ー第六話ー

昭和四十二年十一月三日

ホテイアツモリ荘のカレンダーには金曜全校討論会と書いてあるのみ。全員、不安そうに顔を見合わせて談話室の畳に座っている。もうかなり寒くなった富士見高原、ストーブが二台焚かれており、史郎含める十人がみな炬燵に潜っていた。

麻子「絶対に間違いないわ。これは大量失踪事件よ!」
絹重「考えたくないけど私もそう思うしかないと思う。不自然だもの」
梅子「となると私達が消されるのも時間の問題なのね」
絹重「もう少し早く登校をしていたら今頃は私達も…」

絹重はこの世のものとは思えないような恐怖に引きつった顔をして下を向き、ちゃぶ台を見つめていた。

麻子「絹重さん…」
小平「大丈夫だよ、ドロシー」

恐怖に言葉を飲み込む絹重、小平が絹重の手を握って安心させる様に黙って励ました。


絹重「恐ろしいわ…今夜は早く眠りましょう」

その意見には誰もが同感だった。全員黙って頷き、寝室に戻っていく。絹重は再びカレンダーを見た。日付は十一月三日を指しており、三十日には赤丸がして「岩波毅」と書かれていた。つまりこの日は岩波毅の誕生日だという事だ。
絹重は座ったままタイプライターを打ち出した。そこに史郎が緑茶と羊羹を持って入ってきた

史郎「絹重さん、まだ起きていたのか?」
絹重「史郎さんこそまだ起きていらしたのね?」

史郎は絹重に持ってきた緑茶と羊羹を差し出す

史郎「あまり根詰めないように。食べて」
絹重「ありがとうございます」

羊羹を食べる。羊羹は栗羊羹らしい、史郎の髪と同じ淡くくすんだ黄色をしており、中には歪に切られた栗の実とミカンの皮が入っていた。絹重は羊羹を一口食べると、その美味しさに思わず目を見開いた。市販の味とは明らかに違う、その味にはぬくもりと愛がこもっている。

絹重「まさかこれ、史郎さんがお作りに?」
史郎「お味はどうかな?」
絹重「凄いわ!すごくおいしい!」
史郎「ありがとう。でもどうして僕の手作りだと分かったの?」
絹重「なんとなくです」

絹重は小さく微笑んだ

絹重「量産の味にはないぬくもりが感じられたの」
史郎も嬉しそうに微笑み、絹重の肩を叩いた

史郎「君も早く眠りなさい。お休み」
絹重「はい、おやすみなさい」

十一月二十九日

絹重は夜遅く、同じようにタイプライターを打っていた。あの日と同じように、史郎が絹重のためにお茶の子を用意して部屋に入ってきた。

史郎「明日は毅君の誕生日だね」
絹重「えぇ…」

不安そうな顔をする

絹重「だからとても心配なの」

史郎にお願いするように
絹重「岩波君はいつも、お誕生日には運動公園にクロケットの試合を加藤田君と一緒に見に行くの。明日もきっと行こうとしているんだわ。お願い史郎さん!行かないように止めて!明日は絶対に家にいるように!」

史郎も絹重の心情を理解したように頷いた。

史郎「分かった…」

そういうと史郎はすぐに部屋を出て毅の部屋へと上っていった。絹重は心配そうながらも再びタイプライターを打ち出す。打っている記事には「失踪事件から身を守るためには!?学生を突然の失踪から守るための運動活動」という見出しが書かれている。
絹重は史郎の出してくれたお茶を口にしながら黙々と記事を書いている。この日は薄切りのレーズンパン二枚と濃いめのダージリンティーだった。小さなミルクポットにはミントの葉の入ったはちみつが入っていた。史郎が毎日出してくれるお茶の子はみんな絹重の大好物だ。なぜ史郎は言ってもいないのに私の鉱物を分かってくれているのだろう?絹重はいつもそれが不思議だったが、そんな事はさほど気にしなかった。それよりも史郎のさりげない気づかいをとても嬉しく感じていた。辰雄と一緒にならばこの人が義理の父親になってくれる…心のどこかでそんなことも思っていた。

絹重「織重姉さんが史郎さんに夢中になるのも無理ないわ。私ももう少し大人だったらきっと史郎さんに恋をしていたと思うもの」

朝になると絹重はいつの間にかちゃぶ台に突っ伏せて眠ってしまっていた。十一月の三十日…この日はとても風が強くて寒い日だ。いつの間にか絹重の背には毛布が掛けられていた。おそらく史郎が掛けてくれたのだろう。

その頃…加藤田と小池との相部屋で眠る毅は一人で眠っていた。何処に行ったのか、加藤田も小池も姿がない。
しばらくすると部屋で電話のベルが鳴った。毅は寝ていたが、なかなか鳴りやまぬベル眠い目をこすりながら渋々起き上がり、電話に出た。

毅「はい、もしもし」

加藤田と小池はまだ暗い空の下、山小屋の表にいた。二人で旗竿のひもを引っ張って上げていた。旗竿には日本の国旗と共に、た
くさんのダイコンやニンジンが干されている。そう、それは凍み野菜だ。毎朝夕、この山小屋では凍み野菜の管理を当番制でやっており、今日は実は岩波毅の当番だったのだ。蒸して寒晒しにされた野菜はだいぶ乾いてくしゃくしゃに縮こまって来ていた。今年は早くから相当寒いという事がよくわかる。

午前六時

ホテイアツモリ荘の朝食時間だ。絹重が朝食の準備をし、辰雄と史郎と小平が絹重を手伝っていた。ちゃぶ台には毅以外のメンバーはみな揃っている。絹重は心配そうに時計を見た。

絹重「岩波君遅いわね。まだ眠っているの?」
麻子「学校いけなくなったからってさっそく寝坊ですか!」

麻子が鼻を鳴らす

麻子「ったく、フライパン叩き割って起こしてやる!」

麻子は男勝りの性格だ。フライパンとすりこぎを持って部屋を出ていくが、寝室に入ってみると、やはり毅の姿はなかった。丁寧に寝間着は畳まれており、布団は敷いたまま。机の上には水の入ったガラスのコップと濡れた干しとうもろこしが置かれており、蓄音器からはビーチボーイズが流れている。麻子を追って入ってきた絹重は麻子と共に不安そうに顔を見合わせた


絹重「いないわ…散歩に出たのかしら?いつ!?昨晩!?」
小池「いや、どこにも出かけてないよ」
加藤田「あいつとは昨晩も一緒に就寝したしな」
小池と加藤田も続いて入ってくる

小池「毅は夕べ、いびきかいて一晩中寝てたし」
加藤田「僕らが朝方に起きた時にはまだいたよ」
絹重「朝方に起きた時にまだいたって…どういう事!?」
麻子「あんたらまさか…何か知ってる?」

加藤田と小池は怪訝そうに顔を見合わせた。まさに「僕らを疑ってるのか」とでも言いたげな顔だった。加藤田はさらに絹重に責められているという事がどうも癪に障ったらしく、フンっと鼻を鳴らすと不機嫌そうに口を開いた。

加藤田「ホテイアツモリ荘の管理人さん、しっかりして下さいな。凍み野菜の当番…もうお忘れですか?」
絹重「それはもちろん知ってるわよ!でも今日は…」
加藤田「岩波毅が当番だったわけだろ?」
絹重「えぇ…」
小池「でも毅の奴、いくら起こしても起きないから僕と加藤田が上げに行ったんだ」
そこに史郎と辰雄も入ってくる

史郎「どうした?」
辰雄「早くしないとごはん冷めるぞ」
麻子「ダディー…」
絹重「辰雄さん…」

麻子と絹重は真っ青な顔で小刻みに震えている。辰雄と史郎も顔を見合わせて女学生の表情から尋常ではない何かを悟った。
辰雄「何かあった?」
麻子「岩波君がいないの…」
絹重「消えちゃったみたいだわ…」
辰雄「そんな…まさか」

史郎と辰雄もショックを受けたように言葉が出ない。小池と加藤田も黙って唇をかみながらうつむいている。さらにそこに二郎と小平も駆けつけた。


二郎「おい、みんな遅いぞ」
小平「何を話してたんだよ!」

二人も全員の顔を見る

二郎「どうした?」
辰雄「二郎に小平君…大変な事になった」

台所に戻ると事情を聴いた他のメンバーもお茶を飲みながら深刻な表情をしている。

二郎「嘘だろ…」
絹重「まさか私たちの仲間までが消えちゃうなんて」
二郎「ただどこかに出かけたとかじゃないのか?」
絹重「それなら気配ですぐにわかるはずよ!」
麻子「でも今日は一度も彼らに会ってはいないの!」
小池「僕も加藤田も毅とは同じ部屋ですが、あいつが出かけたところは見ていません」
絹重「今日、クロケットの試合を見に行く予定は?」

加藤田頷いて絹重を見る

加藤田「あいつの誕生日の恒例だからもちろんあったよ」
小池「でもチケットが今回2枚しか取れなかったんだ。それで昨日の夜は揉めたんだ」
麻子「なんで!?」
加藤田「もちろん、毅と一緒にどっちが試合を見に行くかでさ」

麻子は平手で小池と加藤田の頭をペシンと思いっきり小突く

麻子「はぁ!?くだらない!あなた達大人げなさすぎるわ!」

加藤田は絹重と小平に同情を求めた。それは絹重も小平も大のクロケット好きで、チームの大ファンでもあったから話を分かってくれると思っての行動だ。

加藤田「同じクロケットファンのドロシーと小平だったら分かるだろ!?今日はあのイギリスの強硬バッキンガム・シュガーリップスと入笠レイクスの試合なんだぜ!?誰だって見たいと思うだろうよ!」
小平・絹重「確かにそれは分かる…」

小平と絹重、大きく頷く

小平「問題は毅が何で消えたかだ」

小平は疑うようなまなざしで加藤田と小池を見る

小平「ひょっとしてお前ら、本当はなんか知ってたりして!?」
加藤田「なんだよ!?まさか僕らを疑ってるのか!?」
小池「心外だ!僕らも同じ蜂の巣の仲間なんだ!どんなに腹が立とうがもめ合おうが、仲間を消すはずがない!」

絹重、とても不安そうに顔をしかめてグーッと思い切り下を向く。小平がそんな絹重に気が付いて肩を抱き寄せた

絹重「怖いわ。私達ももうすぐ消されるのかしら…」
小平「大丈夫だよ。僕、必ず君の事を守る。決して君を一人にはさせないし、何処にも行かせない」
絹重「小平君…」
小平「僕らが着いてるよ」

なんだかまるで求婚の言葉の様だった。小平は緊張で震える手で、悲しみと不安に怯えた顔をした彼
女の体に手を回して自分の胸に抱きよせる。絹重も小平にしがみついた。全員はそれを見逃さず、思わず冷やかしの歓声を上げる。

全員「Oww!」

小平はそれに気づいて慌てて絹重を話そうとするが、絹重はそのまま小平にうつかったままだった。小平の心は冷やかしに恥ずかしさを感じながらも本心では嬉しさもあり、長年好きだった絹重にやっとかなり近づけたように思えていた。この事を機により小平は、絹重を傍で守りたいと思う様になり、全てが片付いて少し落ち着いたら絹重に交際を申し込もうと強く決心するようになっ
ていた。

翌月12月中旬の早朝

まだ誰も起きてはいないホテイアツモリ荘の台所。絹重の割烹着をつけてルンルンと炊事をし出す人影がいた。絹重ではなく小池だ。この小池修という男も、絹重に片思いを寄せている一人で、この日はいつも朝から晩まで休むことなく働いている絹重のために、サプライズですべて朝食の準備を済ませようという計画を立てていたのだ

小池「今日はドロシーもまだ起きていないし、たまには朝食の準備でもしといて驚かそうかな」
そこに加藤田と史郎も起きてくる。史郎ははちみつツボを持っている

小池「あれ、加藤田おはよう」
加藤田「おはよう。お前、早いな」
小池「うん、早く目が覚めたもんだからたまには僕が朝食でも準備しようと思ってさ」
加藤田「富士見町一早いと言われるドロシーのトランペットより先に起きるとはな」

