をしてから歩き出した新井さんの後に続いたが、左右に分かれる廊下で別れ際、もう一度新井さんに声を掛けた。
「新井さん、とても勉強になりました」
「高橋、頑張れよ」
「はい。ありがとうございます。失礼します」
それと同時に、左手に丸めて持っていた新井さんから聞いたことをメモしたノートをギュッと握りしめ、すぐに歩き出していた。
何だかとても時間がない気持ちになっているのは、気のせいだろうか? 否、きっと試験に受からなければ何も始まらないという、気の焦りからかもしれない。
「そうだ。高橋」
「はい」
呼び止められて振り返った俺に、新井さんがいきなり煙草の箱を投げつけ、間一髪のところで受け止められたので、顔面を直撃せずに済んだ。
「バスケット、最近やってないだろ?」
「えっ?」
「最終日、天気だったらグラウンド借りてやろうぜ。じゃぁな」
新井さん。バスケット……か。
新井さんが投げた煙草の箱をまじまじと見ながら、高校時代を思い出していた。つい2、3年前の事なのに、もう随分昔の事のように感じられた。
高校時代、俺も仁もそして明良もバスケット部だった。その頃からバスケット部の良き先輩であったが……。
思いがけず、身近な人との会話から会計士という資格を目指していることが聞けて何となく親しみを覚えたようで、でも尚かつ、あの成績優秀な新井さんですら会計士補の試験に落ちたという現実を目の当たりにすると、容易い試験ではないという事も身をもって実感出来た。
しかし、新井さんとの会話から得られたそのことは、今の俺にとってどんな参考書よりもリアリティに溢れていて、とても価値のあるものだった。