「あっ、葉桜」
七海伸太郎は声を上げた。
七海学園の校舎と学園寮を結ぶ通学路にある桜並木は、今年は桜の開花が早かったのもあってか、すでに散り始め、中には葉桜になっている木もあった。
「僕、葉桜って好き。めーちゃんは?」
伸太郎は隣を歩くパートナーの牛若芽衣に聞いた。
「……葉桜ってきれいじゃないから好きじゃない」
芽衣は立ち止まって言った。
「桜が散らなければいいのに。ずっときれいなまま咲き続けてればいいのに。どうして散っちゃうんだろ」
伸太郎はうーんと考えて、
「でもさ、葉桜は養分を貯めて、冬を越してまたつぼみをつけて、次の春にまたきれいな桜を咲かせられるように一年かけて準備してるんだよ。そう考えるとロマンチックじゃない?」
「よくわかんない」
芽衣は伸太郎を置いて先に歩き出した。
「あっ! めーちゃん待ってよー!」
ふいに強い風が吹いて、
「!」
芽衣の髪が桜の枝にからまってしまった。
「めーちゃん待ってて、動かないで」
伸太郎はからまった芽衣の髪をほどこうと奮闘する。
思いがけない至近距離に芽衣はたじろいでししまい、髪の毛がひっぱられて。
「ッ!」
「動かないで」
そう言われても芽衣にはこの至近距離がなんだかくすぐったい。
「とれた!」
芽衣はもじもじして、
「あ、ありがとう……」
「うーんやっぱりめーちゃん宇宙一かわいい!」
「抱きつくな!」
そんな二人を桜吹雪が包んでいた。
*
目覚まし時計のアラームが鳴り続けている。
(……夢……)
伸太郎はむくりとベッドから起きあがった。
──あれは2年生が始まった日の通学路でのできごと。めーちゃんと過ごしてきた大切な思い出のひとつ。
伸太郎にとっては芽衣と過ごしてきた一日一日が宝物だった。
*
ここは“世界一の結婚を目指すための学校”七海学園。
世界一正確だというマッチングシステム“デステニー”で伸太郎のパートナーに選ばれたのが芽衣だった。
芽衣を一目見た瞬間、伸太郎は恋に落ちた。
「運命だ…………」
*
その七海学園の寮の伸太郎と芽衣の部屋。
それは何気ない毎朝のやり取りのはずだった。
「めーちゃんおはよー! 今日もかわいい!」
「うっさい!」
バックハグしてこようとした伸太郎の腕を強く振り払った芽衣。
「……ッ、ごめん」
思った以上に強く振り払ってしまい芽衣は気まずそうな顔をした。
「……めーちゃん、何かあった? いつもと何か違う」
「何でもない。先に学校行ってるから」
芽衣を見送った伸太郎の胸に何かもやもやしたものが残った。
*
「っていうことが今朝あったんだよ~! 初どう思う~?」
学校で伸太郎はクラスメイトの倉下初に泣きついた。
「わっ私に聞かれても……!」
「そうやって牛若と何かあるたび初を頼るのやめてくれる?」
「うるさいヘラヘラ! 困った時の初頼みなんだよ」
困った顔の初の隣にいるのは初のパートナー鮫上紺だ。
「うーんそうですね……やはりここはめーさんとちゃんと向き合って話すのが良いじゃないでしょうか」
「ちゃんと向き合って……」
「はい!」
曇りのない初の笑顔。相談すると初はいつもこうして親身になって答えてくれる。
「わかった」
*
