信州富士見町にある入笠山…ここにホテイアツモリ荘という山小屋ヒュッテがある。このヒュッテは全国から集まる合宿学生のためのヒュッテであって、毎年四月~一月まで多くの学生でにぎわう。この学生たちはもな「新聞部ミツバチクラブ」という団体に属する学生で、初等部、中等部、高等部、と別れている。ここに泊るのは中等部と高等部の学生だ。
 このクラブというのは、その名の通り新聞部で、地域振興学生新聞を作っている。地域の情報や最新の話題、学校の情報を取り入れた彼らの作る新聞は毎年とても人気を博している。しかしやはりその新聞を作るにも資金というものが必要だ。そこで新聞部活動のための資金を集めるのが、この新聞部の中の部員たちで結成されたミツバチクラブだ。ミツバチクラブは、ミツバチを育ててハチミツを採り、そのハチミツを売ったり、ハチミツからハチミツプリン、ハチミツホットケーキ、はちみつ湯、ハチミツレモネードなどを作って打ったりする活動をしている。その資金を新聞製作に当てるのだ。それは初等部、中等部、高等部がそれぞれ仕事を分担して行っている。

さて、そんなヒュッテを営むのはわずか13歳の平出絹重という少女だ。少女の物心ついたころにはもう両親がなく、7人の姉たちに育てられた。しかしそんな姉たちも年が離れているために、もう嫁いでしまってヒュッテにはいない。絹重は一人で切り盛りをしている。まだ13歳ながらにしてとてもおいしい食事を作り、家の中はいつでもピカピカ、洗濯物も新鮮でいつもいい香り…地域でも評判を博していた。その絹重もこの「新聞部ミツバチクラブ」のメンバーの一人だ。今年からは中等部…絹重の友達たちもこのヒュッテに下宿に来る。今年からも華々しい活動が待っている…そんな期待を胸にスタートした1年だったのだが

絹重をはじめ、集うメンバー8人と他、4人の男女が、これから起こるとんでもない事件に巻き込まれていく。友情と愛のエスエフミステリーラブストーリーがここから始まります。



                     著者・網倉ツタキ。令和一年十一月十日筆。



ー第一話ー

戦争が終わったばかりの昭和二十年十一月、信州富士見高原入笠山。朝晩凍みる信州の高原の空の下、七歳の平出絹重は両親の平出修と平出房子を手伝って、凍み大根を作っていた。凍み大根とはこの地域の郷土保存食で、蒸した大根を凍みる空の下に干して凍らせながら乾かすというものだ。冬になると毎日氷点下二十度は下回る信州ならではの食べ物である。特にこの諏訪地域の冬は、雪は比較的少なくあまり降らないが、寒さが厳しく、朝晩凍み、刺すような寒さのため、凍み大根にはうってつけなのである。絹重も房子も冬用の着物の上に半纏を着込んで、冬用の地下足袋を履いている。頭には温かそうな着物時の頭巾だ。修は紳士が着るようなかしこまった背広の上にコートを羽織り、山高シャッポをかぶっている。

房子「絹重さん、いつもご苦労様。ここまで終わったらお茶にしましょうね」
絹重「えぇ!」

三人は蒸した大根を日本の旗が掲げてある旗竿につる下げて、そのまま旗と共に上に上げていく。しかし機を上まで上げたところで急に雨が降り出した。三人をはじめ、周りにいたほかの者も慌てふためいて、せっかく上げた旗を再び下に下げてたたみ、大根には布をかける。
 そこに、家族と仲の良い婦人・小平照子が三人の元に駆けてきた。

房子「小平さんの奥様、どうなさったのですか?」

照子はとても慌ただしい表情をして三人を見ながら手招きをした。遠くを見ると近くにいた他の住民は戦争時に使われた防空壕に避難を始めている
絹重「照子おばさん、何かあったのですか?」
照子「大雨警報が来ているみたいなの。だから早く防空壕に避難して!」
絹重「大雨警報?小平君、小池は!?」
照子「今探しているんだけど、うちの修も小池さんちの修君もいないのよ!」
絹重「えぇ!?」

その頃のヒュッテ「ホテイアツモリ荘」内の台所では、十歳になる春原辰雄とその妹、八歳の春原麻子がちゃぶ台の前に座って呆然と置手紙を眺めていた。辰雄はまだ幼い麻子の肩を抱き寄せて守りながらも、目には多くの涙をためて、手紙を持つその手はぶるぶると震えていた。ー二人の母は、この年の一月一日の深夜、お産を迎えた親友女性のため、産婆のもとに駆け付けた時、空襲に打たれて親友夫婦と共に、家に帰ることなく亡くなってしまった。二人の父はというと、生まれつきハイに疾患を持っており、慢性的に肺炎があったため戦争には行く事がなく、この富士見高原で子供たちと穏やかに過ごしていた。母が築いた「寒椿」を再建させることを夢見て資金繰りをするため、得意なピアノを生かして地元の喫茶店に出向いては出向きピアニストをして稼いでいたが、いつもは仕事が終わって七時までには帰ってくるのに、何時になってもその日は戻らなかった。長男の辰雄はずっと父の帰りを待っていたが、何日たっても父は戻らない。幼い二人は毎日泣いて過ごし、眠らない夜も続いた。周りの者もー子煩悩なあの人が、可愛い我が子を残したまま意図的に姿を消すなんて考えられない。きっとこれは何か事件に巻き込まれたか、神隠しにあったに違いないと囁いた。そう、父親の春原史郎は世間でも有名な子煩悩な男性だった。真面目で誠実でとても心がきれいな、誰にでも愛される、愛嬌のある男性…そんな男性がなぜ突然いなくなってしまったのだろう?

時は流れて昭和四二年

 信州富士見高原入笠山入笠湖の畔に虚ろな瞳で佇んで湖の遠くを見つめている男性がいた。ベージュで赤い帯のついた山高
シャッポを深く被り、白い絹のチーフを首元に巻いている。上着には茶色くて重いローブを羽織り、ベージュでタイトなスー
ツのズボンを履いている。足元はビジネスマンの履く様な黒い革靴。暗いブロンドの髪に色の白い肌、分厚くて丸い、度の強い眼鏡をかけ、眼鏡の奥には青くて不思議に輝く大きな澄んだ瞳。顔はそばかすだらけで右頬の口元に小さなほくろが出来ている。笑うと両頬にえくぼが出来、口を開くと小さな八重歯がある。右手には銀色のフルートを持っている。強い風が彼の紙を揺らしている…彼は春原史郎。あの二人の兄妹の父親だった。五一歳になるはずの彼の容姿はなぜか若い日のままだ。
史郎N「昭和四二年。結局僕の周りから人はいなくなった。大切な人がみな姿を消してしまった。この不可思議な現象と共に」

史郎は左ポケットから懐中時計を取り出して開いた。懐中時計の中蓋には息子・辰雄と娘・麻子、そしてもう一人女の子の映った写真がはめ込まれている。写っている女の子は平出夫婦の末娘、絹重だった。あの日よりも少し成長をした三人は、無邪気な笑顔で大きく微笑んでいる。

史郎N「僕が命を懸けてでも守ると約束した息子と娘、そして平出絹重さんさえも、最後の最後にいなくなってしまった。そして僕、春原史郎も…」

史郎はその懐中時計をポケットにしまって一歩一歩湖に歩み寄り、胸を強く抑えながら苦しそうにしゃがみ込む。持病である肺炎の発作が彼の体を襲った。激しく咳き込み、丸まってうずくまる。

史郎N「時の流れによって消されていく」

苦しむ史郎の背後に何者かが近づいて来た。史郎も気配に気が付いて苦しそうに振り向く。
昭和三九年。入笠山ヒュッテ “ホテイアツモリ荘”


 山小屋・ホテイアツモリ荘の本館厨房では、コトコトとんとんととても食欲をそそるいい香りを漂わせながら三人の中学生が仲良く食事の支度をしていた。一三歳の平出絹重と幼稚園の頃からの幼馴染、親友の小池修と小平修という名前の
同級生の男の子だった。絹重は小池と共にいなり寿司とかんぴょう巻きを作っている。小池はとても手つきがよく、まるで主婦の様に丁寧に手分量で量りながらご飯を取り、丸けて、三角形に切った小さな油揚げの中にそのおにぎりをつめ、一口大のまんまるのいなり寿司を作る。
 小池の家は、味付け寿司屋で小池自身も学校が終わるといつも店番やいなり寿司作りを手伝っていた。小さなころから彼も両親
の傍で二人の仕事を見ていたために、今では彼もほぼ一人前の味付けすし職人だ。ー彼の作るすし飯には細かく刻んだ柴漬けとツボ漬けが混ぜ込んであり、お揚げとかんぴょうはミカンの皮と柿で煮込んであるために鍋に入ったお揚げとかんぴょうにはミカンの皮と柿が混じっていた。
 絹重は作りながらも端からつまみ食いをしていた。っつまみ食いは彼女の日課であり、楽しみな行動だ。貧しく本当にひもじい家庭でここまで育った彼女には、食べる時間というのは本当に幸せそのものの時間だったのだ。もちろん小池も彼女のその行動には気が付いていたが、彼も紳士な昭和男児だ。見て見ぬふりをしながら微笑んで自分の仕事を続けていた。
台所の奥の方には、火吹き棒で火の下限を調節しながら、二人と同じように頭に手ぬぐいを巻いて割烹着を着た男の子が煮込み物をしていた。彼が小平修だ。小平もとても丁寧な作業をし、時々小皿に汁を盛って味見をしては調味をしてという作業を繰り返していた。ある程度に味が整うと、彼は二人の方を見て大声で叫ぶ。

小平「もうすぐ鯉こく出来るよ!」

絹重と小池も顔を上げて、小平の方を見ながら親指を立てて元気で返事をした。エルヴィスプレスリーの物真似をしながらの返事…これも三人にとっていつもの事だった。

絹重・小池「Got a dude(了解だぜ)!」

寿司はあらかた出来上がっていた。返事をすると絹重は手を洗ってから鍋を取り出して水を入れ、小平のいる竈のある方に持って行って火にかけ、竹筒を拭きながら火加減を見る。小池も絹重の行動を見ると彼女のやろうとしていることを察して近くに用意をしてあった鰹節を削り出した。煮物を作るためなのだ。いなり寿司とかんぴょう巻きはそれぞれ二〇〇個近かった。
 小平は出来上がった料理を台所隣の居間に持ってきてちゃぶ台の上に置いて金鍋の蓋を取る。鯉こくの頭汁だ。鯉こく特有のとてもいい香りがする。これぞ信州諏訪の食卓の香りだ。小平はそれを三人分のお椀に盛り分ける。
ー時間は午後一九時になるところだ。壁掛けの八角時計が一九時を示し、針が動いて一九時になると、途端にボーン、ボーンと鐘
が七回時を打ち出す。小平は時計を見てから絹重と小池の方を見る。

小平「賄用の鯉の頭汁出来た。飯にしよう!」
絹重・小池「はーい、ありがとう!」

小平はそういうとさっさと席について、二人が来るのを待つ気配もなく先に鯉こくとごはんをかき込み出す。長時間ずっと火の前に立ちっぱなしでとても疲れてお腹が空いていたのだ。いつもは気の長くて思いやりのある小平だが、今日に限っては二人が着席するのさえ我慢がならなかった。

小平「腹ペコだから先食うよ」
絹重「お先にどうぞ!」

小池は先に掻き込む小平を見て腰に手を当てながら笑った。
小池「言う前に食ってるだろう」

小平は絹重に目を移して再び笑う。絹重は絹重で火加減を見ながらも、かんぴょうやお揚げのお皿を近くに置いてをつまみ食いをしながら仕事を続ける。本当は小池も絹重も空腹で仕方がない。しかしどうしても今、すべての仕事を終わらせてしまう必要があった。小平はそんな絹重を見てとても心配そうに顔をしかめた。小池も仕事を終え、割烹着と手ぬぐい頭巾を外しながら絹重に向かって大声を出す。

小池「ドロシー!少し休憩入れよう!」
絹重「はーい」
小平「早くしないと冷めちまうぞ」
絹重「もう少ししたら行くわ!」

しかし絹重は返事をするだけで仕事の手を止めない。小平はなかなか来ない絹重に食べる手を止めて彼女の側まで来た。絹重は火吹きの筒を持って火加減調整をしていて、小平がすぐ傍にいる事には気が付いていなかった。小平は絹重の持っていた火おこしの筒をそっと取って絹重の肩を優しくたたいた。そこでやっと彼女は、すぐ後ろに小平がいる事に気が付き、軽くびくりとしながらも振り返って微笑んだ。小平の心は絹重の笑顔に少しときめいた。
 彼女は決してかわいいという顔立ちでもなければ美人でもなかった。二つに編んだ漆黒のお提髪を丸めて垂らし、黒縁の四角い大きな眼鏡。目は一重で小さく丸鼻のおちょぼ口。しかし性格共にとても奥ゆかしくて淑やかな大和なでしこを漂わす彼女は、とても日本美人に映った。


小平「君も休めよ」
絹重「えぇ。でも今、火を起こしてしまったばかりだからこのお出汁だけとっちゃうわ」
絹重は小平の手から火吹き棒を受け取ろうとするが、小平は腕を動かして絹重が取れないようにした。絹重は困ったように小平の顔を見た。


絹重「ん?」
小平「いいよ、ここは僕がやるからドロシーは先に飯食ってな」
絹重「大丈夫よ。私は…」

小平、絹重の言葉を遮るように頷いた。ードロシー…絹重のあだ名だ。絹重の友達全員が彼女をこのように呼んでいる。このあだ名には理由があった。それは彼女の眼鏡だ。
絹重のかけている眼鏡は普通の眼鏡ではなかった。彼女は若年性の老眼緑内障で、生まれつきだった。
よって彼女の眼鏡は薄い緑色をしていてサングラスの様だった。それがまるで「オズの魔法使い」のヒロイン・ドロシーがエメラ
ルドの国に言った姿の様だという事で、いつの間にか彼女はドロシーというあだ名になったのだ。

絹重「ありがとう」

絹重、小平好意を受け取って微笑み返し、割烹着と手ぬぐい頭巾を取って食事に向かった。小池はまだ食事をしていない。絹重の到着を見届けてから二人一緒に食べ出した。この小池と小平、実は二人とも絹重に片思いをしていた。しかし絹重は二人の気持ちには全く気が付いてはいなかった。ただ…実はこの時、絹重はいつも親切で頼りがいがある小平に好意を寄せていた。小平と絹重は互いに両思いだったが、互いにその気持ちには気が付かない。淡い憧れの思いを抱きながら、今までのように友達として接し合っていた。
 絹重が食事をとる間、小平が絹重のやっていた出汁取りの仕事を引き受けて続きをやり出した。そういう小平の皿はもう全てからで、食事を終わらせていた。
夜二十時三十分。
 
料理の準備が整って三人は大きく伸びた。ちゃぶ台の上には鯉こく、味付け寿司、お竹煮が並んでいる。明日からミツバチクラブの新年度が始まる、そのための新年度始業式と、新しいメンバーを迎
得るための歓迎会をするためのごちそうだ。
 
絹重「二人ともありがとう、お疲れ様!」
小平・小池「お疲れ様」

二人は食後のはちみつ湯を飲みながらちゃぶ台についている。四月の入笠山はまだまだ寒い、炬燵が張られており、石油ストーブが一台置かれている。窓の外には雪が積もっており、屋根にはつららが出来ている。月明りと星の明かりが雪に反射して外はとても明るく見える。
 絹重は微笑んで小平を見る。絹重と目が合った小平の頬がピンク色に染まった。

絹重「特に小平君、本当にありがとう」
小平「え?」
絹重「ほら、お夕食の時の事」
小平「あぁ…」

小平は分かりやすい男だ。いつもクールにふるまっていても喜怒哀楽がすぐ顔に出てしまう。秘かに思いを寄せる絹重に褒められた小平は、照れ笑いをしながら立ち上がり、鞄を持し、帰る支度をした。帰ると言っても小平も小池も新聞部ミツバチクラブのメンバーだ。今年からは一月まで自宅を離れ、このホテイアツモリ荘の別館で寝泊まりをする事になっている。
絹重「あら、どこ行くの?」
小平「何処って…仕事終わったから帰る」
絹重「帰っちゃうの?」
小平「何で?」
絹重「本当に?」


絹重、悪戯っぽくわざと寂しそうな顔をしながら帰ろうとする小平の腕をつかんで引き留めた。小平赤くなって半笑いをする。帰してくれない絹重に困りながらも内心はとても嬉しい気持ちだ。小平にとっても、絹重といる時間が一番楽しいと感じられていた。

小平「何だよ?」
絹重「帰さないわよ」

絹重、小粋に時計を見るように指をさして小平に指示。小平も時計を見る。しかし小平はまだ絹重が何を言おうとしているのかは分からないみたいだった。そこで小池も参戦する

小池「忘れたのか?今夜はビーチボーイズの出るテレビがある!」
絹重「それとルーシー・ショーも観なくちゃね!」
小平「あぁ!」

小平もやっと思い出したように手を打って再び鞄を置いて荷物を持ち直す。絹重は時計を見る。

絹重「今日はえらく遅い時間に放送するのね」
絹重も高揚した気分でワクワクとしながら興奮気味に言う。

絹重「さっそく二階の部屋に行きましょう」


三人、笑いながら二階へ続く急な木の階段を上っていく。二階の談話室に入り、三人は白黒テレビの前に座って今か今かと番組が始まるのを待っている。実は三人、ビーチボーイズの大ファンだ。いや、三人だけじゃない。このミツバチクラブのメンバー全員がビーチボーイズの大ファンなのだ。始まるまで約三〇分…三人の心は高鳴って踊っていた。
そこで小平がとあることに気が付いた。それは三人の近くに飲食物が何もないという事だった。無意識にふと自分の隣の空に手を伸ばして何かをとろうとした時にそれに気が付いた。

ないと思うと余計に食べたいし飲みたくなる”ー人間心理こういうものだ。
それは小平も同じで、何も持って来ていない事に気が付き、顔をしかめた。そしてとても残念そうな声を出して頭の後ろで手を組む。

小平「Ooh-lala…見るにはお茶の子が必要だったな」
小池「本当だ…」
絹重「誰が持ちに行く?」

小池と絹重もその状況に気が付いて、しばらく三人で顔を見合わせていた。

小平「加藤田と岩波と梅子は?あいつらは来ないの?」
絹重「電話かけた時は一緒に観たいって言っていたから、多分今夜のうちに来ると思うんだけど…」
男性と女性の声「ごめん下さい!」

遠くで数名の男女の声が聞こえた。まだ幼い声で、年齢は三人くらいだ。男性の声はもう少し年齢が上のようにも感じるが、割と高めでとても張りのある声だ。

絹重「あら、来たかしら?」
小平「ならあいつらに持って来てもらおうぜ」
絹重「そうね」

小平、階段に向かって座ったまま大声を出す

小平「二人とも早く来いよ!ビーチボーイズ始まるぞ!」

一階で少し間があってから若い男性の声が聞こえた。

辰雄の声「ビーチボーイズだって!」
麻子の声「二階に行けばいいのかしら?」
二郎の声「多分…」

一回の玄関に立つ三人は、絹重たちの思っている岩波毅、柳平梅子、加藤田修ではなかった。しかし絹重たちはまだそれに気が付いておらず、ミツバチクラブの三人だと思い込んでいる。三人の男性と女性が階段を上ってこようとした時だったー小平、
小池、絹重が互いに大声を出して三人をこき使いだした。

絹重「ちょっと待って!来る前にお茶の子が必要よ!」
小平「居間から何か持って来いよ!」


しかし三人ともここに来るのは全く初めての三人で、ちんぷんかんぷんといったように顔を見合わす。辰雄という男性がとうとう困って大声で聞き返す。

辰雄「居間はどこにあるんですか?」

小平は座ったままいじいじと大声を張り上げる

小平「場所くらいちゃんと覚えとけよ!」
絹重「玄関を入って右手よ!お手洗いを突っ切ってすぐ!」
辰雄のつぶやき声「玄関を入って右…手洗いを突っ切ってすぐ…手洗いってここか?」

辰雄は用意されていたサンダルを履いて、入って正面のドアを開ける。男性用の小便器と和便器がある。一目で手洗いという事が
分かった。辰雄は指で絹重に言われたとおりに廊下をたどり、やっと応接間を見つける。扉はなく入口には暖簾が釣る下げられていた。三人はおどおどしながらもそこに入って近くの棚にあったかりんとうとポン菓子と青のりおかきとお湯とはちみつを持って部屋を出ようとした。すると、それを見ていたかのようにまた声が聞こえる。

絹重の声「お中元でもらってある羊羹もお願いね!」
麻子「羊羹…」

麻子、キョロキョロ探しているが戸棚の引き出しの中に隠すように置かれていたお中元の羊羹を探し出して箱を持つ

絹重の声「お皿とスプーンもね」


二郎がお皿とスプーンを戸棚の上から見つけてかごさら持つ。

小平の声「ドロップも頼む!」

辰雄、アップライトピアノの上にサクマドロップの缶を見つけて持とうとする

小平の声「赤い方な!」
辰雄「赤いドロップ…これか」
小平の声「合ってる!」

辰雄、ドロップの缶の隣にあった別缶の真っ赤なドロップに気が付き、それも持つ。
小池の声「果物もね」
麻子「はいはい、果物ね」

麻子、ローテーブルの上に置いてあったリンゴと柿とミカンが入ったフルーツバスケットを羊羹の入った大きな缶の上に乗せる。
小池の声「お湯差しもだよ!」
辰雄「お湯差し…これか?」

辰雄、小さな木の冷蔵庫の上の戸棚に置いてあったお湯差しを出す

辰雄「持ちましたよ!」

3人、よろよろしながら部屋を出ようとする

小池の声「戸棚のドアは閉めてね」
辰雄「扉を閉めてお湯差しっと…」


辰雄、よろよろしながらかがんでドアを閉める

辰雄「これでいいかな」

3人、部屋を出ようとする

二階にいる三人の声「イチゴジャムとコッペパンとシベリアケーキね!」
辰雄・麻子・二郎「イチゴジャムとコッペパンとシベリアケーキね!」


麻子、イチゴジャムとコッペパンを持つ
麻子「これだけあれば朝までは持つわね」
辰雄「そうだね。ではいざ…」

三人はたくさんのお菓子を抱えて階段を上って二階に行こうとする。もはや顔はおやつで隠れて正面からでは分からないくらいだ。しかしそこに二階の三人が部屋から出てきて一階に急いで降りてくる足音が聞こえた。


絹重「ごめんなさい!やっぱり一階の応接間で見ることにしたわ!」


何という自分勝手で迷惑な話だろう。こき使われた三人は力尽きてへなへなとその場に崩れ落ちた。

辰雄「ちょっと待ってくださいよ…」

辰雄の声に三人は階段途中で立ち止まって辰雄の方を見た。三人からでは辰雄の顔は見えない。
辰雄「いくらなんでも初日からこれはあんまりです!僕も妹も彼ももうお茶の子運搬車としてはガス欠ですよ!」

なんだかどこかで聞いたことのあるセリフだ。しばらく三人は顔を見合わせる。そして一番初めに口を開いたのは絹重だ。

絹重「何よ、だらしがないのね」
小池「欠陥車は困るなぁ」
小平「早く修理しろよ」
そういいながら小平が三人の持っているお茶の子の山を調べるように見渡す。そこには絹重たちに頼まれたある程度のお茶の子がそろっているが、シベリアケーキの姿だけが見当たらなかった。

小平「シベリアケーキがないけど…言ったら悪かった?」
辰雄「最悪だよ!」

嘆くように叫ぶ辰雄を他所に、慌てて三人は再び一階に走り出す。去っていく三人に二郎というもう一人の男性が付かれたように助けの声を上げた。

二郎「これ、少し持ってくれないか?」
小平「ならお茶の子は僕が持つよ」

一番初めに反応して戻ってきたのは小平だった。しかし彼はジュースを一瓶だけ持って再び立ち去っていった。

辰雄「僕らって一体何なんだ…」
麻子「デレク兄さん!?」

辰雄はあまりの小平の対応にすっかり力が抜けてしまったように手足が震えて持っていたものを全て床に落としてしまった。幸い割れるようなものはなく、箱が床にばらけただけだった。お湯差しのポットは床に無事に置かれている。麻子という女学生が辰雄に駆け寄って彼と一緒に床に散らばったものを片付けだした。その騒ぎに気が付いた絹重と小平、小池も落ちた衝撃音に驚いて戻ってくる。三人はその時初めて客人の顔を見た。明らかに三人が待っていた加藤田修、柳平梅子、岩波毅ではなかった。絹重たちは三人のつま先から頭のてっぺんまで何度もこねくり回すように見つめる。


絹重「あなたたち…どなた?」
小平「加藤田と岩波と梅子じゃないよな」

辰雄と麻子と二郎、ゆっくり頷く

小池「なら…誰?」

一階談話室。テレビはついていない。絹重、小平、小池、辰雄、麻子がちゃぶ台を囲んでお茶の子を食べながら座っている。ー三人の名前は春原麻子、春原辰雄、掛川二郎といった。麻子は絹重と同じように二つの編んだお提髪を丸けて垂らし、髪は暗いブロンドで瞳は青かった。鼻はツンっとして高く、二重の目元にぷっくらと丸い唇、春原辰雄は麻子と同じく暗いブ
ロンド髪に青い瞳、ツンっと高い鼻に二重の目元、ぷっくらと丸い唇、髪は短くて少し刈り上げ気味だった。丸くて分厚い大
きな度の強い眼鏡をかけている。この二人は兄妹だった。あの春原史郎の息子と娘だ。麻子は絹重と同じ十三歳に、辰雄は十五歳になっていた。そして残る一人が掛川二郎、漆黒の髪は短く、きりりと引き締まった日本顔、黒い瞳で少し後ろの毛が逆立ってた。彼は辰雄の友人で、彼より二歳年上の十七歳だった。二郎は本来であれば高校二年生になるが、両親の死やたった一人の妹の闘病生活の看病など…色々と不幸が重なり二年間学業を休んでいたために、今年改めて辰雄と同じ年に再編入をしたというわけだ。
 
絹重「ではあなたたちが、ネブラスカからいらっしゃったミツバチクラブの?」

絹重は話を聞いて、改めて三人に聞く。三人は頷いた。


麻子「えぇ。アサコ・マゼッパ=デニース・エレアナ・スノハラ・マーガレットです。ジッピーって呼ばれてる」
辰雄「兄のタツオ・デレク・デニース=ジュディス・スノハラ・マーガレットJrです」
二郎「僕は辰雄の友達で仲町二郎。両親ともに日本人だから英名はない」
三人は改めて自己紹介をした。それを聞くと絹重は畳に手をついて深々と丁寧にお辞儀をした。

絹重「これはまぁまぁ、ようこそいらっしゃいました!そうとは知らずにとんだご無礼を働いてしまい、大変申し訳ございませんでした」

三人は驚いて絹重に頭を上げるように言い、絹重の頭を上げさせる。


辰雄「大丈夫ですよ!お顔を上げてください」
麻子「そうですよ!私たちは明日から共に活動する仲間なんですから!」
二郎「気軽くやりましょう!」

小平も小粋に笑って手を打ち、小池も微笑んでテレビのチャンネルをつけてチャンネルを回しだす。

小平「ならさっそくまずは僕ら三人と君たちだけで宴をしよう!ビーチボーイズ好き?」
麻子・辰雄・二郎「Waoh baby」

麻子と辰雄と二郎も満面の笑みで顔を見わせる。この新聞部ミツバチクラブは既存のメンバーだけでなく三人の新人たちもみんなビーチボーイズの大ファンだった。テレビを回してチャンネルを合わせると、絹重、小平、小池は立ち上がった。


小池「じゃあ僕、お茶の子にいなり寿司とかんぴょう巻き持ってきます」

絹重を見る

小池「ドロシー、出してもいいよね?」
絹重「えぇもちろん!」

絹重も立ち上がって割烹着をつける

絹重「なら私もお茶を入れてきます」
小平「んじゃあ僕も他のお茶の子見つけてくるわ」

3人が持ってこようとして、今までみんなで食べていたお菓子の山を指さす

小平「それも適当に食べててくれていいよ」

三人はそう言って部屋を出ていく。麻子と辰雄と二郎、まだ緊張しているように顔を見合わせていたがやがてかりんとうやかきもちを食べ出す。辰雄は青のりのかきもちを食べながらとても懐かしそうな顔をして呟いた。

辰雄「いなり寿司にかんぴょう巻きか。ダディーとマミーがとてもお好きだった食べ物だ」
麻子「そうね、いつもデレク兄さんってばそうおっしゃっていたものね」
辰雄「あぁ…」


辰雄は物思い気に、自分の茶色い革のカバンにつけている懐中時計を見て、それを手に取りふたを開けた。懐中時計の秒針がカチカチ時を打って進んでいるその中蓋に父である春原史郎の写真が貼られていた。セピア色の色あせた写真にはまだ赤子で史郎におぶられた麻子と、まだ三つになったばかりで史郎に手をひかれた幼い辰雄が写っていた。幼い辰雄は今と同じ分厚い眼鏡をかけていた。幼いが顔かたちは父親である史郎とそっくりだった。写真と比べると、大人になった今の顔はさらに史郎によく似ている。
辰雄「僕がまだ小さかったころ、よく学校から帰るとダディーがおやつに拵えて下さった。だから僕にとっても思い出の食べ物なんだ」

寂しそうに笑い、少し泣きそうな顔になる。史郎の作るいなり寿司の味が思い出と共に口の中に広がる。今でもはっきりと思いだせるあの味…史郎の作るいなり寿司の味は史郎の母から受け継いだもので、他の誰にも作り方を教えてはいない春原家伝統の秘密の味付けをしたいなりだったから、幾つと食べ比べをしようと、史郎のいなりをすぐに言い当てる事が出来るくらいだった。

辰雄「今でもはっきり味を覚えている。また食べたいなぁ…ダディーの味」

辰雄が麻子と二郎にそんな話をしていた時、丁度そこにいなりとかんぴょう巻きを持った小池と、入れたてのお茶を持ってきた絹重と、鯉こくのお椀をお膳に乗せて持った小平が入って来た。いくら三人がお腹を空かしていたとはいえ、この夜遅い時間にこんなにがっつりと食べてもいいのだろうか?