加藤田は笑って小池の背をこぶしで叩く。小池は史郎がいる事にも気が付いた

小池「史郎さんもおはようございます」
史郎「おはよう、みんな早いね」
小池「史郎さんこそどうしたんです?」
史郎「僕が旗上げとはちみつ蔵の当番だからさ」
小池「そういえばそうでしたね」
小池は史郎の持っているはちみつツボを見た。石でできた年期物のとても古いツボだ。まるで縄文土器を思わせるような見た目だった。

小池「それは何のはちみつですか?」
史郎「リンドウだったと思うよ」

史郎はツボの蓋を取って香りをかいで目を閉じる。とても甘くて麗しい香りが漂ってきた。
史郎「やっぱりそうだ!うーん、いい匂い!」
史郎は人一倍嗅覚がよかった。目は生まれつきの弱視でほとんど見えないが、その代わりに聴覚と嗅覚、味覚は一般の誰よりも何倍も発達をしており、絹重にはいつもその能力を生かしてハチミツの味見などを任されていた。

小池「史郎さん、そんなに味覚と嗅覚が鋭いのならそういう職業に着けばいいのに」
史郎「趣味でやってるからいいんだ」

史郎はふふふっと笑う。自分でも自覚はしていた。

史郎「目が悪い分、嗅覚、味覚、聴覚は一般の倍以上発達しているみたいで」

小池を見てはちみつツボを差し出した

史郎「なめてみる?」

それを聞くと小池も目を輝かせて何度も頷く。史郎、微笑んでスプーンでハチミツをすくって小池に手渡すと小池はなめて満面の
笑みを浮かべる

小池「おいしい!」
加藤田「僕にもください!」
史郎「はいよ!」

史郎は同じように加藤田にもスプーンを渡す

加藤田「うめー!なんだこのハチミツは!」
史郎「だろ?僕もこのリンドウのハチミツはお気に入りなんだ!」

史郎はツボを置いて割烹着をつけ、頭に白手ぬぐいを巻いた。

史郎「朝食、僕も手伝うよ」
小池「ありがとうござます!」
加藤田「なら僕もやるよ!」

男三人で台所に立つ。台所には男子はいらべからずのこの時代、ホテイアツモリ荘にはその概念はなく、学生たちで家庭科体験の一環として、和気あいあいと仕事を分担して暮らしていた。

朝八時

史郎一人のみ。台所のちゃぶ台の前に座って、朝食の料理を前にげっそりとやつれ、真っ青になっている。しばらくして二郎、辰
雄、麻子、小平、梅子が起きて来た。

辰雄「おはようございますダディー!絹重さんは?」
史郎「…」
史郎は黙って外を指さす
辰雄「?」
麻子「いつもの朝よ。入笠湖の畔でトランペット吹いてるわ」
辰雄「なるほど」

耳を澄ませるとトランペットの音色が聞こえてくる

辰雄「本当だ」

麻子はきょろきょろと辺りを見回した。跡二人、姿のない人がいた。

麻子「なら小池君と加藤田君は?」

史郎、二人の名前を聞いたとたんに目を見開いて震え出す。

麻子「ダディー、どうしたの?」

史郎は震える声を出した。左手で湯呑を持っているが、中のお湯が今にもこぼれそうなほど震えている

史郎「まだ帰ってこないんだ…」
麻子「え?」
史郎「一緒に朝食を作ってて、小池君は薪が終わったから薪を割ってきてくれると言って外に出て行った。加藤田君は朝は寒
いからって僕の咳の事を心配して、はちみつ蔵の仕事を代わってくれて行ってくれたんだけど二人ともそれから戻って来ない
んだ」
全員「えぇ!?」
絹重「私、薪蔵とはちみつ蔵を見てくるわ」

絹重はそういうと急いで出ていく

小平「僕も一緒に行ってきます!彼女を一人にできない!」

小平も絹重を追った。はちみつ蔵と薪蔵に着くも誰もない。しかし両方の蔵の中には洗われた干したトウモロコシと冷水がガラスコップにくんであるのが見えた

絹重「これって…」

絹重は震えながらもろこしとコップを手に取る。小平は絹重がショックに倒れないよう、彼女の体を支えた。そこに心配になった史郎も駆けつけた

史郎「絹重さん!?」

光景を見てショックに息をのむ
史郎「そんな…嘘だろ」
絹重「史郎さん…」

絹重は史郎に背を向けたまま震えている

絹重「はちみつ蔵にも…同じものがあったわ。でもどこを探しても加藤田君も小池君もいなかった」
史郎「そんな…」

朝食の席。残りのメンバーはみんなとてもしんみりしている

麻子「まさかあの二人までいなくなっちゃうだなんて」
辰雄「小池君と加藤田君には持病はあった?」

絹重、きょとんと考える

絹重「持病?多分二人にはなかったと思うけど…どうして?」
辰雄「いや、なんとなくね」
絹重「私…部長失格だわ。監督不届きだった」

絹重は落ち込んで机に突っ伏せた。両隣に座る麻子と小平が絹重の背を擦って彼女を支えた。

麻子「絹重さんは悪くないわ。それに絹重さんが一番部長にふさわしいからみんなあなたに選んだのよ」
小平「そうだよ。この事に関して君には何の責任もない」
史郎「僕の責任だよ…」

史郎が震える口を開いて、恐怖に目を見開きながら放心状態ながらも続けた

史郎「僕が一緒にいながら…こんな時に二人を庭に出したのがいけないんだ。僕も一緒にいるべきだった」
辰雄「だからダディーも悪くないんだって!そんなに自分を責めないでください」

史郎は時々激しく咳き込んだ

辰雄「ほらダディー、変な気遣いはご持病によくありません。ダディーは何も考えずにゆっくりと休んでください」
史郎「ありがとう。我が息子ながら…デレクは優しい子に育ったね」
辰雄「ダディー…改まってデレクだなんて呼ばないで」

翌月の昭和四十三年一月

寒く凍みる昼過ぎの時間。梅子が庭で鼻歌を歌いながらはちみつ湯を作っている。梅子が大好きなプレスリーのハートブレイクホテルだ。するとそれを聞いていた小平も小粋に梅子の真似をしながら歌っ
て彼女に近づいた

小平「気取りや女!」
梅子「その呼び方やめなさいよ!」
小平「だってさ」

再び小平は梅子の物まねをして歌いだす

小平「すっかりエルヴィス気取って歌ってたくせに!」
梅子「何よ!あなたこそ一人でマリリンモンローになりきって歌ってるくせに」
小平「そんなのいつ見てたんだよ!この変態女!最低だな!」
梅子「あなたみたいな男、一生結婚できないわね!」
小平「お前こそ、嫁の貰い手ないな」

梅子は小平にはちみつの入った革袋に針で穴をあけて投げつけた。袋は見事小平に命中して、小平の顔面で破けて小平ははちみつまみれになる

小平「Eww…べとべとで気持ち悪い」

梅子を鋭くにらむ

小平「お前、この仕返しは重いぞ」

ぶつぶつ言いながら着替えるために戻っていく。入れ違いに水ガメを持った史郎がやってくる

史郎「梅子さん持ってきたよ。これでいい?」
梅子「史郎さんありがとうございます!」

梅子は史郎を見てうっとりとしたまなざしになる
梅子「史郎さんって素敵だし気が利くわ。私、史郎さんのような男性と結婚したい」

史郎も照れ笑い

史郎「本当?そう思ってくれると嬉しいよ。ありがとう」
梅子「では史郎さん、早速はちみつ湯の味見をして下さる?」
史郎「もちろんいいよ」

史郎ははちみつと水ガメに入った熱湯を調合してはちみつ湯を作り、一杯ずつ試飲をする。

史郎「ん!これはハンガリー・ブダペスト産のエリカ赤色のハチミツを使ったね」

梅子、驚いてハチミツのラベルを見るとさらに驚く
梅子「凄い!正解です!」

史郎、微笑んで次のはちみつで調合する

史郎「これは…」

梅子はいたずらっぽい顔で史郎を見つめている。何かひっかけがあるような顔だった。

史郎「富士見町乙事産の黄金アカシヤだね」
梅子「Ooh nuts!」
引っかかるかと思っていた梅子は、大正解に呆然。土の上に手をついて頭を下げ礼をした。

梅子「恐れ入りました…」

そう言って割烹着を脱ぐと、梅子は史郎に割烹着を預けて

梅子「史郎さん、ちょっとこのブース見ててくださります?私、ちょっと入笠湖の方に行ってきます!忘れ物に気が付いたの!」

と言って走っていく。史郎はその間にもいろいろなはちみつ湯やはちみつを試飲試食をした。

その日の夜十八時。

夕食の席には梅子と消えたメンバー以外の全員が集まっている。小平は少々イライラしていた。

小平「梅子の奴は遅いな…一体何やってるんだ?」

おなかが鳴る

小平「いい加減お腹空き過ぎて気分悪くなってきてるんだけど」
絹重「仕方ないわ、申し訳ないけど先に食べていましょう。もし七時を回っても戻ってこなかったら探しに行くわ」

絹重、史郎を見る

絹重「そういえば史郎さん、昼間梅子さんとはちみつ湯を作っていらっしゃいましたけど…彼女がどこに行ったか知りませんか?」
史郎「途中までは一緒にいたんだけど、彼女が入笠湖に忘れ物をしたからその間屋台番をしていてくれって頼まれたけど、それが最後だよ。あの後帰っても来なかった」

史郎は絹重の方も心配そうに見た

史郎「梅子さんはヒュッテにも帰っていないのか?」
絹重「えぇ…」

全員、不吉な予感にかられて顔を見合わせる

十九時の入笠湖。

全員が駆けつけるが夜の闇のせいで何も見えない。夜の高原は冷えこみ、防寒をしなければとてもではないが一分といられなかった。史郎はランタンをともしながら学生たちを誘導。入笠湖を一周回ってみると、梅子の履いていた赤い靴が畔にそろえて脱いであり、その中に白い靴下が入っているのが認められた。

史郎「これ…」

史郎は靴を拾い上げて絹重に見せると、絹重も黙って頷く。

絹重「まさしく梅子さんのものよ。ですてこれ、梅子さんの誕生日に私がプレゼントをしたものですもの」
小平「確か、僕のおやじに頼んでくれたんだよな」

史郎は小平と絹重を見る。そういえば史郎はまだ知らなかった。小平の父親は腕利きの靴職人でもあったのだ。どんな靴でも希望通りに、その上頑丈に作ってくれる。

絹重「そう…小平君のお父様は腕利きの靴職人だものね」
小平「しかしなぜ…」
絹重「梅子さんは湖に落ちたという事!?」

ぶるぶると震えだし、目には涙がたまってくる

絹重「梅子さんは…亡くなってしまった?」
小平「ドロシー大丈夫だよ。梅子は…あいつは絶対死んでなんかない」
絹重「ではどこに行ってしまったの?これも失踪事件だというの!?もうこれで四人目よ」

絹重はたまらなくなって小平に身を寄せる。小平まで消えてしまうかもしれない…そんな恐怖が頭をよぎってとても怖かった。

絹重「小平君、あなたは消えてしまわないわね?ずっとここにいてくれるわね」
小平「安心しろよ、僕は何処にもいかない。決してこのヒュッテを出ないと約束する。君の傍にいるよ」
絹重「えぇ…」
小平「君こそ、どこにも行くな。僕らの傍から消えるな」
絹重「もちろんよ、私は決してどこにも行かない」

小平もその気持ちは同じだ。絹重が消えてしまうかもしれないという恐怖と不安に心が支配され、い
てもたってもいられなかった。小平は万が一の事を考えて、収拾を待たずに絹重に思いを伝えようと何度も思った。しかし「ずっと君が好きだった」と喉まで出かかるのに、彼女を前にしてはどうしても声として出す事が出来ずにいた。

メンバーは夕食の席に戻った。梅子の安否を確認するべく、夕食を中断して家を飛び出たのでみんなはまだ食べかけだった。絹重に関しては全く手を付けていない。しかも彼女は不安と疲労から咳込みが悪化し、とても辛そうにしていた。両隣には辰雄と小平が座っており、二人は絹重の体を支えたり、背を擦ったりしている。特に、小平は食欲のない絹重を心配した。

