瑛子が週に2回の仕事を始めて変化したことがある。
一つは博樹のほうが帰りが早いことがまれにあること。同じくらいの時間に帰宅することもあるが、電気のついていない自宅に帰ることのむなしさは、これほど大きいものかと感じる。研修医時代に1年間だけ一人暮らしをしていたことはあったが、そのときは何も思わなかったというのに、待っていてくれる人がいることの喜びは、同時に待つことの寂しさを知ることだ。

そしてもう一つは彼女の演奏する曲だ。
これまではドイツロマン派を中心としたブラームスやシューマン、シューベルト、あとはリスト(瑛子の影響でかなり覚えた)などが多かったが、最近はあまり弾かなくなった。
ラウンジにふさわしい曲を練習しているのだと瑛子は言って、時折懐かしい映画音楽に気づくものの、博樹にとっては知らない曲のほうが多い。

練習は聞き苦しいでしょう、と瑛子は言うが、博樹にとって不快ということはまったくなかった。聴き流すことも可能なほど自然に空気に溶け込むような、甘い旋律は心地よかった。

それでもそれらは、自分の知らない不特定多数の人たちのためのピアノの音色。いつも自分のためだけに演奏してくれた瑛子が遠くに行ってしまったようで、勝手ながらも博樹は寂しさを感じていた。もちろん、瑛子が楽しく、誇りを持って仕事をしていることは喜ばしいことではあるが。

傲慢な自分の望みはまるで籠の中の小鳥のように瑛子を自分だけの世界に閉じ込めておきたいみたいだ。そんなつもりはないのに。


週末、瑛子の仕事の日だった。博樹は仕事が終わった時刻がすでに21時半近かったので、今から迎えに行っても間に合わないだろうと思って一人で帰宅することにした。少しだけど食事を用意しておけば、瑛子を労うことができるかと思ったのだ。
駅のスーパーマーケットに頼るしかないが、明日は休みだしと思ってチーズやワインをいくつか、それと瑛子が好きだと言う駅ビルのパン屋でバケットを買って自宅に帰ったところで一台の車がマンションの前に停車する。

「すみません、送っていただいて。ありがとうございました。ワインもご馳走様です。はい、それではまた」

開いたドアからわずかに聞こえた声と、車から降りてきたシルエット。それは間違いなく瑛子だった。博樹は自分の横を通り過ぎていく黒い車の運転席に誰が乗っているのか、姿は見えなくてもわかっていた。

「瑛子」

名前を呼ぶと、マンション入り口で瑛子が振り向いた。

「あら、同じタイミングで帰宅なんて嬉しいわ」

瑛子の純粋な笑顔とは真逆に、博樹は自分の笑顔がぎこちないのはわかっていた。瑛子が仕事の後に送ってもらっただけであることは確かなのに、車中の二人きりの時間に博樹は嫉妬せずにいられなかった。

「見て。ワインをいただいたの。出張でイタリアに行かれたとかで。白はアクアパッツァ、赤はボロネーゼなら間違いない相性ですって」

エレベーターの中で嬉しそうに話す瑛子を前に、博樹は左手に持った紙袋を見せられないでいた。

─少しだけどワインを買ったよ。それとバケットも。

もしそう言えば、瑛子が喜ばないはずなかった。どんな些細なことにも笑顔を見せてくれる彼女が、嬉しいと言わないはずがなかった。それなのに、イタリアのお土産のワインに比べて、仕事帰りに慌てて見繕った駅ビルのワインが、バケットが、博樹にはひどくちっぽけに思えてならなかった。

「ね、乾杯するでしょう?」

笑顔を向ける瑛子に博樹は言った。なるべく笑顔で。

「今夜は、疲れていて早く眠りたいんだ。申し訳ないね」

瑛子は残念そうにしながら、それなら仕方ないわと言って一度は取り出したワイングラスを片付けた。空腹を満たすだけのスープを口に含み、逃げるように一人になってまるで時間をつぶすみたいに博樹は論文に目を通す。自分にはやることがある、と言い聞かせるみたいに。