──時は一ヶ月前に遡る。

 アリサには婚約者が居た。
 名を、ウィリアム・テラーという。

 流行の最先端を自負するおしゃれ好きで、顔立ちは整っており、社交界でも浮名を流している色男だ。彼は幼い頃に両親が決めた婚約者で、アリサとウィリアムは週に一度必ずどちらかの屋敷へ訪れ、時間を共に過ごすように義務付けられていた。この日もアリサはウィリアムの家に行き、お茶会で本を読もうとしたのだが──

「アリサ・セレーヌ。君に婚約破棄を申し込む」
「…………はい?」

 東屋でアリサを待っていたのは婚約者の冷たい視線だった。
 挨拶もなしに告げられてアリサは目を点にする。
 冬の冷たさを残す春風が、寒々と足元を駆け抜けていった。

「婚約破棄……理由を聞かせて頂いても?」
「僕は真実の愛を見つけたんだ。君よりよっぽど素晴らしい女性さ」
(……あぁ、やっぱりそっち(・・・)を選んだんですか)

 ウィリアムは一年ほど前から浮気をしていた。
 相手は子爵令嬢で、ウィリアムと同じ流行や派手なものが好きな女だ。
 自分を家に呼んだ時もこっそり部屋に隠れて睦言を交わしていたことをアリサは知っている。

(……これだから、恋愛は度し難いんですよ)

 アリサとウィリアムの婚約は両家の親が結んだものだ。
 商家として大きくなってきた男爵家が伯爵家以上の貴族との結びつきを求めて婚約を打診してきたのがきっかけだと聞いている。姉二人と違ってひきもり体質だったアリサを両親は喜んで差し、商家の経済力を後ろ盾に得て、男爵家は政治的な結びつきを得た。

 そういった大人の事情すら、恋愛はすべてを台無しにする。
 熱に浮かされたように語るウィリアムを見ていると吐き気がこみ上げてきた。

「わたしは別に構いませんけど。両家の承認は得てるんですよね」
「そんなもの要らないさ。僕たちの愛の前ではすべてが無意味!」
(すでに頭が逝ってましたか……)

 ウィリアムは得意げに胸を張った。

「それより君のほうこそ気を付けたほうがいい」
「……はい?」
「僕のような良い男と婚約破棄した以上、君みたいな根暗女を貰ってくれる家はどこにもないからね。栗色の癖毛はどんぐりみたいだし、顔はぱっとしないし、流行には興味もない、愛想も良くない、ダンスはド下手! 服はダサい! 寛容な僕でさえ君にはうんざりしたくらいだから」
「………………はぁ、そうですか」

 アリサの反応は淡白だった。

 元よりアリサはウィリアムのことが好きだったわけではない。
 おしゃれを強要し、流行がどうだの、派閥がどうだのと興味もない話を振る彼にはうんざりしていた。ウィリアムは好き勝手言ってくれたが、自分の趣味を押し付けてくる男が『良い男』なのかは甚だ疑問である。ウィリアムにとっての婚約者は自分に都合のいいお人形さんなのだろう。アリサは若干、ここまで婚約を維持していたのを後悔し始めていた。

(こんな男のために、読書時間が削られていたなんて……)
「僕が居なくなったら君に待つのはウエディング学園へ行く未来だ。せいぜい楽しみにすることだね!」

 そんな捨て台詞を吐いてウィリアムは行ってしまった。
 彼の屋敷の東屋に取り残されたアリサは平謝りする執事に見送られて屋敷を後にする。あの男を記憶から抹消する魔法でも作ろうかしら、などと考えていた。



 ◆


「──アリサ。お前の学園行きが決定した」

 夕食は家族そろって食べる決まりだから、早速両親に報告した。
 彼女の父──サジャル・セレーヌ伯爵は両肘を机につけ、組んだ手の甲に顎を乗せている。

「学園行き。なるほど」

 アリサはお茶で唇を湿らせて、

「あの、まずは娘の婚約破棄について何か一言……」
「そんなことはどうでもいい!」
「どうでもいいですか。娘の婚約破棄が」
「男爵家との縁など腐るほどあるし、あとで慰謝料もとっちめる。私が問題にしているのはな、アリサ。お前がこのまま図書館で干からびて朽ちていくことなのだよ!」

 だーんっ! と立ち上がったサジャルは言った。

「来る日も来る日も部屋に引きこもって魔法や読書ばかり! 少しは淑女らしくお茶会でも開いてみてはどうなんだ!」
「……お父様もあの人と同じようなことを言うのですね」

 アリサはため息を隠せなかった。
 お茶会、流行、刺繍、ダンス、社交、恋愛、婚約、ドレス、宝石……。
 どれもこれもアリサには興味がない。無価値と言ってもいい。

「お茶会とは言いますけど、興味のない人と交流してどうなるんですか……?」
「アリサ。あなたもこのまま独身で過ごすのは嫌でしょう?」

 優しく声をかけたのは彼女の母、マリアンヌだった。
 マリアンヌは幼子に言って聞かせるように告げる。

「結婚は女の幸せよ。その年で相手も居ないなんて社交界で恥を掻いちゃうわ」
(そうは言いますけど、お母様は幸せそうじゃないですよね)