小平「少しでも何か食べなくちゃ、今度はドロシーがどうにかなっちゃうよ」
絹重「喉を通らないわ…」
小平「待ってろ」

小平は自分の食事を後回しにして立ち上がり、台所に行って火をおこした。

小平「辰雄さん、ドロシーの事を頼む」

小平は絹重の介抱を辰雄に任せ、雑炊を作り出した。辰雄はその間も咳に苦しむ絹重を介抱し、傍に着いていた
数十分後、小平がやっと調理が終わって絹重に雑炊を持ってくる
小平「ほら、雑炊できたから食べろよ」
絹重「ありがとう…本当に小平君って優しいのね」
小平「そう?」
絹重「あなたという友達を持って本当に良かったわ」
小平「僕も。食べられる?」
絹重「えぇ…いただきます」

隣に座る辰雄も二人のやり取りを微笑ましく見守るが、心の奥底ではなぜか虚しさと切なさが入り混じったような複雑なもやもやを感じていた。まただ…
いつでも小平と絹重のやり取りを見るたびに、辰雄の心にはチクチクとげが刺さったように、定期的にこの感覚が押し寄せる

絹重「やっぱり小平君の味はおいしいわ。野沢菜なのね」

絹重は食べながら満面の笑みで小平を見た。

小平「そう。古漬けがまだあったからね」

絹重は小平の穏やかな笑顔になんだかとてもほっこりとした

絹重М「あなたの様な男性と一緒になれたらどんなにか幸せかしら?」
小平「ん?今何か行ったか?」
絹重「いいえ、何でもないわ」

絹重も食べ進めるが、彼女の心も複雑に揺らめいていた。両隣に座る幼い頃からいつもそばで支えてくれてとても頼りになって優しい男性の小平と、まだであって三年と少しだけど、いつも親切で小平にはない大人の男性としての魅力がある辰雄…私は彼らに恋をしているのか?それともただ、恋に恋をしているだけなのか?優しさにおぼれているだけなのか?まだ十六歳の幼い絹重にはまだそれが理解できなかった。

その日の夜。夕食も済み、歯を磨いて髪を洗い、寝室に就いた後、辰雄と二郎の相部屋では二人でギターを抱えて弾き語りをして
いた。「♪I said the louie louie」とキングスマンのルイルイを歌っている。歌が終わると二人はハイファイブをした。
ギターが終わると、二郎は辰雄に声をかけた。

二郎「なぁデレク」
辰雄「ん?」
二郎「明日時間ある?」
辰雄「うん、午前中のはちみつ試飲会が終わったら時間あるけど」
二郎「だったらさ、はーるかぶりに入笠牧場で乗馬しないか?」
辰雄「乗馬?」
二郎「ネブラスカにいた時よく一緒にやっただろ」

二郎は小粋にジョーク的なジェスチャーをした。しかし辰雄は気乗りしなさそうな返事を返す

辰雄「まだ乗り方わかるかな…」
二郎「体が覚えてるさ」
辰雄「うーん」
辰雄は少し考えてから首を傾げつつ頷いた。

辰雄「分かったよ。明日の午後、入笠牧場で乗馬やろう」

辰雄はまた考えてから二郎を改めてみた。

辰雄「ところでなぜ急に乗馬?こんな真冬に?」
二郎「忘れたか?」

ニヤリとする

二郎「明日は二月の十四日!バレンタインデーの乗馬ってイベントがあるだろ。恋人同士で乗馬散歩するやつ」
辰雄「Huh?」

辰雄は怪訝な顔をして二郎を見た。自分の耳を疑いたかった
辰雄「今…恋人同士って言った?」

二郎、真顔で頷く。辰雄は少し身を引いた。まさか二郎はそういう気持ちで僕に近づいているのか?

辰雄「それなのになぜ僕を誘う?」

辰雄は身をグーッと引きつつ目を見開いて一震え。
辰雄「まさかお前…いやいやいやいやいや!僕は男に興味はないからな!」

二郎はそれを聞くと大笑いをし出した

辰雄「なぜ笑う!?」
二郎「何を変な勘違いをしてるんだ!まさかお前を恋人として誘うわけないだろ!」

辰雄は胸をなでおろした

二郎「ダブルデートでだよ!僕は僕で女を誘うからデレクも女を誘っていこう」
辰雄「僕、誰もいないぜ?」
二郎「ひとり気になるやつ、いるだろ?」

ニヤリとして辰雄を見る

二郎「ここの女将、平出絹重さんだろ」

それを聞くと辰雄は急に真っ赤になっておどおどし始めた

二郎「図星だろ!」
辰雄「そんな…僕、でも…Mr…you」

辰雄、もう自分が何を言っているのかわからないが、落ち着いてから深く長いため息をついた。まさか僕が彼女を好き!?親友の二郎に改めて言われて、辰雄は初めてその気持ちに気が付いた。僕は絹重さんに恋をしていたのか?彼女の事が好きなのか?
でもそれを感じたところでどうにもならない。だって彼女は…

辰雄「絹重さんは無理だよ…」

辰雄は悲し気に笑った

辰雄「バレンタインデーならなおさらだ。彼女には先約がいる」
二郎「先約!?あの子ってもう…いるの?」
辰雄「分からないけど…想像はつくよ。絹重さんは小平君の事が好き。そして小平君も絹重さんの事が好き」
二郎「Waoh…」

二郎は驚きつつ辰雄の肩を叩いた

二郎「でもそこであきらめるってのは男らしくないってもんだろ!昭和男児ってのは当たって砕けろだ!ダメもとでもやってみろ!その代わり、彼女の心をつかむように努力は忘れないこと」

辰雄、乙女のように下を向いてもじもじしていた。それを見て二郎はさらに冷やかしたように笑って肩を一発強く叩いた

二郎「お前、女みたいなやつ」
辰雄「いきなり何をする!?」
二郎「ま、そこがお前の魅力ってやつか」
辰雄「魅力とか言うな。お前に言われると気持ちが悪い」

二人は再びハイファイブをしてギターを弾き出した。

翌日二月十四日。

入笠牧場乗馬イベント。辰雄と絹重、二郎と織重の組み合わせで参加をしている。風は穏やかで気温は一度、とても暖かかった。

絹重「辰雄さん、今日は誘ってくれてありがとう」
辰雄「こちらこそ来てくれてありがとう」

辰雄は紳士のように絹重を馬にエスコートをした。さすがは日系アメリカの男性という感じだ。父がネブラスカの牧場育ちのせいか、馬の扱いにはとても慣れていてうまかった。絹重はエスコートされて馬に乗る

絹重「Mercy beaucoup」
辰雄「Ooh-lala」

辰雄も絹重の後ろに乗って絹重を支えながら手綱を握る。二郎と織重も同じようにした。辰雄はそんな二郎を見て不思議そうにしていた。なぜなら相手が織重だからだ。そちらに非があったわけでもないが、とにかくとんでもない別れ方をし、今は史
郎と恋仲になっていて、しかも史郎が恋い慕っている相手が二郎とパートナーなのだ

辰雄「お前、織重さんと復縁したの?」
二郎「え?」
織重「そんなわけないわ。二郎君とはただのお友達。今日は友達として誘われたの」
辰雄「ダディーが泣くぞ」

織重、しとやかに笑う
織重「大丈夫よ。史郎さんには許可は取ってある」

織重はうっとりと、でもとても切なそうに笑う

織重「本当は私、あの人と来たかったの。でもあの人は肺がお悪いでしょ?乗馬なんてやらせたくないのよ」
二郎「君は史郎さんを愛してる?」

織重、うっとりと頷く

織重「もちろんよ。あの方は本当に心もお姿と似つかわしくとても美しい方よ。今の私はあの方だけを愛しているの」

振り返って後ろに座って手綱を握る二郎を見る

織重「もし私に未練があるのならもう諦めるべきだわ。あなたのためにもね」
二郎「分かったよ」

笑いながら

二郎「いつか僕も君を見返すような男になって、君も嫉妬するような女性と幸せになって見せるさ」
織重「期待してる」
二郎「なんだよその期待してるって」

二人、笑いながら二組で乗馬を楽しむ。しかしハードルのあるところで、辰雄の馬はきれいに飛び越えるが、二郎の馬は突然嘶いて暴れ出し、二郎はバランスを崩す

織重「二郎さん!」
辰雄「二郎!」
織重は間一髪、バランスを取り持って手綱を持ったまま馬に乗っている。二郎はそのまま落馬してしまう。

織重・絹重「二郎さん!」
辰雄「二郎!」

他の三人、急いで馬を下りて二郎を助けようと探すが彼の姿が見つからない。一面の雪景色の高原、氷柱も氷も凶器になりゆる危険な冬。万が一落ちどころが悪ければ二郎は重症か、最悪生きていられないだろう。三人は乗馬どころではなくなって必死で二郎の姿を探した。
辰雄「二郎の奴、どこか遠くに飛ばされたな」
絹重「そんな…二郎さんはご無事なの!?」
辰雄「分からないが…あいつはそう簡単に死ぬような奴じゃないってのは確かだよ」
織重「きっとどこかで二郎さん、痛みに苦しんでいるわ。早く助けてあげましょう」
辰雄「そうだね」

辰雄は絹重を見る

辰雄「絹重さん悪い、救急隊に電話をかけてきてもらえるか!?」
絹重「分かったわ!」

絹重は走ってヒュッテの方に向かって走っていく。数時間後、半径10キロ圏内を救助隊や3人で探しているが、二郎は見つからなかった。やがて夕方になって外気がさらに冷えてくると雪が降ってくる。救助隊はじめ、三人の体力も極寒の中限界になってきて、捜査は困難になった。二郎が生きていることを祈りつつ、再捜索は明日に繰り越すことになった。
 全員が帰った後、二郎の落馬した辺りには寒さですっかり凍ったガラスコップに入った水と、やはり霜が付いてすっかり凍み上がった乾燥トウモロコシが置かれている

夕食時のホテイアツモリ荘

結局、ごちゃまぜ家族のメンバーは辰雄、史郎、麻子、絹重、小平、織重だけになってしまった。六人は談話室で夕食を食べつつ緊急会議を始めた

絹重「二郎さんも事件に巻き込まれてしまったって事?」
辰雄「考えたくないけどそう考えるのが一番いいのかも」
絹重「二郎さんまでいなくなってしまうなんて」
麻子「ねぇダディーにデレク兄さん、これから私たちどうするの?これ以上の失踪をどうすれば防げるの?」

史郎と辰雄、顔を見合わせてから切なそうに首を振る。誰にもこの失踪事件の阻止をする方法は分からないし、原因や犯人すら…いや、犯人というものがそもそもいるのかどうかさえ分かっていない。警察の捜査班に分からないことが一般の高校生たちに分かるはずがない。それが分かっていたらとっくに全国でも事件は収拾しているだろう

麻子「そうなのね」
織重「二郎さん…まさかこんな風に別れる事になってしまうだなんて」

もう復縁の可能性はない普通の友達同士と言っても、織重にとって二郎は一度は愛した男性だ。ショックはやはりかなりのものだった。

絹重「織重姉さん、きっと二郎さんは生きてどこかにいらっしゃるわ。信じていればきっと生きて会えます」
織重「絹重ちゃん、ありがとう」
史郎「織重さん」

史郎は何かを決心したように織重を見つめた。史郎にとっても織重は大切な女性だ。史郎も父親であ
っても一人の男性だ。男性として愛する女性を守りたかった。今の織重は一人暮らしをしている、いくら学生ではないと言い、このご時世女性の一人暮らしはとても危なかった。

史郎「今はお一人暮らしなんでしょう」
織重「えぇ…」
史郎「この時世、一人暮らしは危険だ。織重さん、この家で一緒に暮らそう。あなたの身を守るためにも」
麻子「そうね、織重さんはお一人で暮らしているんですもの危険だわ」
織重「私がここに?いいのですか?」
史郎「もちろんです」

史郎は他四人を見渡す

史郎「みんなもいいよな」

全員も微笑んで強く頷いた。「決まりだ」

史郎は穏やかに微笑んで織重を見た

史郎「織重さん、これからはあなたも危険になります。早いところここに越してきてください」
織重「史郎さん、絹重ちゃん、みなさんもありがとう。私もここに来る以上、史郎さんとともにみんなの事を守ります。私たち六人だけでも無事に残りましょう」

