望月穂波side


 保健室を出ると、教室に向かわず近くの女子トイレへ向かった。


 洗面台の鏡に自分の姿を映し出す。

『前見た時から思ってたの。いつもより疲れた顔してるって。なにかあったの?』

 志望もこはねも何も言ってこなかったのに、紗希には気づかれていたなんて。


 本当は昨日から一睡もしていない。


 目の下のクマはファンデーションとコンシーラーで隠しきれていると思ったのに。


 昨日家に帰ると、あたしは予想通り松田から暴力を受けた。


 母は怯えて別室に逃げ込み、あたしを助けてはくれなかった。


 暴力は松田が酔いつぶれて眠るまで続いた。


 ずっと正座させられていたせいで、足がヒリヒリと痺れていた。


 ようやく解放されたあたしはリビングの冷たいフローリングの上に仰向けになり天井を見上げた。


 黄色く変色した天井のところどころにあるシミで目を追っていると、隣の部屋から顔を出した母があたしを罵った。

『リリカのバカ!まっくんのこと怒らせたせいでお母さんまで叩かれたじゃない!!もう最悪よ!!部屋も滅茶苦茶!片付けておいてよね!!』

 母はあたしを非難すると、ぴしゃりと扉を閉めた。

『だったら別れればいいじゃんか』

 体中が痛む中、あたしは重たい体を持ち上げて床に転がる缶ビールを拾い集めた。


 朝、散らかった部屋を見てまた松田に理不尽に怒鳴り散らされるのが嫌だったからだ。

「痛っ……」

 スカートからワイシャツの袖をひっぱりだし、左胸の下を見る。


 昨日松田逃げられた肋骨あたりが野球ボールほどの大きさで青紫色に変色している。


 踏みつけられた背中も同じようになっているだろう。


 腕だってそうだ。しばらく半袖のワイシャツを着ることはできないだろう。


 いたるところに松田からの暴力の跡が残っているから。


 授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。


 制服を整えてからトイレを出る。すると、タイミングよく担任の先生と出くわした。

「天馬さんの話、聞いたわ。保健室へ連れて行ってくれて、ありがとう。様子はどうだった?」
「今は大丈夫みたいですよ〜!少し休めば良くなると思います」
「そう。それならよかった」

 先生はほっとした表情を浮かべたあと、改まった様子で言った。

「ごめんね。昨日も話したと思うんだけど……」
「授業料のことですよね?あと積立金」
「そうなのよ。お母さんと話してくれた?」
「まだ……話してません」
「そう……」

 引き落としが出来ないと担任から母に連絡があった。口座にお金を入れておくと約束しておいたのに母はその約束をいとも簡単に破った。


 事務所から手紙がうちに届いたこともある。でも、母は払う気などさらさらない様子だった。


 昨日も担任に呼び出されてその話をされ、母に話すようにと言い付けされていた。

「すみません。もう少しだけ待ってもらっていいですか?」
「望月さんが謝ることじゃないわ。わかった。事務局とそうだんしてみる」
「ありがとうございます」

 お礼を言って歩きだす。


 先生、ごめんね。母はきっとあたしの学費を払う気はない。


 高校に進学すると話した時も、母はあたしに言った。


『中学を卒業したら働いたらいいじゃない。高校に行くだけが全てじゃないのよ』と。


 中学を卒業したら当たり前のように高校に進学するとおもっていたあたしは愕然とした。


 結局、母は私の滑り止めを受けさせてくれなかった。


 それどころか、最後の最後まで進学に反対の姿勢を貫いた。

『高校に入ったらお金が必要じゃない』

 母の言い分はそれだった。


 だから塾にも通わず独学で勉強し、入試は公立の青光高校1本でしぼった。


 というより、絞らされたのだ。

『青光高校になら自転車で通えて定期も買わなくていいから行ってもいいけど』

 母はトップクラスの進学校である青光高校にあたしが受かるはずないと踏んでいたのだろう。


 あとがなかった。落ちたら就職する以外に道がなかったのだ。


 何もかも、全ての力をあたしはその試験に向けた。


 前の日に全ての準備をした。筆記用具だって全てチェックした。


 そして、あの入試の日ペンケースを開けて絶句したのだ。


 入れたはずの消しゴムか入っていなかったから。


 母の仕業だとわかった。母はどうしてそこまであたしの足を引っ張るんだろう。


 たしかに高校に入学すればお金がかかるだろう。


 だけど、そこまでしなくても。16歳になったらバイトもするって話もしたのに。
 それなのにどうして──。


 あの時、涙が零れそうになって顔を持ち上げると、トンっと机の上に消しゴムを置かれた。


 隣の席の女の子が消しゴムを貸してくれたのだ。

『良かったらこれ使ってください』

 あたしのことなんて知らないはずの彼女の優しさに胸が暖かくなって酷く動揺していた気持ちが落ち着いた。

『ありがとう……』

 彼女は前を向いたまま頷いた。


 あの時、紗希があたしに消しゴムを差し出してくれなかったら今のあたしはここにはいないだろう。


 高校に入学することも叶わないだろう。


 彼女はあたしの恩人だ。


 だから、今度はあたしがあの時の恩を返す番だ。