小池・小平「お待ちどうさま」
絹重「長旅でお腹すかれたでしょう。沢山召し上がってくださいね」


三人はちゃぶ台にそれらを並べた。鯉こくは温め直したのか、熱々で白い湯気がおいしそうな香りを連れて上っている。麻子と二郎はおいしそうなごちそうに目を輝かせて早く食べたいと言わんばかりに両手をすり合わせているが、辰雄は少し違った。鯉こくの入れ物といなりとかんぴょう巻きを見るなり心底驚いたように目をまん丸くして釘付けになってそれらを見詰めている。絹重は辰雄のその様子に気が付いた。

絹重「どうしたの?」

鯉こくのお椀にはふたが付いており、その蓋の上に三つ葉が敷かれ、その上に鉄砲付けが三枚乗せられている。いなり寿司はお揚げを三角に切っておりそれを丸く包んでありとても小ぶりだ。周りには柿とミカンの皮がところどころについている。巻きずしの方にもいなり寿司のごはんにもツボ漬けと柴漬けが細かく刻まれて入っており、油揚げと同じようにかんぴょうにも細かい柿の実とミカンの皮がが混じっていた。

辰雄「食べて…いいですか?」

辰雄が震える声で小さくつぶやく。

絹重「勿論よ、どんどんお食べ下さい」
辰雄「それでは…いただきます」
麻子「いただきます」
二郎「いただきます」

辰雄は震える手でいなり寿司を食べ、飲み込むとかんぴょう薪を、そしてそれらを飲み込むと鯉こくに手を付けた。麻子と二郎もそんな辰雄の様子を気にしつつ料理に手を付ける。


辰雄「…」
絹重「お味はいかがかしら…」

絹重が恐る恐る辰雄に聞く。辰雄の目には食べるたびに薄く涙がにじんでいるが、表情はとても驚きが強く、目を見開いている。絹重は辰雄の涙に気が付いて心配そうに辰雄の顔をのぞき込んだ。

絹重「辰雄さん?」
辰雄「これ…」


辰雄はお椀を置いて震える小さな声を出した。

辰雄「どうして…」
絹重「え?」
辰雄「僕らのダディーの作ってくださった味付け寿司の味と同じなんだ。そしてこの鯉こくの味はマミーのものと同じ。そしてこの蓋の上の三つ葉に鉄砲付けを三枚乗せるというやり方も同じ」

目を丸くしながら小平と小池と絹重を見る
辰雄「これを作ってくださった方は?」

小池が恐る恐る手を上げた。いつもの頼りがいと自信に満ちた表情ではなく、とても緊張をした小池の表情…絹重もこんな小池を見たのは初めてだった。場の空気は緊張に張り詰める。辰雄は再び震える口を開いた。

辰雄「この味とやり方をどこで?どうして知っているのです!?」
麻子「デレク兄さん?」

麻子も二郎も状況が読めずにおどおどしていた。辰雄はそんな麻子の顔を見て口を開く。

辰雄「ダディーのやり方と同じなんだよ。この寿司も、鯉こくも」

全員が驚いて辰雄を見る

小池「辰雄さんのお父様と?」

辰雄、大きく頷いて小池をマジマジ見つめる

辰雄「あなたは…父と面識が?」


小池も驚いたように首を振る


辰雄「では何故?」
絹重「だったら辰雄さんのお父様に聞いてみたらいかが?」
辰雄「それは無理だよ…」

絹重がそう言うと辰雄は寂しそうに笑って首を振った。

辰雄「父は僕が10歳だった時に行方不明になったんだ。父はピアノ弾きの仕事をしていたからいつも喫茶店に出向いてはピアノを弾いてお給金を貰っていたよ。しかしある日、仕事に行ったっきり父は戻らなかった。母も同じ年に空襲に打たれて死んだから僕らには両親がない」


辰雄は涙を浮かべて震え出す。絹重も辰雄の背を優しく擦った。

絹重「辰雄さん…」
絹重はしばらく辰雄を慰める様に辰雄の背を優しくさすり続ける。辰雄が落ち着くまで、まるで母の様に黙って彼を支えるように。 
 暫くすると壁にかかった8角の振り子時計はボーンボーンと丁度21時の鐘を打った。先ほど点けたテレビから待ちに待っていた番組が流れだす。

絹重「映画が始まるわ!」
絹重の叫びと共に6人は一斉にテレビに釘付けになり、歌が始まるとそれぞれにノリノリになって歌い出す。辰雄もやっと笑って元気になり、一緒になって歌を歌う。絹重と麻子がソロを歌い、男性たちはハモリのコーラス。全員ぴったりで歌いながら改めて食事をし出した。小平も調子に乗って軽食をする。小平は実は生まれつきの糖尿病持ちだ。もちろん絹重も小池もそれを知っている。それゆえに絹重は心配して小平を止めるようにお茶の子を取ろうとする小平の手を制止した。小平は大丈夫と手を振って振りほどき、笑いながらお竹煮の隣に置かれているかぼちゃ団子をおてしょうに取って食べ、ぼっこり笑った。

小平「おいしい!」

幸せそうに微笑みながら全員に促している

小平「食ってみろよ!これドロシーの手作りなんだぜ!やっぱり彼女の家庭料理の腕は最高!」
辰雄「ドロシー?」

辰雄ら三人はもちろん、絹重のこのあだ名を聞くのは初めてだ。

絹重「私の事よ。小さい頃からのあだ名なの」

メガネを取る

絹重「このメガネのせいでね」

そういうと絹重は軽く咳をした。

絹重「最近は少し乾燥してるのね。喉がイガイガするわ」
辰雄「大丈夫ですか?」
絹重「ありがとう、ごめんなさいね。大丈夫よ」

しばらくは高揚とした気分でワイワイ盛り上がっていたが、やがて6人はその場で転寝をしてしまう。まだ寒い富士見高原の四月…石油ストーブとこたつのみのうすら寒い部屋の中、テレビはついたままだ。絹重の膝の上には小平がもたれかかり、絹重は辰雄にもたれかかって眠っており、そのまま時は経っていく。雪に月が反射していた夜の幻想的な空は徐々に明るくなり、八ヶ岳の頭から徐々に太陽が顔を出す。清々しい空気の中では小鳥がさえずり、木々や屋根に積もった雪が地面に滑り落ちる音も聞こえた。
 
翌朝五時。

新聞部ミツバチクラブの始まりの朝だ。毎年恒例、絹重の吹くトランペットで山の民は目覚める。入笠湖の畔に出ては得意のトランペットで彼女の大好きな曲「ダウン・イン・ザ・ヴァレイ」を吹くのが昔からの彼女の日課になっている。
トランペットを吹き終えると、彼女はヒュッテに戻って朝食の支度を始める。そして朝食の準備が整った頃にちょうど全員が起きて、台所に揃うというわけだ。
朝六時。

ヒュッテ内の合宿用食堂には朝食の準備が整っており、前景の6人は木のテーブルの周りに座って朝食をしている。今朝の朝食はハムエッグ、つぶの味噌汁、グリンピースご飯に納豆に冷ややっこだ。絹重たちにとって、これはかなり豪華な朝食だった。

小平「では、改めまして」
小平が食べるのをやめ、立ち上がって咳払いをする。他の五人も彼に注目をする。

小平「今日から昭和39年度、新聞部ミツバチクラブの活動を開始したいと思います。改めて僕が今年の新聞部副会長であり、副働きバチ長の小平修です」

そう、小平は今年から中等部新聞部ミツバチクラブの副部長になったのだ。小平修は栗毛色の髪でショートヘアー。前髪を五分五分で分けており、とても賢そうな顔をしていた。背丈は低くてとてもやせ形で小柄だ。視力はとてもいいためメガネはかけておらず、肌も色白でとても奇麗だった。中等部は13歳から15歳までなので、絹重や小平はまだ今年中等部になったばかりなのだが、14歳と15歳の部員メンバーがいないために、彼ら13歳組がいきなり長を務める事となってしまったというわけだ。因みに今年の部長は絹重である。

小池「僕は普通の働きバチの小池修です。修その2って呼ばないでください」

そして彼が小池修だ。同じく小柄でやせ形、背丈もとても低い。こげ茶色のショートヘアーの前髪は眉の上で垂らしており、分け目は七三で分けていた。彼は分厚く大きな度の強い丸眼鏡をかけている。かなりの近眼であるためだった。

絹重「そして私が、新聞部の会長であり働きバチ長の平出絹重です。それで本当は…」

そして絹重が自己紹介をした。絹重は紹介を終えると心配そうにきょろきょろした。
絹重「この富士見本部のメンバーにあと3人いるはずなんだけど…」

絹重の心配をしているのは、まだ昨日から加藤田修、柳平梅子、岩波毅が来ていないという事だった。その時、部屋の外で扉が強く「バンッ」と開く音が聞こえて、食堂に加藤田修と岩波毅と柳平梅子の3人が入ってくる。やっと到着だ。

加藤田「おはよう!Ooh-lala、みんなもう来てたんだ」

ナルシストの様に髪をかき上げて気障っぽいポーズをとる彼が加藤田修だ。黒髪を七三に分けて軽く書き上げておりやせ型。日本人顔だが如何にも気障という雰囲気を漂わせている。絹重は彼がとても苦手で、彼も絹重が苦手、二人は犬猿の仲だった。しかし加藤田は他の女性にはその持ち前の気障さを振りまく。彼は養蜂場を営む家の息子だった。この富士見の田舎町では似つかわしくない彼の態度にメンバー一同は彼を見て肩をすくめながら「また始まった」と言う様に呆れて笑う。
加藤田「僕は加藤田修。修その3って呼ばないで」
麻子「えぇ、よろしく」

麻子、加藤田の調子に呆気にとられて少々身を引く。加藤田、舌なめずりをしながら麻子に近寄って気障に手を取った。麻子はポカーンとして加藤田を見る。麻子もこんな男に出くわしたのは初めてだ。

加藤田「美しい娘さん、僕がエプケープしますから一緒に入笠山をデートしませんか?」
しかし麻子をはじめ、ほとんどのメンバーがクスクスと吹き出した。


絹重「加藤田君、エスケープじゃなくてエスコートの事を言いたいんじゃなくて?」

絹重が突っ込む。加藤田は時々言い間違えが多いのだ。
加藤田「ドロシーうるせーよ!」

加藤田は炬燵板の上に置かれていた生の玉ねぎをかじり、絹重めがけてドラキュラの様に息を吹きかけた。絹重は顔をしかめてシッシッと加藤田を手で追い払う。岩波は話を戻すように大きく咳払いをして、メンバーの注目を自分に向ける。


岩波「僕は岩波毅。普通の働きバチです」

彼は岩波毅。地元でも有名な酒蔵の息子でだ。他の人と同じく髪を七三に分けており、髪の色は黒くはなく割と赤毛だった。しかし誰も、もちろん本人も髪の色素が赤い理由を知らないがあまり気にはしていなかった。髪が赤いこともあり、彼のあだ名は「ハウディドゥディ」だ。ハウディドゥディとは、ちょうど彼らの時代に放送していたアメリカのパペット子供番組で、そのパペットの髪の色が赤毛だったのでそういうあだ名が付いたのである。

梅子「私も働きバチの柳平梅子。よろしくお願いします」

ここで自己紹介をしたのは柳平梅子という女学生だ。

絹重「それにしてもね、この柳平梅子さん」

梅子、絹重が何を話そうとしているのか察して恥ずかしそうに止めようとするが、絹重は得意げに梅子を紹介する。絹重はさらに誇らしげに梅子の肩を強く抱きながらアピールをした。

絹重「彼女ね、学校ではドリス・デイに似てるって言われてすごく人気なのよ」
麻子「ドリス・デイ!」
麻子も目を輝かせて笑い、手を叩く

麻子「本当だ!私も今言おうと思った!」
絹重「声真似もうまいの!とっても歌もうまいしね」
そう、彼女はとても美人で、当時メンバーの中でも流行っていたドリス・デイにそっくりだったのだ。髪こそ黒髪であったが、鼻はツンっと高く、目は二重で大きく何も言わずとも一目で彼女はドリス・デイに似ていると誰もが言いたくなるほどだ。しかも顔だけではない、声もそっくりで、歌もうまいと来ている。絹重は梅子に歌ってと促した。「やめてよ」と言いながらも、梅子もまんざらでもない。

梅子「では…」

と、得意げに咳ばらいをして立ち上がるとドリス・デイの歌を歌い上げる。無伴奏でも奇跡の歌声と声のそっくりさに一同は大興奮で大きな拍手。梅子は顔を紅潮させて笑いながら席に座り直したが、それを見た小平がけッと鼻を鳴らした。梅子、キッと小平を睨みつける。小平と梅子はとても仲が悪いのだ。

小平「この気取り屋梅子!」
梅子「何ですって!?この岩頭!」

二人は今にも喧嘩をしそうになっている。ー二人の家柄は正反対だった。梅子は他のメンバーと同じく、家畜小屋を営むとても貧しい家柄だ。しかし環境に悲嘆する事もなく、日々に与えられたわずかな生活費でやりくりしながら家族三人暮らしてい
た。一方小平はというと両親ともに「シジミ亭」という大衆食堂を営む普通の家庭の男の子だが、信濃境駅の前にある食堂のせいかとても人気で毎日大繁盛のため、それなりに豊かな生活がおくれていた。坊ちゃんと言うにはおっこーだが、彼はピアノが上手い。ピアノを習わせてもらえるほどには余裕のある家庭だった。そんな家庭の差もあり、また小平は少し気取った感じの梅子の性
格が苦手、梅子は頭がよくて優秀で何かと論説的な彼がとても嫌いだった。そのため二人はいつも気が合わない。
さすがに状況が危なくなってきたと判断し、絹重と小池が仲裁に入り、何とか二人を落ち着かせた。そのあともそれぞれに自己紹介を続ける。それが終わると絹重は注目してという様に手を三回叩く

絹重「では早速、食事が終わったらレモネードと蜂蜜の販売をしましょう!」

絹重のその掛け声に、小平は台所の戸棚の前に準備をしてある布をかけた大きな台車を指さす。

小平「はちみつプリンとはちみつ湯の準備ももう出来てるよ」
小池「初日はどこだっけ?」
絹重「信濃境駅前よ!」

絹重は自信満々に販売をするはちみつを一つ手に取って咳払いをした。

絹重「こういうのはね、セールストークが大切なの。では見てて、私の今までのやり方を見せるわ」
小平「いつものやつね」

絹重は頷いて得意げに早口でしゃべりだす。


絹重「こんにちはお客様。富士見町新聞部ミツバチクラブの平出絹重と申します。私たちは地域へ新しい情報と大きな出来事を届けるために新聞を作っています。地域貢献と学生貢献に愛の手を差し伸べて下さい!誕生日やクリスマスにも喜ばれ、税金も控除されるはちみつはいかがですか?とってもお得な買い物ですよ!新聞部ミツバチクラブが育てたミツバチさんの恵み、どうぞお買い求めください!」
全員、歓声と拍手をあげる。絹重は挑発するように加藤田を見た。そして今自分が持っていたハチミツを加藤田に渡す。それは加藤田が記憶力が悪く、国語力も語彙力もないことを知っていたからである。加藤田と絹重は犬猿の仲ではあるが、互いに貶し合う中でもある、揶揄い合うのが二人の楽しみでもあった。これはこれで二人にとっては友情なのである。

絹重「では加藤田君、言ってみて」
加藤田「ドロシー!」

加藤田は目を細めてケンカを売るように絹重を睨んだ。

加藤田「僕をバカにするな!僕は去年の売り上げ2位の男なんだ!」

それを聞くと絹重も目を細めてニタリと笑い、指を立てて加藤田に顔を近づけた。

絹重「私は…加藤田君の上、1位よ」
加藤田「…」

それを言われてしまうと加藤田も何も言えなくなってしまった。絹重は新聞部ミツバチクラブ入部以来、毎年働きバチ賞を総
なめにしているのだ。加藤田は悔しまぎれに鼻を鳴らし、はちみつを持ったまま咳払いをして言い出すが、忘れかけで途切れ途切れーこれは絹重の想像通りだ。メンバーたちも手で口を押えて笑いをこらえている

加藤田「はちみつは…税金にも喜ばれます…お誕生日おめでとう」

もうめちゃくちゃだ。絹重も分かってはいたものの笑いをこらえつつ
絹重「あ…まぁ、ありがとう。こんな様にお客様にはもちろん、家族やご親戚にも是非お勧めしてね」

と言って、いたずらっぽく加藤田の肩を抱いた。

絹重「言い忘れていたわ。この加藤田君の家で私たちミツバチクラブの養蜂を管理してくださっているの。加藤田君の家が養蜂場だからね。ハチミツの在庫はいつも加藤田君の家に取りに行くのよ」

加藤田の家は、メンバーが通う「富士見南中学校」の分校「蔦木校」のすぐ裏だ。なので学校帰りにすぐに取りに行く事が出来る。そんな話をしていると、突然「ごめんください」と、品の良い女性の声が聞こえた。

絹重「織重姉さまだわ!」
そういうと絹重は急いで立ち上がって玄関の方に駆けていく。織重とは絹重の姉で、8人兄弟の一番上の長女だった。御年29になる。

織重の声「絹重ちゃん?いる?」
まだ絹重とは対面していないらしく、絹重の事を呼んでいる。

絹重「居間にいるわ!」

絹重がそう叫んでメンバーの元に戻ってくるなりニヤリとして玄関の方に指をさして勇ましく

絹重「突撃!」

と叫んだ。ちょうどそこに織重が顔を出した。とても背が高くて太ってもなく痩せてもいない。絹重と同じ漆黒の髪で、おかっぱにカットをして、毛先にふわふわとパーマをかけていた。典型的なこの時代の若い女性だ。
織重の顔を見るなり、メンバーはそれぞれのセールストークを用いて織重に商売をし出した。驚いて目を丸くしながら両手を上げる織重

織重「ちょっと絹重ちゃん!これは一体何の騒ぎ!?」

と、絹重に助けを求める

絹重「今年も始まったのよ」

そういうと織重は理解したように笑う


織重「なるほど、ミツバチクラブね。今年は絹重ちゃんが会長なんでしたっけ?」
絹重「えぇ!」

織重は絹重の頭を笑って撫でた。その左手にはオパールの指輪が光っている。既婚者であるという証だ。いや、正確には既婚者だった。
 織重は昨年とある男性と結婚をしたのだが、結婚をしてわずか半年で夫に先立たれてしまい、未亡人になってしまった。二人の間に子はまだなかったー汽車の事故だ。樵だった夫が出稼ぎに出るため乗っていた乗車していた汽車の大雪の中走行中の事故だった。夫をはじめ、乗客乗員全員が即死だった。
 それでも織重は気を強く持ち続け、立ち直り事が出来、一人強く生きていた。織重は絹重に「頑張りなさい」 と声をかけてから小粋に笑って新聞部ミツバチクラブのメンバーを見る。
絹重「織重姉さん、みんなから買ってあげて」


織重は小粋に指を鳴らして笑った

織重「みんな、私を選ぶのはお門違いよ。私の仕事、ご存じない?」

という。全員は織重をみて首を振った。絹重も忘れていたようだったが、織重のその言葉で思い出して、いたずら気に大きく頷く。織重はバッグから小さな瓶を取り出して全員に見せた。その中には何やら蒸しの幼虫のようなものが詰まっていて、炒めてあるのか茶色い色をしていた。この諏訪地域の郷
土料理、蜂の子の佃煮だった。

織重「蜂の子の佃煮を作る仕事をしているの。かわいいミツバチさん、あなた方の事も佃煮にしちゃうわよ」

笑って家の奥へ入っていきつつ、小声で絹重に耳打ちをした

織重「絹重ちゃんからはあとでちゃんと買ってあげるわ」
そう言って織重は別の部屋へと向かって行った。

梅子「現場に向かう前に…」

今度は梅子がにやりとする

梅子「まだこの家にターゲットがいるわ。みんな突撃!」
そういうとそれぞれ、二郎にたかる。このメンバーの中で二郎が唯一の成人で大人だったからである。自分の金銭を持っているであろう彼ならばはちみつを買ってくれるとみんなは考えた。しかし梅子は二郎ではなく、辰雄に言い寄った。辰雄はまだ16歳で金銭の余裕はそこまでない。

梅子「ねぇお兄さん、はちみつ買ってくださる?」
辰雄「さっそく僕に営業か?」
梅子「だってお兄さん、はちみつ好きそうな顔しているもの」


笑って誘うように隣にいた仲町の事も見る

梅子「こちらのお兄さんもお願い」

梅子は子豚の貯金箱を取り出してオネダリの顔をして二郎と辰雄を見つめた。

梅子「ピギーが空腹なの」

ピギーとは子豚の事だ。つまりはこの豚の貯金箱にお金を入れてくれと言っているのである。仲町と辰雄、顔を見合わせて笑いながら両手を広げて肩をすくめる。実は辰雄、学業をしながら害虫駆除員の仕事をしていたのだ。生活のための資金と自分と妹・麻子の学費、そして大学に進学するための資金を作るためだ。辰雄はこの時代では珍しい、看護師を目指す男性だった。

辰雄「僕は…害虫駆除のプロだぞ」
梅子「ミツバチは害虫じゃないわ!」
辰雄「全く今どきの子は口だけはお達者で」
辰雄はやれやれと降参のように笑って、豚の貯金箱に270円入れる。

辰雄「いいよ。では90円のはちみつを3本貰えるかな?」
二郎「では同じものを僕にも3本」
梅子「毎度あり」

二郎も270円を豚の貯金箱に入れた。それを見た麻子はぎろりと辰雄を睨みつける

麻子「デレク兄さん!実の妹から買わなくてどうしてライバルから買うのよ!」
辰雄「麻子からもちゃんといただくよ」

辰雄は困ったように財布を覗いてため息をついた。そうはいっても辰雄もまだ未成年の学生だ。お金に余裕は全くない。

辰雄「麻子からは120円のはちみつ10本買うよ」

苦しいながらに出した答えだ。僕が妹にしてあげられるのはこれくらいしかない…これが両親をほとんど知らないたった一人の妹への愛の一つだった。麻子はやったあ!と歓声を上げようとする。しかし絹重が麻子の口を抑えた。そして絹重は辰雄を見ると

絹重「辰雄さん?ライバルから3本も買って実の妹からたった10本だけなの?」

と、責めるような口調で辰雄をにらんで言い寄る。辰雄はさっきとは豹変した絹重とその口の上手さにたじたじとたじろぐ。そして交渉が始まった。

辰雄「じゃあ…12本」
絹重「いいえ20本よ!」
辰雄「14本!」
絹重「19本!」

辰雄の口にも絹重は負けていない

辰雄「1…7本」
絹重「Deal(売った)!」

辰雄、参ったというように笑いながら麻子からはちみつを買う。麻子も絹重の交渉に目を丸くしながら。ありがとうと笑いながら絹重とハイファイブをした


信濃境駅前に着いたミツバチクラブは物販をする準備をしていた。絹重と麻子、梅子の女性軍ははちみつレモネードを作ったり、はちみつプリンやはちみつワッフルの仕上げを作っている。加藤田、小池、小平、岩波、辰雄、二郎の男性軍はビンに入ったはちみつをテーブルに並べたり、試食用のはちみつを用意したりしている。準備をしながら麻子が絹重に口を開いた。

麻子「あの家には絹重さんだけなの?ご両親とお姉様は?」
絹重「7人の姉はみんな嫁いで家を出ているわ。さっきの織重姉様は昨年嫁いで家を出ていかれたけど、旦那さんがすぐに汽車の事故で亡くなってしまわれたの。それでヒュッテに戻ってくるかどうするかって言っている。両親は…」

寂しそうに笑う

絹重「死んだって聞かされているわ」
麻子「そうだったの。ごめんなさい」
絹重「いえ、大丈夫よ」
麻子「話してくださる?」

麻子は純粋に絹重の両親の話を聞きたいと思って絹重に頼み込んだ。絹重も「いいわ」と頷くが、直後に首を振る


絹重「話す事が出来たらお話しできればいいんだけど…何も思い出せないの。分かるのは当時の私は七歳くらいだったって事だけよ」
麻子「え?」
絹重「災害に巻き込まれたって聞いているけれど、それ以外何も思い出す事が出来ないの。生まれてから今までの記憶がすべて空白になってしまったみたいに、断片的にすら思い出せない」
麻子「災害?」
絹重「えぇ…そうみたい」

絹重、思い出すように懐かしい笑いをする

絹重「だから一緒にいた記憶も何もかも思い出せない。両親が何をしていた人か、どんなふうにいなくなったのかも。寂しい寂しくなって聞かれてもそれすらも分からないわ」

麻子の肩を抱く

絹重「私たちってなんだか似た者同士ね」


麻子「本当ね」

二人は顔を見合わせて大きく笑った。

絹重・麻子「ビーチボーイズファンだってところもね」

笑いながら準備を続ける。販売ブースにはビーチボーイズのポスターがテントのそこら中に張られており、はちみつのラベルにもビーチボーイズが印刷されておりサインが入っている。麻子ははちみつを手に取ってまじまじ見つめる。昨日から何度も見てきたのに、このラベルには今気が付いたのだ。
麻子「これってまさか、本物じゃないわね?」
絹重「本物よ」

麻子、驚いて絹重を二度見。絹重は自信満々に笑って見せる。
麻子「うそでしょ!?」
絹重「本当よ。この新聞部ミツバチクラブ富士見本部は、みんながビーチボーイズの大ファンなの。だから最後の引退懇親会には、毎年みんなでビーチボーイズのコンサートに出かけてる。それはもちろんメンバーでお金を出し合ってね」

さらに得意で誇らしげに

絹重「そうしている内にビーチボーイズもスタッフさんも私達の事を覚えてくれて、この地域活動に協賛してくれる事になったの。このはちみつのサインはビーチボーイズ協賛の証なのよ」
麻子「わぁ!」

麻子とそれを聞いていた辰雄、二郎はあまりの衝撃に口をあんぐり開ける。麻子はさらに興奮気味にぴょんぴょん飛び跳ねながら絹重に詰め寄った。

麻子「ではひょっとして、今年度末にもビーチボーイズに会えるの?」
絹重「勿論!麻子さんも運が良かったわ。実は私達が引退をする年に入笠山にも来て下さるの」

他のメンバーはこの話を知らない。これを聞いた全員は大歓声を上げてとても狂喜に満ち溢れた。絹重、唇に指を当てて何と
か黙らせる。全員、お口はチャックして、口の中のものを手で遠くに投げ捨てる。それもそのはずだ。今までステージは何度
も見に行っても、富士見の地元に来てくれてそんなまじかで会う事が出来るなど、今まで経験したことがなかったからだ。

午前10時・信濃境駅。

販売ブースで販売が開始する。販売開始からブースは盛況で、メンバーはそれぞれ競うように集客をして売り歩いている。絹重は販売が開始するとブースの中に置かれた蓄音器をセットしてレコードを流す。レコードからはビーチボーイズの歌が陽気 に流れ出し、メンバーも買いに来る客もみんなで歌いながら賑やかくはちみつとレモネードを活気良く売る
 一方、信濃境駅舎の中では改札の出入り口から山高シャッポを深くかぶり、割れて曇った度の強い分厚い丸眼鏡をかけた若い男性がブースの方を見つめていた。誰も彼の姿には気が付いていない。男性、じっと販売ブースを見つめている。

午後17時頃・ホテイアツモリ荘談話室

絹重をはじめ、他のメンバー共々、ソファーに座って大きく伸びをする
絹重「よしっ!今日も終わったわ!」

と言って麻子を見る。麻子は経理担当だ。

絹重「経理、今日の売り上げは?」

麻子は古いそろばんを取り出して手慣れた手つきで素早く計算しだす。そろばんはブナの木でできており、年期物で所々色あせていた。玉は七玉だ。このそろばん、父・春原史郎の下がりもののそろばんだった。子供時代の史郎も麻子と同じ様にそろ
ばんがとても得意で、寒椿がまだ健在だったころによく店の経理の手伝いをしている頃に使っていたとても大切なそろばんだった。実は父親の手作りで、どんなに値段をつけたくても付けられないほどに高価で大切なものだった。

麻子「今日だけで売り上げは320万8536円(現代価値3000万ほど)」
加藤田「スゲー…家が買えるな。僕らの取り分はいくらだ?」

もちろんこの値段は、中等部だけの売り上げではなく、高等部と初等部も合わせた値段だ。それにしても…優秀なミツバチたちだ。一日でここまで売れるだなんて。梅子は興奮する加藤田を笑って小突いた。

梅子「そんなのあるわけないわ!これは新聞部の活動資金として使うお金よ」
麻子「その代わり…」

談話室の厳重に鍵がかけられたガラスの入れ物に入った黄金のハチの巣と王冠をうっとり見つめる


麻子「女王蜂になれば、売れば何十万(現代価値数百万)もする純金のハチの巣と王冠を手に入れ、さらに3つの願いもかなえて
もらう事が出来るの!さらにさらに、就職にも好影響が出る!」
絹重「そうよね、みんなそれを目指して頑張っているというのも事実ですもの」

麻子、ガッツポーズをして闘志に燃えたように絹重を見る

麻子「勝負はこれからよ絹重さん!この1年で大逆転!女王蜂の座はこの私がもらうの!」

辰雄の肩を抱いてマリリンモンローのミュージカルの様に舞いながら

麻子「それなりに実力はあるわ」
絹重「Waoh!」


麻子、座りなおしながら不思議そうに絹重を見る。絹重は時々眼鏡をずらしたりかけたり外しながら新聞を見ている

麻子「絹重さん、さっきから気になっていたんだけど…眼鏡」
絹重「え?」
麻子「いつもサングラスなの?それに文字を見るときにいつも…」
絹重「見られていたのね」

絹重、ずっとかけていた分厚くて薄緑の四角眼鏡を取る。眼鏡を取ると絹重はとても地味な顔立ちではあるが、日本古来の奥ゆかしさと美しさがあり、純粋な日本美人だった

絹重「私、若年性の緑内障なの。これは緑内障の人のための老眼鏡よ」
二郎・麻子・辰雄「ろ…う眼鏡!?」

二郎、麻子、辰雄の三人はそれは驚いた。ふつう、絹重の年で老眼に緑内障とは誰が考えるのだろうか

絹重「そう、先天性でね。だから近くは全く見えない。でもね…」

絹重、夕方の窓の外を指さして目を細める
絹重「遠くは普通の人の何十倍もよく見えるの。例えば…あの山が蓼科山なんだけど、蓼科山には今50人くらい人が登山しているって事が分かるわ」
二郎「うそだぁ!」

