吹き抜ける風がさわさわと頬を撫でる。夏が少しだけ名残惜しそうに足跡を残しているから、まだまだ風は暖かい。早咲きのコスモスがゆらゆらと揺れる川沿いの道を自転車で走ると、風を含んだ半袖のシャツがふわりと膨らむ。
二学期が始まって一週間。すっかり通いなれた道は、流れるように景色が過ぎていく。その心地よさに、思わず好きなポップスを口ずさんでいたことに気がついて止める。近くに人はいないみたい。よかった。
信号で止まると、空を見上げた。夏の終わりの空は高い。魚の鱗のようにうっすらと空に伸びた雲を見ているとドンッと背中に衝撃が走る。誰かが私の背中を叩いたのだ、こんなことをするのはこの世で一人しかいない。
「おい、青になったぞ」
私の横を自転車で颯爽と走り去って行くのは、同じマンションの隣の部屋に住んでいる幼馴染みの、りんちゃんだ。私の方がずっと早く家を出るのに、必ずここでりんちゃんに追い抜かれる。りんちゃんこと九条凛太郎は一個上の中学二年生。子供のころは二人で一緒にいるとよく兄妹みたいだっていわれたけど、兄妹っていうのもしっくりこない。一個上だけど、りんちゃんは年上っぽくないし、同い年の友達みたい。
ううん、友達とも違うかも。りんちゃんは、りんちゃん。他に例えようがない。ついでに同じ学校だけど、一緒に通学したことは一度もない。
「もう、待ってよりんちゃん」
なんて遠ざかっていく背中に小さく呼びかけても、りんちゃんは少しも待ってはくれない。まるで私の声が聞こえていないかのように、ズボンにしまい込んでいないシャツの裾を風にひらひらとなびかせながら、どんどんスピードを上げていく。
今年の春、県立旭ヶ丘中学校の一年生に進学したばかりだというのに、もう秋が来た。同じ小学校から上がってきた子がクラスの三分の一くらい。仲良しの光も里桜ちゃんも一緒だから、あんまり緊張することもなく、楽しい中学校生活を送ることが出来ていると思う。小学校の時と違うのは、ひらひらと風になびく臙脂色のネクタイと紺色の制服。それから――。
「おはようございます」
「……おはようございます」
正門をくぐるとき横から掛けられる声に、私は思わず俯きながら、小さな声で挨拶を返す。二学期が始まってから一週間は生徒会による挨拶運動期間だ。私は駐輪場に向かう途中で背後を振り返った。ピンと背筋を伸ばした生徒会員の姿が目に入る。頬が、ほんの少しだけ熱くなるような気がした。
このドキドキする気持ち。
「奈瑠おはよー。今日も先輩たちは麗しいですな」
靴箱で上履きに履き替えていると、隣から声をかけられた。同じ小学校から来た仲良しの光だ。
「本当、三次先輩めっちゃ爽やか。ほんと超素敵~!」
「奈瑠は相変わらず三次先輩推しだねぇ。大好きだもんねぇ」
光の言葉に、頬が熱くなる。私はぶんぶんと首を横に振った。
「違う違う、好きとかじゃないから。素敵だなって思うだけ」
「はいはい」
ミーハーな私は、入学式の日、校内で迷子になっているときに助けてくれた三次先輩にすっかり心を奪われてしまった。以来、先輩のことが気になってしかたがない。
光と一緒に一年A組の教室に入る。夏休みの空気がまだまだ残っていて、クラスの中はがやがやと騒がしい。私が席に荷物を置くと、斜め前の席に座っている里桜ちゃんが読んでいた本を閉じて集まってきた。里桜ちゃんの二つに結んだ長い髪がふわりと揺れる。
「おはよ」
「おはよう里桜ちゃん、頼まれてたブックマーカー出来たよ~」
「マジ!」
私は昨夜完成させた蝶々が揺れるブックマーカーを鞄から取り出した。蝶々の型に、里桜ちゃんの好きな紫色の色を付けたレジンを流し込んで固めたレジン細工に雫型のチェコガラスも付けて、我ながらいい出来だと思う。太陽の光に透かすと、散りばめたラメがきらきらと輝いていっそう綺麗だ。
「うっわ、めっちゃ可愛いじゃん! ありがとう奈瑠~」
この瞬間がすごく嬉しいなと思う。私が作った小物を喜んでくれるなんて最高に嬉しい。こまごました作業が好きで作っていたけれど、最近はそれを贈り物にする味をしめた。喜んでもらえると、私も嬉しくなる。
「奈瑠は器用だよねぇ、センスもいいし」
「なに言ってるの、里桜ちゃんの方が器用じゃん。私にはぬいぐるみなんて高度なものが縫える気がしないよ」
私と里桜ちゃんは手芸部に所属している。里桜ちゃんは小さなぬいぐるみに作りにはまっていて、色々手縫いで作っている。私も小さなうさぎのぬいぐるみを作ってもらった。ミントグリーンの可愛いうさぎ。私の部屋の机の上に、ちょこんと座っている。宝物!
