「エスニックだな。におうぞ」

当直日の夜。テイクアウトしてきた近所のタイ料理店のランチボックスを開けようとする博樹のところに一人の男が現れた。

「中川。今、帰り?」

博樹が顔を向けると中川は気持ちのいい笑顔を見せた。

「本当はもっと早く帰るはずだったんだけどオペが長引いてさ。でも無事に終わった。だからスッキリ。それに比べてお前は暗いな」
「いつもこんなものだよ」
「あーもうちょっと早く終わってれば博樹と飲みに行けたのにな」
「いや、僕は当直だから」

当直日にビールを飲む愚か者がどこにいるだろうか。呆れたように博樹が苦笑いを浮かべると、中川はニッと歯をみせて、どこかいやらしい顔つきで笑った。

「当直、するんだ」

いつだったか、当直を代わって欲しい相談をしたことがあったことを彼は覚えていたのだ。
話したいのだなと思って、博樹は医局内にあるコーヒーと、誰かが置いて行ったクッキーの差し入れを渡す。
サンキューと受け取るとそのビニールの包装をペリッとはがして、一つ口に入れた。

「で、その後、何かあった?」
「例の人から瑛子がお土産にワインをもらって、重いからって車で送ってもらって帰って来た。」

博樹は憂鬱な顔つきで料理を口に入れた。どうせならと思って辛めにしてもらったタイのカレーは思わず咽そうになるほど辛い。

「仕事して欲しくないんじゃん」
「そんなつもりは」

そこまで言ったところで香辛料が効いてきて博樹は思わず咽こむ。涙目になりながらせき込んでいると中川はその黒ぶちの眼鏡をいつもの癖のように右手でクッとわずかに持ち上げて、はっきりと言い放った。

「いや、認めろ。お前は奥さんを檻のなかに閉じ込めておきたいのよ」

彼のその言葉は博樹の胸にずしりと重くのしかかり、同時にモラハラとか束縛とか、物騒な言葉が頭を駆け巡る。

「そんなつもりは、ないかと」

自分が思う以上に自分はとんでもない人間だったのだろうか、と思うとショックで博樹は力ない言葉でどうにか言い返す。中川は軽く笑ってコーヒーを啜って言った。

「変な意味じゃないよ。そのくらい、奥さんのことが好きってだけじゃん。恋をすると人は冷静ではいられないのよ。」

それは博樹が中川の人生経験の豊富さ、そしてユーモアと、コミュニケーション能力の高さを感じる瞬間でもあった。
残っていたクッキーをバリバリと食べながら彼は話続けた。

「変に意識して警戒してると、奥さんとの関係もおかしくなっちまうぞ」
「そうかな」
「そうだよ。実際、本当は仕事すべきじゃないよね、みたいに言われたんだろう?すでに気にさせちゃってるじゃん。問題は違うことなのに」

確かに、中川の言う通りだと博樹は思った。仕事をして欲しくないわけじゃない。瑛子が望むなら、残り4か月の期間といわず、いつまでも続けてもらっていい。瑛子が幸せであることが一番なのだ。

「きちんと言葉で伝えればいいだけさ」

それだけ言うと、コーヒーをぐっと飲み干して中川はまた笑った。

言葉で伝える。そのシンプルなことが、難しい。仕事ではできることなのに、瑛子に対しては違う。どういう言葉なら喜んでくれるだろう。嫌な気持ちにさせないだろう。瑛子に関する私的な感情は、言葉一つ選ぶだけでも悩ましいのだった。