いつからだろう、人間に興味を失ったのは――。

 眠りにつく前に布団の中で考えを巡らせてみた、何か衝撃的な事件にあった末に社会との断絶を図り、個人事業主などと言う名の自由業に興じている訳でも、壮絶な虐めにあった末に人と話す事が困難になり人間嫌いになった訳でもない。

 世の中には馬鹿が多すぎる――。

 興味を無くしたと言うよりは、馬鹿と関わるのが疲れる、今答えを求められるのならば、それが一番しっくりくる説明に思えた。

 それでもしかし――。

 中学生の頃までは今ほど冷めた人間ではなかったような気がした。

「海斗くんは人間嫌いなのかな?」

 少なくとも十七歳の女子高生に指摘されるような学生生活は送っていなかったし、贔屓目にみても友達から好意的に見られていたような記憶すらある。 やはり高校時代か。

 他人に愚痴るような酷い扱いを受けていた記憶はない、それでもあの時に聞いたセリフ、いや、あの場面を鮮明に思い出せる自分はやはり衝撃を受けていたのかも知れない。

『あいつ、顔キモくない?』

 ルーズソックスを履いて、髪を茶色く染めた、異常にスカートが短い女子生徒ではなく、クラスでもあまり目立たない真面目そうな女の子が囁いた声が自分の事であると認識するのに二日かかった。

 なぜそんなに時間が掛かったかと言えば、それまでに容姿に対して他人から誹謗中傷を受けた経験がなかった、それどころか、どちらかと言えば女子にはモテるほうで告白された人数も一人や二人ではない。

 では、どうして急にそんな扱いを受けてしまったのか、今となれば簡単にたどり着ける答えだ、誰も知り合いがいない高校に進学し野球部に入る予定だった僕は入学前に丸坊主にした、同時にやってきた思春期、いや青春のシンボルであるニキビは肌が弱い自分に容赦なく襲いかかり、赤黒いデコボコのまるで妖怪のような様相を呈していたのだろう、さらに極めつけは急激に悪くなった視力を補うために牛乳瓶の底のようなぶ厚いメガネを掛けたものだから余計に不気味だったはずだ。

 しかし当の本人はまったく気にしていなかった、真剣に野球に打ち込んでいたので、女子にどう見られているかなどまったく意に介さない状態だったのだ。

 なので「あいつ顔キモくない?」と呟いた、名前も思い出せない女子生徒の責任で今の自分になってしまった訳じゃない、茫然自失となったのはどちらかと言えばその後だ。

 十七歳の夏に部活動を引退すると、髪を伸ばし始めた、メガネをコンタクトに変えて違和感に慣れた頃には青春のシンボルであるニキビは綺麗サッパリと無くなっていた、母親から触らないで自然に治るのを待ちなさいとアドバイスされたのが功を奏したようだ。 

『ずっと好きでした、付き合ってください』 

 女子からの告白を中学生の時ほど素直に聞き入れることができない自分がすでに誕生していた、高校に入って初めて告白してきた女は「あいつ顔キモくない?」と問われて楽しそうに相槌を打っていた浅井優子だった。

 名前を覚えているという事はつまり、そういう事なのだろうか、どちらにしても今更そいつらに復讐をしたいなんて感情は持ち合わせていない、むしろ彼女たちの反応は正しかったと思うからだ。

 しかし高校生ながら人間の二面性を垣間見てしまったような気持ち悪さ、何処までいっても変わらないであろう根本的な問題故に、早々に人間に過度な期待をする事を本能的に避けるようになってしまった、自己分析するとまあ大体こんな所だが、他人が聞けが馬鹿らしいと思うだろう、実際に他人に話した事など一度もない。

 他人と関わらずに、大好きな野球中継を観て、生きていくのに困らない程度に仕事をする、二十八歳でたどり着いた答えは思いの外に快適で、こんな生活が一生続けば良いのにと本気で思っていた。



 彼女に出会うまでは――。



     ※



『ピンポーン』

「……。」

『ピンポーン』 

 早朝からインターホンを鳴らしている人物が誰だかは既に分かっている、対応しなければならないが普段起きる時刻よりも四時間は早い、ベッドから重い体を何とか引きずり出すと液晶ディスプレイを確認する、今日も白いオーバーオールの中に黄色いTシャツを着ている、バックパックを肩から掛けていて、確認できないがおそらく足元はスニーカーだろう。