 そこで言葉に出さないだけの理性はアリサには残っていた。
 喉元まで出てきてかろうじて呑み込んだ形ではあったが。

「恥を掻くのはわたしではなくお母様でしょう」
「アリサ!」

 代わりに別の言葉が出てきてしまった。
 どいつもこいつも手前勝手な理想を押し付けてくるのにうんざりしていたのである。

「私たちはあなたの幸せを思って言ってるのよ!」
「……まぁ、ウエディング学園に行けばその考えもすぐに変わるだろう」

 ウエディング学園。
 そこは男女が恋愛と婚活に励む独身たちの戦場である。

 元々は魔導文明の発展と娯楽文化の普及に伴い少子高齢化した社会をどうにかしようと王国が打ち出した法案で、そこでは『産めよ増やせよ』を信条に、授業という名目で男女がペアになって何らかの作業を行っている。共に作業をすることで相手の性格を確かめ、気に入った者には婚約を申し込むことが出来るし、そのまま成婚するなら卒業、逆に婚約したけど気に入らなければ気軽に婚約破棄が出来るという。

 そう、交際ではなく婚約。
 あくまで『産めよ増やせよ』が大前提。
 やはり恋愛は生殖活動の一環であるとアリサは確信を深めた。

(あそこに行くのと実家に残るの……どっちがマシですかね)

 アリサは少し反抗して見ることにした。

「娘をそんなところに入れるなんて正気ですか」
「何を言う。あの学園はなかなかに評判がいいのだぞ?」

 アリサは嫌そうに唇を曲げた。
 そう、彼女にとってまことに遺憾なことだが、サジャルの言うことは正しい。

 ウエディング学園の設立から十年で出生率は右肩上がりに増加しており、学園を経て絆が深まったおかげなのか離婚率も低い。卒業生の夫婦同士が交流する場もあり、学園の周辺に商店が並び、経済まで潤い始めた。今ではウエディング学園のある都市は観光地として打ち出され、『学園都市』などと呼ばれている始末だ。予想以上の成果に喜んだ議会は学園の運営に力を入れ始めている。自分のような読書オタクにとって状況は日に日に悪化していると言っていいだろう。

「あそこに入って結婚できなければ一生鉱山で強制労働だ。絶対に相手を見つけるのだぞ」

 在学期間は五年。五年のうちに相手を見つけなければ犯罪者のように扱われる。
 学園は税金で賄われた公的事業のため、成果に結びつかない者を遊ばせる余裕はないのだ。王国は落第者に非情な罰を送ることで出生率を爆発的に高めていた。マリアンヌの言う結婚できなければ恥という価値観もここに起因しているのだろう。

(ニ十歳以上の独身男女を強制的に集めてるくせに、なんと勝手な)
「とにかくこれは決定事項だ。ちょうど次回の入学は一週間後。それまでに準備しておくように!」

 有無を言わない父の言葉に、アリサは項垂れた。




 部屋に帰ったアリサは自室の机に向かって書き物をしていた。

(今から隣国に亡命するか、市勢に下って偽名で生きていくか……)

 メリットとデメリットを書き比べてアリサはくしゃりと紙を握りつぶした。

(ダメだ……隣国は貧乏で本がないし、偽名で生きていくのは無謀だし……)

 ここ、イスカンディア帝国は大陸一の魔法文明国家だ。
 王立図書館の蔵書は二十万冊を超え、稀覯本の数も伊達ではない。
 しかも、一般人でも本が読めるという制度の素晴らしさといったら!

 他の貧乏国家ではこうはいかないだろう。
 読書好きのアリサにとって本がない生活など死んだも同然だった。

(わたしは学園に入学するしかない……けど(・・)

 両親やウィリアムのことを考えると吐き気がする。
 相手の顔色を伺って自分の趣味を押し殺して生きていくなんて死んでもごめんである。両親のようにはなりたくないアリサにとって恋愛から逃げることも死活問題だった。

(つまり学園に入学した上で、退学になればいいんだわ)

 鉱山での強制労働というが、魔法が使えるアリサには強制労働なんて何のその。
 一般人と同じ量をこっそり魔法で終わらせられる自信が彼女にはある。

(強制労働って言ってもある程度自由は認められてるらしいし)

 そうでなくてはさすがに人権問題になるし、批判も大きくなる。
 鉱山での労働も視野に入れたアリサは決意を固めて立ち上がった。

「決めたわ。わたし、学園に入学する。そして……」

 ぐっと拳を握り、朝葱色の瞳に炎を宿した。

「絶~~~~~対、退学になってやるんだから!」