「時間かかるんだよねぇ。根気のいる作業というか」
「ぬいぐるみは時間かかっちゃうよねぇ。里桜ちゃんは縫い目も丁寧だし。もらったうさぎちゃんも大のお気に入りなんだけど」
「本当! あれ力作だから! 今度は茶色のうさぎでも作ってあげちゃおうかな。並べたら奈瑠の大好きなチョコミントカラーになるじゃん」
「ありがとう! めっちゃ嬉しい~家宝にする!」
二人で盛り上がっていると、光もやってくる。私のプレゼントしたブックマーカーを見て目を細めた。
「可愛いじゃん! でも私はいいや。ろくに本読まないからなぁ」
「光にはミサンガでも作ってあげたいな。次の大会も勝てますようにって」
「あーそれ嬉しいね! ミサンガなら私って感じ!」
ガラガラと教室の扉が開いて、担任の秋月先生が入ってきた。「おーい、ホームルーム始めるぞ、席に着け~」って、のんびりとした口調で呼びかけて、ホームルームを始める。
二学期も穏やかに過ごせそうだな。そんな予感がしていたのに──。
放課後になると一転、私に向かって台風みたいな強い風が吹いてきた。
教室の窓側にちょっとした人だかりができているなと思ったら、窓側の席の子が私を振り返る。
「山本さん、三次先輩が呼んでるよ」
私は頭に「?」マークを出してから、「ひぃ」って小さく悲鳴を上げた。それから近くの席に座っている里桜ちゃんを見る。
「私! ど、どうしよう」
「とにかく行っておいでよ」
「でも、私に何の用かな? 人違い?」
「憧れの三次先輩と話せるチャンスじゃん! しかも向こうから呼びに来るなんてすごいよ」
私は小さくうなずいて、廊下に出た。
「はじめまして山本さん」
「は、は、はじめまして……」
本当ははじめましてじゃありませんって思うけど、四月のことなんて先輩は覚えていないのだろう。
そんなことはどうでもいい。目の前に間違いなく三次先輩が立っている。先輩は私を見て優しげなタレ目の瞳を細めた。どうやら人違いではないみたい。
「あの、私になにか……」
恐る恐るそう尋ねると、先輩はにっこりと微笑んだまま、とんでもないことを言いだした。
「山本さんを来年度の生徒会にスカウトしようと思って」
「え!」
思わず素っ頓狂な声がでる。怒られる以上に想像を遥かに超えたことだった。私が生徒会なんてとんでもない。そんなことになったら、きっと空が落っこちてきてしまう。
「あの……山本違いでは……?」
「君は山本奈瑠さんで間違いないだろう?」
先輩に名前を呼ばれて、小さく心臓が跳ねる。なんて、優しい声だろう。自分の名前が、急にキラキラと輝いているように思えた。私は「はい」と小さくうなずいてから、俯いた。
「じゃぁ間違ってないよ。山本さん、君に生徒会役員になって欲しいんだ」
「ど、ど、どうして、私なんですか?」
「もちろん、君を推挙する人がいたから。僕も前々から君のことを知っていたし、君と一緒に生徒会を運営したいと思ったんだよ」
「先輩が、私をですか……? 全然目立たないのに」
自分で言うのもなんだけど、私は全然目立つ生徒ではない。目立つどころか、避難訓練で先生に名前を呼ばれるのを忘れられちゃうくらい影が薄い。
委員会にも所属していないし、クラスの代表でもないし、手芸部はそもそも目立たない部活だし。成績は中の下だし、当然可愛い容姿でもなければ奇抜な格好もしていない。
とにかく、目立つ要素は一つもない。
「考えておいて。来週にでも答えを聞きに来るよ。ちなみに僕は執行委員長に立候補するつもりでいるから」
「よろしくね」と、とんでもなく爽やかな笑顔を残して、三次先輩は一年A組を離れていく。残された私は状況が飲み込めずにぽかんとしていた。ぼうっと突っ立っていると、背中にドンっと鈍い衝撃が走る。
「すごいじゃん!」
近くで話を聞いていた光が私の背中を叩いた。はっと意識が戻ってくると、急に恐怖が襲い掛かってくる。
「光、ど、ど、ど、どうしよう……」
「なによ、そんなに青い顔して。やってみたらいいじゃん」
「生徒会なんて無理無理、絶対に無理! できるわけないよ……クラス委員だって絶対に無理なのに……!」
生徒会役員として人前に立つ自分の姿を想像して、私は眩暈がした。超が付くほどあがり症なのだ。先輩に話しかけられたという喜びよりも、自分の頭の上に隕石が降ってきたような衝撃の方が大きい。頭が割れそう……。
「無理だよ……断らなきゃ」
今にも消えそうな声でつぶやいてから、鞄に荷物を突っ込み、里桜ちゃんと光の後ろについてとぼとぼと靴箱のある下の階に降りた。三次先輩の優しい笑顔が浮かんで悲しい気持ちになった。私が断ったら、先輩は困ったような顔をするかな。少しだけ先っぽの傷んだローファーに履き替えていると、里桜ちゃんが「そうだ」と思い出したかのように声を出す。
「ねぇ、これって三次先輩と仲良くなるチャンスだよ! 端から無理だって思わないで少し考えてみたら。なんなら九条先輩に相談してみたらいいんじゃない? 九条先輩も生徒会役員でしょう? 三次先輩ともめっちゃ仲良さそうだ」
いわれてそういえば、と私も思い出した。素行の悪そうなりんちゃんは驚くべきことに生徒会役員だった。朝も挨拶に参加していたのだろうけど、三次先輩に気をとられていて全然気がつかなかったな……(いや、そもそもいなかったかもしれない)
「りんちゃんに相談しても適当にあしらわれそう」
「まぁ、私らより頼りになるよ」
「そうかなぁ……私には光ちゃんと里桜ちゃんの方が頼もしいよ」
バスで帰る二人と別れて、私は一人自転車のペダルをこぐ。夕方の風は少し肌寒い。もうすぐ、秋になるんだって気がした。秋なんかすぐすぎて冬がくる。寒いの苦手だけど、可愛いマフラーとかつけても許される気がするから冬は嫌いじゃない。春が来たら二年生……一年、なんか早いなぁって、まだ二学期始まったばっかだけど。
家に帰ると、足にまとわりついてくる愛犬のマシュマロを撫でてから二階に上がる。ポメラニアンのマシュマロは、本物のマシュマロみたいにふわっふわ!
自分の部屋に入るとベランダに出た。隣のベランダとの仕切りの上側が壊れていて、ちょっと押すと、扉みたいに開いてお隣さんが見えてしまうのだ。ひょいと顔を出して隣を覗くと、りんちゃんはまだ帰っていなかった。私は顔を引っ込め、二段ベッドの上の段に転がる。
どうして私なんかに三次先輩が声をかけて来たのか、全く理解ができなかった。生徒会役員に向いていそうな子はもっと他にいる。まだ一年とはいえ、二学期にもなると、どのクラスにも一人や二人は学年の中心人物として頭角を現している子がいる。成績が良かったり、華やかで、明るくて、人気があったりて……私には到底当てはまらない素敵な長所の子たちがいっぱいだ。その子たちにみんな断られたのだろうか。それで私に回ってきたと考えるなら納得がいかないこともないけれど。私に話が来る前に光や里桜ちゃんに声がかかりそうだ。
そもそも、どうして三次先輩は目立たない私のことなんか知っていたのだろう。四月に助けてくれたことを覚えている雰囲気はなかった。謎だらけで答えは全然でてこない。