「はい」

 辛うじてそれだけ答えた、何とか諦めて帰ってくれないだろうか、眠い思考で考えることができるのはその程度だった。

「ほら、もう始まっちゃうよ」

 まるで一週間心待ちにしていたドラマが始まるような言い方だった。

「五分だけお待ち下さい」

 相手の言葉を待たずにインターホンでの会話を終えた、顔を洗い歯を磨いて、コンタクトレンズを装着する。ジャージに着替えて鏡の前に立つと頭にとんでもない寝癖が付いている、やむを得ずキャップを被り玄関の扉を開けた、この間五分。何があろうと相手を待たせるのは嫌いだった、アドバンテージを取られてしまう。

 エレベーターを降りるとエントランスのソファに彼女が座っていた、オートロックを解錠していないのにどうやって侵入したのだろうか。

「あ、海斗くんおはよう、管理人さんが入れてくれた」

 まったく、このマンションのセキュリティはどうなっているんだ、今度管理会社に連絡して管理人を交代するように提言してみよう。

『早起きしないから人間不信になっちゃうんだよ』

 野球観戦の帰り道、悪びれもせずに彼女は公言した、それだと夜勤の人間はもれなく人間不信になってしまう、そもそも別に人間不信ではないが、いちいちツッコミを入れていたらキリがないので止めておいた。

「おはよう」

 短く挨拶を交わしてマンションを出ると、すでに夏の日差しがアスファルトに燦々と照り付けていた、エアコンが二十四時間つきっぱなしの部屋にいる身としては心底辟易した。

「海斗くんコッチだよ」

 彼女に案内された場所は歩いて五分ほどの場所にある小学校だった、人形町に住み始めて四年になるが、こんな所に小学校がある事は知らなかった。それもその筈で『日本橋第三小学校』と小さな表札のような案内がある以外は外観からは小学校とは判断が出来ない、少なくとも自分が通っていた小学校とはかけ離れていた。

 まず校門がない、学校と言えば大小は違えど観音開き、もしくは引き戸タイプの校門が想像されるが、この小学校は一般的なサイズの鉄の扉があるだけだ。よって遅刻して締め出された時によじ登って強引に登校する事は不可能だ。

『ラジオ体操会場』

 扉の横にパウチされた案内がガムテープで貼られている、暑さにやられたのか、テープは粘着力を失い今にも落ちてしまいそうだった。

「もしかして母校?」

 何の気無しに訪ねた、この辺りに住んでいるなら十分に考えられる。

「ぜんぜん違うよ」

 それだけ答えると開いた扉を抜けて中に入っていった、渋々後を付いていくとすぐにアーバンコートの校庭、校庭と言っても縦横それぞれ三十メートル程度しかない、運動会はどうするのだろうか、これでは斜めに走っても五十メートル確保することは不可能だろう。まあこんな都会にある学校では仕方ないのか。

 校庭にはすでに十五人位の人間が待機していた、勝手なイメージで夏休みのラジオ体操なのだから子供がメインかと思っていたが、小中学生と思われる人物は一人もいなかった、殆どが高齢の老人達で、僕らは平均年齢を大幅に下げる事に一役買っただろう。

 慣れたように各々の配置につくと文字通りラジオからお馴染みのテーマ曲が流れてくる、随分昔の事だったので忘れてしまっていたが、前のお爺さんを真似して何とかついていった、彼女は隣で楽しそうに体操している。

 しかし今日で三日目だが毎日同じ服を着ている、黄色いTシャツの上から白のオーバーオール。彼女ぐらいの年齢だったらオシャレに気を使って毎日服装を変えてきそうなものだが、もしかしてジョブスを見習って意思決定からくる疲れを軽減するために毎日同じ服を敢えて着ているのだろうか。ともかくラジオ体操を第三まで終えると早々に解散となった、思ったよりも体が軽くなった事に驚いたが毎朝続けるとなると憂鬱だった。

