君がくれた幸せ

 空はいつの間にか灰色の雲に覆われ、月や星どころか今にも雨が降り出しそうな様子。

 そしてそのうち雨は降り始め、すぐに滝のような勢いに変わっていった。

 彼の背で揺られていた娘は時々自分の無事を示すように声を出していたが、次第に口を利かなくなった。
 異常に思った彼はすぐに彼女を肩から降ろし、声を掛ける。

「おい、どうした…!?」

 見ると彼女の呼吸は荒く、ぐったりとしていた。

 無理もない。
 売れっ子だった彼女は幼い頃に見世物小屋に拾われてから天性の才能を買われて可愛がられ、ほとんど不自由無く生きてきた。

 そんな彼女がこうしていきなり小屋を逃げ出すなど、ここまでの無茶をしたことなど今までにあっただろうか。
 逃げ出すのすら、彼女が散々考えた末の事に決まっている。

「…平気よ…バラドが、私と一緒に…いてくれるなら、ね…」

 かろうじて彼女はまだ口は利ける状態だが、これ以上無理をさせればどうなるかは分からない。

 よく見れば顔色はかなり悪く、少し休んだほどでは済まないかもしれないと思った。


 そこまで金目のものなど持っているはずもないため、医者に診せる事も出来ない。
 おまけに揃って逃げ出してきた身の上。人気者である彼女も、顔も名も知られている可能性は高い。

 彼にはもうどうすることも出来なかった。

「…あぁバラド…ずっと一緒にいたかった…もし生まれたのが娘だったら、私と同じ名前にするわ…。絶対に…覚えておいて…」

 苦しげなまま彼女は言う。

「もう喋るな…!早くお前だけでも安全な場所へ…」

「っ、お願いバラド…私の名前を、呼んで…?」

 彼はそれまで一度も彼女の名を呼んだことはない。
 滝のような大雨が降りしきる夜。
 彼はその時、たった一度だけ彼女の名を呼んだ。