岩波と小池、満を持したように腰に手を当てて胸を張る

岩波「ドロシーの言っている事は本当だぜ」
小池「彼女、実はざっと50キロ先までは肉眼で見える、マサイ族も驚きの視力さ!」

絹重、小粋に笑ってメガネをかけなおす

絹重「だからって何の役に立つって訳でもないわ。いつか私のこの視力が何か人の役に立つ日があればいいんだけどね」
小平「今だって十分僕らの役に立ってるだろ」

絹重の肩を小粋に叩く 

小平「例えばこっちに向かってボールが飛んでくるとか、空飛ぶ飛行機のファーストにプレスリーが乗っているのが見えるだとか、とある時はグレースランドの豪邸でプレスリーが歌っているのが見えるとか」

絹重、笑って小平を小突く

絹重「バカね!さすがに私でもアメリカまで見えないわ」

二郎と麻子と辰雄以外、当たり前の事の様に笑うが、二郎と麻子と辰雄はまだ信じられないようにポカーンとして絹重を見つめている。絹重、座ったまま大きく伸びてタイプライターを戸棚から取り出して自分の目を前に置くと頭を抱えて下を向く。

絹重「問題は新聞のネタよ」
小平「ドロシー、暮れから言ってるもんな」
絹重「そうなのよ。世間を楽しませる新しい特集を組みたいんだけど、どうしようかしら」
小平「小説欄とか論説欄とかはどうかな?」
絹重「小説に論説?」

小平、まるで哲学者のように小指を立てて歩き回りながら論説調に話し出す。少しインテリっぽく見え
るが、とても賢く立派にしゃべる小平の姿が絹重にはとてもまぶしく映った。

小平「そう!世間が興味を持つようなホットな小説を連載するのだ。そうすれば興味を持ってくれた人が購読したいって思うん…」

小平、ク゚っと振り返って絹重にグンと顔を近づける
小平「ではないかな?」
絹重「でもそんな文才…」
小平「堀辰雄作品のような作品が書けるやつ?」

小平、絹重を見てにやりと得意げに胸を叩いた。
小平「現代の堀辰雄と言ったら?こういう時の僕だろ!小平修はこういう時に役に立つ!」


コホンと小平は軽く咳払いをする。絹重も他のメンバーも小平の文才は承認済みだ。その通りだと黙って頷いた。

小平「まぁ、時間はたっぷりなんだしゆっくりと意見を出し合って考えて行こう」
絹重「そうね」


昭和四十年十二月三十一日ホテイアツモリ荘居間。

お年取りの宴会が開かれている。沢山のごちそうがちゃぶ台に並べられ、蓄音器からはビーチボーイズの音楽が流れている。メンバーたちははちみつ湯の入ったグラスを掲げる。

絹重「今年もまた新たなメンバーとお年取りを迎える事が出来ました。この一年を祝し、来年からののミツバチクラブの活動に期待をして乾杯!」
全員「乾杯!」

全員、大きく深呼吸をしてミツバチの誓いの歌を歌いだす。

全員「♪蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン」

壁には薄くビーチボーイズが印刷された日めくりカレンダーがかけられている。麻子と辰雄は日めくりカレンダーを見る。昭和三十九年十二月三十一日木曜日と表示されている。辰雄は目を細めて懐かしさとさみしさが入り混じった顔をして微笑んだ。麻子も辰雄を慰めるように微笑んでいる。

麻子「今日はダディーの誕生日だわ」
絹重「そうなのね」
辰雄「生きていらっしゃれば48歳になられる。毎年この日には僕、下宿先の他のおじさんやおばさんと一緒にダディーの大好きなコフキ芋といなり寿司を作って祝ってあげたんだ」
絹重「お父様思いなのね、素敵だわ」
辰雄は少し照れ笑いをしながら山盛りのいなり寿司を一つとって寂しそうに見つめ、口に入れて懐かしく目を閉じた。


辰雄「これ…本当にダディーを思い出す。間違いなくダディーの味なんだ」

絹重、黙ってもぐもぐしながら二人を見ている。辰雄は本当に涙もろい男だ、今でもすでに目にはうっすら涙がたまり、泣きそうになっている。涙もろいところは本当に父親の史郎譲りで彼にそっくりだった。

二郎「なぁ」


今までほとんど自発的に喋った事のない二郎が口を開いた。メンバーはびくりとして一斉に二郎に注目した。二郎は構わず辰雄の傍に来て、落ち込む彼を慰めるように肩を抱く。


二郎「そんな顔してたって悲しくなるだけだろ!それにお父上まだお亡くなりになったって分かったわけじゃない」
辰雄「そうだけど…」

二郎、何かを思い立って様に手を打った。辰雄は落ち込んで下を向いていたが驚いて顔を上げる。麻子にとっては父の事は記憶の霧の中に消えてしまい、ほとんど覚えてはいなかったが、辰雄は父を鮮明に覚えていた。声…容姿…顔貌…癖…好きだったもの…。辰雄にとって10歳まで一緒に過ごした大切な家族で、誰よりも愛して信頼した相手だった。それゆえに、突然何の前触れもなくいなくなってしまったショックも悲しみも大きく、当時は父を恨んでいた。しかし辰雄自身、恨みの気持ちは消え、今はただ「もう一度会いたい」「一緒に暮らしたい」という強い思いしかなかった。

二郎「父上の大好きだった歌って何かあるか?」
辰雄「好きだった歌?」

辰雄と麻子、顔を見合わせる。父の好きだった歌?なぜ二郎はいきなりこんな関係のないような質問をするのだろうか?辰雄と麻子には訳が分からなかった。二人がなかなか答えないと、二郎が助け舟を出す。

二郎「今の僕らがビーチボーイズとプレスリーが大好きみたいにさ」

辰雄はしばらく黙って考えた後に静かに口を開く。史郎の好きだった歌を思い出したのだ。それは見スタンゲットとフランクシナトラだった。辰雄はどちらを言おうか迷ったが…

辰雄「シナトラだ…」
絹重「シナトラ?」
小平「フランク・シナトラ?」
辰雄「うん。よく記念日にはダディーが女装してマミーが男装して寸劇しながら歌ってた」

絹重、何かを思った様に立ち上がって小平の背を押して小平を近くにあったクラブサンの椅子に座らせる。小平は訳が分からずに眉間にしわを寄せて絹重を見る。

小平「ドロシー、何のつもり?」
絹重「小平君お弾きになれるでしょう、シナトラのあの曲!」
小平「♪When you’re smillin…?」
絹重「Nice!」
小平(絹重の真似をして)「Nice!」

絹重、「そう!」と指を鳴らす。小平、伴奏を始める。絹重、寸劇をしながら歌い出すと辰雄と麻子も一緒に歌い出した。クラブサンを弾く小平とその後ろに立つ絹重、二人で仲良く歌っている ー歌の途中、ヒュッテの外にはあの謎の若い男性が歩いてくるが、ふとヒュッテの前で足を止める。全員の合唱と小平のピアノが聞こえてくるのに男性も気が付いた。男性はふと、音楽の聞こえる窓辺に顔を向ける。どこか懐かしく、心にしみるような表情を見えない顔でこぼしながら。


男性М「シナトラだ」

男性立ち止まって聞きながら、曇った眼鏡と深くかぶった帽子で見えない目から涙をこぼした。これは喜びの涙なのか、切なさの涙なのか…涙を流す本人である男性にもわからなかった。またなぜ、この極寒の高原の夜道を歩いているのか…どこに行こうとしているのか…それすら男性自身にもわからない。



ー第二話ー

昭和四十一年二月二十九日入笠湖。

絹重、麻子、辰雄、小平の四人が集まって湖岸を見つめている。冷え込みの激しい日だった。雪はそこまで多くはないが、風は刺すように鋭く肌に痛い。日中も凍みる空気のせいで、真昼間なのに解けぬままのつららが周囲の建物からはぶる下がり、湖はもちろんのこと、バケツなどに溜められた水などはカチコチに凍っていた。

麻子「どうしてあなたまでいるのよ?」

そんな中に佇む四人、麻子が胡散臭そうに小平を見つめる。小平もムッとして麻子を見て強い口調で言い返す。


小平「別にいたっていいだろ!」
麻子「まぁ別に悪い理由はないけど」

絹重は小平に意地悪を言う麻子を諭す

絹重「麻子さん、意地悪言わないで。小平君は私の補佐なんだから」


麻子、胡散臭そうに小平を見てから鼻をふんっと鳴らす。小平、腰に手を当ててエッヘンと気取ったように胸を張る。絹重も笑ってみているが、思い出したように口を開いた。

絹重「そういえば麻子さん、今月がお誕生日じゃなかったかしら?」
麻子「そうよ、私の誕生日。今日で四歳ね」
絹重「え?」

ー四歳?なぜ四歳なのだろう?ー絹重、ポカーンとして麻子を見つめた。麻子は面白いように絹重の反応に笑って説明をし出す。

麻子「デレク兄さんは今日は誕生日じゃないけど、予定日は今日だったんですって。今日生まれていれば七歳よ。だって私たち四年に一度しか年を取らないんですもの」

麻子、悪戯っぽく舌をペッと出す。絹重も理解をしたようにフッと笑って二人に小さな包みを渡す。

絹重「お二人とも…サプラーイズ!」
麻子「わぁ!」
絹重「辰雄さんにも送ればしてのプレゼント。受け取って」
辰雄「僕にも?ありがとう」
麻子「ありがとう!開けていい?」
絹重「えぇ…」


麻子はワクワクと小粋に包みを開けだし、辰雄も遠慮気味に頬を赤くしながら包身を開けだした。二人の包みの中からは写真ケース付きのゴージャスな方位磁針が出てきた。麻子「方位磁針だわ…こんな不思議に輝く方位磁針見た事がない」

絹重も「そう?」と言う様に首をかしげて小粋に微笑んだ。

絹重「それは再会の磁石というものなの。それを持っていれば大切な方に会う事が出来るんですって」
麻子・辰雄「絹重さん…」
絹重は笑って二人を励ますように肩を叩く

絹重「お父様はきっと生きていらっしゃる。また会えるわ」
麻子「ありがとう。なら絹重さんのお誕生日にも再会の方位磁石をあげなくちゃね」
絹重「ありがとう、でも私はもう無理よ」


小さく寂しそうに笑いながら、カバンにつけた両親の写真が埋め込まれた海懐中時計をみる

絹重「私の両親は麻子さんのお父様みたいな行方不明ではないんですもの。もう亡くなっているって聞かされている。いくら何でも死人を呼び戻すなんて事は不可能だわ」


絹重はしばらく遠くを見つめて哀愁に包まれているように見えたが、急に話を戻すように麻子の方に向き直る。

絹重「それとね、この方位磁針にはもう一つ意味があるの」

絹重は鞄からネクタイとバレッタを取り出し、ネクタイは辰雄の首に結ぶ。そして麻子の二つに束ねた髪を解いて一つに編んで結いなおし、三つ編みをくるりと丸めてバレッタで留め、絹重は自分の髪も結いなおして麻子と同じようにし、同じバレッタで留める。そして辰雄にあげたものと同じネクタイを
取り出して小平の首に結ぶ。そして麻子と辰雄の手をつながせて、辰
雄と絹重が手をつなぎ、もう片方を小平とつないで、麻子も片方を小平とつないで小さな円を作る

絹重「その意味は、親友の証よ」
麻子「親友の証?」
絹重「そう。これから親友の証の儀式を始めます」

4人、手を取ったまま目を閉じて下を向く

絹重「復唱してください。これは親友の証です」
麻子・辰雄・小平「これは親友の証です」
絹重「私たちは何があっても、親友であることを約束し、この証を無くさず常に身に着けることを約束します」
麻子・辰雄・小平「私たちは何があっても、親友であることを約束し、この証を無くさず常に身に着けることを約束します」

目を開いて手を解くと、四人は大きく息を吸って歌い出す
4人「♪ハチの巣に集う仲間に愛と忠誠を誓う。我らのモットーは一つ。ブンブンブン…」

4人、笑い合って手を打つ。

絹重「これで私たちはもう何があったって親友よ!」

全員、手を重ね合わせて「うん!」と大きく円陣を組むように頷く。

昭和四十年三月。

テレビやラジオのニュースで失踪事件の不思議現象が東京を中心に日本各地現れ始めたと日々報じられている。ホテイアツモリ荘の朝食時間。九人のメンバーが食事をしながらテレビに釘付けになっている

絹重「失踪事件?何かしら?」
麻子「分からないけど、なんだか不気味ね」
絹重「えぇ…」
麻子「ねぇ絹重さん」
絹重「ん?」

麻子は何かを思い立ったように絹重を見る。その眼は好奇心と興奮で輝いていた。


麻子「この事、学校の友達はみんなどれくらい知ってるかしら?」
絹重「そうね…私も今日初めてこのニュースを見たからまだほとんどの人が知らないんではないかしら?」
麻子「だったらこれよ!」

麻子は待ってましたとばかりに立ち上がって大きく手を打つ。他の八人は驚いて軽く飛び上がりながら麻子に注目。

麻子「これを学生新聞の特集記事にすればいいんだわ!そうすれば校内中の注目が集まってこの話でもちきりになる筈よ!」

ニヤリとしながらも麻子は早く書きたくてうずうずしているように見える。

麻子「あぁ、早く書きたくてむずむずする!きっとこんな特大ネタ、100年に一度出るか出ないかよ!その内書くであろう、ビーチボーイズ富士見に来日ネタの次に話題性があるわ!」
絹重「ちょっと!」

絹重が麻子を制止した。とんでもないと言う様に目を見開いて麻子の肩をつかみ、首を何度も横に振っている。
絹重「ビーチボーイズの記事なんて書かないわよ!書いてはだめ!」
麻子「別にいいじゃない!うちの学校の生徒はみんなビーチボーイズが好きなんだから!学生新聞を飾る特大記事になりえるわ!」
絹重「だからよ!それじゃあ懇親会に呼ぶ意味がなくなるわ!万が一多くの人が押しかけてファンにたかられてでも見なさいよ!」

麻子もやっと絹重のいわっとしている事が理解できたようだ。絹重は、そうにでもなってしまったら普通の握手会やサイン会と何ら変わりのない状態になってしまって、一番メインの自分たちが憧れのビーチボーイズと共に過ごせなくなると言いたいのだ。

麻子「やっぱダメダメ!それは困る!」
絹重「だら?」

絹重が他のメンバーを見回すと、他七人もその通りだと頷いた。


昭和四十年四月。

まだ薄暗い朝の五時。ホテイアツモリ荘の台所からは朝餉を作る音と、とてもいい香りが漂ってきた。いつもの朝と同じなのにどこか懐かしい信州みそのお味噌汁の香り、ご飯が炊ける香り、卵の焼ける香りなど。絹重が台所で食事の支度をしていた。
台所の近くには手洗いに通じる廊下があり、たまたま辰雄がそこを通りかかった。彼ももう洋服に着替え、起床をしたようだ。

辰雄М「絹重さん?」

台所から漂う食事の香りとオレンジ色の豆電球に気が付いて辰雄も立ち止まって台所を覗く。絹重の方は辰雄の存在には気付いて
はいない様だった。辰雄は微笑んでそのまま絹重に気が付かれないようにそっと絹重の朝食を作る様子を眺めていた。朝早くから九人分の食事をみんなのために準備する絹重、時々小さくあくびをこぼし目を擦る彼女がなぜかとても愛おしく見えるのは何故だろう?ー自分の亡き母を投影してしまっているからなのか?それともこんなに寒い中早い時間から仕事をして貰っている罪悪感からだろうか?それとも…

絹重「よしっ!お食事が出来たわ。きっともうすぐみんなも起きてくるでしょう」

絹重の準備した一人一人のお膳にはおにぎりとお味噌汁のお椀、焼いたニジマス、焼いたハム付きの卵焼き、納豆、みそ漬けが置かれている。

絹重「お味噌汁は冷めちゃうからみんな揃ったら盛りましょう。それではお味見いただきます!」

絹重、一人ずつのお皿からほんの少しずつおかずをつまみ食いする。それは辰雄も想像をしていなかった行動だったため、辰雄は驚いて目を見張った。目を丸くしながら絹重を見つめていると、彼女はまず麻子のお皿からニジマスを少しみどって食べ、
みどった穴を皮で隠した。見た目は少し川が焼き網で解れて破れてしまったくらいにしか見えない。次に加藤田のお皿から焼
きおにぎりを取って思いっきりかじった。普段からの加藤田への鬱憤を晴らすかのように、麻子の時とは違って豪快に頂く。
絹重「加藤田修、ざまぁみろ…」

絹重は小声でこんな捨て台詞を吐いている。普段の彼女からはとても想像のできないものだった。

絹重「小平君からは…」


絹重は気を取り直したように小平のお皿に乗った卵焼きにトマトケチャップでハート形を描いた。何をするのだろう?辰雄がまじ
まじ見つめていると、ハートの描かれていない部分を箸でとって少し食べた。そのあと描いたハートを箸で消して残りの卵焼きに軽く口付けをすると、何事もなかったかのように口を拭いて次に小池のお皿から納豆を食べる

絹重「小池君いただくわよ。Eww!」

納豆を一口食べるが思いっきり顔をしかめた。

絹重「このお豆は少し苦くてまずいわ。お口直しね」

そういうと梅子のお皿から漬け瓜のみそ漬けを食べた後にすぐ、毅のお皿から一人二枚ずつ乗っているハムを一枚とって口に入れる。あと絹重の目にはみそ汁と湯吞茶碗が飛び込んできた。

絹重「そうね」
辰雄「…」
そういうと絹重は二郎のお椀にみそ汁を少し盛って、具とおしたじを味見する

絹重「うーん…今日のお味噌汁は少ししょっぱかったかしら?」

と言ってから、最後に辰雄の湯吞みをとって沸けたばかりの白湯を注ぐとハチミツを溶いて一気に飲み干した。


辰雄「Woah…Baby」

辰雄も思わず小さく言葉を漏らしてしまう。
この日から辰雄は何度もそんな光景を目撃し、いつの日かそれを見るのが日課になってしまった。毎日毎日同じように食事の準備が整ってはつまみ食いをし、その後は何事もなかったかのようにカモフラージュをし、何事もなかったかのように防寒の準備をしてからトランペットを抱えて外に出ていく…なぜだろう?何故か分からぬがこんな彼女の日課を見るのが愛おしく、誰もが目を疑って憎しみさえ抱いてしまってもおかしくはないあの彼女の行動にさえ、微笑ましさが宿るのは何故だろう。一七歳になる辰雄の心には、こんな疑問も出てくるようになった。
 とある日の朝、いつもの様に絹重の炊事を見つめる辰雄の背後に小平がやって来てそっと肩を叩いた。辰雄はびくりとして振り向く。小平はまだ寝間着のままだ。いたずらっぽく小粋ににやりとわらうと料理を作る絹重を指さす。

小平「ドロシーのあれ、辰雄さんもついに見たな」
辰雄にとっては意外だった。小平はもう全て知っているような口ぶりだ。


辰雄「君はもう知っていたのか?」
小平「Uh-huh」
小平は「当り前さ!」とでも言うように得意げに鼻を鳴らして笑う

小平「この地域じゃ知らない人はいないね、ドロシーのつまみ食いは誰もが黙認だよ。彼女が“入笠山の白雪姫”って呼ばれてる理由はまさにこれさ」
辰雄「入笠山の…白雪姫?」
小平「知らなかった?」

この呼び名は初めて聞いた。なぜ白雪姫なのだろう?すると小平は辰雄の表情から察したのか説明を始める。演劇部のごとく小粋な演技を交えてまるでコメディードラマでも見ているかのように。


小平「僕のスープを飲んだのは誰だ?僕のパンを食べたのは誰だ?僕のサラダを食べたのは誰だ?僕の卵とハムを食べたのは誰だ?ってね」


なるほど…そういう事か。辰雄もあだ名の理由に納得した。これはグリムの童話「白雪姫」に出てくる七人の小人の青年たちが口々に囁くセリフだ。さすがは文学少年、色々と知っている。小平はそれだけ言うと小粋に笑って辰雄の肩を叩きながら去って行った。絹重は辰雄に見られていることも知らずに、相変わらずどんどんつまみ食いを続けている。そしてつまみ食いで食べ過ぎたことに気が付くとごまかすように食材をお皿に足して隠している。これもいつもの行動だ。


辰雄М「絹重さんらしいっていえば…絹重さんらしいか」

昭和四十一年初夏のホテイアツモリ荘

休日の朝食の席。まだ朝晩涼しい高原の六月…ちゃぶ台を囲んで朝食をしながら白黒テレビを見ている九人。ニュースでは相変わらず、あの突然始まった謎の失踪事件の事が放送されていた。最近は毎日このニュースばかりだ。

麻子「また五人も失踪者が出たのね」
絹重「記事の方は?どんな反応?」

暗い顔をしていた麻子だったが、絹重がこの質問をするや否やパッと表情が明るくなって興奮気味にしゃべりだした。

麻子「ものすごい反響よ!学校中…いえ、今や富士見町中の中学校で大騒ぎで、この記事の話題ばかりだって!」
絹重「本当に!?」
梅子「他の生徒からは、シリーズ化して特集を組んで欲しいとも要望が出てるほどよ!」
絹重をはじめ、九人全員が盛り上がっている中、チリリリリリーンと電話が鳴った。


絹重「私が出るわ」

絹重が箸をおいて立ち上がり、黒い受話器を取る

絹重「はい。こちら入笠山ホテイアツモリ荘、平出がお承り致します…はい、はい、私ですけれども…はい、はい…え?はい…分かりました」

しばらく話をしてから絹重は冷静に受話器を置いた。しかし顔にはどことなくそわそわした雰囲気が漂っている。他八人も何があったのかと不思議そうに絹重を見つめている。
麻子「誰からの電話?」
絹重「長野県誌の“信州タイムス”からよ」
梅子「何でそんなところから?」
絹重「私達の記事を知って、ぜひ私達の新聞部ミツバチクラブを取材したいって」
麻子「それで…返事は」
小平「もちろん…」
絹重「勿論オーケーしたわ!」
全員「わぁ!」

全九人の部員はそれを聞くと一斉に大盛り上がりで歓声を上げた。これは新聞部にとってまたとないチャンスだ。特に絹重にとってはそうだろう。彼女は新聞記者を目指し、新聞記者になりたくてこの活動に参加したのだから。


加藤田「という事は僕らの新聞部ミツバチクラブは信州でも有名どころに上がれるかもしれないって事か!」
絹重「そういう事になるかしらね」


盛り上がる全員に、絹重が静かにしてと合図をし、テレビを見るように促した。その合図とともに全員は静かになってテレビに釘付け。ニュースではあの大量失踪事件の事を報道しており、新着情報が入ったとの事を話していた。

男性アナウンサー「警察の調査では現在捜査中であります、全国大量学生失踪事件について新着情報が入りました」


全員、手を止めてさらに釘付けになる。画面にはシルエットだけのとある男性が映し出されている。

男性アナウンサー「最後に被害者の目撃があったと思われる場所では、いつも同じ男性の姿が目撃されており、捜査はこの男性が事件と関係があるのではないかと調べておりますがいまだ男性の足取りがつかめません。警察はこの男こそ以前から世間を騒がす404ではないかとさらに捜査を進める模様であります」
全員「404…?」


全員は顔を見合わせる

麻子「何?連続誘拐犯の男って事?」
二郎「という事は、失踪した人たちはみな何者かに誘拐をされているという事か?あるいは殺されている」
梅子「これはさらに、注目を集める記事がかけそうね」

絹重、手を打つ。そうすると決めたらとりあえずはまず行動をしてみる!それが絹重のモットーであり、新聞部ミツバチクラブのモットーでもあった。
絹重「さっそく記事の製作に取り掛かりましょう!」
小平「堀辰雄もびっくりするような記事をな!」

朝食後の討論室

九人のメンバーがこもってそれぞれに黙々と作業を始めている。絹重、辰雄、麻子はタイプライターを打ち、加藤田、小池は原稿の校正と見直し。二郎と岩波と梅子は総仕上げ。小平は絹重の補佐に回っている。小平は絹重に麻子と辰雄が完成させた手書きの記事を確認しながらタイプライターで打ち込んでいく。小平は絹重が見やすいように癖のある文字を直したり、一緒に別のタイプライターを使って清書をしたりしている。
小平「ドロシー、こっちは僕がやっておくから君はこれを頼む」
絹重「ありがとう。小平君はいつも頼りになるわ」
小平「ドロシーこそな」


二人、ハイファイブをして再び打ち出す。小平は仕事の合間にも時々絹重を気遣っては秘書の様に声掛けをしたり、お茶を入れてきて彼女に渡したりしている。麻子、悪戯っぽく二人に注目。麻子はこの時何となく悟っていた。
-小平修は平出絹重の事が好きなのではないか?もしそうだとすれば、何とか二人を幸せにしてあげたいー
これが麻子の考えだった。しばらくは二人の気持ちをしばらく見守る事にしよう。行動は分かってからでも遅くはない。新聞部役員二人の熱愛報道のゴシップ記事を書くのも面白いんではないか?こんな考えも麻子の頭の中にはあった。


翌日の南中学校蔦木分校

新聞部の書いた記事の概要が掲示板に張り出され、講売で本編が販売されているが、長蛇の列で即完売。地域中がミツバチクラブの新聞活動の話でもちきりになった。今や富士見本部の新聞部ミツバチクラブは長野県で知らない人がいないほどの有名何処になっており、以前にも増して彼らが作って売る、はちみつ湯、ハチミツレモネード、ハチミツホットケーキ、はちみつプリン、そして純正はちみつはは売れるようにもなっていた。
 そんな頃…入笠山では。伊那市と富士見町の境辺りの岩に謎の男が腰かけて、校外で販売されていた新聞を手にして見ていた。男は20代後半から三十代前半くらいの若い男性に見える。容姿は深くかぶった山高シャッポと曇って割れた大きな眼鏡でほとんどわからない。浮須汚れた分厚く長い背広を
身にまとって、よれよれになったズボンを履き、すっかり履き古したような革靴を履いている。お世辞
にも奇麗とは言えないみすぼらしい姿だった。男性の持ち物は大きなビジネスバックだけだ。みすぼらしい姿ではあるが…何というか、とにかく怪しい人としか言様がない。

男性「失踪事件…404…」

男性はそうぽつりとつぶやくと再び立ち上がってさらに山を進んでいく。


昭和四十一年秋南中学校蔦木分校の校庭

この日がついにやってきた。新聞部ミツバチクラブが“信州タイムス”社のインタビューを受けている。それぞれは緊張しながらもにこやかに話をしている、さすがは新聞部だ。コミニケション能力やノリの良さにもたけている。それもそのはず、司会進行やインタビューをするのも彼らの仕事であるわけだから。インタビューを受けるメンバーの周りでは、多くの学生たちも興奮の面持ちでそれを見学、観覧している。これを機に入部をしたいという人もさらに増えるだろう。
 インタビューが終わって記者が帰ると部員たちはどっと疲れた様に地面にへたり込んだ。しばらく誰も口をきかないが、やがて加藤田が初めて口を開いた。

加藤田「でも僕は認めたくないし納得できないな」
不服を漏らすような声だ。


小平「ドロシーの件か?」

加藤田、いらいらと地団太を踏みながら頷いて嫌味に絹重の方を見る。

加藤田「それしかないだろ!女のくせに何であいつが論説委員長なんだ!?」
小池「そりゃドロシーにそれなりの実力があるからなんじゃないのか?僕も記者たちの意見に同意だし」
梅子「嫉妬かい、加藤田。見苦しいよ」
加藤田「嫉妬じゃねぇよ!ドロシー!」

加藤田は絹重に立ち向かうように彼女を指をさす。絹重も気が付いて、はじめは驚いたような顔をしていたが、立ち上がると絹重も冷静に腰に手を当てて加藤田を薄目で見つめた。

加藤田「大したでかい事も出来ねぇくせに論説会長とか、僕は絶対に認めないからな!認められたいんなら何か一つでも体を張ってでかい事して見やがれ!」
絹重「でかいこと?では一体どういう事をすればあなたは満足なのかしら?」

絹重も加藤田の喧嘩に応じるような口調だ。二人はしばらくにらみ合っていたが、先に折れたのは加藤田だった。物おじもせずに何も動じない絹重の迫力に負けたのだ。加藤田は悔しそうに鼻を鳴らすとそのまま校舎へと戻っていった。「大丈夫?」と絹重をかばう他の友達を横目に、絹重は唇をまげてニヤリとすると、左手の人差し指を高く上げた。これは絹重が何かを思いついた時に必ずする彼女の癖のようなものであった。
翌朝。学校の体育館前にはざわざわと全校生徒が集まっていた。そこに、絹重以外のミツバチクラブメンバーも登校をしてきた。
麻子「そういえば今日、朝から絹重さん見てる?」
梅子「いえ、私は見てないわ」
加藤田「そういえば僕もだ」
麻子「最後に見たのは?」
小平「夜中に手洗いで会ったっきり」
岩波「僕もそういえば知らないなぁ」

そう、絹重の姿を誰も朝から見ていないのだった。六人の頭の中によぎるのはあのニュース「失踪事件」だ。まさかとは思うが、絹重が事件に巻き込まれてしまったのではないかという考えもぬぐう事が出来ない。不安に駆られてざわざわ話し合っていると、体育館からクラスメートの植松辰子と池居靖代が出てきてメンバーに手招きをした。


