満月のとても綺麗な夜だった。ノナは誰に伴われることなく、一人膝を抱え、夜空を映した湖を見つめている。


(ここに来られるのも、今夜が最後ね)


 湖の表面で月が、まるで宝石の如く輝いている。風一つ吹かず、悠然とそこに浮かぶ月。手を伸ばせば己のものに出来そうな、そんな気分にさせられる。


(愚かな願いだと分かっているけれど)


 仮に手に入ったとして、それが彼女のものになることは決して無い。
 ノナは眉間に皺を寄せ、小さくため息を吐いた。目を瞑ると、白いウエディングドレス姿の姉が目に浮かぶ。

 姉のベルは、今日結婚式を挙げた――――ノナの元婚約者、フィデルと共に。

 本当ならば、あのドレスを着るのはノナの筈だった。フィデルの隣で微笑むのも、祝福を受けるのも、全てノナの筈だった。けれど、そんな現実は存在しない。

 かわりに明日、ノナは後宮に入内する。
 入内と言うと聞こえは良いが、現皇帝は御年六十を超える上、後宮には既に百を超える妃が存在する。現皇帝が存命中は決して後宮を出ることは出来ないし、崩御後は修道院に送られることが決まっている。
 生まれ育ったこの屋敷に帰ってくることも、この湖を見ることも、二度と叶いはしない。


(家に未練は無いけれど)


 両親はいつも、姉のベルばかりを可愛がっていた。ドレスだろうが宝石だろうが、欲しいものは何でも与え、姉が何度婚約を破棄しても、楽しそうに新しい婚約者を見繕ってくる。
 その反動か、ノナには何も与えなかった。唯一与えられたのが、元婚約者のフィデルで、それだって貴族の体面を保つために仕方なく宛がったというだけだ。


『ノナは俺が幸せにするよ』


 何処からともなくそんな声が聞こえてくる。ノナは哀し気に微笑みつつ、膝をギュッと抱えた。
 フィデルはとても優しい人だった。家族から迫害されているノナに愛情を注ぎ、温かく包み込んでくれた。好きだと――――幸せにすると言ってくれたからこそ、今日まで耐え抜くことが出来たのに。


(考えても仕方がないことね)


 ノナには運命に抗うだけの気概がない。身投げをすることも、ここから逃げ出すことも出来ないのだ。
 ただひたすらに、己に繋がっている運命の糸を紡ぎ続けるだけ。たとえその糸が、彼女自身の幸せに繋がっていなくとも――――。


「――――――ノナ」