寮に帰った伸太郎は、先に帰っていた芽衣がスマホの画面をけわしい顔でじっと見つめているのに気付いた。
「めーちゃん?」
「わっ!」
あわててスマホを隠そうとした芽衣だったが、しかしそこはドジっ子芽衣、スマホは伸太郎の足元に飛んできた。
スマホの画面にはラインのやり取りが表示されていた。
【母親】
《よくも人をコケにしてくれたわね》
《あんたを愛してくれる人なんていない》
《あんたなんか学校出たら一生一人だ》
《あんたの帰る場所はないよ》
「──ッ!!」
伸太郎はすぐに察した。
これはめーちゃんの母親からの報復だ。前にジョブスタジオで電話越しにめーちゃんの母親に啖呵を切った時の。
伸太郎は芽衣へのアフターフォローが足りていなかったことを悔やんだ。
「めーちゃん、これ……」
「……きのう、夜中に母親からそれが届いて」
芽衣はぽつりぽつりと話し出した。
「それ見たら急に怖くなって、愛なんてわかんないけど、でもこのままずっと一人はいやだなぁって、伸太郎もどっか行っちゃうんじゃないかって……」
「めーちゃん」
芽衣を抱きしめようとした伸太郎だったが、次の瞬間、動きがビクッと止まった。
芽衣が目に涙をためながら伸太郎をにらみつけていたからだ。
「そんな中途半端に優しくするなよ! 中途半端に優しくされるくらいならはじめから何もしてくれない方がマシだ!」
部屋を飛び出していってしまった芽衣を追いかけることもできず、伸太郎はただ呆然とその場に立ちつくしていた。
*
「はい、ホットミルクです。あったかいものを飲むと心が落ち着きますよ」
芽衣は初と紺の部屋に身を寄せていた。初に差し出されたホットミルクを一口飲む。
「あったかい……」
「伸太郎くんとケンカでもしたんですか?」
「……」
「あっ! 話したくないことなら無理に聞きませんよ! おせっかいでしたね」
「…ほんと、伸太郎も初もおせっかい……」
芽衣の言葉に初はアワアワする。
「でもキライじゃない」
「!」
それから芽衣は初に母親とのこと、伸太郎とのことを話した。
「…そうだったんですか……」
この世の中にそんな親がいることは、両親に愛されて育った初にとって想像だにしなかった。
「伸太郎にもひどいこと言った。でもあたし、母親を切ることはできない」
「それは、どうして……?」
不思議顔の初に芽衣はちょっぴり苦笑しながら答えた。
「親だからだよ」
──ピンポーン
部屋のチャイムが鳴った。
初が出ると、そこには息をはずませた伸太郎が。
「めーちゃん、いる!?」
「めーさんは……」
初がおろおろしていると、その一瞬の隙をついて芽衣が初と伸太郎の間から脱兎の勢いで逃げ出した。
「めーちゃん!」
「伸太郎くん! めーさんを追いかけてください!」
「でも逃げられたってことは、僕、めーちゃんに嫌われたんじゃ……」
「そんなことありません!」
弱気になっていた伸太郎の背中を初が押す。
「めーさんは、伸太郎くんに追ってきて欲しいんだと思います!」
*
「めーちゃん、待って!」
脱兎の勢いで逃げる芽衣を追いかける伸太郎。
これってなんだか『不思議の国のアリス』みたいじゃない? 時計ウサギを追いかけるアリスめーちゃんを追いかける僕。
──あれ? この場合時計ウサギがめーちゃんでアリスが僕?