全員、強く頷き合って手を重ね合わせる

六人「蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」
















ー第七話ー

翌月の昭和四十三年三月三十一日深夜11時。

小平は一人部屋である。自室にこもって一人本を読んでいた。小平の愛読している堀辰雄だ。すると突然木のドアをノックの音がして、小平は本から顔を上げてドアの方を見た

小平「どうぞ」
絹重の声「平出絹重です」
小平「入れよ」

不安そうに笑いながら入ってくる絹重を見て小平は本を閉じ、絹重を見ると嬉しそうに微笑む

小平「どうしたんだよ急に?」
絹重「なんだか急に怖く不安になっちゃって」

小平、微笑んで絹重に向かい合う。絹重、小平の前におつくべする

絹重「私、今まで眠っていたの。でもとても恐ろしい夢を見たの…だから来た」
小平「どんな夢?」
絹重「あなたがこの家を出て消えて行ってしまう夢よ。雪の深い入笠山をどんどん歩いていくの。そして入笠湖の近くに来た時、深い霧に包まれながらあなたは消えて行ってしまう」

絹重、不安で泣きそうな顔をして小平を見る

絹重「お願い小平君、あなたが消えてしまいそうで本当に怖くて眠れないの。だからどうか、今夜だけはここに置いて」
小平「言っているだろ、僕は何処にもいかないんだって」

絹重、小平の腕を強くつかんで激しく首を振る。小平も呆れたように笑う

小平「分かったよ。今日はここにいろよ、一晩中付き合うから」
絹重「ありがとう」

絹重と小平はお互いに寄り添う

絹重「小平君の方って暖かいのね」
小平「当たり前だろ、生きているんだから」
絹重「えぇ…小平君は生きてる」
小平「ドロシーだって生きてる」

二人、しばらく一緒に堀辰雄を読んでいるがやがて眠ってしまう。

同じ日の夜の談話室では織重が暖炉の前で繕い物をしながら手紙を読んでいる。そこに史郎が赤飯饅頭とお茶を持ってやってくる。織重、慌てて手紙を茶色い封筒にしまって懐に隠す


織重「史郎さん、お疲れ様です」
史郎「織重さんこそこんな遅くまでお疲れ様。何を作ってるの?」
織重「これ?」
史郎「見せて」

織重、奥ゆかしく笑って手を止め、史郎を見る

織重「八月三日まで待ってて」
史郎「8月3日?」
織重「トミさんとのご婚姻記念日でしょ」
史郎「あぁ…」

フフッと笑って、まだ作りかけの衣装を史郎に見せる。青い紅葉柄の甚平だった

織重「あなたったら確か、スカイダイビングをなさったんでしたっけ?」
史郎「そんな話をまだ覚えていたんですか」
織重「これはあなた用の甚平よ」
史郎「これ…」

史郎にはどこか懐かしい柄だった。史郎は遠い昔を思い出すようにその甚平を見つめた。織重はまた小さく笑って恥じらい気に頬を染めた。

織重「私には決してそんなことしないでね。私、トミさんみたいに強かでかっこいい女性じゃないの」
史郎「え?」
織重「意味…分かってくれましたか?」
史郎「織重さんという方も…」

史郎も照れ笑いして織重を優しく小突く

史郎「それは僕に求婚をしているという事ですか?」
織重「あなただって悪くはないでしょう」
史郎「織重さんは何もしないでくださいね。こういう事は男の僕が先に動くものなんですから」
織重「はいはい」

織重は繕い物を続ける。史郎は織重の指に、織重が繕いで使っていた白い絹糸を二本数センチ切って、自分の指と織重の指に水引結びをして「また顔を出しに来ます」と呟いて微笑みながら部屋を後にした。史郎は改めて織重に対する愛情を実感し、トミ亡き傷を埋めてくれる女性は彼女しかいない、彼女と一緒になろうといつしか思う様になってた。史郎は自分の指にはめていたトミとの婚姻指輪を抜き、ポケットにしまう。そしてポケットからは小さな箱を取り出して、史郎は確認するように中を開けた。小箱の中にはオパールのついた金色の指輪が二つ入っていた。
織重はというと、史郎が出て行ったのを確認してから手紙を取り出して粉々に破き、暖炉の中に焼き捨てた。そして再び繕い物を始め、史郎に結んでもらった指の糸を微笑んで見つめる。

昭和四二年四月一日の朝

辰雄、絹重、麻子、史郎、小平の五人が食卓を囲んで食事を待っていた。今朝の食卓は史郎が準備し、織重の好きなものばかりが並んでいる。マイタケの味噌汁にお竹煮、塩気のごはんにうどのおしたし、おばり豆だった。しかし史郎は嬉しそうではなく、とても神妙な顔をしていた。麻子が史郎の顔をのぞき込む
麻子「ダディー、どうしたの?」
史郎「気になる事が一つある」

史郎がかすかに震える声で囁くように言った

史郎「この中で…まだ今日、見かけていない人がいないか?」

全員、顔を見合わせる。そういえばそうだ!織重の姿がまだない。史郎もとても重く頷いて更に声を潜めた。

史郎「僕は…彼女を確認しに行く勇気がないよ」
辰雄「でも大切な人なんだろ?」
史郎「あぁ…しかし」

辰雄は史郎を励ますように背を擦る。史郎は生気のない顔で一点を見つめてうつむいているだけだった

辰雄「ダディー自身が行くべきだよ」
史郎「うん…」
辰雄「大丈夫、さぁ…」
史郎「分かったよ…」

辰雄に背中を押されて史郎は震えながら廊下に出る。廊下を歩き、談話室の扉を開けた。閉じた口元は固く真一文字に結ばれ、震える手足をどうにか制止させて入室をする。ビーチボーイズのレコードが蓄音器から流れているが織重の姿はなく、こたつ板の上には縫いかけの甚平と繕い物セットが置かれているだけだ。赤飯饅頭と玄米そば茶は全て空になっている。お盆の上にはメモ書きが残されており、近くには生のとうもろこしと水が置いてある

「史郎さん、いつもありがとうございます。お疲れ様。平出織重より(あなたを心より愛しています)」

メモにはこう書いてあった。史郎はメモを手にとって読むと手足はこれ以上ないくらいに震え出す

史郎「織重さんまで…どうして」

史郎はショックで崩れ落ちた。俯き、床に手をつくと床に涙が零れ落ちる
史郎「僕がこの家にいながら守ってあげられなかった。昨日部屋を出ずに一晩中一緒にいてあげればよかったのに…本当にごめん」

辰雄と麻子と絹重も応接間に駆け付け、史郎の様子から状況を察する。史郎は床に両手をついて俯いたまま静かに泣き続け、床には沢山の涙がたまっていった。こんなに悲しく泣く史郎を見るのは初めてだった。三人の学生もとてもその姿に心を痛め、泣き続ける史郎を慰める

絹重「史郎さん…」
麻子「ダディー…」
辰雄「泣くなよ…ダディーのせいじゃないよ」

辰雄は史郎の背を擦る。そこに小平も入室してくる

辰雄「ほら、こういう時こそ楽しい思い出を作ろう!僕らだけでもね。ダディーがそんな顔してたら麻子も絹重さんも可哀想だ
よ」
小平「そうですよ!明るい事を考えて過ごしましょう!」

切なげに笑う

小平「本来ならば僕らはもう高校最後の年なのにな…」
辰雄「小平君!」

辰雄が小平の言葉を遮る。辛い事は絹重たちにも思い出してほしくはなかった。

小平「はい、ごめんなさい。もう言いません」
絹重「小平君は卒業後の進路は何を希望していたの?」
小平「新聞理論を学べる大学。僕も君と同じく新聞記者になりたいんだ」
絹重「あら意外!」
小平「どうしてさ?」
絹重「だって私、小平君はずっとシジミ亭を継ぐか、ピアノが上手いから音楽の道に進むかと思っていたもの。せめてコンク゚
ールとかにでも出ればいいのに」

小平はそれを聞いて切なげに、でも小粋に笑った

小平「ピアノはただの趣味。大切な誰かのために弾ければそれでいい」

意味深に絹重を見た。微笑んだその顔はピンク色に染まっていた
小平「音楽ってそういうもんじゃないかな?」
絹重「え?」
小平「僕は音楽を使って誰かと競うような事はしたくない」
絹重「あなたらしいわね」
小平「君こそ、あんな天使のソプラノを持っているのにその喉を使う仕事をしないだなんて勿体なくな
いか?それにトランペットだってあんなに上手いのに」
絹重「私も…あなたと同じ理由よ」

微笑んで小平を見つめる。小平は思い出した。絹重に好意を寄せた最初の記憶…彼女の見せたこの奥ゆかしい笑顔だった。飾り気もない自然な優しい笑顔、あの頃と全く変わっていない、小平の心をときめかせた顔だった

絹重「大切な誰かのために演奏できればそれでいいの。それでその大切な誰かが喜んでくれればね。音楽ってそういうものじゃないかしら?」


小平、言葉をまねする絹重の額を笑って小突く

小平「そうだね」

その時、開いた窓から強い風が吹いてきて絹重は同時に咳き込んだ。小平は絹重の背を擦った。なぜだろう?絹重は中学生の頃から咳き込むことが多くなった。小平はそれを凄く案じていた。何か悪い病気ではないか?だとしたら、早く病院に行って検査をしてほしい…これが小平の想いだった

小平「大丈夫か!?」
絹重「えぇ…いつもごめんなさい」
小平「ドロシー、最近本当に変だぞ。病院に行って検査してもらえって」

絹重、小粋に笑う

絹重「だでおっこーよ。ただの乾燥で病院なんか行かれないわ」
小平「ドロシー!」


絹重は中学生の頃から小平にこの言葉を何度も聞いている。心配してくれる彼の思いやりはありがたいが、絹重には金銭的にも時間的にも病院に行く余裕などなかった。絹重が小平も口を遮ると彼もあきらめたように笑って口を閉じた。絹重は手を出す

小平「その手は何?」
絹重「小平君、いつも持っていらっしゃるでしょ。ドロップ下さいな」
小平「お安い御用で」

小平はポケットからドロップの缶を取り出して、絹重にドロップを出す。絹重の手には不思議な虹色に輝く宝石のようなドロップが出てくる。なかには琥珀が入って来て、絹重はその美しさに目を輝かせた

絹重「きれいだわ」
小平「すげー…僕も初めてだ。虹色のドロップなんて本当にあったんだ!」

光にかざすとプリズムが出る。絹重と小平は一緒に太陽にかざして興奮気味に見つめる

絹重「こんなドロップ見たことがないわ」
小平「僕も…」

小平は絹重から離れて歩き出す

絹重「どこに行くの?」
小平「どこにも行かないよ。ただ手洗いに行きたいだけ」
絹重「分かったわ…でも絶対に外には出ないでね」
小平「そんなの百も承知だよ」

小平は手洗いにかけていく。数分後に小平は戻ってきて絹重に小粋に手を振った

小平「な、戻ってきただろ」
絹重「よかった」
小平「まだ僕がいなくなってしまうなんて考えてる?」
絹重「ですて…」

小平は少し緊張したようにもじもじと紅潮して笑いながら絹重の腕を握って抱き寄せる

小平「何度も言っているだろう。僕は何処にもいかないよ…君がいる限りは」

絹重は少し驚いたように小平の顔を見る。小平は紅潮した顔のまま絹重の方は見ずに頷く

小平「うん…」
絹重「小平君…」
小平「ハッピーバースデー」
絹重「え?」
小平「今日、誕生日だろう」

絹重、嬉しそうに頷く

絹重「えぇ、ありがとう。私からも…」

小粋に素早く小平に口づけをする。小平も絹重以上に驚いて目をぱちぱち
絹重「一日早いけどハッピーバースデー」
小平「そうだった…ありがとう」

翌月の四月二日の深夜

小平の部屋では小平が一人で部屋に眠っているが、目をこすりながらうっすら起き上がって立ち、歩き出してドアを開けて出ていく

小平「お湯飲みすぎたかな…」

廊下を歩いてもじもじと手洗いに向かいドアノブを回すが使用中だった

小平「誰か入ってる…」

小平は手洗いに行きたくなると長い時間我慢が出来ない。もじもじとして寒さに震えてながら身を縮めて待っていると手洗いの中からは史郎が激しく咳き込む音が聞こえた

小平「史郎さんが入っていたのか」

心配そうに顔をしかめて小平はドアをノックした

小平「史郎さんですよね、大丈夫ですか?」
やがてすぐ、史郎が咳き込みながら出て来た。酷く長いこと咳き込んでいたのか、顔はげっそりとしていた。しかし弱弱しく笑いながら苦しそうに声を出した

