翌朝、欠伸(あくび)をしながら居間に行くと。
 サンゴさんの姿があった。
 いつもは畑仕事で早朝から家を出てしまっているというのに。

「姫君に見せたいものがある」
 バニラを連れて、サンゴさんについて行くと。
 建付けの悪い戸をぐいぐいっと力任せにサンゴさんが開けたので、どおんっと凄い音がした。
 埃っぽい部屋には年季の入った箪笥が左右に置かれてあって。
 サンゴさんは、正面にある物体にかけられていた布をばっと取った。
 アップライトピアノが現れる。
「……」
 私はバニラを見た。
 バニラは静かに頷く。
 やはりこの家にピアノはあったのだ。
「使っていいよ」
 サンゴさんが頭をぽりぽりかきながら言うので、「えっ!?」と驚く。
 昨日の夜、カイくんが提案していたのに渋い顔をして「駄目だ」と言っていたのに。
「あの…このピアノは大切なものなんじゃ?」
 サンゴさんの容姿に少しは慣れたきたとはいえ、未だに直視できない。
 失礼だって頭ではわかっているのに…
「大切なものだったら、埃かぶってこんなところに置かない」
「えーと…、大切な人からのプレゼントなのでは?」
「大切な人って誰?」
 質問を質問で返されたので、うぐっと舌を噛みそうになる。
 サンゴさんが自分で買ったようには見えなかったし、昨日のカイくんとの会話からして。
 誰にも触らせたくない…気がした。

 恐る恐るピアノに近づくと年代物ではなかった。
 放置されていたとはいえ、製造されてからそんな月日は流れてないように見える。
 ゆっくりとピアノを撫でる。
「大切な人というのは…例えば、ご両親や恋人…おっ」
「お?」
「奥様と…か?」
 言葉にしてみて。結婚していたら、奥さんと暮らしてるに決まっているよなと気づく。
 そんなのいねえよ…と怒鳴られるかと思ったけど。
 サンゴさんは黙った。
 これは、もしや。恋人がいて…思い出の品なのか。
 サンゴさんは鍵盤蓋をそっと上げると、ラの鍵盤を叩いた。
「大切な方からのプレゼントだからこそ、誰にも近寄らせたくなかったんで…」
「妹からのプレゼントだ」
 言葉をかぶせてサンゴさんが言う。
 サンゴさんはいつだって半袖姿で、マッチョな腕がやたらと目に付く。
 人差し指で強くラの鍵盤を叩く。
「いもうと…」
 ふと、血のつながらない妹さんで、許されぬ恋を…?
 勝手に妄想してしまう。
「お兄ちゃんのリハビリにって勝手に置いていった」
 どうやら、恋物語ではなかったようだ。

「このピアノを見ていると、片腕になった頃のやりきれない気持ちを思い出すから嫌だったんだよ」
 鋭い目でじっとサンゴさんがこっちを見る。
 カイくんと喋っているときのサンゴさんは幼い表情を見せるけど。
 カイくん以外の人間には鷹のような鋭い目を向ける。
「では、弾かない方がいいんでは…」
「いや、あんたに弾いてほしい。泣き言一つ言わず、頑張っているあんたに」
 サンゴさんの言葉に。
 いや、泣き言や愚痴なんて毎日こぼしているけどなと心の中で突っ込む。
「ただ、調律してねえから、音がぼやけてる」
 ドレミファソラシドと滑らかに弾いたサンゴさん。
「大丈夫ですわ! マヒル様はピアニストだけでなく、調律師でもありますから」
 それまで黙っていたバニラが言った。