スマホの画面をじっと見つめる。去年まではこの部屋にお姉ちゃんが居てくれたからいろいろ相談できたのに。今は東京の大学に行ってしまってなかなか相談できない。電話かけちゃおっかなって思うけど、彼氏とデート中だったりしたら悪いしぁなんて思うとなかなか連絡が取れない。
何もしないままゴロゴロしているうちに、隣から物音がした。りんちゃんが帰ってきたのだ。私は飛び起きてベランダに出る。仕切りの間からひょっこりと顔を出して、りんちゃんを呼ぶ。仕方ない、ここはりんちゃんに頼ってみることにしよう。わらよりも頼りないけど。
「りーんちゃん」
りんちゃんは気が付かない。「りんちゃん、りんちゃーん」って何度か呼ぶとようやく私に気が付いて、呆れ顔でベランダに出てくる。外はすっかり暗くなっていて、辺りは街灯でぼんやりと照らされていた。
「なんだよ」
不機嫌そうな声が返ってくる。
「ねぇりんちゃん。今日の放課後、三次先輩が来て生徒会執行部に誘われちゃったんだよ。どうしよう!」
「へー」
「へーじゃないよ。悩んでるんだよ。もっと興味持ってよ」
りんちゃんは私の悩みなど全く意に介した様子がない。予想通りの答えに私は思わずため息を漏らす。
「俺が興味持ったって仕方ないだろ」
「だってりんちゃん生徒会執行部でしょう?」
「そう。そもそも何悩んでんだよ、嫌なら断れよ」
「それはそうなんだけど……」
私、「無理だ」って思ってるけど、「やりたくない」とは思ってないんだよね。
だから、だめな理由を探してるんだ。
「私に務まると思う?」
尋ねると、りんちゃんは少しだけ真剣な顔をして私の方を向いた。中学生になってから急に背が伸びたりんちゃんは、私を見下ろす形になる。なんか、一瞬だけドキッとした。
「務まるんじゃねぇの?」
「なんか投げやりだなぁ」
「なんだよ、できねぇっていって欲しいのかよ」
「そうじゃないけど……」
そうかもしれない。誰かにおまえには無理だって、決めてほしいとか思ってる。
本当、矛盾してる。
「甘えんな。それは俺の問題じゃない。奈瑠の問題だろう? 俺はおまえにも務まる仕事だって思うけど」
「私、頭よくないし、華やかじゃないし、目立たないし……」
隣から盛大なため息が聞こえる。りんちゃんは呆れたような顔で口を開いた。
「おまえ、生徒会役員にそんなもんが必要だと思ってんの?」
私はこくんとうなずく。現執行部役員は、挨拶運動くらいでしか見たことがないけれど、みんなどこか華があるように感じた。りんちゃんだってそうだ。りんちゃんは私のようなモブキャラではない。見た目だけは物語に出てくるヒーロータイプだよ。見た目だけね。
「やってみる前からできないとかいうなよ、バーカ」
りんちゃんはそんな言葉を残して部屋に戻ってしまう。
「待ってよりんちゃん! りんちゃん! ねぇってば」
りんちゃんはぴしゃりと窓を閉めたままこちらを向く気配がない。クーラーでもかけたのだろう。しまいにはカーテンを閉めてしまう。ダメだ、りんちゃんはあてにならない。
私は仕方なく自分の頭で考えることにした。そうだよ、りんちゃんのいうとおりだ。私はどうしたいんだろう。嫌なんだったら断るって選択肢しかないはずだけど、悩んでるってことは、私、ちょっとやってみたいとか思っちゃってるのかな。
りんちゃんはやってみる前からできないとかいうなっていったけど……。
突然、小学生のころの記憶がフラッシュバックする。大勢の人が、こっちを見てる。次の瞬間、めまい吐き気が襲ってきた。
だめだ、私には無理だよ。
なにを偉そうに悩んだりしているのだ、私には、無理なんだって。先輩に会ったらきちんと断ろう。あぁ、断るのって、しんどいなぁ。先輩のこと、がっかりさせるかもしれないって思ったら余計に気が重くなった。
翌日から生徒会の挨拶運動は終っていて、正門に三次先輩の姿はなかった。毎日顔を見るだけであんなに嬉しかったのに、今日は先輩がいないことにちょっとほっとしてしまう。
「なーに暗い顔してるのよ」
靴箱で光がぽんっと肩を叩いてきた。
「生徒会について考えてて頭痛いよ」
「嫌なら断ればいいじゃん」
「そうなんだけどさ……それがしんどいうか」
「奈瑠はそういうの苦手そうだよね、基本的にいろいろ引き受けて苦労するタイプだもんね」
「否定できない……」
「できないことはできないって言っていいんだよ。断ることも大事だ」
そうだよね、嫌なら断ればいいだけの話だ。でも、そう踏み切れないなと思うところもある。「やってみる前からできないとか言うなよ」っていうりんちゃんの言葉も頭から離れない。ぐるぐると頭のなかで渦を巻いている。ついでに、「バーカ」っていう顔まで思い出すから腹が立つ。私には無理だってわかってるくせに、りんちゃんは本当に意地が悪い。
「りんちゃんのバーカ」
「え?」
「ううん、なんでもないなんでもない」
怪訝な顔をする光にヒラヒラと手を振って誤魔化した。
こんな調子で一週間考えて、三次先輩に会う勇気が出ないまま、日曜日の夜になってしまった。もしかしたら明日にでも三次先輩が私の答えを聞きに来るかもしれない。りんちゃんはあれきり話を聞いてくれそうにもないし、そもそもりんちゃんに相談したのが間違いだったのだ。りんちゃんが私のことなんかを真剣に考えるはずがない。
モヤモヤとした気持ちのまま夕食を終えると、マシュマロが膝の上に乗ってきた。ふさふさの柔らかな毛が足に当てってくすぐったい。私はマシュマロの丸い目をじっと見つめてから難しい顔をしていると、食器を片付けていたお母さんが話しかけてきた。
「どうしたのよ、難しい顔して、最近ずっと何か悩んでない?」
お母さんは意外と私のことをよく見ている。何でもないよって答えようかなって思ったけれど、私は悩みを打ち明けてみることにした。
「ねぇお母さん、私、生徒会役員に誘われたんだよ」
「え? 入るの? そういえば凛太郎君も入っていたわよね。良いんじゃない。楽しそうじゃない」
お母さんの声は明るい。楽しそうだなんて思ってもみなかった。きっと大変なんだろうな、そんな妄想だけで頭がパンクしそうだったのだ。
「楽しそうかな? でも……」
「きっと楽しいわよ。なんでもやってみたらいいじゃない」
「誘ってもらったんだけど、私じゃ無理かなって思ってるんだ。行事の度に人前に出ないといけないし、私、超あがり症だから……」
私が顔を上げられないでいると、お母さんは洗い物の手を止める。私の方を見るとにっこりと微笑んだ。
「奈瑠、やってみる前からどうなるかなんてわからないじゃない、もしかしたらいい機会になるかもしれないわよ。ピンチはチャンスなんだから」
「そうかなぁ」
ピンチはチャンスかぁ……。りんちゃんと同じようなことを言うお母さん。私、やってみてもいいのかな――。やってみたいって思ってるのかな。
マシュマロを床に下ろすと自分の部屋に戻る。ベランダに出て隣を覗こうとして止めた。りんちゃんに話したところで何も解決しない。
答えを出すのは自分だ。そうわかっている。でも、誰かに決めてほしいって思ってしまう。やりなさいって言われたら仕方がないなと受け入れることができる。でも、断る余地を残されたら、逃げたくなってしまう。
そんな自分が、私は嫌いだ。嫌いなのに、なかなか変えることが出来ない。
ねぇ私、どうしたい?
