望月穂波side


「よかった。紗希元気そうで」

 紗希の家を出て呟く。


 先はかくてたけど、志歩とこはねに何か余計なことを言われたのは間違いないだろう。


 これからはあの二人にもっと気を配る必要がある。


 紗希を傷つけたくない。だって、彼女はあたしの恩人だから──。


 そのとき、ポケットの中のスマホがブーッブーッと音を立てて震えた。


 画面には母と表示されている。松田の誕生日だから早く帰ってこいという催促の電話に違いない。


 あたしははぁとため息を着いてから画面をタップしてスマホを耳に当てた。

「もしもし?」
『おい、お前どこにいる?』

 低くドスの効いたその声に思わず息を飲む。


 電話口の相手は母ではなく松田だった。

「バイト先から帰るところですけど」
『今までバイトしてたのか?』
「そうです」

 何故か疑い口調でたずねる松田に苛立つ。


 そこまでして自分の誕生日を祝って欲しいだなんて子供のようだ。

『お前、嘘ついたな』
「え……」
『さっき、お前のバイト先のコンビニに酒買いに行ったんだよ。そしたらお前いなかったぞ?』
「……いましたよ、バックヤードに。飲み物の補充してたんだけど」

 松田がコンビニに……?とっさに嘘をつくと、松田はフンっと鼻で笑った。

『いねぇーだろーが!!お前は帰ったって店のババァが言ってたぞ!?』

 唇を噛む。


 松田の言うババァに心当たりがある。同じ時間帯に入るあたしを毛嫌いしていれパートのおばさんだろう。


 あのおばさんが松田にあたしが帰ったと話したに違いない。


 なんで余計なことを……?

「ちょっと用があったので、今から帰ります」

 たんたんと答える。

『お前、俺に嘘ついてタダで済むと思うなよ!?なぁ!?』
「今から帰りますから」
『おい、お前の教育がなってないから娘が嘘つくようになるんだろうが!!』

 松田の怒鳴り声のあと、電話口からものすごい音がした。


 なにか硬い何かが割れるような音。母のひめい。松田が母を恫喝する声。

「や、やめて──!!」
『うるさい!!誰のせいでこうなったと思ってる!?お前が嘘をつくからだろう!!違うか!?』
『まっくん、やめて……!!いたいよぉ!!』

 母の泣き叫ぶ声が電話口から漏れ聞こえてくる。

「ごめんなさい!!」

 あたしは叫んだ。


 母に暴力を奮っているであろう松田を止めるためには謝ること以外あたしにできることは何も無かった。

「ごめんなさい……」
『あぁ!?聞こえねぇーぞぉぉ!!』

 酒が相当回っているのかもしれない。呂律の回らない松田の口調にうんざりする。

「ごめんなさい……」
『なんで俺が怒ってんのかわかってんのか!?』
「あたしが……嘘を着いたからです」
『そうだろ!?お前が嘘をついたからお前の母ちゃんが俺に怒られてるんだよ。可哀想になぁ、母ちゃん、泣いてるぞ?お前のせいでなぁ』

 どうしてあたしが謝らないといけないの。


 たしかにバイトをしていると嘘をついたのはあたしだ。


 だけど、母をなぐったのはあんたじゃない。


 怒鳴りつけたのも、ものを壊したのも、全部あんたがやった事じゃない。


 それなのに、どうしてあたしが謝るの?

「ごめんなさい……」

 肩が震える。ダメだ、泣かない。あたしは絶対泣かない。


 何度も繰り返し謝る。


 松田の気が済むまで、許して貰えるまで何回も謝罪の言葉を繰り返す。

《ごめんなさい》

 たった6文字の言葉を呪文のように何度も唱える。

『穂波!!まっくんにちゃんと謝りなさい!!』

 電話口から母の悲痛な叫び声に体中の熱が奪われていく気がした。


 母は嫌なのだ。自分が松田に殴られるのが。


 だからあたしに謝れと強要する。母はいつだって松田の味方……いや、強い人の味方だから。

「……ごめんなさい……」

 もう一度つぶやく。


 どうして自分が誤っているのかももう分からない。


 ただ感情もなくその言葉を繰り返すのみ。


 ─誰か助けて。



 心の中で叫ぶ。


 そんなことをしたって無駄なのに。それなのに時々思うんだ。


 誰かがあたしの手を引っ張ってこの地獄のような日々から連れ出してくれないかなって。


 ずっとじゃなくていい。ほんのちょっとでいい。


すべてのことをとっぱらって幸せを感じたい。


 生きていいんだよって言われたい。


 この世界でちょっとは役立つ存在になって、誰かにとって必要な人になりたい。


 誰かに必要だと言われたい。


 誰かの特別になりたい。


 今まで誰の特別にもなれなかったくせに、そんなこと考えるなんてきっとおこがましい。


 あたしは生まれた時からきっと誰からも必要とされていない子だったに違いない。


 そして、これからもあたしは──。

『早く帰ってこい。いいな?』

 その言葉を最後に電話は切られた。


 家に帰ったらあたしは松田にどんな罰を受けるのだろうか。


 空を見上げると、夜空に月が輝いていた。


 月になりたいと思った。満ち足り、欠けたり、色々な表情を見せる月。


 辛くても幸せを逃したくないあたしはいつも同じ表情でいなくてはならない。


 太陽みたいにずっとニコニコしているのは窮屈だ。


 紗希になりたいと思った。


 素敵な両親、心優しい隣人の高橋さん、綺麗な家、暖かい家庭。


 あたしが欲しい全てを彼女は持っている。


 でも、きっと彼女はあたしには分からない心の傷を抱えて生きている。


 背後に人の気配を感じて振り返る。


 でも、そこには誰の姿もなかった。


 紗希が追いかけて来てくれたのかと思った。


 彼女なら……そんな風に思ってしまった。


 あの時、ピンチだったあたしを救ってくれたように。また彼女が──。


 そんな都合のいいこと、起こるはずがないのに。

「バカだ、あたし」

 独り言を呟くとあたしは全ての運命を受け入れ、重たい足を引きずるようにして家をめざして歩き始めた。