伸太郎がそんなことを考えながら芽衣を追いかけていたところ目の前を走っていた芽衣が派手に転んだ。
「めーちゃん! 大丈夫!? 立てる?」
伸太郎が差し出した手を芽衣は取らずに自力で立ち上がった。
「大丈夫」
芽衣の目は伸太郎を見ようとしない。
「めーちゃ……」
「あんたもどっかいっちゃうんでしょ」
「え?」
「あんたもどっかいっちゃうくせに中途半端にあたしに優しくなんてしないでよー!」
大声で泣き出した芽衣になんだなんだと周囲の部屋の扉が開いてあちこちからギャラリーが顔を出す。
その視線にいたたまれなくなった伸太郎は、
「と、とりあえず僕たちの部屋に戻ろっか……」
泣いている芽衣の手を取って歩き出した。
*
「タオル、これ使って」
自分たちの部屋に戻ってきた二人はテーブルをはさんで座った。
伸太郎が手渡したタオルを芽衣は素直に受け取った。
「──で、なんで僕がめーちゃんの前からいなくなっちゃうと思ったの?」
「伸太郎、怒ってる?」
「ちょっと」
芽衣の泣きはらした目がウサギのように赤い。
「めーちゃんが何を不安がってるのかがわからない自分の情けなさに怒ってる」
芽衣の瞳が揺れる。
「聞かせて? めーちゃんが何を不安に思ってるのか」
「だって…………」
芽衣の感情が堰を切ってあふれ出した。
「だって! 親に愛されたことないからわかんないだもん! 愛が何なのか! 母親は脅してくるし! 伸太郎だって今は好きって言ってくれるけどいつかはいなくなっちゃうんでしょ……」
再び泣き出した芽衣を伸太郎は優しく抱きしめた。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
「……うっ、ひくっ…………」
「めーちゃん」
そのタイミングで芽衣のスマホが鳴った。
ディスプレイには【母親】の文字。
不安に揺れる芽衣の目を見て、伸太郎が電話に出る。
「……もしもし」
〈男の声ってことはあんたがセブンオーシャンの社長の息子?〉
「はい。この間は失礼な物言いをしてすみませんでした」
〈芽衣とうまくやってる? 芽衣は生まれてからずっと役立たずな子だったけどやっと私の役に立ってくれる──〉
「無理ですね」
〈……は?〉
「めーちゃんの悪口を言う人は無理です。もう二度とめーちゃんに電話もメッセージもしないでください。あなたがめーちゃんにあげなかった愛情は、僕が倍以上にして送りますからご心配なく」
〈はぁ? 何言ってんだ、あの子はあたしのもの──〉
「めーちゃんは『もの』じゃありません。人間です。あなたとこれ以上話すことはありませんので失礼します」
母親がまだ何か言う声が聞こえたが伸太郎は無視して通話を切った。そして、
「着信拒否、っと……」
「ま、待って!」
「?」
「着信拒否は、しないで……」
芽衣はふるえる声で言った。
「あんたにはわかんないかもしれないけど、あんなのでも親だから切れないんだよ。もし切ったらあたしひとりぼっちになっちゃう……」
「僕がいる。僕はめーちゃんを一人にしない。約束する。だから、めーちゃんが背負ってるものと一緒に戦わせて?」
伸太郎は芽衣の手を握った。握った手は不安からかとても冷たかった。
「めーちゃん、めーちゃんに呪いの言葉を吐く人間の呪いの言葉なんて聞かなくていいよ。僕やここのみんなの言うことだけ聞いて」
「でも……っ」
再び芽衣のスマホが鳴った。
「…めーちゃんが自分で選ばないと意味なかったね」
芽衣は少しふるえる手で伸太郎からスマホを受け取り、【着信拒否】のボタンを押した。
とたんに次々届く母親からのメッセージ。
芽衣は意を決した顔で母親からのラインもブロックした。
「…なぁんだ」
芽衣は目に涙をためながら天を仰いだ。
「こんな簡単なことだったんだ」
「…めーちゃん、前に風船に書いてくれた言葉覚えてる?」
「?」
「前に課題で風船に書いてくれた言葉。『わかんない』って書いてあったその下に『でも伸太郎がくれるもの』って書いてあって。僕、それ見た時すごい嬉しかったんだ」
芽衣の背中をなでながら話す伸太郎の口調はとても優しかった。
「大丈夫だよめーちゃん。愛がわからなくても僕はずっとめーちゃんに愛を送り続けるよ」
芽衣が顔を上げるとそこには赤面した伸太郎の顔があった。
「今のはちょっとクサかったかな……」
伸太郎の言葉に芽衣は泣きながら笑った。