机に座って頬杖をついていると、隣の部屋からゴンゴンと壁を殴るような音がした。りんちゃんからの合図だ。なんだか久しぶりに聞いた気がする。小学校の中学年くらいまでは、互いの部屋をよく行き来していたのに、高学年になると次第にその回数は減って、りんちゃんが中学生になる頃にはこうやって話しかけてくることは無くなった。
私は慌ててベランダに出る。外に広がる夜空は晴れ渡っていて、星がキラキラと輝いていた。思わず見とれてしまう。りんちゃんに呼ばれたことも忘れて空を見ていると、壊れた仕切りの向こうから声がした。
「奈瑠。生徒会どうすんの?」
「……どうしよう」
りんちゃんがため息を吐いたような声が聞こえた。私は仕切りを押して顔を出す。
「りんちゃん、私、やってみたいって思ってるのに勇気が出ないの。人前に出たり、話したり、挨拶したり、きちんとできるかなって、無理かもしれないって」
「その時はその時だろうが。逃げんな」
「わかってるよ。でも……」
「でもじゃねぇし。そういうの俺嫌い」
「私も嫌いだよ。こうやってうじうじしたくない。したくないのに……」
りんちゃんの言葉は私の心を映しているみたいだ。私も嫌だ、変わりたい。でも、怖い、また笑われたらどうしようって思ってしまうと恥ずかしくて何もできなくなる。
「あのな、前も言ったけど。やってから考えろ、失敗したらそれはそれでいいだろ。みんなに笑われたって、間違えたって、やったことには価値がある。失敗しろ、その分成長すんじゃねぇの?」
「でも、失敗するのは怖いし、恥ずかしいよ……」
また盛大なため息が聞こえた。私の心も一緒にため息を吐く。
「おまえの価値観それなの? 人に認められなきゃダメなのかよ。自分の価値くらい自分で決めろよ。一生懸命やってるやつを笑うやつなんか、気にすんな」
りんちゃんはそう言うと部屋の中に入って行ってしまった。最後の方はぼそぼそしゃべるからなんて言っているのか聞こえなかった
「わかってるよ……」
私はぷいとそっぽを向く。そう、わかっている。りんちゃんが言っていることは全部私が思っていることとおんなじだ。わかってる。だけど、でもね──って、心の中にいる怖がりな私が否定する。
翌日、朝起きるとベランダに出て深呼吸をした。こうやって毎朝、新しい自分になるために気合を入れるの。
「よーし!」
私は大きく伸びをした。すぐに大きく変化できるものではないだろうけれど、まず一歩踏み出そうって決めた。だって、変わりたいって思ってるから。あの日を乗り越えたいって、思ってるから。
「奈瑠」
突然名前を呼ばれて驚く。こんなに朝早くにりんちゃんが起きているなんて驚きだ。
「おはよう、りんちゃん」
「決めたか? 広樹、今日おまえんとこに聞きに行くと思うけど」
「うん」
私は姿の見えない凛ちゃんに向かって頷く。
「私、やってみる」
「あっそ」
そっけない言葉が返ってきた。でもわかるよ、りんちゃんの声音がちょっとだけ優しいこと。応援してくれてるんだよね?
隣から大きなあくびが聞こえて、りんちゃんが部屋の中に戻っていくのがわかった。
私は秋晴れの高い空に向かって大きく両手を伸ばして、もう一度伸びをする。
「よーし!」
気合いをいれてから、お気に入りのポップスを口ずさもうとして止める。ベランダなんかで歌って誰かに聞かれたら恥ずかしいもん。歌はだめだ、私、へたくそだから。歌は好きだけど、下手の横好きだ。そもそもご近所迷惑だろうし。
お昼休憩、教室を出ようとすると「山本さん」と呼び止められた。その声に私の心臓は小さく跳ねる。振り返ると、予想通り三次先輩がいた。ドクンドクンと、脈が速くなる。
「み、三次先輩、こ、こんにちは」
「こんにちは。生徒会の話なんだけど、どうかな?」
私は今朝までに出した答えを口にする。すうっと深呼吸、ゆっくりと息を吐いてから。
「やります」
「本当! 良かった」
三次先輩の顔がほころぶ。先輩の周りだけ春がやって来たみたいに明るくなって見えた。この笑顔を見られただけでも、いいかなって思えちゃうくらい素敵な笑顔だ。
「生徒会のことで凛太郎が君に厳しく当たってるんじゃないかって心配しててさ、断られたらどうしようってハラハラしてたよ」
三次先輩、エスパーですか。大正解です、りんちゃんは鬼の様です。
「実は昨日も怒られました」
「やっぱりね。あいつ普段適当なくせに大事なことには厳しいんだ。許してやって」
りんちゃん、三次先輩に信頼されてるんだなって思う。そういう関係って素敵かも。いいなぁ。
「きちんと務まるのかわからないけど、頑張ります」
「凛太郎はやかましいと思うけど、君は君らしくしていれば大丈夫だよ。僕も力になるから、悩んだら何でも相談して」
そう言ってから、先輩はポケットを探ってスマホを取り出す。
私は私らしく――それで大丈夫だって言ってもらえたからだろうか、すごく安心した。少し恐怖が薄れたかも――。
「連絡先、交換してもいい?」
「も、もちろんです」
本当ですか!? マジですか!? あれよあれよと連絡先を交換してしまった。私のスマホに三次先輩のアイコンが写っている。ギターの写真だった。先輩、ギター弾くのかな――格好良すぎるよ!
「ありがとう、じゃぁまた!」
「は、はい!」
思わず声が裏返ってしまう。恥ずかしい……両手で顔を覆っていると、その場に一緒にいた光と里桜ちゃんが同時に歓声を上げる。
「すごいじゃん奈瑠!」
「いやいや……もう、恥ずかしすぎる」
「生徒会に入る前に連絡先ゲットとかすごすぎ!」
「もしかしたら先輩も奈瑠のことが気になってるのかも!」
藤棚についても二人は勝手に盛り上がっている。当の私は先輩の連絡先よりも、十二月から始まる次期生徒会のことで頭がいっぱいだった。たくさんのことを一度に考えられないよ。
「色々話す機会も増えるし、そのうち付き合うことになっちゃったりして!」
「ないない、とんでもない!」
「でも、大きく距離を詰めたよね!」
お弁当を食べながら、私が顔を真っ赤にしていると、里桜ちゃんが「あ」と声を上げる。
「あ、バレーしてるの九条先輩と三次先輩じゃない?」
里桜ちゃんの言葉に、バレーコートに目をやる。藤棚の先はグラウンドになっていて、目の前にテニスコートがあった。ネットを上げるとバレーコートにもなって、体育館が使えないときは外のコートも使うことがある。
りんちゃんは中学校に入ってバレーボールを始めた。なんてポジションかは知らない。そもそも聞いてもわからないけど。私、運動音痴だからスポーツはからきしだ。
「三次先輩の人気はもちろんだけど、九条先輩も人気あるよねぇ」
光がそんなことを言うので、私は目を丸くする。
「そうなの?」
「そうだよ! 陸上部でもけっこう人気」
「えぇ、みんな騙されてるよ。りんちゃん良いのは顔だけだから」
「顔が良ければオールオッケーじゃん」
「ダメだよ。やぱり優しくないと! りんちゃん優しさ欠乏症だから!」
「奈瑠は贅沢だよ、九条先輩が幼馴染とか」
「そうかなぁ……」
りんちゃんは確かに格好良い見た目をしてるけど、物心ついた頃から一緒にいるせいか少しもときめかない。これが光のいう贅沢というやつかな。
二人に駆け寄る女の子が見えた。小さな顔にすらりと長い手足、肩の上で綺麗に切りそろえたショートボブの黒髪がさらさらと風に揺れている。スタイルが良いから、同じ制服を着ているとは思えない。
「梶原先輩だ! 生徒会二年がそろった。華があるよねぇ」
梶原睦美先輩。現生徒会役員二年生最後の一人だ。アイドル級に可愛い。そして笑顔がとにかく優しそう。超素敵だ!