史郎「小平君…この冷え込みで肺をやられてしまったみたいで」
小平「はちみつ湯を作って持ってきましょうか?」

史郎、お願いしますと頷いて手で合図を送った。

史郎「用を足してからでいいよ」

史郎はそういった直後に再び咳き込んで苦しさに廊下にうずくまる。小平はもじもじしながらも急いで階段を下りていく

小平「僕は大丈夫!それより史郎さんの方が最優先ですよ!」
数分後、小平は小さな試験管のようなものに入ったはちみつを持ってくる。史郎、咳き込みでもはや朦朧として床にうずくまっていた。小平は慌てて史郎の体を支えて、試験管の先を史郎の口につけて、史郎の首を上に向ける。

小平「史郎さんしっかり!これを飲んで!」
史郎「なんだ!いきなり人に変なものを飲ませて!」

史郎の咳が止まり、史郎はいき絶え絶えになっている

史郎「咳が止まった…ありがとう」
小平「ドロシーお手製に秘薬だよ」
史郎「本当にありがとう。助かった、ではおやすみ」
小平「おやすみなさい」
史郎は笑ってやっとこさ小平の手を借りながら立ち上がって、近くの水道で井戸をひきながら水を出すと手を洗って戻っていく

小平「やっとおしっこできる…」

小平はあくびをしながら手洗いに入っていくが、数分経っても数十分経っても静かなまま。小平が出てくる様子がない。当時の事だから水洗などではなく、大きく深い穴の開いた金隠しの便器なのでトイレットペーパーのカラカラ音や水の流れる音などもあるわけではないが、それでも人がいる気配さえ手洗いからは感じられなかった

翌日四月二日の朝。

麻子と辰雄と史郎と絹重が食卓に座っている。食卓には小平の鉱物がたくさん並び、絹重は心なしかルンルンと嬉しそうだ。今日
は小平の誕生日だからだ

絹重「できたわ!今日は小平君のお誕生日ですから、朝から彼の好きなものを作ったの」
辰雄「わぁ!すごい豪華だね」

絹重、手を払って誇らしげに笑う
絹重「ちょっと奮発しちゃったわ。小平君、喜んでくれるかしら?」

史郎も辰雄も笑って絹重の肩を叩く

史郎「気持ちは小平君にはっきり伝わるよ」
辰雄「うん、僕もそう思う」

絹重は赤くなって頬に手を当てて微笑む

史郎「君の料理はいつだって最高だからさ。小平君も昨日そう言ってたよ」
絹重「え?」

史郎、柔らかく微笑む

史郎「絹重さんの作るものがいつも何食べても美味しいって。嫌いな牛肉を出されたって食べられるって。そしていつでも毎日、彼女の料理を食べる事が出来れば僕は何もいらないって…そういっていたかな」
絹重「まぁ!小平君がそんな事を!?」
史郎「君たちは、とってもお似合いだよ」
絹重「嫌だわ史郎さん!私たちはただの友達です!そんな関係ではありませんわ!」
史郎「君も、彼の言った事と同じ気持ちなんだろ」

絹重は赤くなって笑いながら頷きをごまかすようにきょろきょろと辺りを見回した。時間はもう六時
を回っている。絹重の次にいつも早起きな小平が今日は一番遅いだなんて珍しい

絹重「そういえば史郎さん、小平君えらく遅いわね」
史郎「そういえばそうだね。いつも早起きの彼なのに珍しい」

史郎は思い出したように話し出す

史郎「そういえば昨日の夜中、手洗い前で小平君と会ったんだ。その時に僕の咳の発作を彼が介抱してくれて…結構長い時間だったな。だから彼も寝ていなくて疲れてるんだ、もう少し寝かせてあげよう」
絹重「えぇ、分かったわ」
辰雄「そうだね」
絹重「史郎さんお気遣いありがとう」
史郎「いや、それは僕のセリフだ。僕こそ申し訳なかった。でも昨日は本当に助かったよ、ありがとう」

時過ぎ

絹重はちゃぶ台でタイプライターを打って新聞の編集をしているが、時計を気にしてソワソワしだす。絹重の顔は不安で青ざめて
いた。いくらなんでも小平が起きるのが遅すぎる。体調が悪くて起きられないのか?いや…そういう雰囲気ではない。小平はいつ
も体調がどんなに優れない時でも一声絹重にかけに降りてくるのだ。今日は手洗いに起きたとこすら見た事がない

絹重「いくらなんでも遅すぎるわ!私、様子を見てきます!」

辰雄と麻子も絹重の編集の補佐をして、原稿をまとめていた。絹重は急いで小平の部屋に向かう。階段を上がって二階に上る。絹重が小平の部屋に入ると、まだ小平の布団は敷いたままだった。その上に寝間着が奇麗に畳まれ、その近くの机には冷水の入ったガラスコップと濡れた干しトウモロコシが置かれている。絹重はアワアワ震えだし、真っ青な顔でその場にしゃがみ込んで動けなくなってしまう。
 数分しても帰ってこない絹重。辰雄は顔を上げて時計を見た。時間はあれから十分は過ぎている。さすがに辰雄と麻子も心配になって立ち上がり、絹重を見に二階に上がることにした。
二階に行くと、しゃがみこんだまま放心状態で震える絹重が小平の部屋にいた。

辰雄「どうしたの?大丈夫?」
絹重「…」

絹重、黙って人差し指を小平の布団に向けた。二人も絹重の指の先を見て何が起こったのかを理解できた。絹重にとって一番あってほしくない事が起こってしまった。彼女のショックは計り知れない、わかってあげようとしたって分かってあげることはできないだろう。二人には慰めの言葉も出なかった。

あれからどれくらい経っただろうか…ようやく絹重も落ち着いてくると。まだ震える声で途切れ途切れに話し出した。
絹重「小平君までいなくなっちゃった…彼とは幼稚園からの付き合いでずっと仲良くしてたのに。いつもホテイアツモリ荘も手伝ってくれるし、本当に頼りになる男の子だった。よりにもよってどうして今日なの!?今日は誕生日だったのに何で?」

絹重自身、もう自分でも何を言っているのかわからない。悲しみが大きすぎて涙すら出ないとはこの事だ。人間の感情、喜怒哀楽が全て消えてしまったような感覚で、生きているのか死んでいるのかすら分からない。

絹重「それに私…」

絹重は言葉をつづけようとするが、ショックで喉がつかえて言葉が出ない。絹重は言葉を飲んだ。辰雄はそんな絹重の肩を抱き寄せて必死で慰める。絹重はまるで死人のように大きく目を見開いて震えていた。

麻子「絹重さん大丈夫よ、深く思いつめないで」
絹重「えぇ…」
辰雄「僕らがついてる…」
絹重「辰雄さん…」

そういいながら麻子も震えていた。辰雄も恐怖と悲しみに泣きたい気持ちを強く押し殺して不安に震える二人の肩を抱き寄せた。

辰雄「大丈夫だよ、小平君も無事にどこかで生きてる。ここに僕らだけでも残ろう。そしてきっと、僕らの手でみんなを助け出して事件を解決させるんだ。ダディーの冤罪も晴らして、真犯人をとっちめよう」

昭和四十三年十二月三十一日

四人だけになったホテイアツモリ荘では絹重、麻子、史郎、辰雄がちょっと豪華な朝食を準備していた。小平がいなくなってからは絹重にできるだけ負担をかけずに支えるため、全員で絹重よりも早く起きて、ヒュッテの経営を手伝っていたのだ。

辰雄「今日は大みそかだ。僕ら四人で無事にこの日を迎えられた」
史郎「そうだね。そして今日は僕の誕生日だ」
辰雄「僕も誕生日だ」
麻子「ダディーとデレク兄さんは何歳だっけ?」
史郎「僕は二十九になりました」
辰雄「僕はめでたく二十になりました」


麻子と絹重は笑って手を叩く。ちゃぶ台にはビーフシチューといなり寿司とこふき芋が並ぶ。史郎はそれを見てどこか懐かしく寂しそうに、遠い昔を思い出すような目で食卓を見つめた

史郎「毎年この日は二十二年前に亡くなった兄の修と一緒に、大好きないなり寿司とコフキ芋、そしてダディー特製のビーフシチューを食べて過ごしたよ。あの日に戻りたい」

史郎が指で涙を拭うが、どんどん目はうるんでいる

史郎「ごめん。この日になるといつも思い出しちゃってね。涙もろくなる」
絹重「史郎さん、お辛い気持ちは我慢しないで。泣きたい時は思いっきり泣いてくださいね」
史郎「ありがとう…」

史郎は泣き笑い。涙を我慢しながらも、場の空気を落ち込ませないように必死に笑って見える

史郎「僕って本当に時代にも運がない男だ。第二次世界大戦が終わってやっと平和になったと思ったのに今度はこれだもん。とんだ疫病神だよ…いや、僕はもう死神だ」
絹重はそんな史郎を慰める様に肩を抱き寄せた。


絹重「史郎さん、ご自分をそんな風に思っちゃだめですよ。いつの時代だってきっとそうですわ。史郎さんのせいじゃない」

絹重は食事をしながら蓄音器のボリュームを上げた。ビーチボーイズが大音量で流れだす。麻子と辰雄は音楽に合わせて思わず歌いだした

絹重「来年の四月一日はいよいよ待ちに待ったビーチボーイズよ!私達だけでも最高の思い出を残しましょう!このひと時を昭和史に残るような最高のひと時にするの!」

麻子が蓄音機のボリュームを更に大音量にした

麻子「そうね!私達の青春!思いっきりビーチボーイズを聞いて歌って踊ってやろうじゃないの!」
絹重「そうだそうだ!」
麻子「来年度は高校卒業の認定試験でも受けてせめて高校卒業資格はもらいたいわね」
絹重「そうね」

しばらく四人は食べながらどんちゃん騒ぎをしていた。食べ終わると絹重はポケットから取り出した鉢巻をして、家の戸棚に立てかけてあった日本の国旗を手に取る

絹重「さてと!私達も運動を起こさなくちゃだめね」
麻子「ダディーの濡れ衣も晴れたわけじゃない!春原史郎冤罪著名活動を行うのよ!」
絹重「でもどうやって証明しましょう?現に史郎さんのいらっしゃる富士見高原で、しかも同じ屋根の下に住む十人が何人もいな
くなっているのに…」


重々しく悩みにふける三人に史郎が真面目に低い声で唸るように喋る

史郎「僕のせいでみんなを危険な目に遭わせたくない」
絹重「史郎さん!」
史郎「もしも僕が捕まっていなくなる事で騒動が収まるのなら僕はそれでいい。僕はいつでも警察に出頭するよ」

それを聞くと三人はとんでもないというように史郎に駆け寄り、彼を束縛するように手足に巻き付いた。史郎を冤罪で出頭させるなど決してできなかった。もしも史郎が本当に酷い犯罪を犯しているのなら、史郎のためにも出頭をした方が彼のためになるだろうが、彼はそんな事をするような人間ではない。完全なる冤罪なのだ。ゆえに彼を全力で守る必要があった。そうしなければ彼は最悪…死刑だ。

絹重「史郎さん何言っているんですか!そんなのだめに決まっています!史郎さんは何も悪いことなどしていないのに!?」

絹重は涙をためて史郎にすがる。今や絹重にとって史郎は本当の父親のような暖かくて大きな存在だった。そんな史郎を失ってしまうだなんて、絹重にとっても、もちろん実の息子と娘である辰雄と史郎にとっても考えたくもなかった

絹重「もしも史郎さんが冤罪で出頭したら!?これで連続誘拐犯の濡れ衣を着せられてしまったらどうなるかお分かりなのですか!?史郎さんは…史郎さんは…このまま死刑になって殺されてしまうんです!」
絹重は泣いて史郎に抱き着いた。史郎も驚いた顔で絹重を抱きとめ、微笑むと実の娘の様に抱きしめた

絹重「そんなのは嫌!史郎さんは私にとっても実の父の様な方なのに」
史郎「絹重さん…ありがとう。僕も君を実の娘の様に大切に思っている」
絹重「史郎さん…」


史郎は絹重と春原兄妹を見つめる

史郎「僕らだけでも無事にいよう。決して、何があってもこの家を出てはいけないよ」

四人は顔を見合わせて強く頷き、それぞれに鉢巻を撒いて日本の国旗を手に持つ

四人「♪蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」

絹重は外に出て、旗竿に「新聞部ミツバチクラブ」と書かれてミツバチのロゴの入った黄色い旗を掲げて上にあげる。近くには沢山の凍み野菜が干されている。外の寒さはまだまだ凍り付くように刺してきた。その後、数時間後には振袖と袴に身を包んだハイカラさんの絹重と麻子が史郎に写真を撮ってもらっている。成人になった辰雄も袴姿で決め、とてもセクシーで魅力的になっている。絹重は辰雄の初めて見た晴れ姿に惹かれた。

