(いや、これで良いんだ。もう婚約はできなくても、また、皆が望む俺が戻ってくるんだから)


 これでアザゼルは、悪魔の提示した条件を満たしたことになる。サラへの罪悪感と引き換えに、周りの望む自分を得て、今の自分を殺せるのだ。


(これで良い。これで良かったんだ……そうだろう?)


 アザゼルは天井を仰いだ。俯けばどんな表情をしているのか、サラにバレてしまう。涙が零れ落ちそうな所を見られたくはなかった。


「良かった。では改めて」

「……!?」


 サラはそう言うと、無防備になっていたアザゼルの身体に抱き付いた。思わぬことに、アザゼルは言葉を失う。


「サラ!?おまえ、俺と婚約破棄したいんだろ!?」

「うん。前のアザゼルとは婚約破棄する。だから今度は、今のアザゼルと――――本当のアザゼルと婚約したいの」


 そう言ってサラはアザゼルを見上げた。瞳には薄っすらと涙が溜まり、唇がふるふると震えている。


「私が気づかなかっただけで、アザゼルはずっとそこにいた。変わってなんかなかった。やっと本当の自分を出せたのに、私ひどいことを言って……!ごめんなさい、アザゼル!本当に、ごめんなさい!」


 サラの涙がアザゼルの心に沁み込んでいく。
 サラはアザゼルを受け入れてくれた。偽りの自分ではない、本当の自分を。


(信じられない)


 けれど、身体は心には逆らえない。気づけばアザゼルは、サラを抱き返していた。久しぶりに感じる甘やかな香り、柔らかさ、サラの温もりに、アザゼルは涙を流す。


『契約は不履行で良いのか?』


 サラやアザゼルがいる方向とは違う何もない空間を見つめながら、クラウドが尋ねる。普段使っている国の言語とは異なる言葉だ。

 すると、どこからともなく、しわがれた男の笑い声が小さく響いた。


『良いんだよ。今回はオマケってことにしとくから』


 クラウドはクスリと笑いながら、サラたちをチラリと見つめた。


『サラの方にはなんてけしかけたんだ?』

『なぁに。簡単なことだよ。あの子は自分で、答えが分かっていたからね。『婚約破棄をしておいで』と言っただけだ』


 男はそう言うと、大きな黒い本を手に持った。何やら禍々しいオーラを放った、不気味な本だ。


『その本はどうするんだ?』

『魔界に持って帰ることにするよ。私もそうそう呼び出されたくはないからね』


 男は幸せそうに微笑むアザゼルとサラをそっと見る。それから、二人の唇が重なるのに合わせて、男の身体は静かに消えていった。


(END)