辰子「絹重さんから伝言。全校で体育館に集まってって」
靖代「緊急討論会を開きたいとのことよ」


「よかった!」メンバーには安どの思いがあふれた。どうも絹重はもう先に登校をし、無事に体育館にいるみたいだ。安心するメンバー、しかし一人だけそうではない男がいた。加藤田修だ。加藤田はとんでもないというように目を見開いて腕を組む。

加藤田「一体あいつ何考えているんだよ!僕らに心配かけた上、僕らに何の相談もなしに!」

そういうと強く鼻を鳴らした。

加藤田「いい気になりやがって!論説会長様はそんなにお偉いお人なのですかね!」

全校生徒が体育館に集まるとやがて蓄音器から巨大にレコードがかかり出して、絹重が歌い踊りながらステージに登場した。曲はマリリンモンローの「Diamonds girl are best friend」だ。絹重は男装をして詰め入りで紺の学生服にズボン、髪型はマリリンモンローの様にウエーブさせているのに、前髪は男のようにぴっしりと七三分けで歌っている。全校生徒も好きな歌だ。絹重に合わせて手拍子で歌っている。歌が終わると絹重は加藤田に近寄って挑発気味に笑った。

絹重「お望み通りでかい事やってみたわ。どうだった?私のショーは?」
加藤田「急に歌うとか僕は聞いてないぞ!反則だ!卑怯だ!」
絹重「だったら文句を言う前に加藤田君も何かやってみたら?」
加藤田「はぁ!?」

絹重は全く加藤田のバカでかい怒鳴り声にも動じない。眉間にしわを寄せたまま目を見開いて、まるでゴブリンの様な顔になった加藤田に対して小粋に笑うと、いつの間に用意をしたのか、花を加藤田に手渡した。普通の花ではない。かつて映画でエルヴィス・プレスリーが持っていた様なハワイで使う
様な花束だ。
絹重「この場に与ってエルヴィスでも歌ってくれる?♪Rock a hula Ro Rocka a hula…って」
加藤田「Huh-uh!?」


加藤田、鼻を投げ捨てて悔しそうに体育館を出ていく。こうして加藤田を追っ払った絹重…全校生徒も初めて見たようなこんな絹重の姿にあっけにとられてポカーンとしている。絹重は何事もなかったかのように両手を広げて肩をすくめるが、その直後に激しく咳き込む。

小平「大丈夫か?」
絹重「えぇ…」
小平が慌てて絹重の背を擦る。最近絹重は咳き込むことが多くなった。

絹重「ごめんね、大丈夫よ。空気にむせてしまっただけ」

本人はこう入っているが、今まで何でもなかった健康そのもののスポーツ少女絹重が突然咳をすることが多くなったのだから、周りの誰もが異常を感じて心配をする。

小平「医務室行こうか」
絹重「医務室なんておっこーよ!」
小平「いいから!」

小平は、大丈夫と言い張る絹重の背を支えて医務室に連れて行った。
医務室でも彼女の席はしばらく収まらず、ベッドに横になる事になった。心配をした小平は授業を欠席してまで、絹重が落ち着くまで彼女に付き添っていた。絹重はこんな小平の事が本当に好きだった。私のために彼は授業をすっぽかしてまでここにいてくれる。何よりも勉強が好きな彼なのに、勉強よりも私を心配してくれている…。とても彼の気持ちが温かい。ー彼のためにもこれ以上心配をかけることはできないー
そう思って絹重はまだ席が出る体を起こし、「もう大丈夫よ」と医務室を出た。

一週間後の新聞部ミツバチクラブ専用部室。学生たちが今日も新聞記事を制作していた。部員は絹重たちの他に数名おり、この中等部は十五人くらいのメンバーで活躍をしていた。先ほどの辰子と靖代もメンバーの一人だ。


麻子「明日はいよいよミツバチ討論会ね」
絹重「一体どうしたらこの謎の失踪事件を防げるか、原因は何なのかの討論会を数日行うのよね」
麻子「そうそう!」
絹重は興奮気味にタイプライターを打つのをやめて目を輝かせ、生き生きと叫ぶ

絹重「何だかこれぞ、論説委員会らしい活動ね」

そして人差し指を立てて指導者の様に演説調でしゃべる

絹重「例えば論説とは…“遅刻。遅刻とは我々の登校が遅いだけなのだろうか?それとも始業時刻が早すぎるのだろうか”とかね」
加藤田「下らねぇ…」

加藤田、大きく鼻を鳴らす

絹重「あら、下らなくないわ。これが論説って物を例に挙げてみんなに教えてあ
げただけよ!」
加藤田「はいはい、うるさいひよこですね」

加藤田、挑発的に絹重を見る。絹重も笑いながら挑発的に加藤田を見返す

絹重「私がひよこ?なら私がひよこならあなたは骨と皮だけで使い物にならない老いた鶏ね!」
加藤田「お前…」

恒例の二人の言い合いが始まった。
加藤田「ゾウリムシ並みの脳みそしてるな」


しかし結局は絹重の方がお口は一歩上手であり…

絹重「あなたはゾウリムシ並みの顔をしてるわね」
加藤田「…」

絹重、「勝った!」とばかりに勝ち誇って笑った。加藤田はこれ以上もう何も言い返せない。言っても言い返されるのは分かっていたし第一何も思いつかなかった。

絹重「ハ、ハ、ハ!」

加藤田、悔しそうに麻子を見て助けを求めた。

加藤田「おい麻子、あいつを負かす手は?」
麻子「負かす手?」

麻子も笑いながら手を上げる。麻子も絹重の口達者さは分かっていた。

麻子「残念ながらないわね。あきらめな」
加藤田「面白くねぇ」
加藤田は悔しそうに手を振り下ろすが、絹重はまだ挑発するように彼を見つめていた。よくいびり愛は愛情の裏返しとは言われるが、二人は決してそんな感じではなかった。まぁ、良きライバル、良き友の証というところだろう。少し行き過ぎている気もするが。麻子はそんな二人のやり取りを面白がって便乗してくる


麻子「きっとここにダディーがいらっしゃれば人様に汚い言葉は使ってはいけないと私たちに諭されるでしょうけれども、今はいらっしゃらないから遠慮なく言わせていただくわ!この…“雑草野郎!”」
加藤田「雑草野郎だ!?」
加藤田もそのあと何か言いかけるが、絹重と麻子の勢いに圧倒されて少し身を引く。そしてまるで幼稚園児の様に強気の絹重に向けてベーっと出した。しかし麻子も絹重も物おじせずに手を叩いて静粛にとジェスチャーをする。


絹重「ショータイムはおしまい!さっさと完成させてしまいましょ!」

加藤田もまたしても鼻を鳴らすが、一応は大人しく書き始めた。数十分すると論絶委員長の絹重が記事を集めて回りだした。まもなく学校も終了の時刻だ。

絹重「今日はもう時間よ。記事を集めるわ」

絹重、一人一人から記事を集めながら加藤田の元に来た。

絹重「加藤田君、記事は書けた?」

そういわれると加藤田はぎろりと絹重を睨みつけて書き終えた記事を乱暴に絹重に渡しながら強い口調で口を開いた。
加藤田「あのさぁ…」


さらに鋭く絹重をにらみつけた。そして鉛筆の芯を机に叩きつけながらいらいらとしている
加藤田「食堂のメニューと購買のパンの事を書き写すのが記事かよ!?」

と叫ぶ。そう、加藤田の担当をしていたのは「今日のおすすめ定食」の欄であり、「学食堂の定食品書きと購買のパン情報」を作る担当だったのだ。


絹重「あら、これだって立派な記事よ。特に本日のパン販売情報と学食のメニューコーナーは学生新聞でも人気欄なんだから!」

かつては確かに、学生新聞一の人気特集だった。しかし今は違う。失踪事件の記事を書き始めて以来、学生の興味はそちらに惹かれてしまっていたのだ。

加藤田「二の次にな!一番はあの事件の記事だろ!今や学生中の興味は食より事件なんだからさ!」

絹重、大真面目に加藤田を見つめる

絹重「それだって人気記事には変わりないんだからいいじゃないの!」
加藤田「大体僕の方が女のお前なんかよりも論説委員長向きだ!」
絹重「またそれ?往生際の悪いゾウリムシです事」


加藤田の口から出るのは結局のところはそこだった。「論説委員会長を僕に譲れ」目的はそれただ一つだ。そこに見かねた小平が絹重をかばうように割って入って来た。小平にとって絹重は友達以上に大切な存在だ。彼女のピンチはどんな些細な事でも放ってはおけない。

小平「いや、そりゃお門違いってもんだね。どうして今、彼女が論説委員会長になっているか」
絹重「小平君?」

小平、得意げに絹重の肩を組む。絹重にとっても小平はピンチ時にはいつでも現れてくれる、スーパ
ーマンの様なヒーローだ。

小平「彼女にそれなりの実力が伴っていて論説委員会長にふさわしいからだろう!誰もが僕と同じ意見だと思うよ!」
絹重「小平君…」

加藤田以外の部員全員が絹重を見て笑顔で頷く。小平も小粋に絹重に目配せするが、自分が絹重の肩を抱き寄せている事に気が付いて慌てて手を放した。

小平「会長を守るのも会長補佐の仕事だから…副会長として」

ぼそぼそ呟きながら下を向く小平、その顔は赤く染まっていたが幸いそれには誰にも気が付かなかった。そこに席を外していた麻子が扉を強く開けて、興奮しきった様に部室に飛び込んで来た。手にはノートとペンを持っており、興奮のあまりぴょんぴょん飛び跳ねている

麻子「事件に関して特ダネを手に入れたわ!」
絹重「何!?」

絹重も興奮して麻子に駆け寄った

麻子「事件の事について乙事周辺の人にインタビューをしてたの。そしたらたまたま町長がいてインタビューに協力!町長直々のインタビュー記事を手に入れた!」
絹重「凄い!」

絹重はこれを聞いて誇らしげに加藤田に笑いかける。加藤田も目を細めて絹重を見つめる

絹重「加藤田君にこんな大きな仕事できるかしら?」

絹重は麻子と共に話しながら席に戻っていく。加藤田は悔しそうに鼻を鳴らした

一週間後のホテイアツモリ荘

夕食時…絹重が小平と小池と共に台所に立って食事の準備をしていた。絹重はおむすびを握り、小平は煮込み物をし、小池は魚を焼いている。夕餉の温かい香りが部屋中に漂い、煙突からは白い煙が空に昇っていく。

絹重「いよいよ明日ね、ドキドキするわ」
加藤田「それなら明日の討論会で、加藤田養蜂場新聞も紹介してくれよ」
加藤田がにやにやしながら一冊の新聞を持って台所に入ってきた。

絹重「加藤田君、お夕食はまだよ」
加藤田「違うよ。だから加藤田養蜂場の新聞を明日の討論会で紹介してくれって言ってるんだ。今、その話をしていたんだろ?」

絹重はおむすびを握る手を止めて加藤田の方に目を向けた。相変わらず何かを企んだようににやつく加藤田と、また厄介ごとに巻き込まれたくないといった感じの絹重
絹重「あなたの家の新聞を?事件とどう関係があるのよ?」
加藤田「これ、見て見ろよ」

加藤田は絹重に新聞紙を手渡す。“加藤田養蜂場速報”と書かれている。絹重はその新聞を受け取った。

加藤田「中を見て見な」

絹重が中を開くと、中には「権力と独裁の虜!論説委員長平出絹重がメンバーを誘拐」という見出しが書かれており、フリントストーンの写真に絹重の顔がはめ込まれた写真が貼られていた。フリントストーンとはこの時代に放送していたアメリカのアニメである。絹重たちも大好きで、小さい頃から見たりしていた。

絹重「フリントストーンに私の顔をはめ込むなんて酷い…」
小平「加藤田、いくら何でもこれはやり過ぎだぞ!」


目を見開いてまじまじ見つめる絹重とにやにやとして絹重を見ている加藤田。

加藤田「どうだ?やるか?」
小平「最低なやつだな」

絹重がここまで言われているのを黙ってみている事なんかできない!小平は絹重をかばいつつ、加藤田に食って掛かろうとするが、絹重はそれを制止して突如にっこり笑って記事を加藤田に返す

絹重「気に入ったわ」


加藤田・小平「へ?」

この答えは拍子抜けだった。加藤田はもっと悔しさと悲しさに泣いて震える絹重の姿を見たいと想像していたのに、こんな記事を見てもまだ彼女は笑っており、しかも「気に入ったわ」とまで言うのだ。


絹重「発想は面白いと思う」
小平「ドロシー…」

絹重、加藤田の肩に手を置いて、静かに続ける。

絹重「論説が書きたい気持ちはよくわかるわ。でも、そんな真面目で暗い記事ばかりでは面白くないの。だって学生新聞でしょ!明るくてユーモアのある記事が必要なのよ!それには加藤田君の才能が必要なの」
加藤田「僕の才能ねぇ…」
加藤田は厭味ったらしく絹重を見た。確かに絹重の言う通りだ。加藤田は学年の中でもコメディアン
的な要素がある学生でいつでも学年を盛り上げえるムードメーカーなのである。

加藤田「ふーん?学食の写しがか?」

絹重、チ、チ、チと舌を鳴らしながら加藤田の方に蛇のように絡まる


絹重「それももちろんだけど…今度からゴシップもやってみない?絶対学生から受ける事間違いなしよ!」
小平「なるほど…そういえばゴシップって今までになかったジャンルだな」

加藤田、気分を直したようににやり

加藤田「僕は期待されているんだな?」
絹重「当たり前だらに!」

絹重はポーンと強く加藤田の肩を叩いて奮い立たせる。こうやって仲間を奮い立たせてやる気を起こさせるのもまとめ役の仕事だ。そこの辺に関しても絹重はとても上手かった。だからこそ彼女はみんなに信頼されて慕われているのだ。

加藤田「よーし!だったら全校の秘密を探り出して、ドロシーをあっと言わせるような暴露記事を書いてやるよ!」
絹重「期待してるわ」

やっと加藤田がやる気になってくれ、絹重との仲も少し和らいだ感じがした。小平はほっと安心しながらも少し複雑な気分で
あった。それはやはり、今まで犬猿の仲だった二人が仲良くなることで急接近をして、恋仲なんかになる事も十分にあり得るからだった。今のメンバーは一四歳の中学二年生…小平は卒業式を終えたら絹重に交際を申し込もうと考えていた。それまでに絹重が別の男にとられなければの話だが…。小平は卒業までのあと一年ちょっとの間に、絹重が他の誰かの元に行ってしまわないことを強く願っていた。

その夜の入笠湖付近。

ぼろぼろの背広を着てズタズタのズボンをはいて日々の入った眼鏡をかけ、山高シャッポを深くかぶり、大きなマスクをかけた若い男性がふらふらと歩いていた。あの時岩に腰かけて新聞を読んでいたあの男性だ。
男性「何日飲まず食わずだろう。もう駄目だ、体に力が入らない、動けない」

ついに男性は地面にひざまづき、両手も地面についた。やせ細った頬と青白い顔からは全く生気を感じられない。今にも死んでしまうのではないかというような男性の口から洩れる独り言のような言葉は、まるで息の様だ。

男性「愛する妻も子供たちもなし…僕は一体何をしてるのか。これからどうやって生きて行けばいいんだ。もう望みも何もないのに」
男性は何とか力を振り絞ると、這うようにして湖の近くに行き、畔の芝の上に生き倒れてそのまま目を閉じる。男性もこのまま自分の死を悟って覚悟を決めていた。数百メートル先にはヒュッテがあるが、もう男性にはそこまで言って助けを求める余裕もなく、誰にも気づかれないまま夜が更けていった。



ー第三話ー

男性が倒れた翌日になると、毎朝の恒例で絹重がトランペットを抱えて入笠湖にやってきた。まだほかの人たちは寝静まっている。絹重はこうして朝の六時になると入笠湖の畔で得意のトランペットを吹いて、まだ眠る世界に朝の訪れを告げるのだ。みんなは絹重の吹く「はるけき谷間」の美しい音色で目を覚ます。これはみんなが大好きな曲なのだ。
絹重と男性の距離はわずか数百メートル…男性はまだその場に倒れたままだった。死んでしまったのだろうか、男性はピクリとも動かない。そのため絹重は少しも男性の姿には気が付かずにトランペットを吹き、吹き終わるとすがすがしそうに微笑んで戻ろうとした。帰りは来た道と違い、男性のいる方を歩く。さすがの絹重も男性に気が付がついた。倒れたまま動かない男性に絹重は真っ青になり慌てながらもトランペットを地面に置いてしゃがみ込み、男性をゆすり起こす。男性の目は固く閉じられ、生気を感じられないやつれたその頬や手はとても冷たかった。男性の生死は絶望的だ…それでも絹重は男性に声掛けを続ける。

絹重「旦那様大丈夫ですか!?しっかりなさってください!」

絹重が大きく揺すっているとやっと男性はうっすら目を開いた。

ー良かった!生きていた!ー


絹重は男性のぼろぼろの眼鏡を取る。眼鏡の奥の男性の目はとてもうつろに開いており、焦点も合っていない。絹重は自分の腕に男性を抱えて優しく男性の頬を擦った。

絹重「分かりますか?」
男性はやっと喉から声を振り絞って空気のようなかすれた声を出す

男性「何でもいいので食物と水を恵んでください…」
絹重「もちろんです!私の家にいらしてください!」

男性、そうつぶやくと相当衰弱が酷くなっていたために意識を失ってしまう。絹重、さらに驚いておどおどしているがよたよたとしながらも男性を肩に担いでゆっくりながらも歩き出した。まさにこんな時の事を言うのか?女性は強しだ。

そのころ、ヒュッテ内の食堂には絹重を除く人全員が集まっていた。食事の準備はもうとっくに整っており、ちゃぶ台に並んでいた。なかなか戻らぬ絹重に、おなかをペコペコに空かせたメンバー…加藤田は特に相手が嫌いな絹重だけあって空腹も重なり、かなりイライラしていた。

小池「まだみんな揃ってないけど先に食べようよ」
小池もペコペコにお腹を空かせ、もう限界だ。ぐったりと畳に座り、恨めしそうに食卓を眺めていた。しかし小平は食事とは家族が全員そろってから食べるものだと言い、もう五分だけ待ってあげようという。小平は前述のとおり、「シジミ亭小平屋」という大衆食堂の息子だ。家族の在り方には人一倍厳しい両親から幼い頃からそう言われて育ってきたのである。

小平「小池、家族はみんなで食べるものだよ。あと五分だけドロシーの事待ってあげよう」

すると加藤田がいたずらっぽくにやりと笑って小平を見た。
加藤田「お前、えらくドロシーに優しいし親切だな」

それを聞くと小平の頬がピンクになって、急におどおどし出す。絹重に対する気持ちはみんなには隠しているつもりだが本当に分かりやすい男である。

小平「そんな事…ないよ」

小平は両頬を自分で強く叩いていつもの調子を取り戻すように
小平「ただ、これは小平家のモットーなのである。小平家の哲学では…」

そこまで言うと小平は目をとても細めて加藤田に顔を近づけた。

小平「食事とは、家族全員が揃ってからいただくものである」

加藤田も負けじと小平に顔を近づけて言い返した。

加藤田「だったら加藤田家の哲学では…倒れる前に食わせろだ!」

加藤田はトマトに手を伸ばし口に入れようとする。しかし彼はトマトが大嫌いだ

加藤田「もう我慢できねぇ!トマトだけでもいただくぜ!」

しかしふと我に返り、自分の手元を見てトマトを持っている事に気づく。ハッとして手元を目を細めて見る。彼はやはり丸のトマトを持っていた。

加藤田「今、トマトって言った?相当飢えてるね」

そこに絹重が戻ってきた。左手にトランペットの箱を抱えて、背中には男性をおぶって帰ってくる

絹重「ただいま戻ったわ!」
全員「お帰り、おはよう!」

加藤田以外のメンバーは快く微笑んで絹重に挨拶をした。


絹重「遅くなってごめんなさい。あのね…」

絹重が遅くなった理由を話そうとするが、加藤田ががつがつと絹重に近寄り、彼女の話を遮った。そして右手に魚焼き網、左手に木杓子を持った状態で絹重に詰め寄る


加藤田「黙れ!それ以上何も言うな!」
絹重「あら、どうして?」
加藤田「あら、どうして?じゃないよ!三十分も遅れて僕らに同情を求めるってか?」
絹重「同情なんて求めてないわよ!」

加藤田、昼メロの主婦の様に弾丸切って話し出す。小平と辰雄が興奮しきる加藤田を止めようと必死になって彼の腕や腰をつかんでいる。

加藤田「ドロシーの仕事は僕ら男衆がみんなで分担してやっていたんだ!朝食を作ってくれた事だけにはもちろん感謝してるよ!でもそれ以外、君がトランペットを吹き終えて帰ってきてからいつも君がやる仕事、家中を掃除と洗濯と庭掃きに、食卓の設定!」
絹重「ありがとう…それは本当に…悪かったと思ってる。感謝もしてるわ」
加藤田「悪かっただ?」

加藤田は絹重をにらみつけながら台所からフライパンを持ってくる。フライパンの上にはカチカチで木っ端の様になったハムと、キャベツの巣ごもり卵が人数分乗っているが、一つが双子の卵のため十個。そしてそれらを人数分の皿に取り分けてから、自分の皿のハムと卵を箸で叩く。卵はぱさぱさに乾き水分がなく、キャベツも水分が蒸発して干からびている。ハムは木っ端の様になって丸まっている。


加藤田「何度謝られても干からびたハムと黄身がカチカチぱさぱさの目玉焼き、そして干からびたキャベツは元には戻らないんだぞ!Uh-huh-huh?」


加藤田、正気に戻って放心状態
加藤田「僕、一体どうしたんだ?なんでこんなにドロシーに構ってる?」

辰雄、そんな加藤田の肩を抱いて笑う。加藤田は怒鳴りすぎてもはや息を切らしている。絹重は男性をそっと畳の上に横たえ
させて、毛布を掛ける。

辰雄「ごちゃまぜ家族やってりゃあ苦労はつきものさ」
小平「きっとお腹が空いてるんだよ」
加藤田「なぁぁぁぁぁぁ」

加藤田はさらに怒りに任せて嘆き出す、絹重を含め他の八人は加藤田を宥めた。

絹重「よしよし、元気出して。加藤田君はよくやってくれたわ。本当に今日はありがとう」

絹重たちが加藤田に気を取られているときに麻子が、畳の上に横たわる例の男性に気が付いた。

麻子「ところでこの人は?一体…誰?」
小平「本当だ…」

小平から、他の人々も彼に気が付き、注目は一気に男性に集まった。


絹重「今さっき入笠湖の畔に倒れていたの」

絹重は歩いてくる道中で、かすかに男性に聞いた話や男性と行き会った経緯を話し出した。男性は帰る家や家族がない事、自分が
何をしているのか、何のためにここにいるのかもわからない事など。それを聞いて絹重が、ここに男性を置いて一緒に生活をさせてあげたいと考えたことなど…それを聞くと、
辰雄をはじめ他のメンバーも快く微笑んで頷いた。

辰雄「困っている人は助けないとね。そういう事なら賛成だよ」
麻子「私もよ。おじさん汚いけど悪い人じゃなさそうだし」
梅子「言ってもさ、ここには他に住める部屋あるの?」
小平「別館もたくさんあるだろう。むしろ別館の方がきれいだしね」
小池「更にごちゃまぜ家族になるってわけか」
小平「では僕、とりあえずは二階の部屋におじさんを連れていきます」
絹重「ありがとう。だったら昔、織重姉さんが使っていたお部屋がいいわ」
小平「分かった」

小平は男性を負ぶって二階の部屋へと上って行った。この男性の身元も名前も分からない。これは一体どこの誰なのだろうか?犯罪者でなければいいが…いや、どう見ても犯罪者には見えない。それとも失踪事件のある地域から逃れてきた人なのだろうか?
小平は男性を床に寝かせると、男性の眼鏡を外して枕元に置いた。きっと何日もお湯にも入っていないのだろう。肌はふすぐれて少し鼻に来るものがあった。小平は男性の安静を見届けると食事の続きをするために戻ってきた。男性は小平の最後に見た時にはまだ目覚める気配もなかったが、小平が去って数十分後にゆっくりと目を覚ました。頭を押さえながら上体を起こして、体調も良くなさそうに辺りをきょろきょろと見回す。

絹重と辰雄と小平は自分たちの食事を終えると、男性のための食事を準備するために台所に立っていた。何日も食事をとっていないであろう衰弱した男性を思って栄養価が高くてなおかつ消化に優しいものを考えて作っている。
しばらくして男性の食事が出来上がると、絹重がお膳にのせて持ち、水を張った盥と手拭いを持った小平、真新しい寝間着と新調
したばかりの洋服を持った辰雄と共に男性の部屋に上がっていった。男性はもう起き上がっており、意識もはっきりとしている。三人を見ると改めて三人の顔を見て頭を下げた。

絹重「良かった、お目覚めになられたのね」

絹重は安心したように微笑んで食事のお膳を男性の近くに置いた。まじまじ見る男性はまだ若く、三十歳いっていないように見える。


絹重「お食事の準備が出来ました。どうぞお食べ下さい」
男性「ありがとう…」


男性は体制を変えて食事を見る。食事は卵のおじやにユウガオの味噌汁にハムのついた巣ごもり卵にきゅうりのやたらだった。そこに三、四枚塩イカが添えられている。男性は食事を見てとても感動したように声を詰まらせた。

男性「こんな大層な食事を僕にまで与えてくれるだなんて…」
絹重「ごめんなさいね、巣ごもり卵が少し火を通し過ぎて硬くなってしまったかもしれないの」

男性は微笑んで絹重に会釈をしてから「いただきます」と箸を取り、カチカチのハムエッグを食べ出した。

男性「僕は固めの卵の目玉焼きが好きなんだ。ハムもいつもカリカリにして食べていたよ」
絹重「まぁ!そうだったんですね。お口に合ってよかったです!」

絹重にも男性の純粋な笑顔を見て分かった。男性が言っていることは決して謙遜やお世辞ではなく本心なんだと。辰雄はというと、
とても驚いた顔で男性を見ていた。

辰雄「僕のダディーも同じだった!」
男性「え?」

男性はきょとんとして箸を止め、辰雄をまじまじ見つめる。我に返った辰雄は首を振り、男性に食べていてくださいと身振り手振りをする。

辰雄「あ…え…ごめんなさい。ゆっくりお食べ下さい」

男性、まだ食べる手を止めて意味深に辰雄を見つめている。辰雄は困って目を泳がせており、時々絹重や小平に助けを求めているようだ。


男性「ダディー?君…今、ダディーって?」

辰雄はあまりにも男性に聞かれるために、観念したように笑って、寂しそうに軽くうつむいて話し出した。

辰雄「えぇ…今は行方知れずなんですけどね。やはり固めの卵と木っ端の様なハムが好きな人だったんです」
男性「そうだったんだ。君はお父上の事をダディーと呼んでいるのか?」

辰雄、さらに恥ずかしそうに頬を染めておどおどと答える。自分たちが日系アメリカの家系であること、父の史郎は九歳まで
アメリカのネブラスカの牧場で育った事、父の影響で親の事をマミーとダディーと呼んでいる事など。男性はどことなく懐かしそうな複雑そうな表情でうんうんと話を聞いている。
辰雄「ところで旦那様のお名前をまだお伺いしておりませんでしたね。失礼ですけれども教えていただけますか?」

男性もまだ自分の名を名乗っていなかったことを思い出して笑い、咳払いをする。

男性「あぁ、これは失敬。僕の名前は…」

男性が名乗ろうとして口を開くが、遠くで電話のベルが鳴る音が聞こえて遮られてしまう。

絹重「私が出るわ」

絹重は受話器を取りに下に降りて行ってしまう。辰雄と小平は男性のもとに残って、まるで介護士のように男性の食事や身の回りの事を手伝う。男性も改めて残りの食事をしながらも何度も礼を言った。

辰雄「お食事がすんだらお風呂を焚きますので、どうぞお湯に入ってください」
小平「着替えはこちらに準備を致しましたのでお使いください」
男性は食事後、絹重に案内されてホテイアツモリ荘本館の温泉風呂に入った。木の作りでとても温かみのある浴室で、ヒノキの香りを漂わせる湯気が霧のように立ちこもっていた。男性は眼鏡を取り、脱いで畳んだ洋服と共に脱衣所のかごに入れ、腰に大きめの手ぬぐいを巻いて浴室に入った。改めてみる男性の素顔はとても青い瞳をしており、髪は暗めのブロンドだった。鼻もツンっと高く、目元も二重、鼻の頭に軽くそばかすが出来ており、左目の下には小さなほくろがあった。


絹重の声「お湯加減はいかがですか?」

風呂焚き場の方から絹重の声が聞こえる。どうも湯加減を調節に来ているみたいだった。
男性「本当にありがとう。とても気持ちがいいよ」

男性も湯船につかって体の疲れを取りながら返事をする。食事をして湯につかる男性の顔は少しずつ生気を取り戻しており、声にも張りが出てきた。顔貌も声もなぜかどことなく辰雄に似た感じを醸し出していた。
絹重は微笑んで風呂焚き場を出て、男性の洗濯物のかごを持つと外に出て外の洗濯場にかごを置き、台所に戻った。台所では小平がちょうど洗い物を終えたところだった。絹重が戻ると小平は「洗いものなら終わったよ」と合図を出す

絹重「小平君いつもありがとう。洗い物までしてくれなくてもいいのに」
小平「僕が好きでやっている事だから大丈夫だよ」
絹重「男性のあなたにやらせてしまうだなんて気が引けるわ」


絹重も微笑み、小平も照れ笑いをする。なんだか小さな夫婦の様な、とても微笑ましいやり取りだ。ドアの外から岩波と加藤田が陰に隠れてそれを見つめていた。

岩波・加藤田「Oww!」


二人は冷やかすように小声で叫ぶ。岩波はこっそりと加藤田に耳打ちをした。

岩波「なぁ加藤田、小平のやつ絶対にドロシーの事が好きだと思わねぇか」
加藤田「確かに、僕もそう思ってる。しかもドロシーもまんざらでもない感じ」


そこに麻子が記事ノートを抱えてやって来て、絹重と小平の存在に気が付いた。洗い物を終えた二人は今度は一緒に台所の油拭きを始めている。
麻子「これは複雑な三角関係になりそうね」
岩波「三角関係?」
加藤田「どういう事だ?」