史郎「はい笑って!No es eso lo mas lindo que has vist(こんな可愛いの見た事ない)!」

麻子、お手上げ状態で笑いながら絹重を見る。史郎は興奮して紅葉気分になると、ついついスペイン語が出てしまう癖があった。史郎の生まれ育ったネブラスカは英語とスペイン語が飛び交う地域で、史郎の家柄はスペイン語の家系だった。

史郎「絹重さんも本当に僕の本当の娘みたいだ!」


それを聞くと麻子はすかさずニヤリとして史郎と辰雄を交互に見た

麻子「もうすぐ本当の娘になるんじゃない?どうですかデレク兄さん?」

辰雄はその意味が分かって真っ赤になって動揺し、麻子の口をかりんとうで封じた


辰雄「バカ!そうやって兄さんをからかうんじゃない!」

絹重も袖で口元を押さえて淑やかにククっと笑う。辰雄も照れてそんな絹重を見ると恥ずかしそうに笑った。

辰雄「絹重さん…」

翌月昭和四十四年二月の初め

台所に立って四人でハチミツの折檻をしている。史郎は得意の利き舌でハチミツの味見をしてはノートにメモリ、麻子と絹重ははちみつのお菓子作り、辰雄ははちみつを瓶に詰めている

絹重「そういえば今年は麻子さんのお誕生日がある年ね」
そして辰雄を見る

絹重「それと辰雄さんがお生まれになるはずだった日ね」

辰雄は恥ずかしそうに笑う
辰雄「そんなこと、まだ覚えていてくれたんだね」
絹重「覚えているに決まってるわ。大切なミツバチの仲間ですもの。お聞きしたいわ、辰雄さんと史郎さんのお生まれになった日のお話」

辰雄は困ったように笑いながら話し出す


辰雄「それで結局未熟児で二か月早い十二月三十一日になったんだ。奇跡的にダディーと一緒の誕生日にね」
麻子「そういえばそうね」
史郎「僕だってそうだと聞いたよ」

ボンワリと思い出すように史郎も話し出す
史郎「そして実は僕も予定日が二月二十八日だった。けれど二か月早い十二月三十一日になったんだ。マミーがかなり難産で、マミーはその時に助からないんじゃないかって言われてたほど衰弱してたって聞いたな。僕も心肺停止の重傷だったらしいし。だから今でもその後遺症で僕は肺炎という持病を持っているんだ」

絹重「そうだったのね…」
史郎、考える様に顔を上げる

史郎「ひょっとして…持病があるって事が何か関係あるのかな?」

絹重は、このままいくとまた史郎に辛い思いをさせてしまう話になってしまうと読み、麻子と辰雄も食わわってあわてて史郎を慰めて忘れさせるように微笑んで励ます

ー第八話(最終話)ー

昭和四十三年二月二十九日の入笠湖

三人と史郎は凍った湖で下駄スケートをしている。周りには多くの人が滑っており、寒い中でも賑わっている

絹重「スケートっていいわね!」
麻子「何年か前にここは友情を約束し合った場所じゃない?だから私も大好きなところなの」
絹重「私もだわ…ついこの前の様に覚えている」
辰雄「僕もだよ」
麻子「だから次は兄さんの番よ」
辰雄「え?」

絹重は氷上ダンスをしながら湖の端まで行く。辰雄は白鳥の様な絹重の姿をうっとりと見つめている。麻子はそんな辰雄を見て笑い、下駄スケートを履く辰雄の背中を軽く押す

麻子「男らしくびしっと決めてきな!好きなんでしょ、絹重さんの事!」

辰雄という男はとても運動音痴だ。顔だちもスタイルもとてもよく、いかにもスポーツ万能という感じなのに、彼は皆無だった。麻子に押された衝撃でバランスを崩して滑り出し、どんどん絹重に近づいていく。絹重はすいすいと遠くに滑っていっているために、麻子と辰雄の会話は全く聞こえなかった。絹重は史郎の近くにまるで実の親子のように並んでいた。辰雄はアンバランスにどんどんスピードをつけて滑って二人に接近した


辰雄「絹重さんどいてくれ!危ない!」
絹重「え!?」

絹重もやっと辰雄の存在に気が付いて驚いた。もう数百メートルもすれば二人は衝突してしまう。いや、絹重と史郎がどけばいい話だが、もしも二人がどいたとしたら辰雄は二人の真後ろにある樫の木の林に突っ込むか激突してしまう。そんなことをしたら二人は無傷でも辰雄が大けがを負ってしまう、そんなことはさせたくなかった。絹重は何とかして辰雄を抱きとめようとおどおどとする、史郎も辰雄の受け止め体制に入った

辰雄「早く!」

辰雄はなかなかどかない絹重におどおどとした。止めようにも自分では止まらない。どうしよう!

絹重「辰雄さん!足をハの字にしながら徐々に閉じて!そうすればだんだん止まるわ!」
辰雄「こう?」

ー間に合わなかったー
装甲しているうちに絹重にぶつかってしまい、二人はそのまま冷たい氷の上に倒れてしまった。麻子は思わず手で顔を覆って目を閉じるが、ゆっくり目を開きながら辰雄を見た。辰雄は絹重に覆いかぶさるように倒れ、絹重はしっかりと辰雄を抱きとめていた。それも倒れた拍子に二人は必然的と口付けをしてしまっている。驚き顔で固まったままの二人…麻子も辰雄の運動音痴さにあきれながらも二人をまじまじ見つめると、二人のその姿に気が付いた

麻子「Have mercy(たまらねぇな)」
やっと辰雄が起き上がって絹重から離れた。長らく運動もしていなかったため、骨こそ折れなかったものの倒れた衝撃で体中を捻ってしまったみたいでとても痛かった。

辰雄「絹重さんごめん」
絹重「いえ…」

絹重も起き上がった


辰雄「大丈夫?」


辰雄も絹重の手を引いて助け起こし、二人で氷の上に体操座りの状態になった

辰雄「怪我してない?」
絹重「私は平気よ。あなたこそ大丈夫?」
辰雄「僕も大丈夫」

二人は手を取り合って立ち上がろうとするが、辰雄がまたバランスを崩したために共倒れになってしまった

辰雄「おーい麻子!ダディー!助けておくれ!」
絹重「麻子さん!」

二人が大声を出すと、真っ先にすっ飛んできたのは麻子だった。辰雄は顔をしかめた。ここにいるのは麻子だけ…何だか凄く
嫌な予感しかしない。この妹と二人だけでいて、ろくな目にあったためしがない
辰雄「ダディーは?」

辰雄は史郎を呼んできてほしい旨を告げるが、麻子は小粋に首を振った

麻子「ダディーは今、お取込み中よ」
辰雄「はぁ!!?」
麻子「お手洗いに行ったの。だから私しかいない」

麻子の手には麻の長いひもが二本握られていた。絹重は何も知らないようだが、辰雄の頭には嫌な予感しかよぎらなかった。一体何をする気だろう…いや、考えなくても分かる。頭の中でそう色々考えている間に、麻子は手際よく転んだ二人の肩と肩をくっつけると、二人の手首と足首を固い麻ひもできつく縛りだした。辰雄のいやな予感は当たった…当たったというよりもう最悪な状況でしかない
辰雄「おいバカ!何してるんだよ!」
絹重「麻子さん!」
麻子「暫くこのままでいてください。これが兄さんにとってベストな策なんです」
辰雄「何がベストだよ!早くこの束縛を解け!」
麻子「三時間くらいしたらまた来ます」

そういうと麻子はホテイアツモリ荘の方にかけて行ってしまった。辰雄は何とかして縄を解こうと手足を動かしてもがくが、疲弊していくだけで動けば動くほど縄にきつく縛られていった。
絹重も気が気ではなかった。実は辰雄にも腎臓に持病があり、もともと体が弱かったため、風邪を引いたり体調を崩しやすかった。絹重は辰雄の持病悪化と体調をとても気にしていたが、辰雄は「過去にも何度かやられている事だし、特にそのあと大事にもならなかったからこれくらい大丈夫だ」と絹重を安心させるように笑って見せた。
辰雄「絹重さんこそごめんね」
絹重「私は大丈夫。あなたは?」
辰雄「ありがとう、僕も大丈夫…寒いだけだ」
絹重「本当、それは私も同じ」
辰雄「全く…麻子の奴にも困ったもんだ」

二人は顔を見合わせて気まずそうに笑った

辰雄「手洗いにでも行きたくならなければいいんだが」
絹重「確かにそれは一番困るわね」

二人は再び小粋に笑う。麻子は広い湖を岸に向かって戻っているが、「ん?」と不思議そうにリンクの釜穴をのぞき込む。そこにはタバコパイプの様なものと、何か封筒に入ったものが氷に張り付いており、異常に麻子の興味を引ている。麻子はそれを木の棒でつついたり手を伸ばしたりして取ろうとするが、落ちている場所が意外に深くて思うように取れない。岸から数十メートル離れた場所でのことだった。


その夜のホテイアツモリ荘では辰雄が寝室ですっかり風邪を引いてしまい、熱を出して寝込んでいた。絹重は辰雄につきっきりで懸命に看病をした。今の絹重は何故だか、兄のようなこの人を小平を失ってしまった分まで守りたいと強く思っていた。もちろん辰雄が小平の代わりになるわけではないが…

絹重「辰雄さん、お食事取れますか?」
辰雄「ありがとう。いただきたいな」
絹重「ちょっと待ってくださいね」
絹重は辰雄の額の手ぬぐいを絞りなおしてから部屋を後にする。辰雄は絹重が出て行ってからはしばらく目を閉じ、浅い眠りに落ちた。目を開いていると世間がまるでセピア写真でも見ているように黄色く、黄土色に移る。額がガンガン熱く、無意識に呼吸は荒くなってしまう。熱が高いからか眠ろうとしても熟睡が出来ない

どのくらい経った頃か、辰雄は部屋のドアの開く音で目が覚めた。絹重が食事を持ってきてくれたの
だ。絹重は衰弱した辰雄の事を思って、わざわざ栄養価が高く、消化の良いものを別に準備してくれてあった

絹重「辰雄さん、お食事をお持ちいたしました」

その声に辰雄は嬉しそうに微笑んで,絹重に支えられながらゆっくり上体を起こした。食事はとてもおいしそうだが、残念ながら酷い鼻バカで香りが全く分からない。辰雄は「いただきます」と黒い漆器の箸を取ると、ゆっくりと笑って食事を口に運んだ。微笑みながら食べる彼の口元には小さなえくぼが出来、口を開けるたびに小さな八重歯が見える。史郎にそっくりだ…。絹重は彼が食べる間もずっと辰雄の傍に寄り添って、食事をする彼を見ていた。とても穏やかで幸せに感じる時間だった。こんなにまじまじ辰雄の傍にいるのは初めてかもしれない。
食事をする姿、弱弱しくも微笑む顔、頬に出来るえくぼ、口を開けると見える小さな八重歯、思い出される彼の仕草など…なぜかしら?今の絹重には辰雄の何もかも全てがとても愛おしく見えた。

夜二十時過ぎ

食事が終わって膳を下げると、絹重は盥の水と手拭いを取り換えて再び入ってきた。そして手ぬぐいを盥で絞り、辰雄の額に手を当てて熱を測ってからその手ぬぐいを額にのせて毛布を深くかけなおした。辰雄の熱はまだ高く、額や腕は燃えるように熱い。絹重はとても心配そうに顔をしかめながらも優しく微笑んだ

