愛は手から零れ落ちる


あの事故から1年が過ぎた。
もうすく私の誕生日、29歳になる。
そんなに歳のことは気にしていないつもりだったが、あと1年で30歳になると思うと少し考えさせられた。


4月のある日、ツイードのスリーピースを着て、風呂敷包みを持った初老の老人が店に来た。
私はどこかで見たことのある人だなと必死に考えた。

マスターが声をかけた。

「いらっしゃいませ。お一人ですか? 」

「一人です。」

「カウンターにどうぞ。」

老人はカウンターに座り、風呂敷包みをとなりの席に置いた。

「ご来店ありがとうございます。何になさいますか? 」

「ラムは何があるかな? 」

「バカルディ/オールドラム、ハバナクラブ3年物、キャプテンモルガン/スパイスドラムがございます。」

「おっ、キャプテンモルガン/スパイスドラムがあるのか。これは高いものではないが香りがいい。それをロックでお願いします。」

「はい。わかりました。私もこのラムが好きです。少々お待ちください。」

マスターは、氷を丸く削り、そこにラムを注いだ。


老人は、楽しそうにそのラムを嗜んだ。
私はつまみのナッツとビターチョコを乗せた器を老人に差し出した。

「ラムのお供にどうぞ。」

老人は私の顔をじっと見た。

「あの・・・君は・・・もしかして嶋村さん? 」

「えっ? あっ、友田会計事務所の友田様。御無沙汰しております。」

「君が市役所辞めたって聞いて驚いたよ。君みたいにしっかりした若い人はめずらしかったからね。それに君、公認会計士の資格取ったよね。なんでこんなところで働いているの? あっ、失敬。こんなところとは失礼だった。しかし見違えた、驚いたよ。綺麗になって、別人だ。もしやと思ったけど、声を聞いて確信した。」

「覚えていていただいてありがとうございます。ちょっといろいろありまして、市役所を辞めました。こちらのマスターには大変お世話になり、お手伝いさせていただいております。」

「そうですか。いゃーしかし驚いた。大変身だね。それにしても、市役所にいたときは声も小さくて、必要なことしか話さないおとなしい人だったのに、驚いたよ。ホント別人だ。」

「自分でもそう感じています。私、事故に遭いましてそれから少し自分が変わったのです。物事に対する基準や、行動力、判断力など、初めは自分でもわからなかったのですが、先日昔の日記を読んで、昔の私は今の私の考え方と違うことに気が付きました。なんだか、違う人生を歩んでいる気がしています。」

「そうですか。いろいろ経験されたのですね。ところで嶋村さん。突然ですが、私の事務所で働きませんか? 毎日とは言いません。折角公認会計士の資格をお持ちなんだ。活かしてみませんか。ちょうど人を探しているので、考えてもらえないですか。」

「突然のお話で・・・少し考えさせてください。」

友田さんは私に名刺をくれ、

「一度事務所に遊びにいらっしゃい。」

そう言ってくれた。


その夜、櫻井君から電話がきた。

「はい。お疲れ様です。どうかされました? 」

「今日の話どうするの? 」

「今日の話って? 」

「会計事務所で働くって件だよ。」

「聞いていたの? 」

「聞こえて来た。」

「わからない。なんか今更椅子に座ってじっと数字とにらめっこする仕事をしたくないというか・・・。」

「あんたさ。今はこの仕事でもいいけど、もう少ししてバァさんになってきたときのこと考えろよ。会計士の仕事やれよ。経験積めばいろいろ仕事広がるだろ? 」

「そんな先のこと考えられない。今楽しいからそれでいいじゃない。なんでいつもそうやって櫻井君は私のこと気にしてくれるの? 」

「なんかさ、もったいねーなって。毎日じゃなくていいって言ってたじゃないか。両方やれよ。あんた見てるとイライラするんだよ。考えろって言ってんの。あー、もー、じゃあな。」

櫻井君は一方的に電話を切った。


全く何なのよ・・・あいつは・・・


私は悩んだ。
でもまた櫻井君が答えを出してくれた。