そこに梅子もやって来てにやにやとする。

梅子「男どもは鈍いわね」
梅子は窓辺の揺り椅子に座って新聞を読んでいる辰雄に気が付かれないようにそっと指さして悟らせた。
梅子の言わっとしていることを悟った岩波と加藤田は「ありえないとばかりに」

岩波・加藤田「No way!」

と叫んで笑ったが、麻子も梅子の意見には同意の様で


麻子「確信的だと思うわ。女の勘よ」

と言った。四人は辰雄の事をまじまじ見つめる。さすがの辰雄も視線に気が付き、不思議そうに頭を上げて四人を見ながら自分を指さした。麻子は次に小平と絹重の方を指さすとまたもニヤリとする二人は油拭きとおしゃべりに夢中で全く四人の事には気が付いていない。

麻子「絶対に、あの二人は黒ね」
岩波・加藤田「No way!」
梅子「何を驚くことがあるの?何もおかしな事はないと思うわ」
昭和四十年師走も終わりに近づいた日の夜。

窓の外では入笠湖の方だろうか…悲しげに誰かが奏でるフルートの音色が響き渡っている。辰雄は悲しげな表情をしてはちみ
つ湯を飲みながらヴェランダに佇み、一面の星空を見上げながらそのフルートに耳を傾けていた。後ろからはないとローブを着た絹重が、同じくはちみつ湯を持ってやってきた。

絹重「辰雄さん、眠れないのですか?」
辰雄「絹重さん」

辰雄は絹重の声に気が付いて振り返り、絹重の方を見た。

辰雄「今年もダディーの誕生日が近づいてきた…」

辰雄は冷静でとても静かにしゃべっているが、その声はかすかに震えており、寂し気。瞳にはうっすら涙がにじんでいるのが見える。二人のいる背後、部屋の奥には入口のドアがあって、ドアは開いたままになっていた。
ちょうど二人が話をしているときに、あの男性が廊下を通りかかった。男性は寝間着の着物を着て眼鏡を外していた。辰雄と絹重は男性には気が付かずに話をつづけた。

辰雄「昔は僕、突然いなくなられたダディーを恨んで憎んでいた時期もあったんだ。でも今は違う。それは本当に恨んで憎んでいるわけじゃないとわかった。生きていらっしゃるのであればもう一度だけでもいい…ダディーにお会いしたい。せめて何処にいらっしゃるのか、生死だけでもいい、それだけでも知りたいと今は思ってる。もしもお亡くなりになられてしまっていたとしても、何処でどの様にして最期を迎えられたのか…」

辰雄はあの懐中時計をペンダントにして首にかけていた。辰雄はそれを手にとって中豚を開く。中豚にはあの日と同じ写真が色褪せずに残されていた。絹重もそれを見て柔らかく微笑む

絹重「お父様とあなた、そっくりですね」
辰雄「そうかな?ありがとう」
絹重「お父様とはいつまでお過ごしになられたの?」
辰雄「よく覚えてる、終戦の日だ」

辰雄、一番輝く金星を指さしながら話す

辰雄「最後の夜、こんな星空をダディーと一緒に見たんだ。でも翌日…また一緒に星を見ようねって約束したのに、ダディーは仕事に出かけたまま戻らなかった。もう誰もいなくなった大きな家に、僕は妹と二人取り残された」
絹重「妹って…麻子さん?」

辰雄、さみしそうに黙って頷く

辰雄「その後の記憶は僕にも麻子にもない。気が付いたらこの全く知らない時代に飛ばされていた」
廊下の男性も立ち止まって静かに話を聞いている。絹重もその話を聞いていたがポカーンと口を開けて、話の切れ目に口をはさむ

絹重「実は…私もよ」

辰雄、驚いて絹重を見る

辰雄「そんな…じゃあ僕ら…まさか」

辰雄と絹重は目を丸くして頷いた。辰雄ははっとしたように指を立てる

絹重「私もそう思うわ」
辰雄「ならもしかして…ダディーも?」

そういう辰雄の声は泣き出しそうに震えだす。絹重は辰雄の肩をそっと抱いて言葉を遮らせた。

絹重「今は悪い事は考えないでください」
辰雄「ありがとう…絹重さん、ごめんね」

辰雄の声は詰まり、涙が込み上げているのが分かった。絹重は辰雄の涙を受け止められるように優しく、何も言わずに彼を抱き寄せて肩と背を優しく擦った。廊下の男性も何かをこらえたような複雑そうな顔をして黙って二人を見つめた

絹重「もしも何か一人で思い悩んでいる事や辛い事があったら全て吐き出してください。私があなたのゆりかごになり、涙や悲しみををすべて受け止めます」

辰雄はしばらく唇をかみしめて涙をこらえたように黙っていたが、蚊の鳴くようなとても小さな声を出した

辰雄「いつ解放される?」

辰雄は絹重の方を見た。目には涙がたまり、顔は耳まで真っ赤に染まってた。絹重はそんな辰雄の顔を見るのがとても心苦しくて、
痛々しく思えた。辰雄はかすかな声で続ける

辰雄「いつまでたっても痛みが消えないんだ。写真を見たり昔の事を思い出したりするとたまらなく寂しくなる。さっきの様にフルートの音色を聞いてもそうなんだ」

とても小さく笑う

辰雄「ダディーもフルートがお好きでよく吹いて聞かせてくれた。さっきと同じ曲をね…プロみたいに上手かったんだ。本当に何でもできる、自慢のダディーだった」
絹重「そうだったのね。話て下さってありがとう」
辰雄「あぁ…」
辰雄は少し上向き加減で星を見つめているが、一筋の涙が頬を零れ落ち、月の光にキラキラと輝く。辰雄は慌てて肘で涙を拭って絹重の方を向き直って心配させぬまいと笑顔を作った。

絹重「お気持ちわかりますわ、私もあなたと同じ境遇ですもの」

辰雄を支えるようにとても静かで優しい声でしゃべる

絹重「でも残念ながら痛みや苦しみって一生消えないのよね」

辰雄の肩を抱いたままさらに辰雄を慰めるように抱き寄せて雪が降り出した夜空を見上げた。二人の顔に雪が降りかかり、前髪が白く染まる。

絹重「特に今日のような雪の日や記念日には心に突き刺さるわね。だけど辰雄さん、それを一人で抱え込まないで」

絹重の優しい言葉に辰雄は思わず固く目を閉じ、震える涙声を漏らした

辰雄「寂しいよ…切ないよ…こうやって話をするだけでとても辛くなるんだ」
絹重「それでも話をすれば心も楽になるのよ。話をする事で父様も母様も辰雄さんのお心の中で永遠に生き続けるの」

辰雄は目を擦りながら笑った
辰雄「そうなのかな」
絹重「えぇ…きっと必ず」

絹重はまだ中学二年生である。これがまだ十四歳にもならない娘がいうセリフなのだろうか…時々そう思うほど絹重はしっかりしていた。しかし当たり前と言えば当たり前だ。絹重が小学校高学年になる頃には7人の姉たちはみな嫁いで行ってしまい、一人で生活して生きなければならなかったのだから。それからは絹重はずっと一人で泣き言一つ言わずに、学校に通いながらも懸命に働いて強かに生きてきた。一時は中学校進学をあきらめて、父や母が残したこのホテイアツモリ荘を維持するために働く道を考えた事もあったが、自分の夢も実現すべく、進学を選んだ。そんな絹重だ。これだけしっかりしていなくてはここまで生きては来られなかっただろう。
 辰雄は絹重の言葉とその心に随分と慰められた。もう我慢も利かなくなり、たまらなくなって静かに泣き出して、絹重の胸にそっと顔をうずめた。絹重もそっと黙って辰雄の体を母親の様に優しく穏やかに叩く。

辰雄「ありがとう…君がいてくれて本当に良かった。君と出会う事が出来て、本当に良かったと改めて思う」

辰雄はしばらく泣いていたが、ふと絹重を離れると涙を拭って顔を上げて笑った。彼の頬は涙の跡に汚れ、目は赤くはれていた。
青く大きな瞳はまだ涙の余韻で潤っている。絹重も辰雄の頬にまだかすかに残る涙のしずくをそっと人差し指で拭って微笑んだ。
辰雄「そういえば思い出したよ。マミーもまだご健在だった頃…ダディーと別れる一年位前だった。僕、ダディーに髪を切られた事があったんだ。ダディーったら時々すごく不器用だからさ、僕を坊ちゃん刈りにするとか言って思いっきり失敗したんだ。真ん中の髪を刷ってしまって残ったのは両横の髪だけ…おぼこの様になったんだ」

絹重「あらら…」

辰雄も涙笑いで話をつづけた

辰雄「僕は当時九歳でそこまで小さくなかったからさ、ダディーに仕返ししてやったんだよ」
絹重「どうやって?」
辰雄「どうしたと思う?ダディーの髪を三色に染めてやったんだ。ダディーったら、これでは仕事に行けないし外も出歩けないって言って大変ショックを受けて嘆いていたな」
絹重「何色に染めたのですか?」
辰雄「赤と白と青だったと思う。学校の授業で貰ってきた油絵の具でやってやったんだ。あの時は仕返しが出来てすっきりしたよ」

辰雄の面白おかしく語る思い出話に絹重もついつい笑う。廊下の男性も一部始終の話を聞いていたが、微笑みながらも涙を拭ってその場を去った。男性が去る時、うっかり鼻をすすってしまい、絹重と辰雄はそれに気が付いて後ろを振り返ってが、すでに男性は去った後だった

絹重「今誰かいたかしら?」
辰雄「さぁ…誰かが手洗いにでも起きたんじゃないかな」
辰雄、絹重の手を取る。辰雄の手も絹重の手もすっかり凍えて冷たくなってしまっていたが、二人の体は何故かとてもぽかぽかと温かかった。辰雄は絹重を見て微笑む。いつもの頼りになる絹重の憧れのお兄さんの辰雄の笑顔に戻っていた。

辰雄「絹重さん、本当に今日はありがとう。君のおかげでとても心が軽くなった」
絹重「いいえ。いつでも私に頼ってください。私みたいなものでお力になれるのでしたら」
辰雄「あぁ。ほら、君の手もこんなに冷たくなってしまっている。中に入って温まろう。眠る前にもう一杯はちみつ湯でも飲もう」
絹重「そうね」

二人は手を繋いだまま家の中に入り、ヴェランダの戸を閉めた。暗い部屋の中を突っ切って二人はそのまま廊下へと出て、部屋の扉を閉めて家の中へと姿を消していった。

翌朝のホテイアツモリ荘

あの男性以外の新聞部ミツバチクラブのメンバー九人が食卓のちゃぶ台に就いていた。食卓にはもう熱々の美味しさそうな朝
食が並んでいる、本日はかぼちゃの粉かきに野沢菜の疎抜きの味噌汁、白いご飯にみんな大好き巣ごもり卵だ。時間はもう六
時三十分を回っていた。

絹重「あの男性、遅いわね」
麻子「そういえばそうね…まだお名前も聞いていないのに。何かあったのかしら」
辰雄「なんだか心配になってくるよ」

するとそこにあの男性が起きてきた。「おはよう」といつも以上にさわやかな挨拶をして、いつもは寝間着のままぼさぼさ髪で顔
も洗わないまま寝ぼけているのに、今日はいつもとは別人のように違かった。ベージュのスーツ姿に身を包んで白いワイシャツには深い青色のネクタイをきっちり締めている髪もきれいに解かし、七三髪に分けている。眼鏡には割れも曇りもない。九人は空腹に耐えていたのも忘れて、見違えるような彼の姿に口をあんぐりと開けて彼を見つめた。
 男性は微笑んで咳払いをした。ここに来た時に比べて男性はふっくらと太り、頬は丸く笑うとえくぼが目立った。そして歯を見せて笑うと小さな八重歯が二つ見える。背は低く、体系も小柄だが、とても健康そうに輝き、元の男性の姿を取り戻したようだった。

男性「今まではいつでもの句が名を名乗ろうとするたびに、電話だの来客だの邪魔が入って言えなかったけど、今日こそは君たちに僕の身分を明かそうと思う」

そういうと男性は意味深に春原兄妹を見つめる。婦の原兄弟は男性にまじまじ見つめられて、その男性の青い瞳に吸い込まれてしまいそうになり怖くて少し身を引いた。

男性「信じてもらえないかもしれないけどね」

男性は意味深に微笑みながらその部屋にある、茶色い色をした古いピアノが開いてある。男性はそのピアノの椅子に腰かけて音を鳴らした。男性はピアノでBGMとしてポールモーリアを弾きながら語る

男性「いつも夜中に入笠湖でフルートの音が聞こえていたのを知っているか?」
絹重「えぇ…とても美しかったわ」

男性はにっこりして「ありがとう」と会釈してからさらにとてもやさしい笑顔をした。その彼の笑顔は辰雄にそっくりだった。

男性「実はね…それはこの僕なんだ」

男性は何処からともなくフルートを取り出して構え、「はるけき谷間」をとても美しく吹き出した。辰雄をはじめ九人は驚いて目を見開いた。プロのように美しい演奏、それも彼らにとっては驚きの対象だったが、辰雄にとってはそれ以外にも驚く箇所があった。それは男性の吹くフルートが父・春原史郎の吹いていたものとそっくりだったからだ。大好きだった父の演奏…辰雄の耳が忘れるわけがない。終わると一斉に大拍手が起こった。しかし他のメンバーと違って辰雄の心は混乱していた。時々首にかけた懐中時計のポートレートを見つつ、男性の顔と父の面影とを比べていた。辰雄を見て微笑む男性の顔はどう見たって、写真の中の春原史郎と一致する

辰雄「あなたは…」

辰雄は震える声で小さく尋ねた。。男性は辰雄に徐々に近づいて辰雄が首にかけたポートレートの写真を懐かしそうに見つめる
男性「春原史郎、これが僕の本名です」
辰雄「春原…史郎さん」

史郎と名乗るその男性は辰雄が復唱すると大きく頷いて笑う

史郎「初めは僕、ここに泊めてもらえることになって君たちと一緒に生活していても全く気が付かなかったが、たまたま聞いてしまった昨日の会話で確信した」

辰雄と絹重を見つめる史郎

絹重「ひょっとして昨夜の…ヴァルコニーで辰雄さんと二人で話していたあの話?」
辰雄「あなたがダディーなら…ダディーにすべて聞かれてて、泣いてるところも見られていたって事!?」

辰雄は嬉しくも恥ずかしそうに下を向いて顔を覆う。絹重が心配そうに辰雄の顔を覗き込むと、かすかに見える辰雄の顔は耳まで真っ赤に染まっていた。史郎は次に梅子の方を向いて静かに声をかける

史郎「君が、春原麻子か?」

梅子は目を見開いて強く首を振り、麻子の方を指さす

梅子「お父様、失礼ながらご自分の娘さんのお顔も分かりませぬか?」
史郎「これは大変申し訳なかった」

改めて史郎は麻子の方を向く

史郎「君が春原麻子か?」

麻子、気が強そうに腰に手を当てて立ち上がり、史郎をにらみつける

麻子「自分の娘の顔を忘れるだなんてひどいわ!それに?あなたがダディーなのなら…名前が間違っているわ!」

史郎にぐーっと顔を近づけると、大声で叫ぶ

麻子「マゼッパ・ジュディス・エレアナ・麻子・春原=マーガレットよ!そして兄は、デニース・ジュディース・デレク・辰雄・
春原=マーガレットよ!」

史郎、ポカーンとしながら鼻の頭をかいて笑う

史郎「凄いな…僕でさえ自分のフルネーム言えないのに」

辰雄はそれを聞いて再び史郎に近づいてまじまじ顔を見つめる
辰雄「しかし何故…」
史郎「それは僕にもわからない」

史郎は首を振って表情を変えぬまま続けた

史郎「昭和二十年、今起きている事と全く同じ様な事件に僕は巻き込まれてしまったみたいだ。当時もラジオで謎の失踪事件が起こっていると毎日騒がれていた」

史郎はボンワリと過去を思い出すように目を閉じた。

史郎「巻き込まれた後の事は全く覚えていないが長い長い夢を見ていた事だけは覚えている。そしてふと気が付いた時には…この見知らぬ時代に来ていた」

辰雄は史郎の話を聞いているのか聞いていないのかという顔だ

辰雄「ではダディーは、僕らを置いて出て行ったのではないのですか?僕らを捨てたのでは?」
史郎「そんな事があるわけないだろ僕は決して僕自身の勝手な考えで君たちを置いてどこかに行ってしまうなどという事はしない」


そう言うと史郎は辰雄と麻子を強く抱きしめた。

史郎「本当に申し訳なかった。何年も誤解をさせ、辛く苦しい思いをさせてしまっていた」
辰雄「あの日のままのお若いダディーだ」

史郎、二人を話して涙で潤んだ瞳で微笑んで二人を見た。

史郎「麻子、お前を最後に見たのは七歳だったね。辰雄もまだお漏らしたれの10歳だった。こんなに大きくなった二人にまた会えるだなんて」

辰雄は懐かしさなのか嬉しさなのか、またまた恥ずかしさからなのか顔を耳まで真っ赤に染めて

辰雄「ダディー!」

と叫んで、史郎がそれ以上言葉を言うのを遮った。いくら誰にでもある昔話だからと言って、やはり大人になったいま人前でそういった下の話をされるというのは顔から火が出るほど恥ずかしいものだ。史郎も他の仲間も、そんな辰雄を見て笑った。辰雄ははじめは恥ずかしそうに下を向いてむくれていたが、つられて笑いだす。
ーひとしきり笑うと、史郎が急に神妙な顔になった。とある事実を思い出したのだ。仲間たちも心配して史郎の方を見た。

史郎「そういえば、君たちに話しておかねばなるまい大切な事が一つあった」
フーっと大きく息を吐いて、重々しく口を開いた

史郎「実は僕は今、追われる身なんだ。つまり僕は手配中の身だ」

全員は目を丸くして史郎を見た。絹重と春原兄妹以外のミツバチの中には、それを聞いて少し身を引いている者もいる。すると麻子も震える声を出した

麻子「手配…?何故?まさかダディー、何か犯罪を犯したのです!?」

史郎、無表情のまままるで人間のように首を振った

史郎「君たちも知っているだろう、今や全国で話題になってしまっている404の噂」
麻子「え…まさか、ダディーがその404!?学生たちを誘拐していた犯人だというのですか!?」

メンバーたちはそれを聞いて、恐ろしく不安そうに顔を見合わせた

辰雄「まさか!ダディーが404なわけがない!どうしてそんな話になっているんだ!?」
絹重「そうよ!史郎さんがそんな恐ろしい犯罪を犯すはずがないわ!」

絹重、史郎を守るような瞳で史郎を見つめる。史郎も悲しそうに首を振った。

絹重「でもなぜそんな事になってしまったの?」
史郎「分からない…しかし世間が逮捕しようと見つけているのは確実に僕だと思う」
史郎、近くにあった自分のカバンから指名手配の張り紙を取り出して全員に見えるようにする。紙はもう雨風で濡れたりしてくしゃくしゃになっていた。その手配写真は上半身のみだったが、ニュースで言っていた通りの深くかぶった山高シャッポ、割れも曇りもない眼鏡だったが太陽で反射して目ははっきり見えなかった。史郎の特徴であるほくろとそばかすは横向きのため分からない。確実に史郎だという証拠は分からないが、確かに似ていないわけではない

史郎「だったら?」

史郎がはーるかぶりに口を開いた。

史郎「つまり彼が捕まれば事件は収まる可能性がある。なら僕が嘘でも罪をかぶって自首するしかない」

史郎の瞳を見る、彼の眼は本気だ。彼の話によると元々彼はこの話と自分が冤罪で手配されていることを知ると、すぐさま出頭をしようとしたらしい。しかし何か月もさ迷い歩き、空腹と疲労とでついに力尽き果て、あの入笠湖の畔で生き倒れてしまったのだという。絹重たちは彼の話を聞いて、本当に出頭をしてしまう前に倒れ、ここに来る事が出来てよかったと心底思った。しかもそれが春原兄妹の実の父であるのだからなおさらだ。

史郎「しかし君たちに再会して改めて思った。もうこれ以上、君たちを辛い目に合わせる事は出来ない。だからこれからはここで君たちの保護者として、全力で君たちを事件から守るよ」
辰雄「ダディー…」
絹重「私もだわ!」

絹重が勇ましく立ち上がって四指で左手を高く上げた。他八人も絹重に注目をする

絹重「私もこれからは史郎さんをお守りするわ!決してあなたを警察の手には渡さない!」

それを聞くと他八人も頷きながら立ち上がって四指で左手を高く上げた。史郎は九人を見渡す

史郎「君たち…本当にありがとう」

全員は一斉に頷いて円を作ると史郎を真ん中に入れて歌いだす。史郎も涙ぐんで笑いながら四指の左手を高く上げて一緒に歌いだす。

全員「蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」

翌日のホテイアツモリ荘談話室

激しい大雪になっており、遠くでは警報のアナウンスが流れている。絹重は窓辺に立って不安そうに外を眺めていた。他のメンバー八人もしんみりとどことなく緊張した面持ちで畳に腰を下ろしている。雪はどんどん激しさを増してしんしんと地面を白くしていった。

絹重「雪ね…」

心ここにあらずのような声でぼんわりとつぶやいた

絹重「この分では当分学校も休みになるわ。これ以上酷くなったらどうしましょう」

不安そうに振り返って辰雄を見る

絹重「今までの失踪事件でいなくなってしまわれた方々は今どこにいるのかしら?寒い思いはしていないかしら?」

絹重の一番心配していたことは、いなくなってしまった人の安否だった。こんな雪の降る中、毎日氷点下も二桁に下がる真冬に一日外に出ていたらそれこそ死んでしまう。特に夏場にいなくなった人はなおさらだ。きっと着替えだって持っていないだろうから、夏の軽装のままだろう。そのまま一斉に多くの人がどこかで力尽きて亡くなってしまっていたら…考えただけで痛々しく恐ろしい事だ。

辰雄「きっとこれ以上は酷くはならないだろう、心配しなくても大丈夫だと思うよ」

辰雄が絹重を安心させる様に声をかけた。と、そこに山高シャッポをかぶり、コートを着込んだ史郎があのフルートも持って入室した。まるでどこかに出かけるような服装だ。

辰雄「どこかに行かれるのですか?」
史郎「用事があるもんでね、すぐ戻る」
絹重「史郎さん、外を見て下さい。今出られたら危険だわ。せめて少し雪が落ち着いてからでもいいのでは?」
史郎「どうしても今でなくてはならないんだ。この雪の時でなくては」

史郎は不安そうに顔をしかめる絹重に優しく微笑んで、頬に挨拶の口づけを交わし、史郎は家を出て入笠山高原を奥の方へと歩き出した。史郎は入笠湖の畔まで来るとポケットからセルロイドの茶色いパイプを取り出して、しばらく切なく懐かしそうに眺めてからそれを入笠湖に投げ捨てて再び歩き出した。
談話室に集う九人はしばらく不安そうに顔を見合わせて黙っているが、やがて互いに目配せして頷き合い、立ち上がってそれぞれ
に防寒をして部屋から出た。

昭和四一年一月南中学校蔦木校

激しかった雪はすっかりと上がり、再登校が始まった。雪は一面に壁のように積もり、木々には氷柱、
高原の田舎道はとても来るまでは走るのが億劫なほど、てかてかつるつるに凍っていた。絹重たちも辰雄と二郎を除く中等部メンバー七人で登校をした。ーその時ー
 正面門を入ると七人の姿に気が付いた同級生が窓から顔を出して一斉に垂れ幕や旗を窓から出して、汚い言葉を七人に向けて一斉に放ちだした。旗には「ヘイト!ホテイアツモリ荘!お前らは共犯者!」「アンチ四〇四を今すぐに追放しろ!刑務所送り!」「お前ら一生豚箱行き!」「社会的死刑!」と書かれていた。

絹重「何これ…酷いわ」
麻子「それより404って…何で?」
絹重「なぜ凍の話が外部に知られているの!?」

絹重は怒りに涙をためて震えだす。小平がとっさに絹重の体を支えた。絹重も思わず悔しさに耐えられなくなって小平の体に固く捕まって彼の肩に顔をうずめる。

絹重「何の根拠もないのにこんな事を言うだなんて酷い!史郎さんは何もしていないのよ!」
麻子「それよりも誰がこの事を外部に漏らしたのよ!?」

麻子も怒りに震えている。そして働きバチのメンバーを鋭く睨んだ

麻子「あんたたちの誰かでしょう!だってこの事を知るのはあんたたちしかいないのよ!」
絹重「麻子さんやめて!仲間を疑うだなんてよくないわ!」

窓から見る生徒たちはみな旗や垂れ幕、舌に向けた親指を振って叫んでいる、その中にはあの新聞部員、辰子と靖代もいた。

辰子「あんたらの事は警察に突き出してやるわ!」
靖代「この裏切り者!人殺し!人さらい!」

この言葉を聞いた小平も怒りに震えていた。喧嘩腰で今にも食って掛かりそうな勢いだ。
小平修というこの少年は普段はとても大人しい、自分のためには決して動かぬ男だった。しかし、大切な友や親、そして愛する誰かが傷つけられそうになっている時は人が変わったように全力で守ろうと動くやつだ。たとえそれで自分が不利な状態になろうともだ。

小平「あいつら許さねぇ…今にとっちめてやる」
絹重「小平君いいの!もうやめて!」

さすがの麻子と絹重もそんな小平の勢いに恐怖を感じて止めに入った。小平は絹重の声に我に返ってとどまり、絹重の肩を抱いて落ち着こうとした。

小平「ごめん。でもドロシー、僕らは何も悪い事はしていないのは事実だ。堂々といつも通りにしていよう」

他6人の部員を見回して目を細め、少し疑いの口調で言う

小平「裏切り者のチクリ屋がいない限りはな」
絹重「小平君、変な事言わないで!私たちの中に裏切る人なんかいるわけない!」
小池「そうだ!ドロシーと小平の言う通り、僕らはみな潔白だ!無視されてもいつも通り胸を張っていよう」
梅子「私たちがこんなバカげた騒動に翻弄されていたらいけないわ!戦うのよ!」

七人は持っていた鉢巻を懐から取り出して頭にきつく締める。そして励まされたように大きく頷いて円を作り、全員で手を重ね合わせる。そう、今一番の最優先は404と冤罪をかけられてしまった春原史郎をどう守るかだ。

ーこの人の事を決して警察には渡さない!みんなで必ずこの人の冤罪を晴らし、事件の真犯人と真の原因を必ず突き止める

ミツバチたち七人の心はみな同じだった。七人は改めて絆を深め合う様に肩を組んで円陣を組み、大きく掛け声を掛け合った。
 しかしまた別の問題が起きたのはその日の放課後、帰宅途中の道だった。七人もそれぞれの身の安全を守るためにそろって下校をした。蔦木からバスで入笠山まで向かい、そこからは約一時間、ホテイアツモリ荘まで徒歩で行く。何もない高原の道、雪の積もった歩きにくい道を刺すような冷たい風の中、七人は身を縮こめて歩いた。
数百メートル先にホテイアツモリ荘が見えてきた!とその時だった。ホテイアツモリ荘の入口に多くの男性が立っているのが見える。ー誰だろう?ー
どんどん近寄ってみると、それは新聞社の記者らしき人と警吏らしき人だった。その男性らは七人に気が付くと七人を包囲した。突然の事に驚く七人。すると警吏が静かな声で聞いてきた。

警吏「君たちが…新聞部ミツバチクラブ中等部のメンバーだね」
絹重「は、はい…そうですけれども」
警吏「富士見町でも、ついに学生の失踪者が出た事は君たちも、もちろん知っているよね」

初耳だ。七人はそれは驚いて顔を見合わせた。

警吏「昨年の大雪の日、君たちがどこで何をしていたか…その事でお話を聞きたいのだがね」
麻子「それってまさか…私たちが疑われているという事!?」

すると別の警吏も口を開いた。

警吏2「実はね、ついに富士見町でも404の目撃情報があったんだよ。それも入笠湖付近でだ」
警吏「君たちを疑っているわけではない。ただ少し話を詳しく聞きたいだけだ。その日に君たちが何をしていたのか、また疑わしい人物を見かけていないかなどね。君たちもまだ学生だ、場合によっては私たちも君たちを守る助けになれるかもしれないし、また場合によっては君たちを深く問い詰めなければいけなくもなる」

ホテイアツモリ荘談話室

警察と新聞社は一人一人から詳しい話を聞いた。それぞれがミツバチクラブで女王蜂になる座を狙っている事、新聞部論説委員長についての事、ビーチボーイズの大ファンであること、そして恋愛関係や友情関係についても問われていた七人とも全員嘘偽りなく、何一つ包み隠さず正直に話したーとある事を除いては。
 
 警吏は突然鞄の中から干したトウモロコシとガラスのコップを取り出した。そして小平に、コップに水を汲んで来てほしいと頼み、小平は言われたとおり水を汲んできた。

警吏「富士見町内で突然失踪した学生の家でも、全国で発生している事件と同じ証拠が残っていた。濡れた干しトウモロコシと冷水、この意味を知っているか?」
全員は首を振った。

警吏「これは昔からこの地域に伝わる鎮魂の儀式に使われるものだ。一方で災害から逃れるための儀式に使う家庭もあるという」
警吏2「それともう一つの証拠は、失踪した彼らのいた場所ではビーチボーイズが必ずかかっていた。君たちはビーチボーイズが好きだよね?」
梅子「私たちに限らず、今どきの学生ならみんな好きだと思うわ」
絹重「えぇ、私たちの学校の友達ですてみんなそうですもの」
麻子「失踪の直前に聞いていても何も不思議じゃないわ」

