そういう流れで、リナリアはシオンと清く正しいお付き合いをしている『ふり』をすることになった。

 シオンが言うには、「恋多き男のウワサをなくすには、付き合う女性を一人に絞れば良いと思うんだ。そうすれば、自然とウワサも消えるはず」とのこと。

「なるほど。それにシオンが恋人に親切にしている姿を皆に見せれば、乱暴や性格が悪いというウワサのイメージも薄れるかもしれません」
「そうだね」

 同意しながらも、シオンの紫色の瞳が不安そうに揺れている。

「でも、そうなると、私だけのリナリアが学園内で有名になってしまう」
「そうですねぇ」

 あの第二王子シオンの新恋人が、こんなモブ女だと分かれば学園中が驚くだろう。それに、シオンにおかしなウワサが流れていても、第二王子の婚約者の座を狙っている女生徒はたくさんいる。そんなシオンを独り占めするのだから、他の女生徒たちからのイジメや嫌がらせも覚悟しておいたほうが良い。

「殿下……じゃなくて、シオンの悪評が一つ消えるなら、私はなんでもします」

 リナリアの忠誠心が伝わったようで、シオンは「なんでも、うん、良い言葉だね」と満足そうだ。

「それに、シオンの恋人の役は私にしかできません」
「リナリア……。やっと私の気持ちに気がついて……もちろん、そうだよ」

 感極まっているシオンに、リナリアは微笑みかけた。

「やっぱりそうですよね! だって、私はシオンとは結婚できないので、ウワサが消えて別れるときに都合が良いですもんね。さすがシオン殿下、先のことまで考えていらっしゃる」

 満面の笑みでリナリアがシオンに拍手を送ると、シオンはあの凄みのある笑みを浮かべていた。

「リナリア……うん。そうだね、君はそういう人だよ」

 フッフッフッと怪しく笑いながら「やっぱり君にはお仕置きが必要だね」と言ったシオンの瞳は少しも笑っていない。

「え? どうしてですか?」

「それは……今、私を『シオン殿下』って呼んだから、かな?」

 なんだか、はぐらかされているような気がするが、確かにうっかり『シオン殿下』と言ってしまった。

「お仕置きは、なんですか?」

 優しいシオンの考えるお仕置きは、どんなものだろうかと少し興味が湧いた。正直に言うと、シオンの考えた罰ゲームはまったく罰ゲームになっていない。

(恋人のふりだなんて、私にしたらただのご褒美だもの)

 未だに手を恋人繋ぎしているシオンは、ニッコリと微笑んだ。

「じゃあ、リナリアが私を『殿下』と呼んだから、お仕置きとして私にキスしてもらおうかな」

(私ったら、殿下の魅力に脳がやられて、また都合の良い幻聴が聞こえているわ)

 そんな自分にあきれながらもリナリアは、シオンに「それはどういう意味ですか?」と冷静に聞き返した。

「そのままの意味だけど?」
「そのままって、じゃあ、私が間違えて『殿下』と呼んでしまったら、シオンにキスして良いことになりますけど?」

 自分で言っていて意味が分からない。

「そうだよ。はい、どうぞ」

 そう言ったシオンは好きにしてくれと言わんばかりに目を瞑る。

 紫水晶のような瞳が閉じられると、そこにはシオンの無防備な顔があった。

(なにこれ……? 控えめに言って神々がつくりだした芸術品だわ)

 そう思ってしまうほどシオンの顔は整っている。

(もしかして、殿下って『罰ゲーム』とか『お仕置き』の正しい意味が分かっていないのかしら?)

