店の前に出ると、連絡しておいた執事が、車から顔を出し、俺にお辞儀をする。
そのいつも通りの光景を見ていたら、さっきまで感じていた嫌だったのか、嬉しかったのかすら分からない、妙な感覚は消え失せた。
「翔様、お待たせいたしました。」
「ああ。」
軽い雑談なんてする筈もなく、家までの道のりをぼけーっと眺める。
それにしてもさっきのシフォンケーキは美味かったな。味なんてもう随分と感じないと思っていたのに、なぜか分からないが、〝暖かさ〟というものがそれには込められていて、あの女の子があそこまで褒めるだけの価値があるなと思った。
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「翔様?翔様!着きました。」
「え、?ああ、ありがとう。」
珍しく、軽く居眠りしていたようで背中を優しく叩かれていた。車で寝るとか俺は子供か。
車から降りて家に入ると、殺風景な玄関、リビング、階段、寝室を通り抜ける。
そして書斎の扉を開ければ、唯一の趣味である大量の本がジャンル毎に分けられている。
家に帰れば、殆ど書斎に入り浸り状態で、書斎から出るのは飯と風呂の時だけ。
たまに書斎で寝てしまう程、俺にとってここは唯一無二の俺の居場所だった。
読書をしている時だけは、周りの人たちのことなんか考える必要もなく、物語に没頭出来る。
はず、だ。あれ…いつもなら出来るのに。
今日はなんだか読書に集中しているというより、たまたま寄っただけの、そしてたまたま店員をしていただけの、女の子のことがチラついて、読み進めることが出来なかった。
クソ、なんでだ。あの子は何も関係ないだろ。
集中出来ないのなら諦めるしかなく、読もうとしていたミステリー小説を閉じて、テキトーに沸かされていた風呂に入り、料理人が作った俺にとっては味なんて少しも感じない料理を口に運び、ボスンっと布団に潜る。
…なんなんだ。俺は本当にどうしたんだ。
あの店を出た後から、店のこと、マスターのこと、食べたシフォンケーキの味、そして何より、あの名前も分からない女の子のことが頭から離れない。
忘れたくて、でも何故か忘れたくなくて、必死に目を瞑って朝を待つ。
その朝、初めて俺は寝坊した。