*
──月日は流れて。
修学旅行に出発する日の朝。
「あっ、桜のつぼみ」
伸太郎は声を上げた。
長かった冬も終わりを告げ、桜はつぼみをたくさん付けていた。中にはすでにほころび始めたつぼみもいくつもある。
「…なんだかさ、桜のつぼみってめーちゃんみたいだよね」
「?」
伸太郎の隣を歩く芽衣はよくわからないといった顔をする。
「冬を越えて、ここからつぼみはきれいに咲き誇るんだよ。桜も、めーちゃんも」
「…伸太郎ってたまによくわかんないロマンチストだよな」
「そうかなぁ」と伸太郎は照れたように笑った。
……愛がどういうものかはまだよくわかんないけど、心の中にあるこのつぼみのような気持ちは、きっと。
なんて、伸太郎にはまだ言ってやらないけど。
芽衣は心の中で舌を出した。
「あー……、でも桜が咲くころは修学旅行中かぁ。今年は満開の桜は見れないかなぁ」
伸太郎が桜の枝を見上げながら残念そうに言った。
「そうだ! 帰ってきてまだ桜が咲いてたらさ、二人でお花見しない?」
「…いいけど」
「やったー!」
伸太郎のくるくる変わる表情がキライじゃないと、芽衣は思った。
*
──そして。
「……帰ってきたらめーちゃんとお花見したいとは言ったけど」
伸太郎は明らかに不満顔だ。
「なんで初やヘラヘラたちもいるのー!」
「いいじゃん、人数多い方が楽しいし」
「めーちゃんが楽しいならそれでいいけどー!」
「っていうかいい加減ヘラヘラって呼ぶのやめて……もういいや」
修学旅行から帰ってきたあと、七海学園の通学路の桜並木は散り始めで、中にはすでに葉桜になりかけの木もあったが、お花見にはまだ十分だった。
そしてそのお花見には伸太郎と芽衣だけでなく、初と紺、虹叶と嵐、あゆかじカップルに羽生と岩清水も参加していた。
「もうすぐ3年生かぁ」
「ですね」
「3年生になったら課題とかもシビアになってくだろうけど、このお花見がいい思い出になったらいいねぇ」
「来年の今ごろは卒業かぁ……」
「しんみりしてないで、飲も飲も! ジュース!」
「七海、サイダーで酔ってる?」
*
「めーちゃん、今でも葉桜って嫌い?」
伸太郎が芽衣に尋ねた。
「……キライじゃない」
「どうして?」
「花は、また咲くってわかったから」
七海伸太郎は声を上げた。
七海学園の校舎と学園寮を結ぶ通学路にある桜並木は、今年は桜の開花が早かったのもあってか、すでに散り始め、中には葉桜になっている木もあった。
「僕、葉桜って好き。めーちゃんは?」
伸太郎は隣を歩くパートナーの牛若芽衣に聞いた。
「……葉桜ってきれいじゃないから好きじゃない」
芽衣は立ち止まって言った。
「桜が散らなければいいのに。ずっときれいなまま咲き続けてればいいのに。どうして散っちゃうんだろ」
伸太郎はうーんと考えて、
「でもさ、葉桜は養分を貯めて、冬を越してまたつぼみをつけて、次の春にまたきれいな桜を咲かせられるように一年かけて準備してるんだよ。そう考えるとロマンチックじゃない?」
「よくわかんない」
芽衣は伸太郎を置いて先に歩き出した。
「あっ! めーちゃん待ってよー!」
ふいに強い風が吹いて、
「!」
芽衣の髪が桜の枝にからまってしまった。
「めーちゃん待ってて、動かないで」
伸太郎はからまった芽衣の髪をほどこうと奮闘する。
思いがけない至近距離に芽衣はたじろいでししまい、髪の毛がひっぱられて。
「ッ!」
「動かないで」
そう言われても芽衣にはこの至近距離がなんだかくすぐったい。
「とれた!」
芽衣はもじもじして、
「あ、ありがとう……」
「うーんやっぱりめーちゃん宇宙一かわいい!」
「抱きつくな!」
そんな二人を桜吹雪が包んでいた。
*
目覚まし時計のアラームが鳴り続けている。
(……夢……)
伸太郎はむくりとベッドから起きあがった。
──あれは2年生が始まった日の通学路でのできごと。めーちゃんと過ごしてきた大切な思い出のひとつ。
伸太郎にとっては芽衣と過ごしてきた一日一日が宝物だった。
*
ここは“世界一の結婚を目指すための学校”七海学園。
世界一正確だというマッチングシステム“デステニー”で伸太郎のパートナーに選ばれたのが芽衣だった。
芽衣を一目見た瞬間、伸太郎は恋に落ちた。
「運命だ…………」
*
その七海学園の寮の伸太郎と芽衣の部屋。
それは何気ない毎朝のやり取りのはずだった。
