「今回は札幌に帰るけど、俺は絵里の事を諦めたわけじゃないからな!北大で…、北大で待ってる!絵里、指切りしよって言っただろ!覚えているな!?信じてる!」
僕はカウンターに千円札を叩きつけると、お釣りももらわず店を出たんだ…。

あれから時は経ち、定期的に絵里にLINEを送っていたが、既読はついても返事は来なかった。
僕は絵里を信じながら勉学に励み、時折思いの丈をぶつけて、返ってこない返信を待った。
そして二年半後、僕は無事に北海道大学農学部に合格した。
残雪に萌え芽生えた新緑が早春の光を浴びて輝いていた。

秋宮悠人―絵里!俺、北大農学部に合格したぞ!あの時の指切りの約束守ったからな!

すると、数分後に既読がついて、

西野絵里―おめでとう。…わたしも看護学科合格した…。

はじめて絵里から返信が返ってきた。
秋宮悠人―絵里!ようやっと返信してくれたか!おめでとう!ありがとう!北大で逢おう!
しかし、その後のLINEにはかつての通り既読はついても返信は返って来なかった…。
『絵里は今は僕に逢いたくないみたいだけど、僕との約束は守ってくれた。きっと…、きっと逢える!』
僕の胸は高鳴った。

だが、僕は入学式で現実を知ることとなった。
『人の海だ…』
いくら見渡したって絵里を探し出せるはずもない。僕は途方に暮れた。そうこうしている内に都ぞ弥生を最後に入学式が終わり、その後クラスのオリエンテーションが行われたが、その時の事は意識にも記憶にもない。
とにかくオリエンテーションが終わって家に帰ろうとすると、
「おい君、夜のコンパ来るよな!?」
人のよさそうなクラスメイトの一人から僕は新歓コンパに誘われたが、
「いや僕そういうのはちょっと…」
断ろうとしたその時、
「そういうところから手がかりを得られるかもしれないでしょ?」
「…えっ…?」
言葉の先に目を遣ると、痩せた、端正で鋭利だがどこか生気と感情が感じられない表情の女性がこちらを見ていた。
「君は来てくれるかい?」
クラスメイトがその女性に声をかけると、
「ええ、行くわ…」
と言った後で、
「あなたも来なさいよ」
淡々とした鷹揚のない声は僕に語りかけた。
それから数時間後、カネサビルの『つくし』ではテーブルに並べられた御馳走、ビールと焼酎の群れを前に喧騒な宴会が繰り広げられていた。
「…やっぱ来るんじゃなかったよ…」
店を出た先のトイレで胃の内容物もろともアルコールを吐き出して愚痴を並べお手洗いを出た僕に、
「あなた、誰かを探してるでしょ?」
例のクラスメイトの女性が感情のない声が聴こえた。
「どうしてわかった!?」
図星をつかれ、酔いも醒めた僕に、
「女の勘って鋭いのよ」
「ああ…」
「…ちょっと抜け出さない?」
「うん…」
相変わらず抑揚のない声は提案した。
それから十分後、僕はカネサビルのバー『ばっぷ』で土屋志帆と名前を教えてくれたクラスメイトと珈琲焼酎を呑んでいた。
「…というわけで、北大で絵里を捜してるんだ」
「ふーん、で、アテはあるの?」
「あ、いや…」
「北大生はね、全学部全生徒が一年生の時、高等教育推進機構センターで学部教育に縛られない多種多様な学問を学ぶの。いわゆるリベラル・アーツね。だけどもちろん学部ごとに違いがあって、看護学科だったら当然医学や保健科学系の授業を多く履修しなきゃならないし、したいわよね…」
と言って土屋志帆はおもむろにスマホを取り出しなにやら調べ事をし始めた。
「そうか!」
「そっ。看護学や医学、保健に関する授業を履修すれば…出た!『エイジングとヘルスケア』と『医学概論』ね…。この授業なら、十中八九彼女に逢えるわよ…」
「ありがとう!土屋さん!俺、その授業必ず履修するよ!」
「農学部が医学保健系の授業に一人じゃ心細いでしょ。わたし、一緒に履修してあげる…」
「ほんとなにからなにまでありがとう!でもどうしてそこまで!?」
「植物生態の研究で食べていこうと思っているけど、人間生態の興味深いデータを集めるのも面白そうなのよね…」
「…変わった子だね…」
「データを集めるのが趣味なのよ…フフフ…」
土屋志帆がはじめて表情を変えた。

