とある土曜日の朝だった。

 正確には、もうお昼に近い十一時過ぎだった。休みになると、季帆さんはいつも平日の分までたっぷりと寝溜めをする。ただ、お昼前には必ず起きてくる。起きたとき世界が午後になっていると一日が勿体なく感じるから、だそうだ。

 いつも通り朝起きて掃除と洗濯とブランチの準備を整えた私は、いつも通りお昼前に起きてきた季帆さんをキッチンで出迎えた。

 何もかもが平常運転の土曜日のお昼前にに、季帆さんが言った。

「舞夕ちゃん、今日はお参りに行こうか」

 その言葉で思い出した。今日はいつも通りの土曜日ではなかった。

 今日は、お盆の土曜日たった。



 お昼ご飯を食べた後、二人揃って家を出た。

 私は制服を着て。季帆さんは黒を基調としたワンピを着て。

「これ、フォーマルな喪服じゃないよ。でもそれらしく見えるでしょ?」

 と、季帆さんはくるりと回ってみせた。

 可愛い。女子大生かな?

 今日がお盆でない、ただの土曜日だったらそんな軽口も言えたのに。

 午後二時の世界は真っ白な陽射しに塗り込められていて、黒づくめの季帆さんは街から少し浮いていた。

 吉祥寺駅から中央線の各駅停車に乗る。車内は閑散としていて、冷房がよく効いていた。

 電車に乗っているのは二分ほど。隣の終点、三鷹駅で下車する。駅から少し歩いたお寺に、お父さんとお祖父ちゃんお祖母ちゃんが眠っている。

 お祖父ちゃんは私が生まれたときには既に他界していた。仕事中の事故だったと聞いている。お祖母ちゃんご亡くなったのは、私が小学校上がる直前のことだった。くしゃっと皺を寄せた笑顔を薄っすら覚えている。

 駅の南口から続く商店街を歩く。昔はよくお父さんと歩いた道だ。

「舞夕ちゃん、学校楽しい?」

 隣を行く季帆さんが訊いてくる。

「どうしたの、いきなり? か、」

 続く言葉を慌てて呑み込む。会話に困ったお父さんみたいなこと訊いて。その冗談は洒落にならない。

「ほら、舞夕ちゃん夏休みなのに毎日学校行ってるから。図書委員の仕事があるっていっても、楽しくなかったらそんなに行かないかなって」

 補習のことは、未だ季帆さんに言えていない。私は図書委員の仕事で毎日登校している、ということになっている。最初は登板だと説明していたけれど、流石に毎日では不自然なので、今は『図書委員の仕事』とぼやかしている。

 ただでさえ季帆さんは忙しい。仕事もそうだし、私のために役所や弁護士の人とやり取りもしているみたいだし。これ以上心配はかけたくない。

 正直なところ、季帆さんが嘘に気づいていないのかは分からない。少なくとも引っかかりは覚えているのでは。そう思うこともある。だって、いくら何でもおかしいでしょう。夏休み中、毎日学校行くなんて。

「……うん。利用者が少ない休み中に書架の整理するって司書の先生が張り切ってて、大変は大変なんだけど、友だちもいるから楽しいよ。休みだと人いなくて普段と違う感じがして面白いし」

 よくもこれだけ自然な嘘が出てくると、自分の舌に感心する。

「そのお友だちって、あの子? ほら、いつも一緒に遊びに行ってる、安曇さん?」

 そういえば以前、安曇は同じ図書委員だと嘘をついたっけ。いろいろと危ういな。記憶力をよくしないと。季帆さんに話した設定を忘れないように。

 そこまで考えてふと気づいた。問題はもっと単純で、私が嘘をつかなければいいだけのことだと。

 希帆さんに気づかれないように自嘲する。嘘をつかなければいい。それができたらとっくにやっている。

「……そう、安曇。でも、いつも一緒じゃないよ。向こうには向こうの友だちいるし」

「あー。なんかいいね、そういうの」と、季帆さんは小さく笑った。

「え、いいことある?」

 クラスの中のグループにいいことなんて何もないと思う。私を見てこそこそお喋りしている陰湿な集団。それ以上の意味なんてない。

「んー。私にもね、別のグループなのにやたらと気が合う友だちがいたんだけど、何でか今でも付き合いあるのってそいつだけなんだよね。高校からずっとだから……十三年くらい? うわ、もうそんななるの! 嘘でしょ?」

 季帆さんは「えー」とか「やだなー」とか一人で盛り上がっている。

 そんな希帆さんをからかっていいのか、分からなかった。

 だから、「それだけ長く続くって、すごく仲良いんだね」とお茶を濁しておいた。



 目的地のお寺が近づいてきた頃、季帆さんが再び口を開いた。

「図書委員に、仲のいい男の子っているの?」

 変な声が出そうになるのを、咳払いでごまかす。

「季帆さん、前にも同じこと訊いたよ?」

「えー、そうだっけ?」

「そうだよ。いないって、そんなの」

「いないの? 委員とか部活とか一緒にやってたら仲良くなったり意識したりするとかよくあると思うんだけどなー」

「季帆さんはあったの?」

「え、私?」

 と、季帆さんは振り返って私を見た。

「……んー、内緒!」

 それから口許で指を立て、悪戯っぽく笑ってみせた。

 お寺の参道に入ると、両側から蝉の大合唱に包まれた。

 道の向こうから、黒尽くめの三人が歩いてくる。黒いスーツの老紳士と黒い和服の老婦人、そして小さな女の子。ピアノの発表会で着るような、濃紺のブレザーを着ている。街中では浮いて見えた季帆さんの黒いワンピも、ここでは当たり前すぎるくらいに溶け込んでいる。このお寺には太宰治や森鴎外のお墓があるので、観光客というか文学ファンの姿をよく見かける。だけどすれ違った三人が纏っていたのは、そんな浮かれた空気ではなく、地に足着いた重いものだった。

 互いに道を譲り、軽く会釈を交わす。小さな女の子は、一人立ち止まってぺこりとお辞儀をした。

 あの人たちは誰を失ったのだろう。

 そして、その綻びをどう繕っているのだろう。