「めーちゃんおはよー! 今日もかわいい!」
「うっさい!」
バックハグしてこようとした伸太郎の腕を強く振り払った芽衣。
「……ッ、ごめん」
思った以上に強く振り払ってしまい芽衣は気まずそうな顔をした。
「……めーちゃん、何かあった? いつもと何か違う」
「何でもない。先に学校行ってるから」
芽衣を見送った伸太郎の胸に何かもやもやしたものが残った。
*
「っていうことが今朝あったんだよ~! 初どう思う~?」
学校で伸太郎はクラスメイトの倉下初に泣きついた。
「わっ私に聞かれても……!」
「そうやって牛若と何かあるたび初を頼るのやめてくれる?」
「うるさいヘラヘラ! 困った時の初頼みなんだよ」
困った顔の初の隣にいるのは初のパートナー鮫上紺だ。
「うーんそうですね……やはりここはめーさんとちゃんと向き合って話すのが良いじゃないでしょうか」
「ちゃんと向き合って……」
「はい!」
曇りのない初の笑顔。相談すると初はいつもこうして親身になって答えてくれる。
「わかった」
*
寮に帰った伸太郎は、先に帰っていた芽衣がスマホの画面をけわしい顔でじっと見つめているのに気付いた。
「めーちゃん?」
「わっ!」
あわててスマホを隠そうとした芽衣だったが、しかしそこはドジっ子芽衣、スマホは伸太郎の足元に飛んできた。
スマホの画面にはラインのやり取りが表示されていた。
【母親】
《よくも人をコケにしてくれたわね》
《あんたを愛してくれる人なんていない》
《あんたなんか学校出たら一生一人だ》
《あんたの帰る場所はないよ》
「──ッ!!」
伸太郎はすぐに察した。
これはめーちゃんの母親からの報復だ。前にジョブスタジオで電話越しにめーちゃんの母親に啖呵を切った時の。
伸太郎は芽衣へのアフターフォローが足りていなかったことを悔やんだ。
「めーちゃん、これ……」
「……きのう、夜中に母親からそれが届いて」
芽衣はぽつりぽつりと話し出した。
「それ見たら急に怖くなって、愛なんてわかんないけど、でもこのままずっと一人はいやだなぁって、伸太郎もどっか行っちゃうんじゃないかって……」
「めーちゃん」
芽衣を抱きしめようとした伸太郎だったが、次の瞬間、動きがビクッと止まった。
芽衣が目に涙をためながら伸太郎をにらみつけていたからだ。
「そんな中途半端に優しくするなよ! 中途半端に優しくされるくらいならはじめから何もしてくれない方がマシだ!」
部屋を飛び出していってしまった芽衣を追いかけることもできず、伸太郎はただ呆然とその場に立ちつくしていた。
*
「はい、ホットミルクです。あったかいものを飲むと心が落ち着きますよ」
芽衣は初と紺の部屋に身を寄せていた。初に差し出されたホットミルクを一口飲む。
「あったかい……」
「伸太郎くんとケンカでもしたんですか?」
「……」
「あっ! 話したくないことなら無理に聞きませんよ! おせっかいでしたね」
「…ほんと、伸太郎も初もおせっかい……」
芽衣の言葉に初はアワアワする。
「でもキライじゃない」
「!」
それから芽衣は初に母親とのこと、伸太郎とのことを話した。
「…そうだったんですか……」
この世の中にそんな親がいることは、両親に愛されて育った初にとって想像だにしなかった。
「伸太郎にもひどいこと言った。でもあたし、母親を切ることはできない」
「それは、どうして……?」
不思議顔の初に芽衣はちょっぴり苦笑しながら答えた。
「親だからだよ」
──ピンポーン
部屋のチャイムが鳴った。
初が出ると、そこには息をはずませた伸太郎が。
「めーちゃん、いる!?」
「めーさんは……」
初がおろおろしていると、その一瞬の隙をついて芽衣が初と伸太郎の間から脱兎の勢いで逃げ出した。
「めーちゃん!」
「伸太郎くん! めーさんを追いかけてください!」
「でも逃げられたってことは、僕、めーちゃんに嫌われたんじゃ……」
「そんなことありません!」
弱気になっていた伸太郎の背中を初が押す。
「めーさんは、伸太郎くんに追ってきて欲しいんだと思います!」
*
「めーちゃん、待って!」
脱兎の勢いで逃げる芽衣を追いかける伸太郎。
これってなんだか『不思議の国のアリス』みたいじゃない? 時計ウサギを追いかけるアリスめーちゃんを追いかける僕。
──あれ? この場合時計ウサギがめーちゃんでアリスが僕?