「いないじゃないかよ!ちくしょう…!」
「まだ講義が始まるまで十分もあるじゃない…、落ち着いて待ちなさい…」
『医学概論』の授業で、教室とその出入口を一番よく見渡せる最後尾の席から絵里を探して狼狽する僕に土屋志帆が諭したその時である…!
「あっ…絵里だ!でもあの時の男がまたいる…!なんで北大まで…!?どうなってんだよ!?」
間違いない。釧路の時僕と絵里の間を邪魔したガタイのいい男が北大でも絵里と一緒にいた…!
「あの時の男って、あなたが釧路に行った時にいた人ね…。まあ、まずはビンゴ、問題はこれからね…まずはじっくり偵察して…って、あなたどこいくのよ!?」
僕は我を忘れて席を離れた。
「俺だよ、俺。絵里。…この授業受けてたんだ…。やっぱり約束通り北大進学してくれてたんだね。逢えてうれしいよ」
僕は前列の席に座った絵里に必死で絵里に接触を試みた。
すると絵里の隣にいた例の男が僕を突き飛ばした。
「…お前!?あの時の…!?わりい、あいつとつきあってるの俺だから。昔の男かなんだか知らねえけど俺の女に手ェ出すんだったら殺すぞ!」
僕も腹が立って、
「ふざけんじゃねえよ、こっちは幼稚園の時から北大で一緒になろうって約束したんだ。そうだろ、絵里!」
すると、絵里はうつむいていたが、
「もう私に関わらないでって、あの時言ったでしょ…」
絞り出すように小さく声を放った。
「…絵里、ほんとに俺と逢いたくなかったら、LINEで北大に合格したって俺に返信してこないし、第一、他の大学の看護学科だってよかったろ…」
「悠人君はそうやってわたしの気持ちをぐちゃぐちゃにするのね…。もういや!」
絵里は泣き出した。すると、
「減らず口ききやがって!」
男が僕を突き飛ばした。
「…てめえ!なにしやがる!」
床に尻もちをついた僕はなんとか立ち上がり男に食って掛かったが、その時、教室に教授らしき人が入ってきて、僕は後ろから志帆に肩を叩かれ、
「ほら、大立ち回りはいいけれどちゃんと授業も受けなきゃね…まずは戻るわよ」
渋々授業を受けだした。

こんなことから始まって、それからというもの、僕は幾度となく絵里と二人きりで話し合う機会を待ったが、まず絵里は授業の時にしか大学に現れず、その時には常に必ず行きも帰りも授業中も例の男の護衛がついていた。
気づけば北大を覆う一面の緑が夏のギラギラした太陽に照らされていた。
『…絵里と二人きりになるためには、まずあいつをどうにかしないと…!』
「あいつだって人間だ。話し合えばわかってもらえる自信はあるんだけど、僕の話なんて全く聞こうとせずに『ぶっ殺す』とかそんなのばっかりで、もうどうしたらいいんだ…!?…でも、どうにかしないと!」
僕が志帆に相談すると、志帆も珍しく少々考え込んで…、
「…うーん、理由はわからないけど強情で全く説得は効果なさそうだし、力づくってなると、ガタイが全然違うでしょ…。まともにぶつかったら勝ち目はないわね。まあ、でも…」
「でも…?」
「殺すぐらいの覚悟があればなんとかなるかもね…」
「覚悟か…」
ある日志帆と、例の男が一人で高等機能教育センターの二階、北部図書館につながる渡り廊下を歩いているところをのそばのベンチで待ち伏せて、僕はあいつに問い詰めた。
「絵里に何があったんだよ?」
「うるせえなあ、まとわりついてきたらぶっ殺すって言っただろ!」
男がそう言って僕を見た時、僕はジャケットの下に紐を縫いつけ、隣りにいる志帆と男にだけ見えるようにジャケットを軽く広げ、くくりつけた包丁に手をかけた。
「真実を話してくれないんだったら、悪いけど僕がお前を殺す!」
「ちっ…。ちょっと学食までツラ貸せや…。その物騒なのはカバンの中にでもしまっとけ。…俺やお前に包丁刺さろうと全然構わねえけどお隣の綺麗な嬢ちゃんに傷をつけるわけにはいかねえだろ!…ったく、なに考えてんだか…」
「へえ、意外と紳士なのね。ちょっとだけ見直したわ…」
表情は変えていなかったが志帆が珍しく驚いていた。
「Boys Be Gentlemanってな…」
「…ふーん…」
志帆は男を算段するように見つめた。

「俺の名前は石田孝雄だ、覚えとけ」
男は北大学食テッパン名物の牛トロ丼を口内に掻き入れ、ピリカラーメンを豪快にすすりながら語った。
「で…お前は絵里のなんなんだよ…!?」
「彼氏さ…と言いたいところだが、ただの同級生だよ…、いや、ただの同級生でもねえなあ…、正確に言えば用心棒だ…。」
「用心棒…?」
志帆が聞き返すと、
「そうさ、お前みたいな悪党から絵里を守ってる」
そう言って男は両手で豪快にラーメンを飲み干した。
「…ともかく、絵里になにがあったんだ!?話してもらおうか…!」
「嫌だと言ったら?」
僕は包丁をしまい込んだバッグに手をかけた。
「おいおい、ブタ箱行きだぞ、お前…」
「…それぐらいの覚悟は出来てる…」
「…わかったよ…ただしな、これからお前に話す事は俺を殺すぐらいの気持ちじゃ甘ったるいかもしれん…。本当に覚悟は出来てるんだろうな…!?」
僕は息を呑んだが、
「ああ…」
「…しょうがねえ、じゃあ教えてやろう…」
石田は一呼吸息を置いた。だけどその微かな時間は僕にとっては数時間にも、数十時間にも感じられ、僕は息を呑んだんだ…。
「実はな、絵里はな、高校ン時、癌でシキュウとランソウをゼンテキシュツしたんだ…!」
一瞬、石田がなにを言ったのかわからなかった。