「あそこに奈瑠が加わるなんてすごすぎ!」
やっぱりだめかも。そんな考えが浮かんでしまうので、更にぶんぶんと頭を振った。やってみるって決めたから、頑張れ私。自分らしくだよ。
二学期が始まって一週間。すっかり通いなれた道は、流れるように景色が過ぎていく。その心地よさに、思わず好きなポップスを口ずさんでいたことに気がついて止める。近くに人はいないみたい。よかった。
信号で止まると、空を見上げた。夏の終わりの空は高い。魚の鱗のようにうっすらと空に伸びた雲を見ているとドンッと背中に衝撃が走る。誰かが私の背中を叩いたのだ、こんなことをするのはこの世で一人しかいない。
「おい、青になったぞ」
私の横を自転車で颯爽と走り去って行くのは、同じマンションの隣の部屋に住んでいる幼馴染みの、りんちゃんだ。私の方がずっと早く家を出るのに、必ずここでりんちゃんに追い抜かれる。りんちゃんこと九条凛太郎は一個上の中学二年生。子供のころは二人で一緒にいるとよく兄妹みたいだっていわれたけど、兄妹っていうのもしっくりこない。一個上だけど、りんちゃんは年上っぽくないし、同い年の友達みたい。
ううん、友達とも違うかも。りんちゃんは、りんちゃん。他に例えようがない。ついでに同じ学校だけど、一緒に通学したことは一度もない。
「もう、待ってよりんちゃん」
なんて遠ざかっていく背中に小さく呼びかけても、りんちゃんは少しも待ってはくれない。まるで私の声が聞こえていないかのように、ズボンにしまい込んでいないシャツの裾を風にひらひらとなびかせながら、どんどんスピードを上げていく。
今年の春、県立旭ヶ丘中学校の一年生に進学したばかりだというのに、もう秋が来た。同じ小学校から上がってきた子がクラスの三分の一くらい。仲良しの光も里桜ちゃんも一緒だから、あんまり緊張することもなく、楽しい中学校生活を送ることが出来ていると思う。小学校の時と違うのは、ひらひらと風になびく臙脂色のネクタイと紺色の制服。それから――。
「おはようございます」
「……おはようございます」
正門をくぐるとき横から掛けられる声に、私は思わず俯きながら、小さな声で挨拶を返す。二学期が始まってから一週間は生徒会による挨拶運動期間だ。私は駐輪場に向かう途中で背後を振り返った。ピンと背筋を伸ばした生徒会員の姿が目に入る。頬が、ほんの少しだけ熱くなるような気がした。
このドキドキする気持ち。
「奈瑠おはよー。今日も先輩たちは麗しいですな」
靴箱で上履きに履き替えていると、隣から声をかけられた。同じ小学校から来た仲良しの光だ。
「本当、三次先輩めっちゃ爽やか。ほんと超素敵~!」
「奈瑠は相変わらず三次先輩推しだねぇ。大好きだもんねぇ」
光の言葉に、頬が熱くなる。私はぶんぶんと首を横に振った。
「違う違う、好きとかじゃないから。素敵だなって思うだけ」
「はいはい」
ミーハーな私は、入学式の日、校内で迷子になっているときに助けてくれた三次先輩にすっかり心を奪われてしまった。以来、先輩のことが気になってしかたがない。
光と一緒に一年A組の教室に入る。夏休みの空気がまだまだ残っていて、クラスの中はがやがやと騒がしい。私が席に荷物を置くと、斜め前の席に座っている里桜ちゃんが読んでいた本を閉じて集まってきた。里桜ちゃんの二つに結んだ長い髪がふわりと揺れる。
「おはよ」
「おはよう里桜ちゃん、頼まれてたブックマーカー出来たよ~」
「マジ!」
私は昨夜完成させた蝶々が揺れるブックマーカーを鞄から取り出した。蝶々の型に、里桜ちゃんの好きな紫色の色を付けたレジンを流し込んで固めたレジン細工に雫型のチェコガラスも付けて、我ながらいい出来だと思う。太陽の光に透かすと、散りばめたラメがきらきらと輝いていっそう綺麗だ。
「うっわ、めっちゃ可愛いじゃん! ありがとう奈瑠~」
この瞬間がすごく嬉しいなと思う。私が作った小物を喜んでくれるなんて最高に嬉しい。こまごました作業が好きで作っていたけれど、最近はそれを贈り物にする味をしめた。喜んでもらえると、私も嬉しくなる。
「奈瑠は器用だよねぇ、センスもいいし」
「なに言ってるの、里桜ちゃんの方が器用じゃん。私にはぬいぐるみなんて高度なものが縫える気がしないよ」
私と里桜ちゃんは手芸部に所属している。里桜ちゃんは小さなぬいぐるみに作りにはまっていて、色々手縫いで作っている。私も小さなうさぎのぬいぐるみを作ってもらった。ミントグリーンの可愛いうさぎ。私の部屋の机の上に、ちょこんと座っている。宝物!
「時間かかるんだよねぇ。根気のいる作業というか」
「ぬいぐるみは時間かかっちゃうよねぇ。里桜ちゃんは縫い目も丁寧だし。もらったうさぎちゃんも大のお気に入りなんだけど」
「本当! あれ力作だから! 今度は茶色のうさぎでも作ってあげちゃおうかな。並べたら奈瑠の大好きなチョコミントカラーになるじゃん」
「ありがとう! めっちゃ嬉しい~家宝にする!」
二人で盛り上がっていると、光もやってくる。私のプレゼントしたブックマーカーを見て目を細めた。
「可愛いじゃん! でも私はいいや。ろくに本読まないからなぁ」
「光にはミサンガでも作ってあげたいな。次の大会も勝てますようにって」
「あーそれ嬉しいね! ミサンガなら私って感じ!」
ガラガラと教室の扉が開いて、担任の秋月先生が入ってきた。「おーい、ホームルーム始めるぞ、席に着け~」って、のんびりとした口調で呼びかけて、ホームルームを始める。
二学期も穏やかに過ごせそうだな。そんな予感がしていたのに──。
放課後になると一転、私に向かって台風みたいな強い風が吹いてきた。
教室の窓側にちょっとした人だかりができているなと思ったら、窓側の席の子が私を振り返る。
「山本さん、三次先輩が呼んでるよ」
私は頭に「?」マークを出してから、「ひぃ」って小さく悲鳴を上げた。それから近くの席に座っている里桜ちゃんを見る。
「私! ど、どうしよう」
「とにかく行っておいでよ」
「でも、私に何の用かな? 人違い?」
「憧れの三次先輩と話せるチャンスじゃん! しかも向こうから呼びに来るなんてすごいよ」
私は小さくうなずいて、廊下に出た。
「はじめまして山本さん」
「は、は、はじめまして……」
本当ははじめましてじゃありませんって思うけど、四月のことなんて先輩は覚えていないのだろう。