伸太郎がそんなことを考えながら芽衣を追いかけていたところ目の前を走っていた芽衣が派手に転んだ。
「めーちゃん! 大丈夫!? 立てる?」
伸太郎が差し出した手を芽衣は取らずに自力で立ち上がった。
「大丈夫」
芽衣の目は伸太郎を見ようとしない。
「めーちゃ……」
「あんたもどっかいっちゃうんでしょ」
「え?」
「あんたもどっかいっちゃうくせに中途半端にあたしに優しくなんてしないでよー!」
大声で泣き出した芽衣になんだなんだと周囲の部屋の扉が開いてあちこちからギャラリーが顔を出す。
その視線にいたたまれなくなった伸太郎は、
「と、とりあえず僕たちの部屋に戻ろっか……」
泣いている芽衣の手を取って歩き出した。
*
「タオル、これ使って」
自分たちの部屋に戻ってきた二人はテーブルをはさんで座った。
伸太郎が手渡したタオルを芽衣は素直に受け取った。
「──で、なんで僕がめーちゃんの前からいなくなっちゃうと思ったの?」
「伸太郎、怒ってる?」
「ちょっと」
芽衣の泣きはらした目がウサギのように赤い。
「めーちゃんが何を不安がってるのかがわからない自分の情けなさに怒ってる」
芽衣の瞳が揺れる。
「聞かせて? めーちゃんが何を不安に思ってるのか」
「だって…………」
芽衣の感情が堰を切ってあふれ出した。
「だって! 親に愛されたことないからわかんないだもん! 愛が何なのか! 母親は脅してくるし! 伸太郎だって今は好きって言ってくれるけどいつかはいなくなっちゃうんでしょ……」
再び泣き出した芽衣を伸太郎は優しく抱きしめた。
「大丈夫。僕はここにいるよ」
「……うっ、ひくっ…………」
「めーちゃん」
そのタイミングで芽衣のスマホが鳴った。
ディスプレイには【母親】の文字。
不安に揺れる芽衣の目を見て、伸太郎が電話に出る。
「……もしもし」
〈男の声ってことはあんたがセブンオーシャンの社長の息子?〉
「はい。この間は失礼な物言いをしてすみませんでした」
〈芽衣とうまくやってる? 芽衣は生まれてからずっと役立たずな子だったけどやっと私の役に立ってくれる──〉
「無理ですね」
〈……は?〉
「めーちゃんの悪口を言う人は無理です。もう二度とめーちゃんに電話もメッセージもしないでください。あなたがめーちゃんにあげなかった愛情は、僕が倍以上にして送りますからご心配なく」
〈はぁ? 何言ってんだ、あの子はあたしのもの──〉
「めーちゃんは『もの』じゃありません。人間です。あなたとこれ以上話すことはありませんので失礼します」
母親がまだ何か言う声が聞こえたが伸太郎は無視して通話を切った。そして、
「着信拒否、っと……」
「ま、待って!」
「?」
「着信拒否は、しないで……」
芽衣はふるえる声で言った。
「あんたにはわかんないかもしれないけど、あんなのでも親だから切れないんだよ。もし切ったらあたしひとりぼっちになっちゃう……」
「僕がいる。僕はめーちゃんを一人にしない。約束する。だから、めーちゃんが背負ってるものと一緒に戦わせて?」
伸太郎は芽衣の手を握った。握った手は不安からかとても冷たかった。
「めーちゃん、めーちゃんに呪いの言葉を吐く人間の呪いの言葉なんて聞かなくていいよ。僕やここのみんなの言うことだけ聞いて」