警吏はしばらくメンバーを凝視していた。警吏の鋭い目ににらまれたメンバーはみな硬直して黙っている。すると警吏が少したって口を開いた

警吏「それで率直に聞くが…ここに住んでいる住人は、君たち7人だけかね?」
絹重「いえ、高等部のミツバチクラブに所属している高校三年生の男性がもう二人おります」

新聞社が話を逐一メモを取っていた

警吏「その他に誰かいるという事は?例えば…新聞部ミツバチクラブではない大人とか」

絹重、冷静に男性たちの顔を見て首を振った

絹重「いいえ、私たちで全員です」
警吏「ご両親は?」
絹重「私が幼い頃に亡くなったと聞いております」
警吏「ではここを管理している方は?」

絹重、手を挙げる

絹重「私です」
警吏「ご兄弟はいないのかね?」
絹重「姉が七人いますけれども、全員嫁いで家を出ていきました」
警吏「ではご両親の亡くなられた年は?」
絹重「昭和19年10月だったと聞いております」
警察「でも君は今、君の幼い頃に亡くなられたと…」
絹重「はい、確か私が七歳の年で間違いはな…」

絹重は考えて口ごもった。常識的に考えれば、今一四歳の絹重が七歳の頃と言えば七年前の昭和三四という事になる。

警察「君は…昭和12年生まれという事かな?」
絹重「は…い」
警察「君の年は?」
絹重「…」
警察「高校生だよね?昭和12年生まれだったとしたら今頃君は29歳か8歳か…だよね?」
絹重「その辺は…私にもよくわからない」
警察「年齢を偽っている?」

小平にとって絹重が責められ、彼女が困っているのを見るのは耐えられなかった。

小平「僕らが年齢を偽っているように見えるか!?」

食って掛かろうとする小平を絹重が制止した

絹重「小平君、落ち着いて!」
小平は絹重に止められると我に返って落ち着き、席に戻る

小平「ドロシー…ごめん」

メンバーは全員、黙って顔を見合わせる。警吏は全員が落ち着いたことを確認すると改めて口を開いた

警吏「そもそも君たちはどうしてここで共同生活を?」
小平「ここを新聞部ミツバチクラブの合宿場として毎年使わせてもらっているからだよ」
小池「それで一年のうちで活動をしている春から年末のうちはここに集まって会合や討論会、打ち合わせを開いている」
小平「まぁ今では、年が明けてからもここで家族同然にみんなで暮らしてるけどな。結構楽しいよ」

新聞社が証言を丁寧に書きとっている

警吏「ありがとう。では最後にもう一度聞くが…」
辰雄「はい…」

警吏は突然辰雄の事を見た。辰雄はついおどおどして目を泳がせてしまう。

警吏「先ほどの404の話だがね…」

咳払い

警吏「実は入笠湖に現れた404らしき男がここにいるらしいという情報が耳に入ったのだ。君たちも404の手下ではない

かと相当学生たちには恨まれているみたいだね」
小平「何が言いたい?」
警吏「では、率直に聞こう。君たちが404を匿ったりしてはいないだろうね?」

絹重がとっさに大声を出す

絹重「そんなこと断じてしていません!私たちも失踪事件に関わっていると!?」

そして怒りに震えながら立ち上がる

絹重「この失踪事件に恐怖し、不安に震えているのは私たちも同じなのです!それなのに何故私たちがこの事件と関係があると疑われなくてはならないのです!?それにまだ十六にもなっていない私たちに何ができるというのです!?」

絹重は極めて冷静さを保ちながらも静かにしゃべっているが、怒りに震えている事はよくわかった。

絹重「もう今日はどうかお引き取り願います」

その頃、史郎は防空壕跡に身をひそめていた。これは先に戻っていた二郎と辰雄の判断で、外から声が聞こえた瞬間に絹重たち以外の者もいると判断し、史郎の身の安全のために彼に隠れるよう仕向けたのだった。
史郎のいる防空壕跡地は真っ暗で何も見えない。その中で史郎は一人、じっと動かずに身を潜めているが、ふと身を動かした瞬間に何かに触れ、コトコトンと何かが崩れ落ちた。史郎はびくりとして辺りをきょろきょろとするが、暗くて何も見えないし、手探りしても触れられない。幸い、帰っていくために防空壕近くの廊下を通った警吏と新聞社には何も気づかれていないようだ。
 警吏が帰ったのを耳で確認すると、一階の軒下から這い上がり、居間の畳を外して辰雄と二郎が顔を出した。二人も万が一のために隠れていたのだ。史郎をはじめ、隠れていた二人も出てきたときにはぶるぶる震えていた。手も体もすっかり冷え切って凍えてしまい、ピンク色だった頬も唇も血の気がなく真っ青だ。辰雄と二郎は部屋を出て談話室へと向かって、メンバーと合流をした


小平「ドロシー…大丈夫か?」

談話室では、目に涙をためたまままだ怒りに震える絹重を小平が支えて慰めていた。

絹重「どうして私たちが犯人だと疑われないといけないの!?」
小平「ドロシー…」

絹重は涙をぬぐって顔を上げ、強いまなざしで小平を見た。
絹重「でも話が大きくなってきたわ、どうしましょう。新聞どころではなくなってきたわね」
梅子「そうね」
麻子「むしろ書くことで、私たちがどんどん疑われるわ」

加藤田も怒りに任せてこぶしを振りながら悔しそうにセリフを吐き捨てた

加藤田「くそっ!絶対あいつらだ!あの裏切り者が僕らの事を通報しやがったんだ!」
小平「これからどうする?」
梅子「404…つまり史郎さんの事を言っているのよね?」
絹重「世間は史郎さんを404だと決めつけているもの」
辰雄「でもあの大雪の日、ダディーは一体どこへ何をしに行ったのだろう?」

辰雄はその日の史郎を思い出すように記憶をたどりながら話を続ける

辰雄「ダディーはあの服装でフルートを持って出かけて行った」

青ざめて目を見開き、顔を上げる。口元が震えていた

辰雄「まさか…だよな?」
絹重「何?」
辰雄「ダディーが本当に、誘拐犯なんて事…ないよな?」
絹重「まさかよ!辰雄さん変な事言わないで」

と言いながらもあることを思ったように絹重は口と目を見開いた。小平はその顔を見逃さず、慌てて絹重の方を見る。

小平「ドロシーどうした?」
絹重「別の考え方をすると、私達も消される危険性があるかもしれないって事よね?」
麻子「そうね…記事はどうしましょう」

小平が力強く立ち上がって手を高く振り上げた

小平「そんなの勿論決まっているじゃないか!逆境に挫けないで書き続けるんだ!ありのままの世間の現状を地域に知らせるんだよ!」

その声に辰雄も立ち上がる

辰雄「そうだ!それが一番僕らの無実を証明する証拠にもなる!ここでやめたら僕らが犯人だって自首するようなものだ!」


二人、大きく四指の左手を上げて高らかに歌いだす

二人「♪蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」
絹重「小平君…辰雄さん…」


小平は歌を終えると絹重を励ますように肩を抱いた、反対側からは辰雄も絹重の肩を抱く

小平「ドロシー、僕らは同じ志を抱くハチの巣の仲間だろ?こんな時こそミツバチは力を合わせて乗
り越えるんだよ!」
麻子「そうよ!こんな事がいつまでも続くわけないわ。今だけの辛抱よ!」


仲間の言葉と強い志に励まされた。絹重もようやく今までの強かさと自信を取り戻して
絹重「そうね」

とメンバー全員と共にうなずき合って、全員左手の四指を高く上げ、歌い出した。


全員「♪蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」


するとやっと史郎が談話室に入ってきた。彼はすっかりガタガタと震えており、またも死んでしまいそうな顔をしていた。

絹重「史郎さん!」

絹重は酷く咳き込みだす史郎の体を支えて優しく背を擦った。

史郎「ありがとう」

ようやく咳が落ち着くと、史郎は息を切らしながら防空壕を指さして不思議そうに首をかしげた

史郎「絹重さん、ここの防空壕の中には何かあるのか?」
絹重「え?」

ホテイアツモリ荘の防空壕…絹重も正直ここだけは見た事がなかった。だから絹重にも何かあるのか何もないのかは全く分からない。

史郎「暗くて全く見えなかったが、何かコロンと落ちる音がしたんだ。何か陶器でも落ちるような感じだったよ」
絹重「何かあるのかしら?」


全員は顔を見合わせる

絹重「私にも分からないわ…」
麻子「もう嫌よ!」


悩むメンバーたちだが、麻子は嘆くような大声をだし、メンバーの注目を集めた。
麻子「これ以上色々問題を増やさないで!」
梅子「そうね、これ以上ごちゃごちゃしても収集付かないし、今あるこの件が落ち着いたら改めて調べる事にしましょう」

絹重を見ると彼女は何か引っかかるような顔をしていた。


麻子「どうしたの?」


考え事でもしていたのだろう。絹重は麻子の言葉でふと我に返って首を振りながら笑う

絹重「いいえ、何でもないわ」
麻子「そう?」

麻子は絹重の様子を気にしつつも史郎を見ると、急に強く後ろから抱きしめた。史郎はすこしびっくりしたように笑って麻子を見た。

史郎「急にどうした?」
麻子「ダディーももうそろそろいいんじゃない?」
史郎「いいって、何が?」
麻子「この事件が終わったら、ダディーはもう一度幸せになってほしいの」

その言葉には辰雄も同感した。そして麻子の言葉を助長するように史郎に話しかける

辰雄「そうだよ。マミーだってダディーには幸せに生きてほしいと思ってるだろうからさ」

史郎は二人が何を言わっとしているかを察したようだ。困ったように眉をしかめて笑いながら

史郎「それは僕に…再婚をしろと言っているのか?」

と聞いた。二人もいたずらっぽく顔を見合わせて

麻子「早い話が…」
辰雄「そういう事かな」

と言った。史郎はそれを聞いて照れたようになのか困ったようになのか、何とも言えない複雑な顔で笑う。

麻子「マミーと結婚する時に約束したんでしょ?」
麻子・辰雄「もしも僕らどちらかのうちに何かあって、どちらかが一人になってしまう事があったとしたら、家族を幸せにしてくれて、人生を共に生きる人を見つけようって」
史郎「そんな事…まだ覚えていたのか」

史郎はフッと恥ずかしそうに、またどこかさみしそうに笑ってトミとの結婚指輪を見た。
史郎「再婚か…考えてみてもいいかもね」
辰雄「今はダディーも窮屈な思いしてるだろうし、結婚はともかく気晴らしに見合いでもして見る?」

史郎は目を真ん丸にして立ち上がった。

史郎「み、みみみみみみ…見合い!?今!?僕にか!?」
麻子「そうよ。例えばこの絹重さんの織重姉様ととか」

麻子は本気だ。ニコニコとして絹重を見ると、絹重も麻子の言いたいことを察したように満面の笑みで親指を立てる。

絹重「それいいと思う!織重姉様は史郎さんとお年も近いし私も賛成よ!」
史郎「織重さん?」

絹重、少し眉をしかめて史郎を見る

絹重「でも織重姉様は未亡人なの。私が中学一年生の年に旦那様を亡くして、今は一人で暮らしているわ。子供はいない」
心配そうに

絹重「史郎さん、それでも大丈夫ですか?」

史郎も微笑んで絹重を見つめた

史郎「そうなのか…織重さんも辛い思いをしてきているんだね」

史郎は穏やかに頷く

史郎「僕も織重さんと同じ境遇だからきっと彼女の支えになれると思う。彼女こそこんなに大きな息子と娘がいる男でもいいのかな?」
絹重「もちろですよ。織重姉さんは外的要素だけで人を選ぶような方じゃないわ。史郎さんの内面を大切にみてくれる人です。史郎さんはお心がとても素敵ですもの」

辰雄と麻子も笑って史郎を後押しするように肩に手を回した。

辰雄「ダディー、今言ったばかりのこと忘れた?」
麻子・辰雄「もしどちらかに何かあったら、一人になるような事があったとしたら、どちらかが一人になるような事があったら人生を共にする人を探すって」
史郎「あぁ…ありがとう」
辰雄「ダディーの人生、これからですよ」





ー第四話ー

昭和四十二年三月

絹重達の卒業式が終わって7人がホテイアツモリ荘に帰って来た。男の子は爪入りの学生服に、女の子は紺色のセーラー襟の学生服に身を包んで手には花束を持っていた。中学校は新聞部ミツバチクラブの中等部の活動はあと一年ある。
その日は見合い当日でもあった。史郎は白い背広に身を包んで髪を整えられ、緊張気味にかしこまって今のドレッサーの前に腰かけていた。史郎は改めてこんなにスタイルの目立つ細身の背広を着てズボンを履くと、とても小柄な男性であった。背も低くとても瘦せ身、ブロンドの髪をぴっしりと七三に分け、分厚く丸い大きなロイドメガネはピカピカに磨かれていた。顔はそばかすだらけではあるがとても色が白く、まるで女性人形の様に美しい。
居間には絹重と辰雄と麻子のみ残り、他のメンバーは先に二階に上がっていった。三人は史郎の最終チェックと身なりの整えを手伝っている。

史郎「おい…本当に見合いするのか?」

当日になって史郎はしり込みをしていた。見合いなど何年ぶりだろう?トミと出会ったのは史郎がまだ十七歳の頃だったから、かれこれ十五年くらいだろうか、もっと経っているだろうか。そして亡くなった妻のトミと初めて会った時もこれほど緊張してただろうか。当時の感情は全く思い出せなかったが、今、現在進行形で戻しそうなほど体は震え、緊張している事だけは史郎にもよくわかる。
麻子はそんな弱気な史郎を励ますように彼の肩をもむ。

麻子「当日になって何言ってるんです!嫌なら断ればいいだけの話ではないですか!」
史郎「そう簡単に言うなよ!」
麻子は笑いながら強引に史郎の指からオパールの指輪を抜いた。この指輪は、史郎がトミと結婚手形を押して夫婦になった後のトミの誕生日に買った二人の結婚指輪だった。
ー思い出すー
 あの頃の史郎はまだ高校を卒業したばかりの学生で、一文無しの貧乏だった。それでトミに
「僕には手持ちの金も財産も何もない。指輪も今すぐには買う事が出来ないけれど、それでも僕の伴侶になってくれるか?」
とこういう求婚をした。トミはとても心が美しく、また強かな人だった。
「お金が全てではありません、お金で買えるものはいくらでも交換ができますし、いつでも買う事が出来るでしょう。しかしあなたからの愛と幸せはお金で買えるでしょうか?あなたは一人しかいないのです、私はいつでも謙虚なあなたを愛しています。男性としても、人間としても」
こうしてトミが史郎の求婚を快く受け入れたのは今でも鮮明に覚えている。
史郎の中にはいまだにトミへの想いが渦巻いていた。初めて出会い、初めて恋に落ちた女性がこんなに出来のいい美しい人だったのだ、史郎がここまでの人は世界中どこを探したって他にいやしないとそう考えても無理はないだろう。だから、麻子にそんな大切な指輪を抜かれた時は思わず大声を出してしまった。

史郎「ちょっと!」
麻子「この指輪は預かっておくわ。ではごゆっくり…」
辰雄「ダディ、健闘を祈るよ」
絹重「史郎さんと織重姉様ならとっても良くお似合いよ」


三人は史郎を励ますようにそう言うと、そっと史郎の背中を押し、階段を上がっていった。階段を上がると右手には手洗い。
そのすぐとっつけに流しがある。麻子はあの指輪を左手の中指に填め、水道に近づいた。一回では織重が訪問をしたみたいだ。「ごめんください」ととても品のある高い声が聞こえる。


麻子「私、手を洗ってから行くわ」
辰雄「ちょっと待てよ。だったらその指輪は外せ!」
麻子「大丈夫よ、すぐに抜けるものじゃあるまいし」
辰雄「ダディーの命の次に大切なものなんだ!万が一無くしたらお前どう責任取る?」
麻子「わかったわよ…」

そういわれてしまったら麻子も何も言えない。渋々指から指輪を抜いて辰雄に渡した。辰雄は麻子から受け取ろうとするが二人で手を滑らせてしまい、その拍子に指輪は転がり、流しの中に落ちて排水溝に入って行ってしまった。

辰雄「どうしよう!」


三人は慌てふためいて右往左往しているが、しばらくして麻子が手を打った。麻子の思い付きはいつもろくなものではない。麻子は急いで階段を降り、史郎の寝室に入るとネクタイを一つ持ってきた。それは史郎が大切に持っていたネクタイで、学生時代ミツバチをやっていた時の黒いネクタイだった。辰雄の悪い嫌な予感は見事に的中した。辰雄は手で額を押えて首を振る。そんな事はお構いなしに、麻子は一緒に持ってきた握り飯のあまりからご飯粒を数粒取ると、ネクタイの先にご飯をくっつけた。

麻子「これを排水溝に入れて指輪がくっついたら引き上げればいいのよ!」
辰雄「そんな事したらネクタイがだめになるだろ!」
麻子を叱る辰雄を麻子はにらみつけ、平手で頭をポンと叩いた。

麻子「デレク兄さんたら馬鹿ね!ネクタイよりも指輪が優先に決まっているじゃないの!」

辰雄もその言葉に少し頭に来たようだ。腕を組んで麻子を睨む
麻子「Duh!」
辰雄「僕がバカ?だったら指輪を落とした頭のいい人はどこの誰なのかな?」
麻子「嫌味を言うのなら後にして!」

麻子は辰雄を睨みつけながらネクタイを排水溝に差し入れた。魚釣りの様にネクタイを遊ばせていると、何かがネクタイに「カラン」とくっつく感触を感じた。おそらく指輪がネクタイにくっついたのだろうと確信し、麻子はそれを引き上げようとしたのだが


麻子「あらいやだ…今度はネクタイが引っかかっちゃったわ」
辰雄(麻子の声真似)「あらいやだ…今度はネクタイが引っかかっちゃったわ」
麻子は強引にネクタイを引き上げようとする。しかしネクタイは排水溝の溝にしっかり絡まってしまっているのだろう、引いても引いてもなかなか取れない

辰雄「バカはお前だろ!」


辰雄は小さくそう呟いて呆れ顔でお手上げをし、踵を返した。

辰雄「さようなら…あとはお一人で頑張って」

しかし去ろうとする辰雄の腕を麻子がしっかりとつかむ。辰雄は後ろにつんのめりそうになった。

麻子「待ってよ!手を貸してちょうだい!」
絹重「だったら工具を使ったらどうかしら?」
麻子「工具?どうやって?」
絹重は親指を立てて「私がとってくる」と合図し、階段を降りようとする

絹重「麻子さんは引き続きその作業をお願い」
麻子「了解いたしました!」

しかし下に降りようとする絹重を辰雄が引き止め、麻子を代わりに立たせた

辰雄「絹重さんは無関係だ。これは僕らの責任なんだから、この役は僕と麻子が引き受ける」
麻子「そうよね。絹重さん、蛇口の方をお願い」

麻子もそれには同感だった。素直にネクタイを引き抜く作業をやめて辰雄に手招きすると階段を二人で降りて行った。二人がいなくなった後、絹重は麻子が奮闘していたネクタイを抜く作業を開始した。するとそこへタイミングよく小平が部屋から出てきて手洗いに入ろうとしたが、ネクタイと奮闘する絹重に気が付いて、彼女の近くにやってきた。


小平「ドロシーどうした?」
絹重「その声は小平君ね」


絹重は振り返らずに応えた

小平「何やってるの?」

すると絹重が初めて振り返って小平の顔を見た。その顔は心底困ったような顔で、小平はとても絹重を放っておけなくなり、彼女彼女を手伝いたくなった。
絹重「お願い小平君、あなたも手伝って」
小平「え、何?どうしたの?」
絹重「取れないの…」
絹重はネクタイの端を引っ張りながら小平に事情を説明した。

1階応接間

和風の木のテーブルがあり、そこに煮魚やお味噌汁など、典型的な奥ゆかしい家庭料理が並んでいる。史郎と織重が緊張をしながら黙って食事をしている。二郎が付添人として二人のボーイ役をしていた。二郎は二人にお茶くみをしたりしながら二人の様子を眺めている。

二郎「理想のカップルですね」
史郎が初めて口を開いた。それは鯉の煮つけを口に入れた時だ。これらの料理は史郎と織重が二人で作ったもので、この恋の煮つけは織重お手製なのだ

史郎「とっても美味しいよ織重さん、最高の鯉の煮つけだよ!」

すると二郎が得意げに笑った

二郎「昔、ニューオーリンズにでは、キッチン付きのホテルでイワシの梅煮をごちそうしてくれたよね」

織重は二郎の話を理解しているらしく、顔を赤らめて笑いながら小突いた。史郎は二人のやり取りを不思議そうに交互に見つめる
織重「嫌ね!そんな昔の事まだ覚えていたの!?」
史郎「そんな昔の事?ん、どういう事?」


そしてとある仮説を立て、二郎に問う

史郎「ひょっとして、二人は以前に付き合っていたとか?」
二郎「え…いや」

二郎も真っ赤になっておどおどしながら口ごもった。確かに二郎が織重と交際をしていた過去があったとしてもおかしくはない。織重はちょうど史郎と二郎の年齢の真ん中で、二郎よりも五歳年上で、史郎よりも五歳年下、さほど変わりはないからだ。
史郎「二人は…どういう関係?面識がある?」

二郎は口を滑らせたと相当焦っているみたいだ。

二郎「助けてよ…」
史郎「助けてと言われても…それは僕が聞きたいよ、どういう事?」


しばらく口ごもっておどおど挙動不審にしている二郎だったが、やがて観念したようにゆっくりと口を
開いた。

二郎「実は織重さんとはニューオーリンズの牧場で出会って、それから二年くらい付き合っていました」

史郎はもちろんのこと、そしてちょうど二階から降りてきた辰雄も口をあんぐり開けて二郎を見つめる。それを見かねた麻子も急いで階段を下りて二人のもとに来ると小粋に身振り手振りをした

麻子「いやいやいやお二人さん、これは初耳でびっくりですな」
史郎「何をしに来た?」
麻子「ルーシーショー!マゼッパショー!」

口でBGMを口ずさみながら辰雄と二郎に耳打ち。二人も頷く

麻子「お二人のムードを盛り上げるためにここに来たのよ!さぁ!」
麻子、咳ばらいをしてから歌い出す。ビーチボーイズだ。三人のナイスコーラスに思わず緊張も綻び、一緒に手拍子をしながら笑って歌いだした。

麻子「♪Barbara Ann…」
二郎「♪Barbara Ann…」
辰雄「♪Barbara Ann…」

辰雄は見合いの二人と二郎に気づかれないように麻子にそっと合図を出し、麻子はさっと工具箱のある居間の戸棚に急いで、工具箱を取ると二階に駆け上っていく。辰雄は歌がひと段落終わると、自然を装って二階に戻る。

二階流し台前

絹重と小平が水道と奮闘しているところに、辰雄、麻子が合流して再び作業に入る。麻子は工具箱からスパナを取り出す

麻子「指輪はこの辺にあるわ!だから指輪が出てきたら兄さんか絹重さんか小平君がキャッチして!」
絹重・辰雄・小平「got a dude!」

麻子、スパナで思いっきり排水官を破ると、水がものすごい勢いで噴き出てくる


辰雄・小平「うわぁ!」
絹重・麻子「キャー!」
麻子「指輪は!?誰か受け取れた!?」
辰雄「この状況で受け取れると思うか!?」
絹重「それより水の止め方は!?」
麻子「そんなの知るわけないじゃないの!」


吹き出る水はどんどん勢いを増していき、床がやがて水浸しになっていく。古い木の床は所々穴が開いているために一回に水は漏れ行く。水は手洗いの方にも流れ込んでいく

絹重「水を入れるものを持ってきましょう!」
辰雄「分かった!」
小平「僕が何か見つけてくるよ!」

小平は階段を急いだ駆け下りて、台所に向かって容器を探す。ふと目に二つの御櫃が飛び込み、小平は中身を確認して二階に持って行った。

小平「これを使え!」
麻子と辰雄はそれを受け取って飛び出てくる水を御櫃で受け止めるが、水の量が多すぎて到底追いつかない。しかし水は御櫃の中に入るので、二人はいっぱいになっては流しに捨て、いっぱいになっては流しに捨てを繰り返している。

麻子「上手くいってるわ!もっと大きいのも持ってきて!」
絹重「了解!今度は私が持ってくるわ」
麻子「お願い!」
絹重もやはり台所へと急ぎ、空の入れ物を見つけて来るが手安い入れ物がない。仕方なく絹重はかきもちとかりんとうがまだたっぷり入った大きめのお菓子鉢と大きめのご飯を炊く釜を持って来た。

絹重「持ってきたわ!」


絹重は改めて中を見て困ったように眉を顰める

絹重「Ooh-lala…御飯がまだ少し入っていたわ」

辰雄はそれを聞いて手を止め、すかさず絹重の方を見る。辰雄の持った御櫃の水は麻子と小平に罹り、二人はずぶぬれになる。二人、辰雄を恨めしく睨む

辰雄「勿体ないからおにぎりにして!」

絹重、微笑んで頷いてご飯を握ると辰雄に渡す。辰雄、「ありがとう」と頭を軽く下げて笑いながら美味しそうに食べる

辰雄「やっぱり絹重さんの炊いたご飯は美味しい」
小平「だったら僕にも半分くれ!」
麻子「そんなの後にしてよ!」
絹重「捨てちゃってもいいわ」

残りにもまだご飯は三分の一くらいある。絹重は残りは捨てちゃっていいとジェスチャーをするが、辰雄はとんでもないと首を振り、巨大な握り飯を二つ作って隅に置いておく。絹重、おかきの入った鉢を持って中身を振る


絹重「ここに残ってるおかきは!?」
辰雄「食べるしかないんじゃないか?」
麻子「バカ!今はそんな事言ってる場合じゃないわ!」

麻子、また鋭く辰雄をにらむと御櫃に汲んだ高原の冷たい水を辰雄にぶっかける

辰雄「おい冷たいだろ!水をかけるな!」
麻子「さっきのお返しよ!」
辰雄「兄に向って何度もバカというな!」

絹重は二人の兄妹喧嘩を見て羨ましくもとても微笑ましく思い、絹重も微笑む

絹重「これも中身はもったいないけど捨てちゃってよ!」

その声に小平も反応して、とんでもないとばかりに目を見開き、持っていた御櫃の手を離した瞬間に、御櫃にたまった水が衝撃で
絹重と辰雄に罹って二人は水浸し。辰雄は何も言わず、びしょびしょになって立ち尽くす

小平「そんな事出来るわけないだろ!」

小平は近くにあった手ぬぐいを濡れない棚の上に置いてその上におかきを開ける


絹重「オーケー!」


五人、流しに水を捨て続けるがさらに水圧が増してあふれてくる

絹重「私バカだったわ!ここじゃあだめよ!どうしましょう!」

辰雄はくしゃみをして震えながら手で体を温めている。絹重は辰雄を見る

絹重「辰雄さん大丈夫?ここは気にしないで、早く着替えてきてください」
辰雄「ありがとう、でも着替えたってどうせまた濡れてしまうから大丈夫さ」

くしゃみをして笑う

辰雄「寒い…」
絹重「お体壊さないでくださいね」

ホテイアツモリ荘・台所
食事を終えた史郎と織重が食べた食器を二人で仲良く洗い物をしていた。お互いにすごく掃除好き、きれい好きでとても気が合っている。傍には二郎も一緒にいて洗われた皿をお湯拭きしているが、念入りに食器の臭いを嗅ぎながら洗っているのを見て顔をしかめる。二郎は二人とは正反対でとても大っ平な性格だったからだ。しかし洗い始めて数分も経たないうちに水圧がとても低くなり、いくら井戸の取っ手を引いても水があまり出なくなる

織重「史郎さんおかしいわ。水圧がとても低いの」
史郎「本当だ…おかしいな」

史郎もいろいろと原因を調べたり井戸の内外部を錆びていないか調べる。織重は軽やかに微笑んで史郎を見つめている

史郎「本当にどうしたんだろ…井戸がさびてるのか?」
織重「あなたってとっても優しくて素敵な方」

史郎は作業をしながら赤くなる頬を隠し、織重の方を上目で見る


史郎「え?」
織重「だからあなたは素敵な方って言ったの」

史郎はさらに照れ笑いをして、今度は手を止めてまじまじ正面から織重をみる

史郎「織重さんは優しいね。僕も今、とっても素敵な気分」
織重「まぁ!」
史郎「織重さんこそとっても素敵な女性だ」
織重「ありがとう」

織重、心配そうに顔をしかめて作業をする史郎を抱き寄せるように肩を抱く

織重「あなたと404のお噂は聞いております。でも私はそんなの絶対に信じないわ。あなたがそんな恐ろしいことをするはずないもの」
史郎「ありがとう。たった一人だけでも信じてくれる人がいるのなら僕はそれで十分だよ。幸せな気分で死刑にも望める」
織重「史郎さん、そんな恐ろしく悲しい事を言ってはいけません!」
史郎「織重さん…申し訳ない」
織重「大丈夫、あなたの事は私たちが守ります」

二人、口づけをしようとするが、その瞬間に天井から大量の水が降ってくる。史郎だけびしょびしょになる

二郎「ふーつ…水も滴るいい男とはこのことを言うんだね」
と言いながら二郎は不思議そうに天井を眺める。織重は驚いて史郎を支え、史郎はびしょびしょになったまま何をするでもなく佇んでいる


二階洗面台

五人はへとへとになりながらまだ水汲みを続けている

小平「いつまで続けりゃいいんだ!もう手が腱鞘炎だ!これじゃあ弾けないよ」

小平は両手を痛そうにぶらぶら降りながら泣きそうな顔をしている

小平「ピアノ…」


絹重が急いで小平の手を握って擦り、小平も赤くなりながら黙って絹重にされるままになっていた。中学生らしい初々しい光景だ。小平はふと絹重の手を見る。絹重の手も冷たい水で荒れ、水分が抜けてしわしわになっている。