そんなことはどうでもいい。目の前に間違いなく三次先輩が立っている。先輩は私を見て優しげなタレ目の瞳を細めた。どうやら人違いではないみたい。
「あの、私になにか……」
恐る恐るそう尋ねると、先輩はにっこりと微笑んだまま、とんでもないことを言いだした。
「山本さんを来年度の生徒会にスカウトしようと思って」
「え!」
思わず素っ頓狂な声がでる。怒られる以上に想像を遥かに超えたことだった。私が生徒会なんてとんでもない。そんなことになったら、きっと空が落っこちてきてしまう。
「あの……山本違いでは……?」
「君は山本奈瑠さんで間違いないだろう?」
先輩に名前を呼ばれて、小さく心臓が跳ねる。なんて、優しい声だろう。自分の名前が、急にキラキラと輝いているように思えた。私は「はい」と小さくうなずいてから、俯いた。
「じゃぁ間違ってないよ。山本さん、君に生徒会役員になって欲しいんだ」
「ど、ど、どうして、私なんですか?」
「もちろん、君を推挙する人がいたから。僕も前々から君のことを知っていたし、君と一緒に生徒会を運営したいと思ったんだよ」
「先輩が、私をですか……? 全然目立たないのに」
自分で言うのもなんだけど、私は全然目立つ生徒ではない。目立つどころか、避難訓練で先生に名前を呼ばれるのを忘れられちゃうくらい影が薄い。
委員会にも所属していないし、クラスの代表でもないし、手芸部はそもそも目立たない部活だし。成績は中の下だし、当然可愛い容姿でもなければ奇抜な格好もしていない。
とにかく、目立つ要素は一つもない。
「考えておいて。来週にでも答えを聞きに来るよ。ちなみに僕は執行委員長に立候補するつもりでいるから」
「よろしくね」と、とんでもなく爽やかな笑顔を残して、三次先輩は一年A組を離れていく。残された私は状況が飲み込めずにぽかんとしていた。ぼうっと突っ立っていると、背中にドンっと鈍い衝撃が走る。
「すごいじゃん!」
近くで話を聞いていた光が私の背中を叩いた。はっと意識が戻ってくると、急に恐怖が襲い掛かってくる。
「光、ど、ど、ど、どうしよう……」
「なによ、そんなに青い顔して。やってみたらいいじゃん」
「生徒会なんて無理無理、絶対に無理! できるわけないよ……クラス委員だって絶対に無理なのに……!」
生徒会役員として人前に立つ自分の姿を想像して、私は眩暈がした。超が付くほどあがり症なのだ。先輩に話しかけられたという喜びよりも、自分の頭の上に隕石が降ってきたような衝撃の方が大きい。頭が割れそう……。
「無理だよ……断らなきゃ」
今にも消えそうな声でつぶやいてから、鞄に荷物を突っ込み、里桜ちゃんと光の後ろについてとぼとぼと靴箱のある下の階に降りた。三次先輩の優しい笑顔が浮かんで悲しい気持ちになった。私が断ったら、先輩は困ったような顔をするかな。少しだけ先っぽの傷んだローファーに履き替えていると、里桜ちゃんが「そうだ」と思い出したかのように声を出す。
「ねぇ、これって三次先輩と仲良くなるチャンスだよ! 端から無理だって思わないで少し考えてみたら。なんなら九条先輩に相談してみたらいいんじゃない? 九条先輩も生徒会役員でしょう? 三次先輩ともめっちゃ仲良さそうだ」
いわれてそういえば、と私も思い出した。素行の悪そうなりんちゃんは驚くべきことに生徒会役員だった。朝も挨拶に参加していたのだろうけど、三次先輩に気をとられていて全然気がつかなかったな……(いや、そもそもいなかったかもしれない)
「りんちゃんに相談しても適当にあしらわれそう」
「まぁ、私らより頼りになるよ」
「そうかなぁ……私には光ちゃんと里桜ちゃんの方が頼もしいよ」
バスで帰る二人と別れて、私は一人自転車のペダルをこぐ。夕方の風は少し肌寒い。もうすぐ、秋になるんだって気がした。秋なんかすぐすぎて冬がくる。寒いの苦手だけど、可愛いマフラーとかつけても許される気がするから冬は嫌いじゃない。春が来たら二年生……一年、なんか早いなぁって、まだ二学期始まったばっかだけど。
家に帰ると、足にまとわりついてくる愛犬のマシュマロを撫でてから二階に上がる。ポメラニアンのマシュマロは、本物のマシュマロみたいにふわっふわ!
自分の部屋に入るとベランダに出た。隣のベランダとの仕切りの上側が壊れていて、ちょっと押すと、扉みたいに開いてお隣さんが見えてしまうのだ。ひょいと顔を出して隣を覗くと、りんちゃんはまだ帰っていなかった。私は顔を引っ込め、二段ベッドの上の段に転がる。
どうして私なんかに三次先輩が声をかけて来たのか、全く理解ができなかった。生徒会役員に向いていそうな子はもっと他にいる。まだ一年とはいえ、二学期にもなると、どのクラスにも一人や二人は学年の中心人物として頭角を現している子がいる。成績が良かったり、華やかで、明るくて、人気があったりて……私には到底当てはまらない素敵な長所の子たちがいっぱいだ。その子たちにみんな断られたのだろうか。それで私に回ってきたと考えるなら納得がいかないこともないけれど。私に話が来る前に光や里桜ちゃんに声がかかりそうだ。
そもそも、どうして三次先輩は目立たない私のことなんか知っていたのだろう。四月に助けてくれたことを覚えている雰囲気はなかった。謎だらけで答えは全然でてこない。
スマホの画面をじっと見つめる。去年まではこの部屋にお姉ちゃんが居てくれたからいろいろ相談できたのに。今は東京の大学に行ってしまってなかなか相談できない。電話かけちゃおっかなって思うけど、彼氏とデート中だったりしたら悪いしぁなんて思うとなかなか連絡が取れない。
何もしないままゴロゴロしているうちに、隣から物音がした。りんちゃんが帰ってきたのだ。私は飛び起きてベランダに出る。仕切りの間からひょっこりと顔を出して、りんちゃんを呼ぶ。仕方ない、ここはりんちゃんに頼ってみることにしよう。わらよりも頼りないけど。
「りーんちゃん」
りんちゃんは気が付かない。「りんちゃん、りんちゃーん」って何度か呼ぶとようやく私に気が付いて、呆れ顔でベランダに出てくる。外はすっかり暗くなっていて、辺りは街灯でぼんやりと照らされていた。
「なんだよ」
不機嫌そうな声が返ってくる。
「ねぇりんちゃん。今日の放課後、三次先輩が来て生徒会執行部に誘われちゃったんだよ。どうしよう!」