絹重「辰雄さん、ゆっくりお休みになってください。また様子を見に来ます」
辰雄「ありがとう、絹重さんもゆっくり休んで。今日は本当にありがとう」

絹重が微笑んで会釈をし、退出しようとする辰雄が絹重の腕を掴んだ。驚いて振り向き、辰雄の顔を見ると彼の熱で赤い顔が、余計に紅潮して真っ赤になっていた

辰雄「絹重さん!」


辰雄はあまり出ない声を振り絞って弱弱しいながらもとても男らしく真剣に口を開いた


辰雄「僕の病気が治ったら改めて君に言いたいけど…」
絹重「はい…」
辰雄「君の事が好きだ。僕と交際してほしい」
絹重「え!?」

驚いた…絹重はあまりの突然の事に持っていた盥や手拭いをすべて床に落とし、盥の水は畳にこぼれてびしょびしょになった。でも絹重はそんな事には気が付いてもいない。それほど辰雄の言葉に驚いていたのだった

絹重「あ…え…そんな辰雄さん」
辰雄「君の気持は?」
絹重「あの…」


まさか辰雄が、まだ二十歳にもならない小娘の私をこの様に思ってくれていたなんて。「君の気持ちは?」と辰雄に聞かれた応え
だって本当はもうとっくに心の中にあった。でもそんな事を思い出す余裕もなく、とにかく今は平静を取り戻すのに必死だ。絹重は何とか必死で冷静さを装い、いつもの静かな声で言いながら、水をこぼした畳を持っていた別の手ぬぐいでごしごしと拭きながら笑う


絹重「そんなご冗談はお体によくありません」

とだけ言った。辰雄は弱弱しく笑ってから絹重の腕を放した

辰雄「こんな時にわざわざ冗談なんか言わないよ…お休み」
絹重「お休みなさい」

絹重も赤くなって笑いながら部屋を後にする。辰雄は絹重の後をいつまでも見送ってから、彼女の去った後で急に我に返って恥ずかしくなった

辰雄「僕ったら何言ってるんだろう。絹重さんにあんな事を言ってしまった」
部屋のドアの向こうでは絹重がドアを閉めた後、ドアにもたれかかって真っ赤になった頬を両手で押さえていた。目は驚きに見開いてドキドキしていた。持っていた盥と手拭いは足元に置かれている。鼓動は高鳴り、今にも戻しそうなほどだ。そのまま力が抜けてドアにもたれたまましゃがみ込み、手で両頬を押さえたまま黙り込んでいる。
部屋の中では辰雄も布団に横になったまま、熱で真っ赤な顔をさらに赤くさせて、放心状態のように目を見開いて天井を見たまま黙り込んでいる。
しかし二人の心は同じだった…辰雄は絹重が好き、絹重も辰雄が好きだ。辰雄同様、絹重も辰雄が元気になったら、この答えを…自分の気持ちを辰雄に伝えようと心に決めていた。しかし今は、辰雄に早く元気になってもらいたい。そのためには黙っておこう…余計な事を言ってまた彼の中に別のアクションを起こさせたくはない
 夜中。絹重は数回辰雄の様子を見に来るが、辰雄は仰向けになったまま穏やかに息をして眠っていた。絹重は来るたびに微笑んで辰雄の額の手ぬぐいだけを絞りなおして部屋を出ていく。辰雄は絹重が出て行った後にいつもうっすら目を開けて微笑む…絹重が来てくれていた事に彼は気が付いていたが、眠ったふりをしていた。

辰雄(囁くように)「ありがとう絹重さん。お休み」

辰雄の枕元には茶封筒に入った手紙が置かれていた。辰雄は寝返りを打った時に手紙が手に触れて気が付き、少し上体を起こして眼鏡をかけると電気のひもを引いて部屋を明るくしてから読み出した不思議と起きてもそれほど具合の悪さを感じない。絹重が持ってきてくれた給水と薬の置かれたお盆の上には何故か濡れている干しトウモロコシと、ガラスコップに入った冷水が置かれていたが、辰雄はその存在には気がついてはいない。
 一階では麻子がそっと起きて防寒をしている。そして誰にも気が付かれない様に家を抜け出して合羽を着て重ブーツを履くと家の外に出た。外は大吹雪で風も強い。麻子は手で顔を覆いながらゆっくりと強い風の中、深い雪の中、道を突き進んでヒュッテから歩いてどんどん離れていく。麻子も左手にあの茶封筒に入った手紙を強く握りしめていた。彼女は入笠湖に向かって歩を進めている

昭和四十四年三月一日の朝

絹重が朝食の膳を持って辰雄の部屋の前に来てノックをした

絹重「辰雄さんおはようございます。お食事をお持ちいたしましたよ」

しかし、いつもならすぐに辰雄が微笑んで返事をするのに今日は返事がない。絹重は首をかしげてドアを開けて入室する。


絹重「辰雄さん…?」

もう一度声をかけてふと布団の方を見ると布団は敷かれたままだった。しかし辰雄がいる気配はなく、布団の上には奇麗に畳まれた寝間着が置かれ、蓄音器からはビーチボーイズのレコードが流れていた。そして枕元に置かれた盆には…薬と給水と共に、ガラスコップに入った冷水と濡れた干しトウモロコシが置かれていた。ーあの事件の特徴と全く同じだ
絹重は恐怖にひきつった顔になって震え、持っていたお膳を落とす。お皿は割れ、食事は畳の床に散らばった。絹重は真っ青になってへなへなと座り込み、絞り出すような声を出した

絹重「きゃ…ああああ…いやーっ!」

叫んだあと、息を切らせて落としたお膳をそのままに絹重は急いで階段を駆け下りた。もう怖くてその場にいる事が出来なかったのである。
絹重は台所に飛び込んだ。台所では史郎が布巾を洗っていた。史郎は真っ青になって飛び込んでくる絹重を見て手を止め、踊りたように彼女を見て近寄る


史郎「絹重さんありがとう。どうしたの?」
絹重「史郎さん…」


尋常じゃない絹重の顔を見て何かを悟る

史郎「何かあった?」
絹重「いないの…」
史郎「辰雄が!?まさか!?では麻子は!?」
絹重もハッとして史郎を見る。二人は急いで階段を上がって麻子の部屋に行くが同じように麻子もいない。絹重はその場に崩れ落ちる。恐らく二人も失踪をしてしまった…この家には絹重と史郎しかいない。絹重は崩れ去ったまま震えて、呪いの様に「私のせいだわ」と何度も呟いていた。

絹重「みんな消えてしまった…私もきっともうすぐ消えるのだわ」
史郎「君の事だけは今度こそ僕が全力で守る、決して君をどこにも行かせない」
絹重「史郎さん…」
史郎「絹重さん、気を確かに持つんだ」
絹重「えぇ…」

絹重、体を支えてくれている史郎に寄り添い、史郎も絹重の体を抱きしめる

史郎「言っただろ。僕にとっても君は実の娘同然だって。だから全力で守りたい」
絹重「私にとっても史郎さんは実の父様の様な方です。だから私も娘として父様をお守りします。そして必ず警察の真の手が伸びてくる前に、父様の冤罪を晴らして見せます」
史郎「ありがとう…」

二人はきつく抱き合う。史郎は絹重を抱きしめながら静かな声でとてもやさしく言った

史郎「君といると本当に不思議だ。なんだかすごく暖かくて懐かしい気分になる。遠い昔に亡くなった親友を思い出すんだ」
絹重「私もです。史郎さんといると凄く暖かくて懐かしい気分になるんです。なんだか…遠い昔の事を思い出すように」

二人はしばらくきつく抱きしめ合っていた
絹重「史郎さん、あなたはどこにも行かないですよね?ここにいて下さりますよね」
史郎「もちろんだよ、二人で強く生きよう」
絹重「えぇ…」

絹重の目を見ると優しく微笑んだ

史郎「明日は君の誕生日だね」
絹重「えぇ」
史郎「君もくれぐれも気を付けて。どこにも出かけないように」
絹重「ありがとう…約束します」

同日深夜

絹重は寝室で本を読みながら起きている。小平がずっと好きで読んでいた堀辰雄だった。絹重は小平がいなくなってからずっと彼の部屋の本棚にあった小説を読んでいた。本を握るたびに小平の温かさと彼の香り、思い出がよみがえってくる。辛い時にはいつもそうしていた。辰雄の本棚にももちろん本は沢山あった。彼もまた小平と同じく文学青年だったからだ。しかし絹重は辰雄の物には手を付けたくなかった。彼の事を思い出すには重すぎる、辰雄なきこの家、辰雄が自分の傍から消えてしまった事は絹重にはまだ現実とは思えず、受け入れる事が出来なかった

絹重「もうすぐ運命の私の誕生日だわ」


絹重、蓄音器で大音量にしてビーチボーイズの音楽をかけて口ずさむ。ビーチボーイズを気晴らしに聞こうとしても何をしようと
しても、いつも辰雄との温かい思い出が付いてくる…どうしても彼の事を忘れる事が出来なかった
絹重「今夜は私、眠らないわよ」

絹重は心を強く保とうと必死でさみしさと恐怖に耐え、部屋を豆球にして本を閉じるとそこに穏やかに微笑む史郎が入って来た


絹重「父様!」


絹重は再びオレンジ色の明かりをつけた

史郎「ごめんよ、起こしてしまったかな」
絹重「いえ、大丈夫です。私、今夜はこのまま眠らないつもりでいたの」
史郎「だったら今夜は僕と一緒にいよう。応接間に来ないか?」
絹重「是非」

微笑む

絹重「でももし父様が私のために置きていて下さるのならやめて下さい。私は一人でも大丈夫です、これは私の問題ですから父様を巻き添えにすることは出来ません。どうかお休みになってください」
史郎「僕がそうしたいんだよ」


二人は笑いながら一階の応接間に移動する。お茶とお茶の子に史郎が握ったいなり寿司を食べながらしばらく談笑している。部屋では大音量でビーチボーイズの音楽を蓄音器から流れ、二人も口ずさんでいる

昭和四十四年四月一日深夜0時
時を打つ鐘が十二回鳴り響く。絹重はそっと時計を見る、隣にいる史郎は絹重の方に凭れ掛かって眠ってしまっている

絹重「私の誕生日になったわ…」

絹重は史郎に毛布を掛けてから再び自分の肩にもたれかけさせる。静かになった部屋で一人、ビーチボーイズを口ずさむとすると史郎も寝言で口ずさむ。その直後にコトンという大きな音が聞こえるが、それで史郎が目覚める事もなかった。絹重は気が付いて驚いたように音の方をきょろきょろ。

絹重「何かしら?」

絹重は史郎を起こさない様に立ち上がり、防寒をしてそっと部屋を出ると郵便受けに行く。郵便受けには茶封筒が入って織、絹重宛になっていた。絹重は部屋に戻りながら不思議そうに封を開け読みながら戻ってくる。

絹重「こんな夜中に?私宛だわ」
史郎の寝言「絹重さん…駄目だ、行くな」
絹重「父様…」
史郎の寝言「絹重さんの事は…僕が守る」
絹重「父様、ありがとう」


絹重は史郎に毛布をかけなおして赤子をあやすように優しく体を叩いた

絹重「大丈夫です、私は何処にも行きません。だから父様も…」
史郎の寝言「勿論…」
絹重は起きているが暫くしてうとうととし出し、史郎と頭を寄せて眠ってしまう。翌朝になると史郎はそのまま座布団の上に横たわって眠っているが、隣に絹重の姿はない。史郎、ハッと飛び起きてきょろきょろする

史郎「あれ?絹重さん!?絹重さん!?」

立ち上がって家中を探す。史郎は絹重がついに、この謎の事件に巻き込まれてしまった事を悟った。

史郎「嘘だろ…あぁ…」

史郎は焦って外に飛び出て入笠湖まで走っていくが、湖に着くなり膝から崩れ落ち、虚ろな目で湖岸を見つめている。もう史郎の心にはぽっかり穴が開いてしまったように、落胆とショック、虚しさしかなかった。

史郎「絹重さん…何故に君まで」

どのくらい時がたっただろうか…史郎には何か月もの月日が流れたように感じた。寒くまだ雪の深い湖岸に立っているが、寒さのあまりに酷く咳き込みだして苦しさにしゃがみ込み、やがて転がって悶えだす。そこにちょうど湖岸の警備に来ていた警察が駆けつける


警察官「旦那さん大丈夫ですか!?しっかりなさってください!」

史郎は咳き込みながらも朦朧として警察官を見た

史郎「助けてください警察さん。刑務所でもいいから…僕を休ませて」
激しく咳き込み、死にそうな史郎の目の前には何故か先ほどの警察ではなく、若い男性が映った。男性は急いで史郎を抱えると自分の車の後部座席に寝かせて車を走り出す。しばらく苦しんでいた史郎はそのまま意識を失ってしまう。