小平「ドロシーこそ手が!」
絹重「私は大丈夫よ」
小平「いや、駄目だ!女性がこんな手をしていてはいけない!」


小平が慌てて暖かい息を吹きかけながら絹重の手を擦りだす。それを見ていた春原兄妹が二人ののろけを止める様に大声を出す

辰雄「僕ももう手が限界だ!」
麻子「私もよ!」

一階台所

そのころ、史郎と織重が見合いをする場にも二階の叫び声が轟いた。再び口づけをしようとしていた二人だが、驚いて顔を上げた。

織重「何かしら?」
史郎「すまない、君はここにいて。僕は二郎君と一緒に二階の様子を見てくる」
織重「分かったわ」
史郎は二郎を連れて急いで二階に駆けて行った。織重は史郎を見送ると近くの本の棚にあった本を取って読み出す。
やがて史郎と二郎が二階に急いで駆けつけてきた。二階の部屋は大惨事だ。水があふれて廊下の端から端まで全体的に水浸しで数ミリは積もっていた。四人の少年少女はまだ二人のやってきたことに気が付いていなかった。その惨事をみて二郎と史郎も口あんぐりで呆然と見つめていた


史郎「これは一体…」
二郎「どういう事だ?」

二人の声に麻子がやっと気が付いて作業は止める事がなく、返事をした


麻子「ダディーに二郎さん、しっかりやってるわ!」
史郎「しっかり水浸しだろ!」

水は相変わらず吹き出し続けていた。二郎は呆れ笑いをしながら元栓を締めた。井戸の蛇口からは水はすっかり止まり、四人は止まった水に驚いてきょろきょろと辺りを見回した

麻子「あら、水が止まったわ」
絹重「どうして止まったの?」

二郎、呆れ笑いをしたまま学生たちを見た


二郎「元栓を締めただけだよ」

麻子、絹重、顔を見合わせて何度も頷く。辰雄もやっとそれを思い出したという顔をして放心状態になっており、小平も反省したような気まずい顔をしていた。

麻子・絹重「次回のために覚えておくわ」
辰雄「そうか…最初からそうすりゃよかったんだ」
小平「パニック起こしてて全然頭が回らなかった」

二郎は辰雄を見るとさらに呆れたように目を細めて辰雄の頭を小突きながら冷静に言った。

二郎「デレク!君が今日はこの子たちの監督者であり保護者なんだからしっかりしてくれよ」
辰雄「かたじけない…」

と、二郎がやっと排水溝に引っかかったネクタイに気が付き

二郎「ネクタイが引っかかってる?」

史郎もそれを見て、ショックを起こしたように声にならない悲鳴を上げた。

史郎「これ…僕の大切なネクタイが…トミさんから頂いた初めてのプレゼントだったのに」

四人に目を向けて疲れたようにため息をついた


辰雄「ダディー…」
史郎「君たち、少し悪い小説の読み過ぎなんじゃないか?」
麻子「ダディー!私たちよりも先にこの人を叱って!」


麻子は自分が妹という立場をいいことに辰雄を思い切り指さした。
麻子「責任者はこの人よ!」

辰雄も自分に責任があると思っており、反発したり麻子を睨んだりすることもなく、観念したように史郎の方を見て頭を下げた。

辰雄「ダディーごめんなさい、実は結婚指輪を排水溝に落としてしまったんだ。それで僕ら、それを取ろうとしていたんだけど…」
史郎「結婚指輪を!?」

史郎は少しショックを起こしたように目を丸くしたが、申し訳なさそうに史郎と目を合わせられない辰雄の頭を優しくなでて

史郎「もういいよ…今後からは気を付ける事」

とだけ言った。すると麻子が大声を張り上げて腰に手を当てると生意気ぶって史郎をにらみ、まるで子供をしかりつけるように説教臭く言い放つ。

麻子「今後は気を付ける事…ですって!?はーるかぶりに再会して、はーるかぶりのお説教なのにいかにも迫力のないお説教
なのね」
史郎「申し訳ない…とっても疲れてるんだ」


いつもの様に元気がなさそうに見える史郎に違和感を感じ、麻子も辰雄も顔を見合わせた。

麻子「ダディー?」
辰雄「どうしたのです?」

二人は心配そうに史郎を廊下の椅子に座らせて背中を擦る。史郎は酷く落ち込んでいる様子だ。

史郎「恐らく織重さんには嫌われたし振られた。僕は本当に結婚運がないね」
麻子「ダディー…」

麻子、史郎を慰めるように手を握る。史郎、どっと疲れた様に背もたれにもたれかかる


麻子「そんな事ないわ!だってダディーはマミーが結婚をしたいと思った男性よ。背は低いけど、頭がよくてハンサムでとっても素敵なかっこいい自慢のダディーよ!良さを分からない女性の方が頭がおかしいわ!」
絹重「麻子さん…」

少し失礼な事を言ってしまった…麻子自身も気が付いて絹重を見ながら舌を出した。今自分が悪く言ってしまった女性は、現に目の前にいる親友・平出絹重の実の姉だ。しかしそこはさすがは絹重だった。軽く笑いながら麻子を睨みつけて
絹重「麻子さん…今、何気に失礼な事を言ってくれたわね」


とだけ言ってから、笑って親指を立てて頷いた。これがホテイアツモリ荘風、ごちゃまぜ家族の在り方だ。

麻子「Ooh-lala、失言ごめんなさい」
麻子も小粋に猿の真似をしてペッと舌を出す。そんな絹重と麻子を史郎もやっと微笑みを戻して見つめた。微笑む史郎は両頬に大きなえくぼができ、もともと童顔な史郎の顔をさらに少年の様に幼く見せた。


史郎「ありがとう。今のは最高に迫力のある誉め言葉だよ」

そこに織重が階段を上がって来て史郎に近づいた

織重「あまりにも遅いから来ちゃったわ」

といい、史郎に指輪を渡した。金色で大きなオパールのついたとても不思議に輝く指輪だった

織重「史郎さん、これってあなたの指輪でしょ」
史郎「わぁ!」
絹重「姉様!ありがとう、ありがとう!」
史郎「これだよ!まさしく僕の大切な指輪だ!」

驚いて織重を見つめた

史郎「どこにあったんだ?」
織重「一階の流し台の前よ。天井から水と共に降ってきたの」

そういう織重もびしょびしょに濡れていた。織重は腰に手を当てると絹重をにらみつける

織重「絹重ちゃん、あなたの仕業でしょ」
絹重「はい織重姉様、ごめんなさい」

申し訳なさそうに頭を下げながらも上目で織重を見てぼそぼそっと

絹重「でもどうやって見つける事が出来たのです?」

と尋ねると織重は笑った。それはさすがにきれい好きの織重らしい答えだった。


織重「床が濡れていたから油拭きをしたの。その時に床の上で見つけたわ」

史郎がそれを聞くと目を輝かせて織重を見た。掃除の話に史郎は目がないのだ。

史郎「本当に!?」
織重「えぇ!」
辰雄「やれやれ、また始まったよ。昔と変わってないね」
麻子「ダディーの掃除バカのところ」

織重と史郎は握手をしあう

織重「今日はありがとう」
史郎「こちらこそ。会えてよかったよ」
織重「私もよ、会えてよかったわ。史郎さんは本当に楽しい方ね」
史郎「君もとても楽しい人だよ!」


二人は掃除好きできれい好きという共通点でとても気が合っていた。史郎は春原兄妹がうんざりする程の掃除おたくで、織重は絹重がうんざりする程のきれい好きだったが、まさかそこに惹かれるもの同士もあるものなのだ

織重「それとね…」

織重は帰り際に、大切な事でも話すように史郎に顔を近づけ、とてもセクシーに囁くように言った


織重「洗い物はつけ洗いが肝心なの。汚れと嫌なにおいを残さないようにするためにはね」
史郎「50度以上の殺菌消毒が決め手だっていうんだろ?」
織重「その通りよ」

織重と史郎はハイファイブ。手を打ち合ってからそっと口づけをする。その場にいた辰雄、麻子、絹重、二郎をはじめ、騒ぎを聞きつけた他のメンバーも部屋のドアから顔を出して二人に歓声を浴びせる。

他全員「Oww!」

織重は口づけを終えると帰る準備をして、再び今度は軽く史郎の頬に挨拶の口づけを交わした

織重「お手紙書くわ。電話もしてね」
史郎「僕にも電話してね」
織重「えぇ、勿論」
二郎「僕には?」

二郎も色目を使って織重を見るが、織重の気持ちは一切二郎にはなかった。二郎に再会した時には心が揺れてしまっていたが、今はもう織重の心は史郎のもとに行ってしまった。史郎は織重の出会った男性の中でも最も素敵で美しい男性だと絹重には思え、早くも「この男性と交際をして、生涯を共に過ごせたらどんなに幸せかしら」と思うようになっていたほどだった。史郎を見る限り、おそらく史郎も織重と同じ気持ちなのだろう。
二郎にそう聞かれると、織重は冷たく突き返すように言い放つ。

織重「あなたは電話してこないで!」
二郎「うぅぅ…」

二郎はショックを受けたような声を出した。二郎にとっても初めて心から愛した相手だったのだから無理もない。二人が別れた理由についてはまた別の物語で書こうと思う。
織重は帰り際、史郎の手に焼酎を垂らして刷り込む。史郎も微笑んで織重の手に焼酎を刷り込んだ

織重・史郎「この香りたまらない!」

二人は最後にもう一度ハグと口づけをして、織重は家を出て行った。今日は一体どれくらい口づけをしたのか…もしかしてトミにと交わした口づけよりも多かったかもしれない。史郎は織重に惚れていく自分の心に気が付くと、トミに対して罪悪感も沸いてきた。トミを忘れてしまうかもしれないという恐怖もあり、とても怖いとさえ思った。しかしやはり感情はごまかせない。幸せに紅潮する史郎の肩を辰雄と麻子が両側から抱いた

辰雄「ダディー、予想以上に上手くいったね」
麻子「ダディー、洗面の片づけがまだ残っているわよ!」
史郎「よし行こう!任せて!」

史郎はとても気分がよい。ミュージカルのように踊りまわりながら掃除用具を持って歌いながら二階に上がっていった。

史郎「今日はとっても気分がいいから家中掃除をしたい気分なんだ!」
麻子「じゃあ後は…」

史郎が去った後、改めて麻子が絹重と辰雄と小平の顔を見ながらニヤリと笑っていった。

辰雄「ん?何?」
麻子「デレク兄さんの番ね。それとも小平君が先かしら?」
辰雄「え?」
小平「何が?」
麻子「なんでもないわ、頑張ってね」

辰雄と小平は訳が分からないようにきょとんとして首を傾げた。絹重は意味を感ずいたように頬を染めてククっと笑った。二郎はというと、織重を見送って史郎を見つめた後に手で顔を覆って女性の様に声を上げて泣き出した。以前は流さなかった、二郎にとっての初めての失恋の悲しみの涙だった。

昭和42年夏

入笠山にも夏という季節がやってきた。そうは言ってもここは富士見高原、夏でもとても涼しかった。どんなに上がっても25度
はいかないだろう。
今年、ミツバチクラブは高校に進学した。中等部での活動も今年で最後なのである。そんな新聞部ミツバチクラブの夏休み、とても平凡に過ごしていた。いつしか地域でのホテイアツモリ荘に対するデモ活動もなくなり、ミツバチ戦争も終わりをつげ、今まで通りそれぞれが仲良く過ごしていた。メンバ
ーに対する疑いの件も大ごとにはならず、今や404の騒ぎも幸いな事に落ち着き、沈静化しつつあった。
ー平和で穏やかな時間が流れる夏、絹重と小平はトランプ遊びでポーカーをやっていた。絹重の得意分野だった。それぞれに好きなお菓子を賭けて勝負をしている。


絹重「みんなの協力のおかげね、何とか学生たちのミツバチ戦争は落ち着きそう。ありがとう」
小平「いまさら何言っているんだよ」
辰雄「言っただろ!僕らはいつでも」
2人「同じ志を追う蜂の巣に集う仲間なんだって!」
絹重「そうね!」
辰雄・小平「ブンブンブン…」

辰雄と小平は立ち上がってブンブンブンと振り付けをする。それを聞いた絹重含む周りの全八メンバーが立ち上がって、左手の四指を高く上げて誓いの歌を高らかに歌いだした。

全員「♪蜂の巣に集う仲間に、愛と忠誠を誓う、我らのモットーは一つ、ブンブンブン…」

歌い終わると絹重と小平は再び座って絹重が改めてトランプをきる

絹重「小平君、次はセブンポーカーよ!」
絹重、自分の手札を吟味している

絹重「今度は7、2、10、そしてキングとジャックが一番強い事にしましょう。分かった?」
小平「なんだよそのインチキなルール!」
絹重「論説委員会長のいう事をお聞きなさい」
小平「そんな事言ってドロシー…」

小平は胡散臭そうに絹重を細い目で睨んでから強引に絹重の手札をとってみる。絹重の手札は7,2,10,k、j

小平「ほらな。こんなとこだろうと思った」

今度は小平が改めてトランプをきって配りなおす

小平「いくらゲームであろうともいかさまはいけませんぜ、リーダー」
絹重「はいはい、ごめんあそばせ」
小平「では始めよう。何賭ける?」

絹重はチリ紙に包んだかりんとうを取り出してちゃぶ台の真ん中に置く

絹重「私は、おやつのかりんとう5つ全部かけるわ!」
小平「おぉいいね!」

そういうと小平はドロップの缶をちゃぶ台の真ん中に置く
小平「なら僕はドロップひと箱全部かけてやる!」

二人がいざ勝負をしようとした時だった、急に加藤田が割り込んできて勝負は中断された。

加藤田「おいドロシー!」
小平「なんだよ、邪魔するな!」

そういうと加藤田は強引に小平をソファーから追い払って、彼の座っていた場所に座る。小平は思いっきり加藤田を睨みつけた。加藤田は挑発的な口調だ。


加藤田「その勝負、僕にやらせろ!」
絹重「急に何よ?」
加藤田「論説委員会長の座をかけて!」

それを聞くなり絹重と小平は顔を見合わせて呆れたように笑って手を上げた

絹重「分かったわ。そんなに言うんならどうぞ」
小平「ドロシー!」


絹重は小平に任せておいてと遮って腕まくりをする。むっつりする小平を後回しにして絹重と加藤田の勝負が始まる。真剣に勝負を続けていく二人、最後の手になると加藤田が大声を上げた。

加藤田「コールだ!セブンクイーン!」
加藤田は勝ち誇ったように手札を開くが、絹重はさらにニヤリとして自分のカードを開き、いたずらっぽく小平を見ながら静かに

絹重「セブンエースよ!」
加藤田「う…」
小平「ざまぁみろ!」
加藤田はまさか負けるとは思っておらず、何も言えなく泣て固まった。そこに麻子が見に来る。

麻子「なんで急にセブンポーカー?」
絹重「加藤田君にどうしてもって言われてやってるの」

麻子はどういう事かと問う様に小平を見る。絹重は呆れたように笑う。

絹重「セブンポーカーで勝ったら論説委員長の座を譲れってさ」
麻子「あほらしい…」
絹重「初めは小平君と遊んでやっていたのよ。そしたら突然来た加藤田君に横取りされたのよ」
小平「本当だよ!全くいい迷惑だ!」
小平、腕を組んで加藤田を見ると鼻を鳴らして笑った

小平「加藤田、トランプでドロシーに勝つなんて一生無理だぜ。僕だってごろ負けだもん」
絹重「そうそう!トランプで私に勝とうだなんて加藤田君!」
小平「かけた?」

絹重は大笑いをし出す
絹重「私、うまいわね」
小平「さすがはドロシー!ノリもさえてるね」
麻子「さすがは新聞部のインタビュアー!」
絹重「照れるからよしなさいよ、拍手はカットね!Cut and out!」
絹重はまるでアメリカンジョークのショーの様に身振り手振り。麻子は近くに置いてあったミツバチ経理の資料を見る。それを小平ものぞき込む

小平「ここまでの売り上げの累計は?」
麻子「見なくても断トツよ」


そう言って笑いながら絹重の肩を抱く

麻子「私達に勝ち目はないわね。断トツ絹重さんの売り上げがトップで今月の働きバチに選ばれた回数もナンバーワン!」

ガラスケースにしまわれた黄金の触角を指さす

麻子「女王蜂として栄誉ある引退を迎えるのは絹重さんに決定」

絹重、戸棚の引き出しからタイプライターを出して来て、改めて座りなおす

絹重「とにかくやっちゃいましょ」
加藤田「おい、逃げる気かよ!勝ち逃げは卑怯だぜ?」
絹重「後でもう一回付き合ってやるわ」
加藤田「絹重ちゃん…」


絹重に断られると今度はゴマをするように加藤田は絹重にすり寄った
加藤田「君とやるのが一番楽しいんだよ!」
絹重「何回やっても同じよ。仮にあなたが勝っても論説委員長は譲らないわ」
加藤田「もう一回!」

絹重、腰に手を当てて加藤田をにらみつけてシッシッと追い払う

絹重「ひつこいわ!駄目よ、私はこれから忙しいの」
すると加藤田は急に強い口調になって絹重を責めるように言い寄った


加藤田「だったら論説委員長が無理でも、せめて僕にも学食とゴシップ以外の記事を書かせろよ!」
絹重「今…何と!?」

絹重はタイプライターを打ち始めていたが、ふと手を止めて眼鏡の位置を直しながら加藤田を二度見した。


絹重「加藤田君が学食以外の記事を書くですって!?いつも国語で落第点のあなたが!?新聞もろくに読んだことないあなたが!?」

小平も麻子も吹き出す。加藤田は二人をにらみつけた。それもそのはず、加藤田は学年中の誰もが知る国語の落第生で、なぜ新聞部に入ったのかと疑いたくなるほど新聞も全く興味がなくて読まないし、文学すらも読んだことがない。運動音痴で音楽音痴の算術音痴、ただ唯一彼が得意と言えるのは地図を読むのと彫刻・版画が大得意という事だけだった。


加藤田「ゴシップ記事は必ず読んでるよ!」
加藤田はにやりとして絹重と小平を交互に指さした

加藤田「特に最近の記事は面白いからさ。論説委員会長が生徒会長の小平修と熱い中だとかな」

絹重、大学ノートで加藤田の頭を小突く。小平は真っ赤になって何か言おうとするがその前に絹重が加藤田を追い出した

絹重「バカ言っていないであっちに行きなさい!」

絹重は加藤田を追っ払った後、手を払ってから再びタイプライターを打ち出す。加藤田は大人しくはなったが、やはり近くで絹重を観察していた。

絹重「それよりもマリリンモンローは火星で生きていたって書いた方がまだみんな信じるし、興味を引く生地になると思うわ」
加藤田「火星じゃなくて金星です!」

加藤田はタイプライターを絹重から奪う

加藤田「とにかく僕にやらせろよ!僕も意欲ある生徒に見られたいんだよ!」

絹重、タイプライターを取り返そうとはせずに渋々加藤田を見て、冷静な口調で声を出した。

絹重「いいわ、そんなにやりたいのなら勝手にして。でも論説の記事と事件の記事は書かせられないわよ。空いているのはスポーツ欄の担当者だけ」
加藤田「スポーツ欄だって!?」
加藤田は急に止まって目を輝かせた

加藤田「スポーツ!それなら僕にピッタリじゃないか!」

絹重はまた呆れたように加藤田を細い目で見て、腕を組むと鼻を鳴らした

絹重「あなたにスポーツが分かるの?運動音痴のあなたに!?」
加藤田М「ドロシーのやつ…新聞部部長だからって調子に乗りやがって」

しかし加藤田は感情を表に出さずに、ニヤリとしてネコナデ顔で絹重を見ると絹重の頬に鼻をくっつけた。加藤田お得意のバニーノース攻撃だ。小平はとんでもないという顔をした。自分の好きな女の子が他の男に迫られているのだ。冷静に黙って見ていられるはずがない。


絹重「バニーノースはやめて!」

加藤田、クンクンと声を出す。絹重はどいてと何度も加藤田を引き離そうとして嫌がっている。

絹重「そのパピーの様なクンクン声もね」

加藤田はついに絹重の顔をなめようとした。もう我慢が出来ない一小平は鬼のように真っ赤な顔をして二人を引き離し、加藤田の頭を小突く。

絹重「分かったわよ!お願い!仕事あげるから顔だけは舐めないで!」

小平はやっと加藤田から解放された絹重をかばうように体を支える

小平「ドロシー、大丈夫?」
絹重「小平君、ありがとう」

加藤田はというと能天気にへらへらしていた。

加藤田「僕もやっと立派な記事を書く人になれるね!やっと学食・購買欄以外に“記者:加藤田修”って載るわけだ」
絹重「はいはい、それよりジャーナリストって言ってね」
加藤田「ジャーナリスト?変な名前だな」


絹重は壁の方に歩いていき、学生行事表を掲げてある壁を指さして壁をバンバンと叩く

絹重「もうすぐクロケットの全国大会があるでしょ?加藤田君はそれを取り上げて」
加藤田「オーケー」
絹重「返事だけはいいんだから…なんだか心配だわ」


絹重もタイプライターを新しく出してきて打ち出すが、打っては紙を捨ての繰り返しで頭を抱える

絹重「何にしようかしら?もうすぐ卒業だしこんなご時世よね。だから何か私達最後の新聞は学校をアッと驚かす楽しい記事を書きたいと思っているのよ」
小平「楽しい記事?」
絹重「そう。何かいい案はないかしら?」


絹重、悩んでいるが突然何かひらめいた様に手を打つ

絹重「そうだわ!こんなのどうかしら?」

そういうと絹重はニヤリとして麻子と梅子に顔を近づけた

絹重「卒業の悪戯をするの!」

それを聞くと麻子と梅子も目を輝かせて乗って来た。やはりノリのいい新聞部の同志である。いたずら新聞はいつの時代でもつきもので、一度は学校を騒がす一大イベントだ。ここぞ、新聞部のアイディアと悪知恵、文才と撮影が試されるところだ。

麻子「何それ!?面白そう!」
絹重「偽の学生新聞を作るのよ!それで本物とすり替えるの!」
梅子「本物の学生新聞って?」
絹重「ほかの部員には内容は知らせずに私達とは別の新聞を書かせるの」
梅子「なるほど!」

絹重、タイプライターに打ち込んでいる
絹重「それで聞いて!見出しわね、“校長先生、自分の口づけで公的書類に捺印をする”とかどうかしら?」
麻子と梅子「“校長先生が自分の口づけで公的書類に捺印をする!?”」
梅子「でも相手が校長先生ではね、色気がなくてつまらないわ」

梅子はうっとりと妄想をするように語る。クロケットのエース・大芝とは、大芝武雄の事だ。学校一の美男子と有名で、梅子にとっても憧れの生徒だった。学年は二学年上の三年生だ。

梅子「どうせやるなら、クロケットのエース・大芝君とかだったら女学生の注目集めると思うけど」
絹重「なんだかそれじゃあ大芝君に申し訳が立たないわね」

悩みながら麻子と梅子を見た

絹重「麻子さんと梅子さんは他に何かいい案がある?」
麻子「私に聞くより悪戯なら…デレク兄さん!」



麻子が大声で辰雄を呼ぶと、過去の学生新聞を調べていた辰雄がその作業をやめて三人の元にやって
来た。麻子は辰雄に事の次第を話す。すると真面目そうに見え、絶対に反対をしてくるかと思っていた辰雄が意外にも話に食いついて乗ってきた。

辰雄「そうだなぁ、悪くはないけど僕の学生時代はもっと過激ないたずらをしたよ。と言っても、その記事を書くのは僕だったんだけどさ」

ニヤリとして誇らしげに思い出すように話し出す

辰雄「校長の鬘を盗んで、日本の国旗と校章の国旗がかけられた旗竿にその鬘を掲げたんだ。翌日の朝礼では旗ではなくて鬘に忠誠と愛を歌ったんだよ」
麻子「髪の毛で何度も散々な目にあってた兄さんが髪の毛関係で悪戯だなんて伝説ね」
絹重「鬘は?どうやって手に入れたの?」

辰雄はジェスチャーを交えながら誇らしげに鼻を鳴らす

辰雄「釣り竿ととりもちさ。それを持って学校の屋上に上がって、屋上から校庭で校長講話をする校長の頭をばっちりと仕留めたってわけ!」
梅子「じゃあその校長、今でも禿かしら?」
辰雄「恐らくそうだろうさ。新しい鬘を新調していなければね」
梅子「なら絹重さんに麻子さん!その伝説を超えましょう!何か昭和史に残る伝説を残して卒業したいじゃない!?」
絹重「そうよね…でも申し訳ないけど、辰雄さんの真似はさすがに怖くてできないわ。卒業が取り消しになったら私、大学に
行けないもの…」
するとさっきまで絹重に突っかかってきてライバル視をしてきた加藤田が口をはさんできた。

加藤田「だったらドロシー、僕に名案がある!決してばれるんじゃないぞ!」
絹重「加藤田君?」

絹重も加藤田の参戦には心底驚いた。ここまでやる気と活気に満ちた加藤田を新聞部内で見るのは初めてだ。


加藤田「とにかくドロシー、いま梅子が言ったとおり過激で昭和史に残る事をしろ!」
小平「お前、初めてまともな意見を発したな」

小平、絹重の両手を取って励ますように大きく振る


小平「そうだよ!加藤田の言う通り!いい悪戯の伝説は永久に残り続けるんだ!」
小池「だったら校長ごと竿に引っ掛けるか?」
絹重「えぇ!?」
小平「そりゃ大平すぎるだろ!」

辰雄、ち、ち、ち、と指を振る。全員は辰雄に注目をした。
辰雄「悪戯はこっそりやるのが伝統だろ?そんなに大平なやり方ではいけないよ」
麻子「でも大きいことして一生の思い出にしたいじゃないの!」
辰雄「こっそりと伝統を守りつつ、悪戯の名作を作るんだよ!」
絹重「いたずらの名作…」
辰雄「どう?」

絹重はしばらく考え混んでいるが、やがて何かいい案が浮かんだようにニヤリとして手を打つ

絹重「いいこと思いついたわ!」
麻子「なになに!?」
絹重「失踪事件よ!」
全員「Oww…」
絹重、早速タイプライターを打ち始めた。辰雄と二郎をはじめ、全員がタイプライターをのぞき込んで、絹重の企画ににやりとして頷いた





















ー第五話ー

昭和四十二年秋の深夜富士見の高校の屋上

二郎がクレーンを動かして車を駐車場から屋上に持ち上げている。他メンバーはそれを見てかなり興奮気味だ。アメリカ式の黄色いボディーをした流行車が吊り下げられて木の校舎の屋上に連れていかれる

絹重「購入したばかりの愛車の失踪事件なんて誰もがびっくりするわね!」
梅子「これって地上最強よ!」


小池が一部始終を一眼で撮影している。小平と加藤田は取材の様に情景を手帳にメモを取っていた。人々のセリフや客観、主観までとにかく正確に現状を記録する小平、さすがは新聞部の名記者で文学少年だけあった。絹重は屋上から二郎と辰雄に車が到着した旨を合図で送った。車が屋上に完全に到着すると二郎も運転をやめ、辰雄と共に屋上にやってきた。

麻子「大ニュースね!」
梅子「みんな卒倒ものよ!だってこの失踪事件は人じゃないんですもの!」
絹重「興奮しちゃうわ!過激だし最高の悪戯だわ!」
小平「偽の失踪事件ってわけだね」

七人が屋上に到着した車に興奮して話をしていると、突然の雨が降って来た。絹重と麻子はパニックを起こしてどうしようと慌てだすが、梅子は至って冷静だ。それよりもこの状況を楽しんでいるように見えた。


絹重「雨だわ!どうしましょう!」


麻子「先生の車がびしょぬれ!車庫に戻さなくちゃ水浸しだよ!」
梅子「さらに過激になったわね」


そういうと、雨の中の車を一枚、二枚と写真に収めた。

絹重「車を壊すのが目的じゃないわ!早く戻しましょう!」
麻子「どうやって戻すの!?動かすのは無理よ!車のカギがないんですもの!」
絹重「あぁ…もうおしまいだわ!」

頭を抱える絹重と麻子に対して二郎は冷静に車に近づき、車を調べるようにして呟いた。

二郎「だったら車の配線をいじればいいんだ!」
全員「え?」
二郎「僕も一緒に来ていてよかったよ。僕はその分野に関しては得意だからね」

二郎は辰雄に手招きをして、とりあえずもう一度車をクレーンで吊って地上に卸すから手伝いにこいとの旨を伝え、二人は下に降りて行った。

辰雄「ところでそんなのどこで覚えたんだ?」

辰雄はそんな知識を持っている二郎に心底驚きながら訪ねた。二郎がクレーンの免許を持っている事にも驚きだが。
二郎「お前が大嫌いだった物理の授業だよ」
辰雄「なるほど。さすがは留年してしっかり勉強してるだけあるよ」

二郎は辰雄をにらみつける。辰雄も二郎の留年の理由は知ってるはずだ。優秀で頭の良い彼は勉強ができなかったわけではない、今は亡き母と現在も病弱で闘病中の妹を看病するためだったと。

二郎「デレク…それ、僕に対する嫌味か?」

そういうと二郎は不機嫌ながらも辰雄に手招きをしてついて来いと合図をした

二郎「まぁいいや。お前にはちょっと手伝ってほしい、この車に乗って」

辰雄は目を丸くして「嘘だろ!?」と口を動かした。二郎は辰雄を車に乗せた状態で車をクレーンで吊って下に下ろすつもりなのだ。辰雄は「殺す気か!」と叫ぶと階段を使って下に降りる二郎について行く。「お前が嫌味を言うからちょっとジョークを言っただけだ」と二郎の声が聞こえた

辰雄「酷い…」

辰雄も残ったクラブメンバー七人も雨でびしょぬれになっている。十月の雨はとても寒く、七人の体も冷え切り、全員は手で体を温めながら縮ぢこまって震えていた。

麻子「私達はどうすればいいの?」
辰雄「君たちは濡れない場所にいて」
辰雄は絹重が時々咳き込んでいるのをここに来た三十九年の春から何度も見ていた。ゆえに雨に濡れた絹重の体調が一番心配だった。

辰雄「特に君は暖かいところにいてくれ」
絹重「ありがとう」

辰雄は自分の着ていた背広を絹重の肩にかける。辰雄の着ていた背広は男性ものにしてはとても小柄で、絹重の体系より少し大きいくらいだったが、辰雄の体のぬくもりが残り、とても暖かかった。絹重はほっこりと笑って「ありがとう」と辰雄にお礼を言う。
辰雄の気持ちは揺れていた。この少女を守りたいと思うのは、単に彼女の体が心配なだけだからだろうか?それとも別の理由があるからなのだろうか。とにかく絹重に涙を受け止めてもらったあの日から、彼女といるととても心が落ち着き、彼女のためなら何でもしてあげたいし彼女には笑顔でいてほしいと思っているのは確かだった。だとするとひょっとすると、僕は平出絹重さんの事が好きなのだろうか?