「へー」
「へーじゃないよ。悩んでるんだよ。もっと興味持ってよ」
りんちゃんは私の悩みなど全く意に介した様子がない。予想通りの答えに私は思わずため息を漏らす。
「俺が興味持ったって仕方ないだろ」
「だってりんちゃん生徒会執行部でしょう?」
「そう。そもそも何悩んでんだよ、嫌なら断れよ」
「それはそうなんだけど……」
私、「無理だ」って思ってるけど、「やりたくない」とは思ってないんだよね。
だから、だめな理由を探してるんだ。
「私に務まると思う?」
尋ねると、りんちゃんは少しだけ真剣な顔をして私の方を向いた。中学生になってから急に背が伸びたりんちゃんは、私を見下ろす形になる。なんか、一瞬だけドキッとした。
「務まるんじゃねぇの?」
「なんか投げやりだなぁ」
「なんだよ、できねぇっていって欲しいのかよ」
「そうじゃないけど……」
そうかもしれない。誰かにおまえには無理だって、決めてほしいとか思ってる。
本当、矛盾してる。
「甘えんな。それは俺の問題じゃない。奈瑠の問題だろう? 俺はおまえにも務まる仕事だって思うけど」
「私、頭よくないし、華やかじゃないし、目立たないし……」
隣から盛大なため息が聞こえる。りんちゃんは呆れたような顔で口を開いた。
「おまえ、生徒会役員にそんなもんが必要だと思ってんの?」
私はこくんとうなずく。現執行部役員は、挨拶運動くらいでしか見たことがないけれど、みんなどこか華があるように感じた。りんちゃんだってそうだ。りんちゃんは私のようなモブキャラではない。見た目だけは物語に出てくるヒーロータイプだよ。見た目だけね。
「やってみる前からできないとかいうなよ、バーカ」
りんちゃんはそんな言葉を残して部屋に戻ってしまう。
「待ってよりんちゃん! りんちゃん! ねぇってば」
りんちゃんはぴしゃりと窓を閉めたままこちらを向く気配がない。クーラーでもかけたのだろう。しまいにはカーテンを閉めてしまう。ダメだ、りんちゃんはあてにならない。
私は仕方なく自分の頭で考えることにした。そうだよ、りんちゃんのいうとおりだ。私はどうしたいんだろう。嫌なんだったら断るって選択肢しかないはずだけど、悩んでるってことは、私、ちょっとやってみたいとか思っちゃってるのかな。
りんちゃんはやってみる前からできないとかいうなっていったけど……。
突然、小学生のころの記憶がフラッシュバックする。大勢の人が、こっちを見てる。次の瞬間、めまい吐き気が襲ってきた。
だめだ、私には無理だよ。
なにを偉そうに悩んだりしているのだ、私には、無理なんだって。先輩に会ったらきちんと断ろう。あぁ、断るのって、しんどいなぁ。先輩のこと、がっかりさせるかもしれないって思ったら余計に気が重くなった。
翌日から生徒会の挨拶運動は終っていて、正門に三次先輩の姿はなかった。毎日顔を見るだけであんなに嬉しかったのに、今日は先輩がいないことにちょっとほっとしてしまう。
「なーに暗い顔してるのよ」
靴箱で光がぽんっと肩を叩いてきた。
「生徒会について考えてて頭痛いよ」
「嫌なら断ればいいじゃん」
「そうなんだけどさ……それがしんどいうか」
「奈瑠はそういうの苦手そうだよね、基本的にいろいろ引き受けて苦労するタイプだもんね」
「否定できない……」
「できないことはできないって言っていいんだよ。断ることも大事だ」
そうだよね、嫌なら断ればいいだけの話だ。でも、そう踏み切れないなと思うところもある。「やってみる前からできないとか言うなよ」っていうりんちゃんの言葉も頭から離れない。ぐるぐると頭のなかで渦を巻いている。ついでに、「バーカ」っていう顔まで思い出すから腹が立つ。私には無理だってわかってるくせに、りんちゃんは本当に意地が悪い。
「りんちゃんのバーカ」
「え?」
「ううん、なんでもないなんでもない」
怪訝な顔をする光にヒラヒラと手を振って誤魔化した。
こんな調子で一週間考えて、三次先輩に会う勇気が出ないまま、日曜日の夜になってしまった。もしかしたら明日にでも三次先輩が私の答えを聞きに来るかもしれない。りんちゃんはあれきり話を聞いてくれそうにもないし、そもそもりんちゃんに相談したのが間違いだったのだ。りんちゃんが私のことなんかを真剣に考えるはずがない。
モヤモヤとした気持ちのまま夕食を終えると、マシュマロが膝の上に乗ってきた。ふさふさの柔らかな毛が足に当てってくすぐったい。私はマシュマロの丸い目をじっと見つめてから難しい顔をしていると、食器を片付けていたお母さんが話しかけてきた。
「どうしたのよ、難しい顔して、最近ずっと何か悩んでない?」
お母さんは意外と私のことをよく見ている。何でもないよって答えようかなって思ったけれど、私は悩みを打ち明けてみることにした。
「ねぇお母さん、私、生徒会役員に誘われたんだよ」
「え? 入るの? そういえば凛太郎君も入っていたわよね。良いんじゃない。楽しそうじゃない」
お母さんの声は明るい。楽しそうだなんて思ってもみなかった。きっと大変なんだろうな、そんな妄想だけで頭がパンクしそうだったのだ。
「楽しそうかな? でも……」
「きっと楽しいわよ。なんでもやってみたらいいじゃない」
「誘ってもらったんだけど、私じゃ無理かなって思ってるんだ。行事の度に人前に出ないといけないし、私、超あがり症だから……」
私が顔を上げられないでいると、お母さんは洗い物の手を止める。私の方を見るとにっこりと微笑んだ。
「奈瑠、やってみる前からどうなるかなんてわからないじゃない、もしかしたらいい機会になるかもしれないわよ。ピンチはチャンスなんだから」
「そうかなぁ」
ピンチはチャンスかぁ……。りんちゃんと同じようなことを言うお母さん。私、やってみてもいいのかな――。やってみたいって思ってるのかな。
マシュマロを床に下ろすと自分の部屋に戻る。ベランダに出て隣を覗こうとして止めた。りんちゃんに話したところで何も解決しない。
答えを出すのは自分だ。そうわかっている。でも、誰かに決めてほしいって思ってしまう。やりなさいって言われたら仕方がないなと受け入れることができる。でも、断る余地を残されたら、逃げたくなってしまう。
そんな自分が、私は嫌いだ。嫌いなのに、なかなか変えることが出来ない。
ねぇ私、どうしたい?
