ミントに焦がれるチョコレート 幼なじみは甘くない

 クーラーが壊れてから一週間、やっとクーラーが直って快適な部屋が戻って来た。図書館通いから解放された私は気分よく宿題を終えて、さて、買い物に行こうかなって着替えをしていると、お母さんが大声で私を呼ぶ。

「奈瑠、マシュマロの散歩に行ってあげてー!」
「えー! これから買い物に行こうかと思ってたのに」
「なに買うのよ、急ぎ?」
「急ぎじゃないけど……」

 お母さんにマシュマロのリードを渡される。うるうるとした瞳で見つめてくるマシュマロ……こうなったら行くしかない。

「よし、行こうか」

 私はマシュマロのリードを引いて駆け出した。マシュマロって体は小さいのに足が速い。
 
 さぁ、きちんと散歩してよ! って言わんばかりにきびきびと歩くマシュマロ。私はマシュマロに引っ張られないようにリードをしっかりと握って歩く。ふさふさの尻尾が嬉しそうに揺れている。

 公園をぐるっと回って、駅を越えて、川沿いの道を通っていく。このまままっすぐ進むと学校に着くんだよね……なんて思っていると、川沿いの道の向こうから、誰か歩いてくるのが見えた。

「あ……」

 マシュマロがワンって吠えて、走って行こうとするものだから、私は必死のリードを引っ張る。向こうから「おーい」って柔らかい声がした。

「奈瑠ちゃーん!」

 ここで気がつかなかったことにして逃げるわけにもいかなくて、私はぎこちなく手を振ってそのまま歩いてく。

「わんちゃんのお散歩? 可愛いねぇ、ふわふわ」

 睦美先輩がマシュマロを撫でる。マシュマロはすっかりメロメロだ。その隣に、ぶすっとした顔のりんちゃんが突っ立っている。デート……だよね? 邪魔すんなって思ってる? 私だって邪魔なんかしたくないよ。

「凛太郎にね、買い物に付き合ってもらってたんだよ」
「重い物持たせやがって……こういうことは広樹に頼めよ」
「えーいいじゃない」

 凛太郎――って呼んだ。恋人みたい。当たり前だよ、恋人じゃん。私はマシュマロのリードを引っ張った。

「散歩コース長くって、失礼します。お買い物、お疲れ様です」

 私は逃げるように走った。何言ってるんだろう。「お買い物お疲れ様」なんて……バカみたい。ただの買い物じゃないよ、デートだよ……。

「またねー!」

 大きく手を振ってくれる睦美先輩をちょっと振り返って、私はぺこりと頭を下げた。息が苦しいのは、走ったせい。運動不足だ。だって、手芸部は走ったりしないもの。

 無我夢中で走っていると、急に世界が反転した。体に大きな衝撃が走る。少し遅れて痛みが襲ってきた。膝が痛い。

「マシュマロ、大丈夫!?」

 マシュマロのリードに足を引っ掻けて転んだみたいだ。マシュマロ自身は何事もなかったかのようにこちらを見つめてくる。大きな瞳が「大丈夫」って聞いてくれる。

「痛いけど、大丈夫、あぁ、ごめんねマシュマロ……」

 急に涙が込み上げてくる。なんとか立ち上がろうとしたのだけれど、情けないことに足に力が入らない。

「ちょっとだけ休んで行っていい? ちょっと立てなくなっちゃって」

 マシュマロに話しかけていると、突然大きな影ができた。顔を上げると、呆れ顔のりんちゃんが立っている。

「どんだけ鈍くさいんだよ」

 睦美先輩の姿はない。もしかしてりんちゃん、私が転んだのを見てきてくれたの……かな? まさか。帰る方向がたまたま一緒だったからだよね。転んだところを見られたのならすごく恥ずかしい。

「ほら、帰るんだろ。俺がマシュマロのリード持ってやるから」

 りんちゃんがリードを持つと、マシュマロは嬉しそうにしっぽを振る。マシュマロ、りんちゃんのことが好きなんだよね。動物って優しい人が好きなんじゃないの? りんちゃんは優しくなんかないよ。マシュマロ、変わってるよ。

「ありがとう。でも睦美先輩は……」
「あぁ、帰った。そもそも用事が済んで帰るところだし」

 そっか。睦美先輩帰っちゃったのか……まだ一緒に居たかったんじゃないかな。良かったのかな――。

「行くぞ」

 りんちゃんが歩き出すから、私はゆっくりと立ち上がる。歩いてみると、左足にちょっと痛みが走った。ひねったみたい。本当に鈍くさいな。

「足、痛いのか?」

 私が少しだけ引きずるように歩いていたからだろう。りんちゃんが立ちどまって聞いてくる。

「うん、ちょっとだけ。でも歩けるから大丈夫」

 りんちゃんは不機嫌そうな顔をしてしゃがむ。それから私の左足首を触った。

「いっ」

 痛い。超痛い!

「捻挫してるじゃねぇか。本当に鈍くさいな……ほら」

 りんちゃんはしゃがんだまま私に背を向けた。どういうこと?

「なに呆けてんだよ。背負ってやるから乗れ」
「い、い、嫌だよ。恥ずかしいし、私、重いからりんちゃんつぶれるかも」
「いや、そんな柔じゃねぇし。そのまま歩いて悪化したらいけないだろ。おまえ、重たいんだから」
「荷物もあるのに……」
「半分梶原に渡してきたから重くねぇし」

 りんちゃんが珍しく優しい。私は根負けして背負われることにした。
 大きな背中──薄いTシャツを通して、りんちゃんの熱が伝わってくる。中学生になって、りんちゃんはぐんと大きくなった。なんだか、知らない男の人みたい。
 
 優しくしないでほしい。りんちゃんが優しいと、私はなんだか悲しくなる。この優しさは、睦美先輩のものだってわかってるから──。

「ごめんね」

 大きな背中に謝る。デートの最後を台無しにしてごめん。

「なに謝ってんだよ。気味が悪いな」
「優しいりんちゃんも気味が悪いよ」
「おまえな……」

 りんちゃんにリードを持ってもらって、マシュマロは上機嫌だった。でも、私は子供みたいで恥ずかしい。道行く人の視線が気になってりんちゃんの背中に顔を埋める。りんちゃんの匂いがした。制汗剤の匂いかな……爽やかなミントの匂い。

 この距離感懐かしいかも。小さな子供の時みたい。気がついたら、ちょっとずつ距離が広がっていた気がするよ。自転車をこぐ速度が違うみたいに、どんどん距離が開いていく。そのうち、見えなくなってしまう。ずっと、隣にいたはずなのに――。こんなに近くにいるのに、りんちゃんの背中が遠くて仕方がない。

 結局、りんちゃんは私を家まで背負ってくれた。扉の前で下ろしてくれる。

「ちゃんと冷やしておけよ」
「ありがとう、本当にごめん……」

 マシュマロが名残惜しそうにしっぽを振っている。りんちゃんはそのふわふわな頭を撫でてから家の中に入っていく。左足以上に、心が痛かった。