 さっさと帰ってもう一眠りしようと、自宅に向かって歩き出す、彼女は同じ歩調で後ろを付いてきた、嫌な予感がする。果たして彼女はマンションの入口前まで付いてきた、オートロックのキーをかざす前に質問する。

「あのー」

「なーに?」

「どこまで付いてくるの」

「どこって、これから海斗くんの家で宿題やるんだよ、教えてね」

 彼女があなた何を言っているの、あたりまえじゃないと言った口調で答えるので、一瞬自分が間違えているのかと錯覚した。

『東大卒、変態ロリコン男、十七歳少女を自宅に連れ込み陵辱』

「駄目に決まってるだろう」

 すぐに正確な思考を取り戻した、この三日間、彼女に押し切られて付き合ってきてしまったが家は駄目だ、そもそも他人を家に上げるのが大嫌いだった、今までに誰一人として上げたことはない。 

「あらー、ラジオ体操終わったの」

 管理人のババアがエントランスから出てきて話しかけてくる、毎度まいどタイミングの悪い所で登場する奴だ、さっさと去ねと心の中で願った。  

「これからお兄ちゃんに宿題みてもらうの」

「あらー、本当に仲のいい兄弟ねえ」

 ババアが内側から開けてしまったオートロックを彼女は自然に通過した、頭をフル回転させてこの窮地を脱せる作戦を考えるが思いつかない、エレベーターが到着して彼女は乗り込む。

「ほらほら、早く」

 突っ立っている僕を管理人のババアが不審そうに見上げている、仕方がない、諦めてエレベーターに乗り込んだ。

「綺麗にしてるねー、うわー、テレビでっか」 

 リビングに入るなり騒いでいる彼女は無視して、これからどうするかを考えることにした、何の目的か分からないが自分に付きまとうこの女の子は何者なのか、皆目検討が付かないので直接穂本人に問いただすしかないだろう、すこし高圧的な態度に出なければならない、大人は怖いと言うことを思い知らせないとこの先の人生で彼女が不幸に見舞われる事もあるだろう。

「星野さん、そこに座りなさい」

 学校の先生よろしく、ダイニングテーブルにある椅子を指さした、一人暮らしなので椅子が二脚の小さなテーブルだ。

「プッ、海斗くんどうしたの」

 彼女は持参したカバンをテーブルの横に置くと、指示通りに椅子に腰掛けてマスクを外した。僕も正面の椅子に座ると彼女と目が合う。おや――。

 そう言えば彼女のマスクを外した素顔を正面から見るのは初めてだった、基本的に外ではマスクをしていたし、昨夜野球を観戦している時も、食事中はおそらく外していたのだろうが野球を観ているので気が付かなかった。

 末広型の二重は外側に目が大きい、今まではこの部分だけ見えていたので実年齢よりも大人びて見えた、しかしマスクを外すと陶器のように透明感のある肌、顎が短く丸顔で鼻が低い、小さな口は唇が薄く口角が少しだけ上がっている。

 美少女――。

 その定義は人によって異なるのだろうが、おそらく彼女を見て自分と同じ感想を抱かない人間は滅多にいないであろう。

「おーい、どうしたの」

 絶句している僕に両手をブンブンと振っている、一度深呼吸をしてから落ち着きを取り戻した、彼女が美少女だろうが醜女だろうが関係ない、しっかりと説教をしなければ、大人として。 

「星野さんは、一体何が目的で僕に近づいてきたんだ」 

 声のトーンを落として問いかける、少しでも笑顔を見せてはだめだ、怖い大人を演出しなければ。

「目的って、え、目的かあ……」

 彼女は顎に手を添えて考えている、どうやら真剣に考えているようにも見えるが、自分の目的がそんなに考えなければ分からないのだろうか、不思議な子だ。

「今は、宿題を手伝ってもらうのが目的で、昨日は一緒に野球を観に行ってもらうのが目的かな」

 なるほど、無難な答えだ、その裏にある真相を匠に隠している。

「それは建前だろう、赤の他人、それも年上のオジサンに女子高生が頼むような案件ではないと思うが」 

 自分をオジサンと揶揄することに抵抗があったが女子高生から見ればそうなのだろう、彼女はまいったなあ、頭を掻いてそんな仕草をする。

「あたし死ぬんだ、九月一日に」 

『アタシシヌンダ』

 僕は呪文のように心のなかで呟いた、早速、脳内会議が行われる、迅速にそして正しい答えを導き出さなければならない、女子高生と死、アンバランスなワードは幾つもの憶測を生み出した。