「でも……っ」
再び芽衣のスマホが鳴った。
「…めーちゃんが自分で選ばないと意味なかったね」
芽衣は少しふるえる手で伸太郎からスマホを受け取り、【着信拒否】のボタンを押した。
とたんに次々届く母親からのメッセージ。
芽衣は意を決した顔で母親からのラインもブロックした。
「…なぁんだ」
芽衣は目に涙をためながら天を仰いだ。
「こんな簡単なことだったんだ」
「…めーちゃん、前に風船に書いてくれた言葉覚えてる?」
「?」
「前に課題で風船に書いてくれた言葉。『わかんない』って書いてあったその下に『でも伸太郎がくれるもの』って書いてあって。僕、それ見た時すごい嬉しかったんだ」
芽衣の背中をなでながら話す伸太郎の口調はとても優しかった。
「大丈夫だよめーちゃん。愛がわからなくても僕はずっとめーちゃんに愛を送り続けるよ」
芽衣が顔を上げるとそこには赤面した伸太郎の顔があった。
「今のはちょっとクサかったかな……」
伸太郎の言葉に芽衣は泣きながら笑った。
*
──月日は流れて。
修学旅行に出発する日の朝。
「あっ、桜のつぼみ」
伸太郎は声を上げた。
長かった冬も終わりを告げ、桜はつぼみをたくさん付けていた。中にはすでにほころび始めたつぼみもいくつもある。
「…なんだかさ、桜のつぼみってめーちゃんみたいだよね」
「?」
伸太郎の隣を歩く芽衣はよくわからないといった顔をする。
「冬を越えて、ここからつぼみはきれいに咲き誇るんだよ。桜も、めーちゃんも」
「…伸太郎ってたまによくわかんないロマンチストだよな」
「そうかなぁ」と伸太郎は照れたように笑った。
……愛がどういうものかはまだよくわかんないけど、心の中にあるこのつぼみのような気持ちは、きっと。
なんて、伸太郎にはまだ言ってやらないけど。
芽衣は心の中で舌を出した。
「あー……、でも桜が咲くころは修学旅行中かぁ。今年は満開の桜は見れないかなぁ」
伸太郎が桜の枝を見上げながら残念そうに言った。
「そうだ! 帰ってきてまだ桜が咲いてたらさ、二人でお花見しない?」
「…いいけど」
「やったー!」
伸太郎のくるくる変わる表情がキライじゃないと、芽衣は思った。
*
──そして。
「……帰ってきたらめーちゃんとお花見したいとは言ったけど」
伸太郎は明らかに不満顔だ。
「なんで初やヘラヘラたちもいるのー!」
「いいじゃん、人数多い方が楽しいし」
「めーちゃんが楽しいならそれでいいけどー!」
「っていうかいい加減ヘラヘラって呼ぶのやめて……もういいや」
修学旅行から帰ってきたあと、七海学園の通学路の桜並木は散り始めで、中にはすでに葉桜になりかけの木もあったが、お花見にはまだ十分だった。
そしてそのお花見には伸太郎と芽衣だけでなく、初と紺、虹叶と嵐、あゆかじカップルに羽生と岩清水も参加していた。
「もうすぐ3年生かぁ」
「ですね」
「3年生になったら課題とかもシビアになってくだろうけど、このお花見がいい思い出になったらいいねぇ」
「来年の今ごろは卒業かぁ……」
「しんみりしてないで、飲も飲も! ジュース!」
「七海、サイダーで酔ってる?」
*
「めーちゃん、今でも葉桜って嫌い?」
伸太郎が芽衣に尋ねた。
「……キライじゃない」
「どうして?」
「花は、また咲くってわかったから」