翌朝、目を覚ますと瑛子がハムエッグを焼いていた。

「どうしたの?」

まるでパーティーでも始まるのか、というようにテーブルの上は華やかだったのだ。スパークリングワイン用の細いグラスが並べてあって、チーズとディップ数種類が木のカッティングボードにのせられている。

「昨日の夜の続き。ワインを見つけちゃったの。博樹が買ってくれていたのね」

冷蔵庫を開けて瑛子はワイボトルを一つ取り出して見せた。それは昨夜一緒に飲もうと思って買ってきたシャンパンだった。わからないだろう、と思って黙って片付けたつもりだったのに、きちんと気づくあたりがさすがだった。同時に、いじけていた自分に気づかれたようで恥ずかしくなる。

「ゆっくり休めた?休日だしブランチからシャンパンでもいいでしょう?」

焼きあがったハムエッグに、昨夜博樹が買ってきたバケットを添えて、それらを並べる瑛子の笑顔に、いろんな意味で照れてしまいそうになりながら博樹は笑った。そうだね、と言って。

外側をカリカリに焼いた瑛子のハムエッグは、彼女のこだわりが感じられてとてもおいしい。いつものハムエッグなのにシャンパンの添えられた朝食はまるで海外旅行のようだ。何気ない日曜日の朝の風景が輝きを増す。こんなふうにいくつもの朝を迎えても、それがつまらない日常にならないのは瑛子が自分にとって特別だからだと博樹は思う。

「よく、送ってもらうことがあるの?」

ハムエッグにナイフをそっと差し込むと半熟の黄身部分からオレンジ色の液体がとろりと溢れ出した。それはほんの少しの刺激だった。それでも、たとえばこんなふうにほんの少しの刺激が変化をもたらす。瑛子が外に出て仕事をして、新しい誰かと出会い、新しい刺激を受けてまた魅力的な人になっていく。そのことは素晴らしいことのはずなのに。
結婚して一年ほどが過ぎた今、お互い、夫婦生活に秘密なんてこともなかった。だからこそ聞きたいことも話したいこともなるべく遠慮しないようにしている。

「二回かしら。アクシデントで電車が止まっていたときと、昨日。」

そう、と返事をしながら博樹はまた心ここにあらずと言った様子でゆっくりとハムエッグを切り分ける。その様子がいつもと違うことに気づいたのか、瑛子がおかしそうに少し笑って言った。

「大丈夫よ、何かあるわけないでしょう。昨日も荷物が多くて大変だろうからって申し出てくださっただけで、アルバイトの私にもとても親切な方なのよ」

無邪気な瑛子の笑顔に、博樹はつい苦笑いする。瑛子は少しもわかっていない。男が女に優しくするとき、どんな気持ちがあるのかを。親切心を超えた下心というのを知らないのだろうか。もっとも女性の多い環境で生活してきて、異性と接する機会の少なかった瑛子には理解できないのかもしれない。

「なるべく迎えに行くようにするから」

博樹が迎えに行くことの意味を若干勘違いしたように瑛子は笑う。荷物の多さや防犯の意味で迎えに行くと思っているようだが、博樹の本心は違う。他の男を近づけたくないのだ。

「ふふ、ありがとう。でも無理をしないでね」

瑛子の甘い笑顔。それを見ると博樹の心は満たされるはずだった。それがこのところ騒がしいことばかりだ。
その笑顔を向けられた他の男が、どんな気持ちになるのかを、自分は誰よりも知ってしまっている。
仕事をして欲しくないわけじゃない。いつだって瑛子が望む道を進んで欲しい。決めたことを応援したい。その気持ちは確かなのに。

ふと浮かび上がる一人の男性の面影。瑛子を見つめる横顔。それは忘れようと思っても、忘れられないものだった。

いつもより時間をかけた朝食、いわばブランチを終えると、時計は正午近かった。瑛子は遊びのようにピアノを弾き始める。曲名はわからない。ただ、愛おしくて切ない、と言う感じ。どうして、愛はいつも、喜びと苦しみを一緒にもたらすのだろう。