辰雄「薪は裏の倉庫にあるよ」
おぼつかぬ気持ちのまま、そう答えた。辰雄も御年十八歳、この学校に通う最終学年の生徒だったのだ。小池が校舎の方を指さした

小池「だったら校舎の中に入って、どこかの教室にいよう」
絹重「そうね」
小平「だったら音楽室がいい!」

小平が絹重の手を取った。辰雄はその様子を見て微笑む。屋上の下からは、先に降りている二郎が「デレク、早く降りてこい」と少し怒鳴り声を出して叫んでいる。
小平「ドロシー、早く行こう!」

学生たちは土砂降りの中建物に入っていく。もう全員は盥でも被ったかのように全身びしょぬれだ。これは全員、明日は風邪をひいて寝込むのではないか?と、冷えた絹重が咳き込みだした。小平は心配そうに顔をしかめて絹重の背を擦りながら、彼女を支えてゆっくりと音楽室へと足を進めた。

一方校庭では二郎がもうあらかた配線の作業を終えていた。辰雄が来ると「遅い!」と再び怒鳴り、二人で最終確認を始めた。作業は車内で行ったため、二人は濡れる事もなく順調に進める事が出来た。
 数十分後、作業が終わった二郎は車から降りる。外は何とか雨がやみ、空の曇りも晴れてきて上弦の月が明るく輝いて顔を見せた。まもなく満月だ。二郎は外で大きく伸びると辰雄にゴーサインを出した。辰雄は運転席に移り、同じく確認のサインを出す。

二郎「これでオーケー。後は外から動きを確認したいからデレク、運転をしてくれ」
辰雄「オーケー」

辰雄はエンジンをかけた。しかし辰雄もまだ免許も持っていない学生だ。運転などやり方を知らない。二郎もそれを忘れてしまっているみたいで何も言わないし、辰雄も辰雄でこれは実にいい機会だと、何も言わなかった。
辰雄「えーと発進にはどれだ?これかな?」

マニュアルを合わせてアクセルを踏むと車は勢いよくバックをして学校の教室に突っ込んだ。そこは事もあろうにちょうど新聞部ミツバチクラブの活動室だった。

辰雄「うわぁぁぁ!」

それに気が付いた二郎も目を丸くして慌てて車の方に走る。

二郎「バカ!何やってるんだ!」
辰雄「止まらない!」

そして思いっきり期の壁を突き破って教室の中に入り込むと、その衝撃で部室に置かれていたはちみつの瓶が倒れて割れ、車と部屋がはちみつまみれになる。車は部室の壁にはまってやっと止まった。というよりも、故障して動かなくなったといった方がいいかもしれない。

辰雄「どうしよう、まずい事になったぞ」

そっと車のドアを開けて外に出る。彼の顔は青ざめて放心状態だ。車を降りる彼の手足は震えており、あまりにも恐怖を感じたせいなのか彼のズボンが濡れていた。


辰雄「もう最悪…」
歩き始めるが、足がもつれていたせいもあって彼ははちみつに足を取られて派手に転んでしまう。頭にもはちみつが垂れてきて辰雄ははちみつまみれになっていた。辰雄はハチミツの海にへたり込んで動けないまま呆然として車を見つめ、二郎も口をあんぐりと開けてそれを見つめていた。

辰雄「本当にどうしよう…」
二郎「デレク…」

二郎がやっと正気に戻って辰雄に近づいて来た
二郎「部室の中に車が入ってる…」

辰雄はそっと二郎の顔を見た。その顔はまるでゾンビの様だ、目の焦点が合ってなく、真っ青の唇と顔。

辰雄「どうしよう…」
二郎「お前…えらくやったな」

二郎は辰雄のズボンに気が付いて笑いながら言った

二郎「漏らしてるぞ」
辰雄「知ってる…」

辰雄は放心状態の心ここにあらずではあるが、状況はもう飲み込めているらしく、手足と共に声は震えて泣きそうになっていた。

辰雄「二郎助けて…このままじゃ僕、高校退学になる」
二郎「僕は知らないぞ!」
辰雄「いや、退学ならまだいい方だ…バレたら僕は確実にあの世行きだよ」
二郎「当然だろ」
辰雄「そんな他人事みたいに冷たくあしらうなよ!唯一の親友だろ!」

辰雄、二郎にきつく抱き着く。二郎は嫌がって辰雄を引き離そうとする

二郎「やめろ!こんなハチミツだらけの場所で抱き着くな気持ち悪い!」
校内の二階の音楽室では絹重と麻子と梅子が小平の伴奏で歌を歌っている。それは四人の好きなアニメ、「フリントストーン一家」だった。四人の歌声はもちろんだったが、小平の伴奏はとても正確なもので素晴らしい演奏だ。彼は本当に顔に似合わずピアノが上手い。歌が終わると小平が立ち上がった。

絹重「どうしたの?」
小平「僕、冷えたかも。手洗い行ってきていい?」

ピアノを弾くのに夢中になって長時間用を足すのを忘れていたのだ。彼は糖尿病持ちで少し手洗いが近かった。それは絹重も麻子も梅子も知っており、学校でも彼の体調は配慮されていた。

絹重「えぇ。気を付けてね」
小平はありがとうと手を振って手洗いにかけていった。すると今度は音楽室に入れ違いで二郎が飛んで来た


絹重「二郎さんありがとう。終わったのね」
二郎「いや…まだだ」

三人の女学生は尋常じゃない二郎の顔を見て少し不安になった。まさか何かあったのだろうか?事故にでもなってしまったのか、それとも車をうまく元に戻せずに屋上から落下させてしまったのか

絹重「どうかしたのですか?」
二郎「他の奴らはどうした!?」
絹重「小平君はお手洗いに行ったわ。小池君、岩波君、加藤田君さんは一旦ホテイアツモリ荘に戻るって言って帰った」
二郎「はぁ!?」
絹重は心配そうに眉をひそめて二郎の顔を見た。明らかに何かがおかしい、二郎の顔を見る限りはっきりとそれが分かる

絹重「二郎さん大丈夫?何かあったのですか?」
二郎「大変な事になってるんだ、君たちだけでも一緒に来て欲しい」

女学生は顔を見合わせた。すると二郎がとんでもないことを言ってきた。

二郎「新聞部部室に車がある…卒倒するな」
絹重・麻子・梅子「新聞部の部室に!?」
女学生たちは顔を見合わせたまま顔がほころび、笑いそうになった。ーなんだ!二郎のジョークか!ーそこで三人もそのジョークに乗ることにした。


梅子「それを言うのならバスだって銭湯にあるんじゃない?」
絹重「Bathroomね!」
麻子「上手い!」

しかし二郎は笑わない、どうもジョークではないらしい。いじいじと体を揺らしながら声を荒げた。

二郎「冗談言ってないでとにかく早く来いよ!」
麻子「この雨の中?本気で言ってるの!?」


それを聞くと麻子はツンっとそっぽを向く

麻子「私はお断りよ」
二郎「兄ちゃんを助けたくないのかよ!」

その言葉に反応したのは絹重だった。麻子に兄ちゃんと言っている。麻子の兄ちゃん…つまり辰雄の事だ。ひょっとして辰雄になりかよからぬことがあったのではないか。絹重はハッとして不安そうに二郎を見た。

絹重「辰雄さんに…何かあったの?」
二郎「来ればわかる」
そういうと二郎は静香に手招きをし、絹重も不安そうに二郎についていく。麻子と梅子もその後を追った。

麻子「分かったわよ!私も行くわ!」
梅子「だったら私も行ってやる!」


電気もついていない暗い廊下を、二郎の持つ蠟燭だけを頼りに歩き、階段を下りてまた廊下を突き進んで曲がってーやっと一つのドアの前にたどり着いた「新聞部部室」と書かれている。ここだ。


絹重「辰雄さんは学校の中にいらっしゃるの?」

それには二郎は何も答えず、「入るぞ、卒倒するな」とだけ静かな声で言ってドアに手をかけて引き開けた。中に入ってみると何と部室には校長先生の車が突っ込んでおり、レイヤーガラスが後ろの壁に突っ込んでいた。そして車の前には青ざめた辰雄がハチミツの中に佇んでいた。先ほどと変わらず、青ざめて生気がない顔の辰雄だ。車と床と辰雄ははちみつだらけで割れた瓶の破片もそこら中に飛び散っている。

絹重・麻子・梅子「Woah baby!」
麻子「部室に車がある…」
絹重「二郎さん、どうしてこうなったの?」
二郎・辰雄「窓から突っ込んだんだ…」
梅子・麻子「なるほど…窓から突っ込んだのか」

絹重はいそいで辰雄に近寄った。そしてはちみつまみれの辰雄の体を軽く抱きしめた。
絹重「辰雄さん大丈夫?お怪我はありませんか?」
辰雄「ありがとう…僕は大丈夫だよ」

辰雄は半棒読み状態でしゃべる。絹重は辰雄を労わって、雨とはちみつでびしょびしょぐしょぐしょの彼の体を自分が頭にかぶっていた手ぬぐいを取って拭き出す。そこに小平がにこにこと笑って入って来た。彼は手洗いから戻った後音楽室に戻ったが、誰もいなかったために心配して学校中を捜し歩いていたのだ。

小平「みんなここにいたのか、音楽室にいないから探したよ」

といって改めて中を見回し、車の存在に気が付くと何度も目をこすって二度見した。

小平「車が…」

もう一度目をこすって更に二度見をする

小平「嘘だろ!?僕の夢!?車が…」
絹重・麻子・二郎・辰雄・梅子「部室にある!」
小平「代弁ありがとう。でもどうして新聞部の部室に!?」

小平は入口にいたが、ガラスの破片に気を付けながらも恐る恐る中に踏み込んだ

麻子「窓から突っ込んだからよ」
二郎「この男がな!」

と、露骨に辰雄を指さした。辰雄は申し訳なさそうにうなだれて無表情のままだ。

小平「みんなは大丈夫?ケガはない?」
二郎「幸い僕らも彼女らも無事だ」

小平は安心したように頷いて微笑み、今度は絹重に駆け寄った。小平にとって誰よりも心配で按じている存在だ。

小平「ドロシーも大丈夫?ケガはない?」
絹重「ありがとう、私も無事よ」

絹重、自分のハンカチで小平の顔や体を拭く。小平の体や顔もびしょぬれだった。外を見るとやんでいた雨がまた降り始めている…きっと彼は外までも探しに行ってくれたのだろう


絹重「びしょぬれね。小平君、外に出たの?」
小平「みんながいないから外まで探したんだよ!」
絹重「はやく着替えなくちゃ。風邪ひいちゃうわ」
小平「ありがとう。でも僕は、大丈夫」
絹重「駄目よ!」
小平「だから大丈夫だって!」
絹重「何かあってからでは遅いのよ!」

小平は真っ赤になっておどおどしたまま絹重に拭かれていた

絹重「この部屋で火をつけるのは危険だわ。小平君、隣の部屋に行きましょう」

絹重はそう言って小平の肩を抱くと、教室を出て隣の教室へと入っていった。隣は文芸部の部室だった。文芸部の部室は無害でいつもの同じ様にとてもきれいなままだった。誰かが磨いてくれたのだろうか、床も壁もいつも以上にピカピカだった。
絹重は部室のストーブに火を起こしてから椅子を一つストーブの前に置いて小平を座らせ、絹重は小平の傍にしゃがみ込んで彼の両手を握り、必死に擦って温めている。小平はそんな絹重にいつも感じる、どきどきとした緊張感ではなく、とても暖かい優しさと安心感を感じた四年間思い続けた同級生…小平はひそかに心に秘めていた。この新聞部ミツバチクラブを卒業する時に、女王蜂として巣立つ彼女に告白しよう。もう絹重が女王蜂に選ばれることは、誰もが黙認だった。

その頃、隣の新聞部部室では…今度は加藤田が入って来た。あまりにもホテイアツモリ荘に帰ってこないものだから、心配した史郎に様子を見てこいと言われて戻ってきたのだ。

加藤田「あまりにも遅いから迎えに…」

そこまで言うと車を見て口あんぐり。他の人たちと全く同じ反応だ。
加藤田「これ、校長が見たら卒倒するぞ!」

小池と岩波も後に続いて来たが、同じく口あんぐりだ。

梅子「だったら卒倒しないように徐々に気づかせましょう」
史郎の声「みんなどこにいるんだ!?」
麻子「ダディーの声だわ!」

メンバー、慌てだす。史郎も一緒に来ていたのだ。史郎にだけはどうしても気が付かれたくはない、どうしよう

辰雄「おい、ダディーさんを呼んだのは誰だよ!?」
麻子「きっと私達がいないから心配して探し回っていたんだと思うわ」
二郎「確かにご時世もご時世だしな」


麻子、平静を装った大声で史郎に聞こえるように叫んだ。

麻子「新しい駐車場だわ!」
辰雄「麻子!」

文芸部部室にいる絹重は、小平にここで待っていてと肩を叩き、新聞部部室に戻っていった。文芸部部室はストーブのおかげでだいぶ暖かくなってきており、小平の顔にも赤みが戻ってきていた。

絹重「どうしたの!?」
麻子「ダディーが私たちを迎えに来たのよ!」

その言葉に絹重も慌てだす。この惨状を史郎が見たらどう思うだろう?彼のショックでゆがむ顔を想像するととても心が痛む。
できるだけ彼にショックは大きく与えたくはない

絹重「お願い、少し時間稼ぎをして!」
麻子・辰雄「We got a dude」

そういうと麻子と辰雄は部室を出て校庭の端に行った。雨はさらに激しくなっており、窓から遠くに見える史郎と二人は見る見るうちにびっしょりだ。
二人が史郎と合流すると、史郎は真っ青な顔をして二人を抱き締めた。

史郎「心配したんだぞ!こんな夜中に何をしていたんだ!」


史郎は声を詰まらせる。しかし辰雄と麻子は感動どころではない。まるで演技でもしているかのように一語一語が棒読みだ。

史郎「折角会えたお前たちまで事件に巻き込まれてしまったかと…無事でよかった」
辰雄「あ…あぁ、無事だったよダディー」
史郎「他の子もみんないるか?無事か?」
麻子「えぇ…みんな無事よ。めちゃくちゃにね」

絹重がそこにとても困った顔でやって来た。黙って部室にいる事が出来なかったのだ。

絹重「史郎さん…」

史郎は絹重を見ると絹重の事も思いっきり抱きしめた。史郎にとって絹重も娘と同じくらい大切な存在だ。なぜだろう…なぜか絹重を見ていると遠い親友を思い出してならなかった。

史郎「絹重さん!君も無事だったんだね!」
絹重「えぇ、私達はお陰様で無事です。でも…」
史郎「でも?」

絹重、言いにくそうにもごもごと口を動かした。

絹重「新聞部の部室が無事じゃないの」
史郎「どういう事?」
絹重「はちみつ漬けの車がガラスの海に浮かんでて…」
史郎「はちみつ漬けの車が…ガラスの海?」
絹重「えぇ…」


辰雄と麻子も頷く。絹重自身もあの惨状をどう説明したらいいのかわからない。史郎はさらにちんぷんかんぷんな顔をしているがやがて穏やかに頬微笑んだ


史郎「分かった!いたずら新聞のネタをまた夜な夜な考えていたんだろ。君も本当にジョークが好きだな」

史郎以外の三人は引きつった顔を見合わせる
辰雄「いや…」
麻子「そうでも…」
絹重「ないかも…」

辰雄がついに重々しく静かな口調で上目使いに史郎を見て、閊え閊えに言った

辰雄「ダディーさん、とにかく部室に見せたいものがあるんだ。一緒に来てください」
史郎「僕にか?」
辰雄「衝撃的なサプライズがね…」
史郎「何か僕にプレゼントか?」

史郎は何も分かってはいない。にこにこしながら考えた。

史郎「何かの記念日だっけ?いや!」

思い立ったように満面の笑みで手を打つ

史郎「そうだ!あれだろ!?今日僕は、君たちが明日の朝部室を使いやすいようにきれいに床の油拭きをして箒をかけておいたんだ!文芸部の部室も一緒にね」
三人「掃除…」
史郎「なかなか大変だったんだぞ」


三人はさらに焦りと申し訳なさを浮かべた顔をした。拷問だ…こんなに喜ぶ史郎を落胆させ、これから地獄に突き落とす事になる。
とても胸が痛んだ。

史郎「君たちが一生懸命に作業してるって事がよくわかったよ」

三人はすっかり青ざめて口を閉ざした。涙の前の笑顔だ…見ているのも痛々しい。


史郎「内緒にしておこうと思っていたのにひょっとしてバレてた!?それで僕にお礼のサプライズとかか!?」
麻子「いや…それも」
辰雄「違う…」
絹重「かも…」

史郎はまだとても嬉しそうにワクワクしている


史郎「楽しみだな…」
麻子「涙の前の笑顔が胸に痛いわ…」

三人は史郎と共に部室に向かって徐々に足を進めていく。校門から中に入って廊下を歩き、曲がって…史郎はニコニコして開いているドアから部室に入るが、入った瞬間に目を見開いて硬直した。

史郎「この部室は何だ!?」

ショックを起こして呆然とする史郎を辰雄と絹重が支える。史郎は今にも倒れそうなほど真っ青になった。


史郎「床を掃除したばかりなのに!」

麻子は即座に一眼を構えてのすごい表情の史郎を写真にとる

麻子「ダディー、とってもいい表情ね」
史郎「みんな無事にいるか!?ケガはしてない!?」

史郎はそれでもメンバーの事を心配している。こんな素敵な人の心を落胆させて裏切るだなんて

全員「無事です!」
史郎「あぁ、本当にこの学校は何なんだ!?この新聞部はどうなっているんだ!?床を磨いたばかりだというのに…責任者はどこ行った!責任者は誰だ!」
麻子「ダディー、もう一枚撮らせてね」

麻子は何やら何も悪びれる様子がなく、史郎の顔を写真で撮る。史郎は無表情のままでとても落ち着いた静かな声を出して麻子を見る。

史郎「麻子やめなさい、僕は今ものすごく真剣なんだ!」
麻子「笑わなくてもいいの。自然なままでいいの、私は学生新聞のネタが欲しいだけだから」

史郎、ショックを起こしながらも再び全員に目を向ける。惨劇の場にいなかったもの、みんなの無事を喜ぶように笑って辰雄の背を強く叩いた。

史郎「君たちには失望したよどうしてこんな真似をした?運が悪ければ怪我をしていた…いや、最悪亡くなってしまっていたかもしれないんだよ」
辰雄「ダディー…ごめんなさい」

史郎は軽く笑って辰雄の頭をなでる
史郎「全く…辰雄はそんなとこまでもが僕の若い頃にそっくりだ」

そうして思い出すように雨の降る空を見上げながら懐かしそうに話す

史郎「僕も今の辰雄と同じくらいの時に似たようなおいたをやらかしてね、これは兄さんや勉に殺されると思って家出をしたんだ。今となって考えてみれば、それがいい解決方法ではなかったと分かるけどね。あの頃は本当に何をやってもダメな僕が本当に嫌で仕方なかった」

再び麻子と辰雄に顔を戻して二人を真顔で見つめる。この時の史郎の顔は父親の顔だった。辰雄も麻子もそれを真摯に受け止めた。

史郎「二人には重いお仕置きを受けてもらうよ」
辰雄「覚悟しています」

辰雄も重い顔をして言葉を受け止める

辰雄「僕はもうダディーからハグもキスも受ける資格がない。だからどうか特大の重いお仕置きだけ与えて下さい」
史郎「辰雄…」

史郎は辰雄の事も強く抱きしめてこう言った

史郎「僕はたとえ、君が何をしようともハグやキッスをするよ」

辰雄の瞳は史郎の優しい言葉で涙にぬれる

辰雄「なぜですか?」
史郎「君がどんなに酷い間違いを起こして、僕もどんなに腹が立ったとしても、君を憎むことはないし必ず君の事を許す」
辰雄「なぜそんな事が出来るのです!?僕はダディーの苦労を台無しにしてしまったし、全てを取り返しもつかないほど破壊してしまったのに!?」

史郎はこれ以上ないほどに優しい笑みをこぼして辰雄を見た。

史郎「それは、愛しているからだよ」
辰雄「なぜこんな事をした僕を愛せるのです!?僕は全てをめちゃくちゃにしてしまったんだ!」
史郎「辰雄、よく聞いて」

史郎は辰雄の両肩を持って言い聞かせるように辰雄の目を覗き込んだ。辰雄の子供の様に涙で濡れた瞳も志郎を凝視する。

史郎「いいかい?君が台無しにしたものはただのものでしかないんだ。また帰るし、直すこともできる。でも辰雄や麻子、絹重さんたちを失ってしまったら?もう他にはいないんだよ。代わりになるも
のなんてどこにもない」

辰雄はその言葉を聞いて笑い泣きをし出した。史郎も涙をためて辰雄を子供の様に撫でる。

辰雄「そんな事…考えた事もなかったよ」
史郎「僕は毎日そう思っているよ」

全員を見渡す

史郎「麻子に絹重さん、そしてもちろんここにいる全員の事をね」

麻子も史郎に駆け寄って強く抱き着く

麻子「ダディーありがとう。大好きよ」
辰雄「僕も」

史郎は二人を抱きしめながら絹重を見て、絹重にもおいでと手招きする。絹重、遠慮がちに史郎に近づくと史郎は絹重の事も強く抱きしめる
史郎「二度とこんな真似はするんじゃないよ」

史郎、辰雄の頭を小突く

辰雄「はい…」

そこに二郎も近づいてきて辰雄の背中を強く叩く
辰雄「お前は何だよ?」
二郎「この甘えん坊!」

辰雄、史郎の手から離れて逃げる二郎を追いかける

史郎「みんなは早く家に戻れ。ここは僕ら大人が何とかする」

辰雄と二郎は息を切らしてシーンと静まり返った屋上入口でやっと止まる。二郎は辰雄の肩に手を回してポンポンと叩いた

二郎「お前はわざとやったわけじゃないから大丈夫だよ。不安と恐怖で気が動転しちまっただけ」

とても申し訳なさそうに辰雄の肩を抱いたまま

二郎「この件で責任を取るべきは僕だったのに悪かったな…お前はまだ運転資格さえ持っていないのに」
辰雄も弱弱しく笑う

辰雄「お前らしくない事言うな」

一階では史郎を残して子供たちはそれぞれ帰っていく。その後、史郎と織重をはじめ多くの大人が集まって残骸を処理している。その日の夜はものすごい雨でみるみる大洪水になっていった。

校長の声「これは何という事だ!」
担任の声「あのバカ生徒ども…これは何か処罰を下さないといけんな」
織重の声「どうか大目に見てください!確かにあの子は悪い事をしましたがまだ子供です!どうか、どうか今回だけは目をおつむり下さい!」
担任の声「ここまでの事があって目をつむれですと!?」
校長の声「それはけしからんことです!」
史郎の声「二郎君はともかく、辰雄君含めあとの者はまだ未成年の子供です!どうか手加減をなさってください」

校長、落胆のため息

校長の声「優秀だと思っていた小平君と平出君、そして春原君のお兄様までがこの件に加担しているだとは…ショックが大きいよ」

翌朝のホテイアツモリ荘

あの大雨は上がり、嘘の様に気持ちの良い晴れ空が広がっていた。しかし新聞部ミツバチクラブの顔はさえなく、心なしかげっそりとやつれているように見えた。九人の心はとても曇っているが、それでも登校の準備をしていた。

絹重「流石に気が重いわ」
麻子「いつまでも逃げ切れないわよ。ここは早いところ自首しましょう。その方が楽だわ」
絹重「そうよね。あぁ…進学なんてとうの夢になってしまったわ」

辰雄は落胆する絹重の肩を抱いて励ますように囁いた

辰雄「絹重さん、まだ望みがないわけでもない。君は優秀な生徒だ。進学の道はいくらだってある!」
絹重「辰雄さん…ありがとう」

絹重は悲しげにふっと笑う

絹重「でもいいの…どうせ私、中学には進学しないつもりだったもの。小学校を卒業したら働くつもりでいたの。いずれ中学卒業程度の認定試験でも受けるわ」

それを聞いた辰雄は目を丸くして大きく首を振った

辰雄「そんな事言うなよ!駄目だ!君は新聞記者になるのだろ!」
絹重「えぇ…」

絹重は小平の方に目を移す。彼も布の鞄を肩にかけたまま抜け殻の様に真っ白になって立ち尽くしていた。彼も相当ショックが大きいのだろう。彼にも絹重と同じように新聞記者になるという大きな夢があった。そのために小さい頃から彼は必死で勉強をしてきたのに、今まさにその彼らの努力がら露と消え失せようとしているのだ

絹重「小平君…」
小平「今まで必死に頑張ってきたこの努力は何だったの?これですべてが水の泡だ」

小平は今にも泣き出しそうだった。こんなに辛く、哀れな彼の顔を見るのは絹重にとって初めてだった。小平が人前で涙を流すだなんて…何か重くチクチクしたものが絹重の心に突き刺さる。絹重はそっと小平を抱き寄せた。


絹重「あなたは悪くないわ。この件ですべての責任を負わなくてはならないのはこの私なの、みんなには決して責任をかぶせたり
はしない」

小平はその言葉にハッとして顔を上げ、涙を拭うととんでもないと言う様に絹重を見た。

小平「そんなのはだめだよ!僕らも共犯なのにどうして君だけが犠牲になる必要がある!?」

涙をふるって大きく首を振り、いつもの強かな小平の顔が戻ってくる。絹重を守るために全力になって動いている彼の顔だ。

小平「君だけが責任を負って罰を受けるというのならば、僕だって君と一緒に火の中に飛び込むよ!」
絹重「私は大丈夫よ、あなたは自分の心配だけをして」
小平「君だけに責任は負わせられない。僕も共に罰を食らう」
絹重「そんなのはだめ!私だけで十分よ!あなたにだって、みんなにだって夢があるのでしょう!みんなの将来まで失って欲
しくはないわ!」
小平「そうやって…」

口を開く小平の目にはまた涙がにじんでいた。今度は自分のための涙ではなく、絹重のために溜めた涙だった。

小平「君はいつも自分の事を犠牲にして、僕らの事ばかりを優先にする」
絹重「小平君?」
小平「君の計画を助長したのはこの僕だ!そもそも一番の原因は君に、昭和史に残るでかいいたずらをしろと言った僕なんだ!だから僕にも責任をかぶる義務がある!」


それを聞くと九人のメンバーたちも 口々に「私も、僕も」と叫んで絹重をかばった
絹重「みんなありがとう…」

この仲間の言葉に大きく励まされた。新聞部ミツバチクラブに入り、この仲間と出会えた事を今日以上に良かったと、誇りに思えたことはいままでにあっただろうか。みんなの支えに絹重は感謝をした。しかし、そんな仲間だからこそ、この騒動の犠牲に巻き込んでしまう事などできない。絹重は一人で収拾をつけると決心し、力強く強かにいうと、勇ましくヒュッテを出て行った。

絹重「でもこれは私が企画した問題よ。みんなを巻き込む事なんかできない。行ってきます」

他のメンバーも絹重を追いかける様にヒュッテを出ていく

絹重の声「おぉわがはちみつよ、新聞よ!今日でお前たちともお別れか」
麻子の声「絹重さん嘆かないで。ビーチボーイズが待ってるわ」
絹重の声「あぁ、そうだったわ!」

小平がミュージカル風にオペラ歌手の様に美しい声で踊りながら歌い出した。小平は見かけによらずにボーイソプラノの様な声だ。その声に他のメンバーも便乗した。

小平「♪サンセット~サンライズ~」
九人のメンバーの声「♪サンセット~サンライズ~」
史郎「♪サンセット~サンライズ~」

史郎は徹夜明けだ。一晩中瓦礫の片づけをしていたために彼の顔はクマができ、すっかりやつれたようになっている。何度もあくびをしながらもいつもの様に念入りな油拭きをしていた。
富士見の高校の校門

九人が校門前に到着するが門は締まっていた。学校はまるで誰もいないように、または廃墟の様に不気味に静まり返っている。

絹重「どうしたのかしら?いやに静かね」
麻子「昨日の事がきっかけで今日は閉校?」
梅子「それとも深刻な集会会議でみんな私達を待ってるとか?」
小池「いずれにせよ、いい事ではなさそうだね」
小平「とにかく入ろう…お罰し覚悟で」
加藤田・岩波「了解」


辰雄と二郎も覚悟をしたように顔を見合わせて頷く。
九人は学校に入っていくが校舎に入ってもどの教室にもやはり誰もいなかった。静粛の中、雨上がりの朝日が大きな窓から差し込んではガラスに反射し、校内中に明るい光を呼び込んでいる。遠くではカッカッと振り子時計の秒針とコツコツと振り子の動く音、そしてポツンポツンと蛇口から水滴が垂れる音だけが聞こえるだけ。誰の声も聞こえないし、人の物音もしない…全くと言っていいほど生きとし生ける者がこの施設内にいるという雰囲気がなかった。九人の生徒は、学校中を見渡すように歩き回ったが、やはり誰もいない。荷物や靴すらない…教室も職員室も。やはり今日は誰も登校をしていないのだろうか?いや…メンバーには別の仮説と不安も頭の中に浮かんできた

小池「やっぱり誰も来ていないみたいだね」
梅子「先生たちすらいないだなんて…」
絹重「何だか不気味ね」
加藤田「何だか凄く嫌な予感がするのは僕だけ?」
小平「いや…僕もだ」

九人は不安げに顔を見合わせて、眉間にしわを寄せた。

数日たった校内はどこを歩いても木の床はびしょぬれで、やっと水が捌けてきた様子だった。天井からは常に水滴が落ちてきている。相変わらず生徒や教師は誰もいない。