 生まれも育ちも高貴なシオンには、関わりのない言葉なのかもしれない。もしくは、いろんな女性と軽々しくキスすることが当たり前の人生なのだろうか。

 後者だと思うとかすかに胸が痛む。

 いつまでたっても目を開かないシオンを見る限り『キスして』発言は本気のようだ。

 リナリアは困った末に、恋人繋ぎをしているシオンの手を持ち上げ、その手の甲にほんの少しだけ唇を押し当てた。

(……すっごく恥ずかしい……)

 リナリアが赤面しながらうつむいていると、「うーん、これはキスする場所を指定しなかった私が悪いね」というシオンの呟きが聞こえてきた。

 うつむいたリナリアを覗き込んだシオンの顔には、悪戯っこのような笑みが浮かんでいる。

「仕方がないから、今日はこれで許してあげる。もう時間だね」

 気がつけば、お迎えの馬車が来る時間になってしまっている。シオンは先に立ち上がるとリナリアの手を優しく引いて立たせてくれた。

 サロンの入口まで一緒に歩いてからシオンは恋人繋ぎをようやく離した。シオンの温かさを感じられなくなった手のひらは、なんだか物足りない。

「失礼します」

 シオンに礼儀正しく頭を下げたあと、リナリアは扉から出た。扉の側にはゼダが姿勢よく佇んでいる。

(あ、そうだわ。シオンに明日の朝、本当に一緒に登校するのか聞かないと)

 リナリアが慌てて振り返ると、サロンの扉の隙間からシオンが見えた。シオンは先ほどまでリナリアと繋いでいた右手をジッと見つめている。そして、その右手がとても大切なものかのように胸に抱え込んだ。

(えっと、シオンは何をしているのかしら?)

 しばらくそうしていたかと思うとシオンは、うっとりとした表情を浮かべながら自身の右手の甲にゆっくりと顔を近づけていった。そこは、先ほどリナリアがキスした場所で――。

 急にリナリアの目の前で扉が閉まりシオンが見えなくなった。リナリアが驚いていると、ゼダが不自然な咳払いをしながら静かに扉を閉めていた。

「ゼダ様?」

 ゼダは、苦悩するような表情を浮かべながら「リナリア嬢は、シオン殿下のことをどうお思いですか?」と聞いてきた。

「シオン殿下は、とてもお優しく美しくて、私のような者にも丁寧に接してくださる素敵な方です」

 リナリアが淀みなくスラスラとシオンを褒めたたえると、ゼダの顔色はドンドンと悪くなっていく。

「リナリア嬢」
「はい」

「もし、もしですよ? 殿下がそのような方ではなかったらどうしますか?」
「どうって……?」

 ゼダは、ここではこれ以上、話したくないのか、サロンの扉に背を向けて歩き出した。馬車の待合室の付近まで、リナリアを送ってくれるようだ。

 リナリアが「ゼダ様、先ほどのお話ですが……」と声をかけると、ゼダは重いため息をついた。

「シオン殿下は、貴女がおっしゃるとおり、とても聡明でお優しい方です。私としても、お仕えできてとても光栄に思っています」
「はい、そうですよね!」

 ゼダがシオンの悪評を信じていないことが分かって、リナリアは嬉しくなった。しかし、ゼダの顔は青いままだ。

「しかしながら、リナリア嬢。例えばですよ、シオン殿下が一人の女性を執拗に付け回したり、その女性に執着しすぎてその方に関することになると道徳的な考えすらも吹き飛んでしまうような危ない一面があった場合、貴女はシオン殿下のことをどう思いますか?」
 
 ゼダがあまりに深刻な顔をしているので驚いて何も言えずにいると、ゼダは急にリナリアの背後に鋭い視線を向けた。

「リナリア嬢、お話の続きはまた今度!」

 そう小声で囁くとゼダは風のように走り去った。

(いったい何が?)

 リナリアが背後を振り返ると、遠目でも分かるくらいの輝く金髪を持った男子生徒が、こちらに歩いて来ているところだった。

 この学園内で、あんなに美しい金髪を持っているのは王子様たちだけだ。

 まっすぐリナリアに近づいてきた王子様は、シオンの学年がつける青色のネクタイをしていた。しかし、リナリアはすぐにその正体に気がついた。

(ローレル……)