「あら、おかえりなさい。早く帰って来なさいってメールしたんだけど、見てない?」

「あぁー…なんか来てたね。急ぎの用でもあったの?」

午後9時30分。働いている書店から車で10分弱。9時にお店を閉めて、爆速で片づけてこの時間に家についているのだから速いと思うが。

「えぇ!えぇ!急ぎも急ぎっ‼大至急よ!さっさと部屋に行って着替えて来なさい!そしたらリビングにきてちょうだい!」

顔を興奮で赤く染めた母親が早口でまくし立てる。この格好のままじゃダメなのだろうか?別に仕事場の制服ではないし、普通のパーカーにジーパンだ。そんな偉い人でも来ているのだろうか。
頭に?を浮かべながら、二階の自分の部屋に行こうと脚を踏み出したときだった。

「おばさん、そろそろ帰る…ね…って、もしかして…桜?」

リビングの扉の音と共に聞こえてきたのは、中低音の柔らかく甘い声。官能的過ぎず、かといって可愛すぎないその声色は、最後に聞いた時より、今は少し低く掠れている。きっと素に近いからだろう。

「そうっ!この子ったらやっと帰ってきたのよ~。いつもはこんなに遅くないんだけど、今日に限って遅番が入ってたみたいで、この時間に。ほらっ、薫くんよ。覚えてるでしょ?」

階段に脚をかけようとしていたのを、下して、ゆっくり後ろを向く。

「……もちろん、覚えてる。久しぶりだね、薫くん。」

「…久しぶり、桜。」

そう答える彼は記憶の中にある6年前の時より、さらに男らしくなっていた。あっちも仕事帰りなのか、しわのないスーツをピシッときめて、馬鹿長い脚をよりいっそう際立たせている。肩幅も広く、服の上からでも相当鍛えているのがわかる。しかし、顔に目を向けると、彼の母親がイギリス人ということもあって、彫刻のように整った顔立ちだった。綺麗な金髪の前髪の間から覗く碧眼。まっすぐ通った鼻筋に少し大きめの口。シミやニキビなど無縁の色白の肌は学生のころから羨ましくて仕方なかった。



「じゃぁ、私たちはお隣の橘さん家にいるから、あとは若い二人でごゆっくり~」

何故かうきうきな母は少し心配そうな父を連れて外に出て行ってしまった。ちなみに橘とは薫の名字だ。

「……日本に帰ってきてたんだね。」

リビングにあるテーブルにコーヒーを置きながら、彼の向かいに座る。突然2人にされても何を話していいか分からず、無難なものしかでてこない。

「うん、一昨日ね。本当はすぐにこっちに来たかったんだけど、忙しくて…。やっと落ち着いたところ。」

そういって笑う彼の笑顔はあの頃となんら変わらなくて、なんだか懐かしかった。

「またすぐロンドンに戻るの?」

「ううん、今回はしばらくこっちにいる。」

ふーん…とじゃぁ、会う機会も増えるのか…なんて考えながら、熱いコーヒーを口に含む。

「……ブラック、苦手じゃなかったっけ?」

「んー?あぁ、今は飲めるようになったんだよ。元カレがコーヒー好きでだいぶ鍛えられたんだ。」

「へー…。」

2年前に別れた彼の事を思い出して、自然と笑みがこぼれる。彼には感謝していた。こんなに美味しい飲み物がこの世にあるんだと教えてくれたのだから。今でも定期的に彼が見つけた美味しいコーヒーを入れる喫茶店やカフェに連れて行ってくれていた。

「でも、おばさんもおじさんも喜んだんじゃない?薫くんが帰ってきて。実家にいるんでしょ?」

昔の事を思い出したら、なんだか緊張も和らいで口も回るようになってきた。

「いや、別に部屋借りてる。」

「え、そうなんだ。職場からここ、遠いの?」

「車で15分ちょっとくらいだと思う。」

「?そうなんだ。」

それだったら、わざわざ部屋なんて借りないで、実家から行けばいいのでは?なんて思ったけど、他人がどうこう言うのもあれかと思って言わずにいた。
まぁ、きっと彼女の1人や2人、いるに違いないだろうしそしたら部屋に呼ぶだろうから、実家だとなにかと不便なのだろう。
うんうん、とひとり納得していると、

「それで…桜にお願いがあるんだけど。」

「お願い?」

持っていたカップをおろして、妙に真剣な表情でそのお願いは出てきた。

「僕の家に一緒に住んでくれない?」

両手で持っていた猫のお気に入りのマグカップを落とした。