机に座って頬杖をついていると、隣の部屋からゴンゴンと壁を殴るような音がした。りんちゃんからの合図だ。なんだか久しぶりに聞いた気がする。小学校の中学年くらいまでは、互いの部屋をよく行き来していたのに、高学年になると次第にその回数は減って、りんちゃんが中学生になる頃にはこうやって話しかけてくることは無くなった。
私は慌ててベランダに出る。外に広がる夜空は晴れ渡っていて、星がキラキラと輝いていた。思わず見とれてしまう。りんちゃんに呼ばれたことも忘れて空を見ていると、壊れた仕切りの向こうから声がした。
「奈瑠。生徒会どうすんの?」
「……どうしよう」
りんちゃんがため息を吐いたような声が聞こえた。私は仕切りを押して顔を出す。
「りんちゃん、私、やってみたいって思ってるのに勇気が出ないの。人前に出たり、話したり、挨拶したり、きちんとできるかなって、無理かもしれないって」
「その時はその時だろうが。逃げんな」
「わかってるよ。でも……」
「でもじゃねぇし。そういうの俺嫌い」
「私も嫌いだよ。こうやってうじうじしたくない。したくないのに……」
りんちゃんの言葉は私の心を映しているみたいだ。私も嫌だ、変わりたい。でも、怖い、また笑われたらどうしようって思ってしまうと恥ずかしくて何もできなくなる。
「あのな、前も言ったけど。やってから考えろ、失敗したらそれはそれでいいだろ。みんなに笑われたって、間違えたって、やったことには価値がある。失敗しろ、その分成長すんじゃねぇの?」
「でも、失敗するのは怖いし、恥ずかしいよ……」
また盛大なため息が聞こえた。私の心も一緒にため息を吐く。
「おまえの価値観それなの? 人に認められなきゃダメなのかよ。自分の価値くらい自分で決めろよ。一生懸命やってるやつを笑うやつなんか、気にすんな」
りんちゃんはそう言うと部屋の中に入って行ってしまった。最後の方はぼそぼそしゃべるからなんて言っているのか聞こえなかった
「わかってるよ……」
私はぷいとそっぽを向く。そう、わかっている。りんちゃんが言っていることは全部私が思っていることとおんなじだ。わかってる。だけど、でもね──って、心の中にいる怖がりな私が否定する。
翌日、朝起きるとベランダに出て深呼吸をした。こうやって毎朝、新しい自分になるために気合を入れるの。
「よーし!」
私は大きく伸びをした。すぐに大きく変化できるものではないだろうけれど、まず一歩踏み出そうって決めた。だって、変わりたいって思ってるから。あの日を乗り越えたいって、思ってるから。
「奈瑠」
突然名前を呼ばれて驚く。こんなに朝早くにりんちゃんが起きているなんて驚きだ。
「おはよう、りんちゃん」
「決めたか? 広樹、今日おまえんとこに聞きに行くと思うけど」
「うん」
私は姿の見えない凛ちゃんに向かって頷く。
「私、やってみる」
「あっそ」
そっけない言葉が返ってきた。でもわかるよ、りんちゃんの声音がちょっとだけ優しいこと。応援してくれてるんだよね?
隣から大きなあくびが聞こえて、りんちゃんが部屋の中に戻っていくのがわかった。
私は秋晴れの高い空に向かって大きく両手を伸ばして、もう一度伸びをする。
「よーし!」
気合いをいれてから、お気に入りのポップスを口ずさもうとして止める。ベランダなんかで歌って誰かに聞かれたら恥ずかしいもん。歌はだめだ、私、へたくそだから。歌は好きだけど、下手の横好きだ。そもそもご近所迷惑だろうし。
お昼休憩、教室を出ようとすると「山本さん」と呼び止められた。その声に私の心臓は小さく跳ねる。振り返ると、予想通り三次先輩がいた。ドクンドクンと、脈が速くなる。
「み、三次先輩、こ、こんにちは」
「こんにちは。生徒会の話なんだけど、どうかな?」
私は今朝までに出した答えを口にする。すうっと深呼吸、ゆっくりと息を吐いてから。
「やります」
「本当! 良かった」
三次先輩の顔がほころぶ。先輩の周りだけ春がやって来たみたいに明るくなって見えた。この笑顔を見られただけでも、いいかなって思えちゃうくらい素敵な笑顔だ。
「生徒会のことで凛太郎が君に厳しく当たってるんじゃないかって心配しててさ、断られたらどうしようってハラハラしてたよ」
三次先輩、エスパーですか。大正解です、りんちゃんは鬼の様です。
「実は昨日も怒られました」
「やっぱりね。あいつ普段適当なくせに大事なことには厳しいんだ。許してやって」
りんちゃん、三次先輩に信頼されてるんだなって思う。そういう関係って素敵かも。いいなぁ。
「きちんと務まるのかわからないけど、頑張ります」
「凛太郎はやかましいと思うけど、君は君らしくしていれば大丈夫だよ。僕も力になるから、悩んだら何でも相談して」
そう言ってから、先輩はポケットを探ってスマホを取り出す。
私は私らしく――それで大丈夫だって言ってもらえたからだろうか、すごく安心した。少し恐怖が薄れたかも――。
「連絡先、交換してもいい?」
「も、もちろんです」
本当ですか!? マジですか!? あれよあれよと連絡先を交換してしまった。私のスマホに三次先輩のアイコンが写っている。ギターの写真だった。先輩、ギター弾くのかな――格好良すぎるよ!
「ありがとう、じゃぁまた!」
「は、はい!」
思わず声が裏返ってしまう。恥ずかしい……両手で顔を覆っていると、その場に一緒にいた光と里桜ちゃんが同時に歓声を上げる。
「すごいじゃん奈瑠!」
「いやいや……もう、恥ずかしすぎる」
「生徒会に入る前に連絡先ゲットとかすごすぎ!」
「もしかしたら先輩も奈瑠のことが気になってるのかも!」
藤棚についても二人は勝手に盛り上がっている。当の私は先輩の連絡先よりも、十二月から始まる次期生徒会のことで頭がいっぱいだった。たくさんのことを一度に考えられないよ。
「色々話す機会も増えるし、そのうち付き合うことになっちゃったりして!」
「ないない、とんでもない!」
「でも、大きく距離を詰めたよね!」
お弁当を食べながら、私が顔を真っ赤にしていると、里桜ちゃんが「あ」と声を上げる。
「あ、バレーしてるの九条先輩と三次先輩じゃない?」
里桜ちゃんの言葉に、バレーコートに目をやる。藤棚の先はグラウンドになっていて、目の前にテニスコートがあった。ネットを上げるとバレーコートにもなって、体育館が使えないときは外のコートも使うことがある。
りんちゃんは中学校に入ってバレーボールを始めた。なんてポジションかは知らない。そもそも聞いてもわからないけど。私、運動音痴だからスポーツはからきしだ。
「三次先輩の人気はもちろんだけど、九条先輩も人気あるよねぇ」
光がそんなことを言うので、私は目を丸くする。
「そうなの?」
「そうだよ! 陸上部でもけっこう人気」
「えぇ、みんな騙されてるよ。りんちゃん良いのは顔だけだから」
「顔が良ければオールオッケーじゃん」
「ダメだよ。やぱり優しくないと! りんちゃん優しさ欠乏症だから!」
「奈瑠は贅沢だよ、九条先輩が幼馴染とか」
「そうかなぁ……」
りんちゃんは確かに格好良い見た目をしてるけど、物心ついた頃から一緒にいるせいか少しもときめかない。これが光のいう贅沢というやつかな。
二人に駆け寄る女の子が見えた。小さな顔にすらりと長い手足、肩の上で綺麗に切りそろえたショートボブの黒髪がさらさらと風に揺れている。スタイルが良いから、同じ制服を着ているとは思えない。
「梶原先輩だ! 生徒会二年がそろった。華があるよねぇ」
梶原睦美先輩。現生徒会役員二年生最後の一人だ。アイドル級に可愛い。そして笑顔がとにかく優しそう。超素敵だ!
「あそこに奈瑠が加わるなんてすごすぎ!」
やっぱりだめかも。そんな考えが浮かんでしまうので、更にぶんぶんと頭を振った。やってみるって決めたから、頑張れ私。自分らしくだよ。