高原療養病棟の病室。


史郎がやっと目を覚ましてゆっくり起き上がりながらきょろきょろと見回した。同じ病室には史郎よりも少し年が上そうな、美しい好青年が顔にも似合わずにパイプをふかしていた。史郎は持病の肺炎が悪化し、せき込みと呼吸困難に再び苦しむ

史郎N「こうして僕は死に際を誰かに救われて、今は療養病院の中に入っている。しかし大切な人たちももう誰もいない今、僕はもうどうでもいい。いっそのことこのまま発作で死んで楽になった方が僕は幸せかもしれない。修兄さん、勉、絹重さん、麻子に辰雄、そして睦雄にお姉ちゃんたち、マミーにダディー、そして顔も知らない僕の兄…央治兄さん、最後にもう一度だけでもいいから会いたいよ」

史郎は苦しみの中で静かに涙を流しながらちらりと青年を見た。青年の外見は史郎の懐かしい修によく似た容姿を持っていた。漆黒の黒髪に、メガネはかけていなかったが色白の肌でそばかすだらけの顔。史郎は彼の顔を見ると余計に懐かしさと恋しさに涙が出そうになった


青年「え?」

史郎と青年の目が合った。史郎は慌てて涙を拭って目をそらそうとした

青年「ひょっとして君、404?」
史郎「え…?」
率直すぎる質問だ。史郎は身構えた、ひょっとしてこの人は史郎を警察に突き出そうとしているのかもしれない。史郎がそん
な事を考えていると、青年は可愛い声で笑った

青年「いや、嘘だね。君、本当は冤罪なんだろ?それなのに死刑を騒がれて追われている」
史郎「…」

史郎は更に警戒をした

青年「警戒するなよ、僕は君のことを通報したりはしないよ。むしろ僕は味方だと思ってほしい」
史郎「え?」

意外な答えだ。史郎はまじまじ青年の顔を見つめる。声も顔も、見つめれば見つめるほど瀬戸内修が喋っているようだった。

青年「僕は顔を見れば罪人か冤罪かなんて一発で分かるんだ。君の顔を見ればわかるよ。何もしていないんだろ」
史郎「えぇ…でもどうして?」
青年「君が昔の知り合いにそっくりだもんで余計に放っておけないんだ」
史郎「どなたに!?」
青年「さっき君をここに運んできてくれた青年も同じことを言っていたよ。まさかとは思うけど」
史郎「あなたは誰?詳しく教えてくれませんか?」

青年は大きく笑って、懐かしそうに話しだす

青年「昔、僕は京都の寒椿村と呼ばれる集落に住んでいた。その集落にいつも愛想のいい可愛らしい男の子がいたんだ」
史郎は驚いて青年を見た。まさか青年があの史郎の故郷、辛くも暖かい思い出の積もった寒椿村の出身だったなんて

史郎「あなたは寒椿村の方ですか?ではもしかして当時のあの事も詳しく知っているのですか?」
青年「当時のあの事とは…もしかして大火事の事か?」
青年は驚いたように史郎を見るが大きく頷くが、直後に思い出したくないようなとてもせつな顔をする

青年「現に僕もあの火事で家族全員を失っているんだ。僕が当時の火事の真相を知ってる唯一の生き証人って言われている」
史郎「本当に?」
青年「もちろん、こんなことで嘘は言わないよ」

青年は史郎をまじまじ見つめた

青年「君の名前は?」
史郎「春原史郎といいます。同じく寒椿村の…」

青年は驚いた顔をして史郎の言葉を遮った

青年「もしかして寒椿の跡取り息子か!?君はやはりあの生き残った男の子かい!」
史郎「あ…え…はい」


青年はよろよろと史郎に近寄ってきて懐かしそうに史郎を抱きしめた。その青年の顔は面影をたどっても史郎には全く面識の
ない人物だったが、抱きしめられた感触はとても暖かく、何故か何処かで懐かしく優しさを感じた。なぜだろう…この初めてなのに、以前から知っているようなこの感覚は
青年「寒椿村の中でも一番惨く残酷な被害に遭ったのが春原さんだったね…ずっと僕も生き残った男の子・史郎君はどうしていたんだと心配していたんだが、まさかこんなところで行き会うとは…君も本当に何というか…同情するよ」

史郎もうつむいて唇をかむ。昔の事を思い出して涙があふれそうになっていたが必至でそれを堪えた


青年「寒椿には確か当時、生まれたばかりの男の子がいなかったかい?」


史郎は泣きそうに声を詰まらせかすれた声をやっとの事で出す

史郎「睦雄の…事ですか?」
青年「そう…彼だ」
史郎「睦雄も死にました。三人の姉も、両親も、集落に住んでいた叔父も叔母も、祖父母も従兄妹も」

それを聞くと青年は強く首を振った

青年「いや、思い込んではいけないよ!信じられないかもしれないが春原睦雄君は今でも生きている」
史郎「え…どういう事?いや、そんなはずはない。だって…」
青年「嘘だと思うかい?それだけではない、君の肉親もきちんと生きているよ」
史郎「そんな馬鹿な!」


青年は史郎と同じ大きなえくぼを作って微笑み優しく史郎の手を取った

青年「嘘だと思うのなら、退院してから京都のフィレンツ瀬戸内っていう洋菓子店に行ってみな。そこにみんないるよ」
史郎はまさかと言う様に目を丸くして震えながら青年の方に身を乗り出した

史郎「まさか彼がそこにいると!?」

とんでもないというように強く首を振った。そんなことはあり得ない、だって現に史郎は中学生から今までの半生、瀬戸内の家に引き取られて育ったのだから。もちろんフィレンツにだって何度も訪れているし、史郎自身、ずっとフィレンツで唯三郎に菓子作りを学んでいたのだ。史郎はあの火事の後の自分の生い立ちを青年にも話した。すると青年はさらにとんでもないことを言い出す。


青年「睦雄君も今や結三郎さんの養子として育ち、今は旦那さんの後を継いでフィレンツを守っていくために洋菓子職人として働いている。勿論今でも彼は瀬戸内さんの息子としてあの家にいるよ。弟にも実の両親にも会いたいんだろう?だったら是非行ってやれ」
史郎「とても信じることは出来ないが…」
青年「信じられなくても無理もない」

それよりも青年の「実の親族」という言い方が妙に引っかかった。丸で史郎の両親は実の両親ではなかったとでも言いたげな言い方だ。史郎悲しげに首を振った


史郎「仮にそこにいたとしても、僕がどんなに会いたくても、もう会うことは出来ないよ」
青年「何故?」
史郎「僕は何も知らないのに、冤罪なのに404としての誘拐犯の疑いをかけられているんだ。これだけの人物を誘拐して殺したっていう罪を着せられている。僕が逮捕をされるのも時間の問題だろう。いや。もしかしたら死刑よりもここで苦しんで死ぬほうが先かもしれない。いずれにせよ僕にはもう残された時間はないんだ」

史郎はこらえきれずに大粒の涙を流した。青年は史郎の手を擦って慰めた

史郎「あとはゆっくり死を待つ未来しかない。僕には本当に悔やんでも悔やみきれない後悔がある、だからせめて彼らへの事だけは償いたい。それもあるから余計に僕は、たとえ生き延びられる明るい未来があったとしてもそれは望みたくない」

青年はさらに史郎に詰め寄ってかなり意味深に史郎の顔をのぞき込む

青年「学生大量失踪事件…その真相を突き止めたくないのか?知って自らの冤罪も晴らし、失った者たちを助けたくはないのか?」
史郎「え?」

史郎は涙を振り切ってハッとしたように青年を見る青年「もし睦雄君の事もこれと同じような謎めいた事件が絡んでいるとしたらどうする?もしこの事件は今回の昭和四十年が初めてじゃなかったとしたら?」
史郎「それ…どういう事?」

史郎はかつて戦争の時に聞いたラジオの内容を思い出してハッとして口を開く
史郎「あ…え?」
青年「な?君もそう思うだろう」

史郎は目を見開いて恐怖に震える様に考え込んだ。この青年がどうしてここまで色々知っているかという事も謎で恐怖だったが、それよりもあの火事の一件もまさかの失踪事件の一つだったなんて考えてもみなかった

青年「実は僕も余命宣告をされた病を持っていて、この次に発作が来れば覚悟をするようにと言われているんだ。僕はもしかしたら先に逝くかもしれないけど、史郎君は未来へ生き延びるんだ!助かるんだ!そして事件を史郎君の手で解決してくれ!俺らの無念を晴らすために、君の冤罪を晴らすために、そして失った君の大切な者のために、これから先被害者を出さないために!」

昭和四十四年十二月三十日深夜

史郎、月を見ながら時間を計算する、激しくせき込んでもだえ苦しみながら。史郎の見る月は朦朧とした意識の中、暗闇にぼやけている

史郎М「明日は僕の誕生日だ…」

心の中で言いながら隣を見る。そこには誰もいなくて暗くて静かな病室には史郎一人のみ

史郎N「矢野さんの言った通り、あの人はあの後数日後にを吐いて苦しみ、最後は大量の嘔吐の末、先に逝ってしまった。あんなことを言われても一体僕に何ができるというんだ?例え生きていられたとしても僕には事件を解決できるだけの知識など何もない。無力な僕に一体何をしろという?」

昭和四十四年十二月三十一日

大晦日を告げる鐘が鳴り響く。町の無線放送のスピーカーでビーチボーイズが流れだす。方々の家では年明けの口づけを交わし、そばを屠っている。院内の史郎はもはや咳で呼吸困難になって、ベッドの上で悶え苦しみ、転がりながら次第に朦朧として来ている

史郎М「ビーチボーイズだ…大晦日はこんな風に公に流れるんだな」
史郎はやがて、呼吸で苦しみながらうつらうつらと目を閉じる

史郎М「もうこの失踪事件から解き放ってくれ…僕を死なせて。これ以上大切な人や周りの人が消えていくのを見るのは嫌だ」
史郎はしばらく咳き込んで苦しんでいるが徐々に目を閉じて少しずつ呼吸も弱まる。閉じた目からは涙が零れ落ちた。史郎の周りには史郎にだけ聞こえるフルートの音色で「はるけき谷間」が流れている

史郎М「今夜のこの歌が僕のレクイエムだ。ハッピーバースデー春原史郎」

史郎の手には封を切った茶封筒を握りしめられている。史郎は最後に弱弱しく瞳を開いて中の手紙を開いて虚ろな瞳で読みだす。手紙を持つ史郎の手は弱弱しく震えていた。そして震える唇を小さくゆっくり動かすが唇はカサカサに乾いて生気がない。


史郎М「一体僕に何が…どうやって」

史郎はそう囁くように呟くと、力尽きたように目を閉じてそのままベッドの上で動かなくなる

昭和四十五年一月一日。

夜が更けて朝の光が病室に差し込んで来た。苦しみの末に亡くなったはずの史郎の姿は病室からいなくなっており、ベッドサイドのテーブルにはグラスに入った冷水と生のとうもろこしのみが残されていた。史郎の寝間着は綺麗にたたまれてベッドに置かれている。翌朝七時になると、看護婦が食事を持って入って来た。

看護婦「春原史郎さん、お加減はいかがですか?お食事ですよ」

看護婦はカーテンを開けるが、そこに史郎の姿がなく、寝間着も畳まれている事に気が付いて驚木の声を上げる

看護師「春原さん!?春原史郎さん!?」

食事をテーブルに置くと不安げにきょろきょろして急いで病室を出ていった。

看護婦の声「何処に行かれてしまったのかしら!?」
婦長の声「どうしたの?」
看護婦の声「大変、大変です婦長!春原史郎さんがいらっしゃらないの!」
婦長の声「えぇ!?」

医療関係者たちが慌てて院内をバタバタと飛び回っている音が聞こえる。史郎のいた病室のカーテンは開いており、二つのベッドに朝の陽ざしがまぶしく差し込んでおり、地面に積もる雪に反射し手より一層輝いている。窓から見える白樺の木からは大量に積もった雪が地面にバサバサっと落ちる。それに驚いた鳥たちが一斉に空に飛び立ち、遠くに鳴り響く鐘の音が新しい年の訪れを告げていた。







                                        第三巻「リンドウの花咲く丘で」に続く