 病気か、一見すると元気そうだが実は重い病に侵されていて、寿命が残り僅かなパターン、しかし――。それだと九月一日という正確な日付が説明できない。そんな確実に死亡日が分かる病気など聞いたことがなかった。  

「自殺するんだよ」

 難航する脳内会議に突然社長が入ってきて、新商品はこれに決定、今までの数時間の会議が全て無駄になる瞬間を思い描く。

「だから、最後の夏休みを有意義に過ごしたいの、野球は大好きなんだけど周りに野球好きがいないんだよね、そこに突然、目の前にスマートフォンで野球中継を見る男が、死ぬ前に神様からのギフトなの海斗くんは」 

 夏に生まれたから海を連想させる美波と名付けられた、神様からの贈り物は海斗、これは偶然なのだろうか、例え偶然でも構わない、自分に残された時間は少ないのだから、考えている時間などないと彼女は言った。

「ごめんね、海斗くんには迷惑だよね」 

「いや、でもどうして自殺なんて……」

 聞いてから後悔した、出会って三日の赤の他人に自分が自殺する理由を説明するはずがない。

「でも、あたしご飯とか作れるし、掃除もできるからさ、少しは役に立つから少しの間だけ付き合ってください、お願いします」

 自殺の理由は答えてくれなかったが、しかし、どうすれば良いのだろう、彼女が嘘を言っているようには思えない、しかし全てを信用するのは危険を伴う。

「付き合うって、具体的にどうすれば良いのかな」

 まさか、恋人になってくれと言うわけでもあるまい。

「うん、朝ラジオ体操して、宿題して、夜は野球観戦、テレビで良いよ、で、たまには花火を観に行ったり、海に行ったりするの」

 それは恋人同士でする事だろうが。

「星野さんは僕が無職だと思ってるのかな」

 サラリーマンに比べたら圧倒的に稼働時間は少ないが、一応仕事をしているのだ。

「仕事中は邪魔しないようにするから、どっか出掛けててもいいし、お願いします」

 両手を顔の前で会わせて懇願している、とにかく女子高生を家に連れ込むのは非常にまずい、しかし、どうしてだろう、彼女にお願いされると非常に断りづらい、本来なら知らない人間と野球観戦に行ったり朝っぱらからラジオ体操に興じたり、ましてや家に上げる事など考えられなかった。

 それに自殺すると宣言した彼女の言葉が嘘に聞こえなかった。なぜか説得力があるのだ、これで本当に自殺でもされたら――。

 もっとも全く自分には関係のない話で、恨まれる筋合いすらないが気持ちが悪いのは確かだ。考えた結果、彼女にしばらく付き合うことにした、どうせすぐに飽きるだろう、それに一緒にいれば自殺の理由が分かるかもしれない、赤の他人が自分の命をどう扱おうと勝手だが、知っているのに止めもしないほど冷めた人間に成り果てたくなかった。

「分かった、けど朝迎えに来るのは止めてくれ、現地集合にしよう、ちゃんと出席するから」

 なるべくマンションの住民に見られるのは避けたい、しかし良く考えてみれば彼女がリークしない限りは誰も知るところではない、堂々としていれば良いのだ、夏休みに年の離れた妹が遊びに来ることなど良くあることだろう、兄弟のいない自分には分からないが。

「やったー!」

 満面の笑みを浮かべて喜んでいる彼女を見ていると、本当に妹が出来たような錯覚をした、気持ちが落ち着いた所で珈琲を入れた、家の中でもマスクをしていた事に気がついて、すぐに外してゴミ箱に捨てた。

「へー」

 珈琲に口を付けて顔を上げると、彼女がコチラを凝視して感心したように頷いていた。

「なんだよ」

「中々イケメンね、あたしの好みよ」

「そりゃどーも」

 鼻を鳴らして返事をすると、どういう訳か顔がニヤけた。

 この時はまだ知らなかった、彼女が何を考えていたのか、どこから来たのか、そして自分がどうなるのかさえ。