「当直を代わって欲しい」

真剣な顔つきで博樹が言った。その相手は大学時代からの同級生であり、同じ大学病院に勤める中川という男だ。

「無理だよ。俺、外科だもん。同じ科のやつに頼みな」

その言葉に博樹は肩を落とす。
聞く前から分かっていたことだったが、そもそもは食堂で顔を合わせるなり、博樹の顔色を心配した中川が、何かあるなら力になる、と言ったのだ。
そしていざ頼み事をしてみたら、このありさまだ。

「なんで当直を代わって欲しいわけ?」

ランチの定食のロースカツを頬張りながら中川は博樹に聞いた。気さくで明るく、適当な性格に見える彼は、実は細かい仕事もきちんとするし、仲間に対して気遣いをしてくれるいいやつだった。
博樹は少し遅いペースで同じ料理を口に運びながら、一連のことを話した。妻が週に2回だけアルバイトを始めたことと、そこで接近している男がいること、それらすべてが心配なこと。
話を聞き終えた中川は、普段のクセのように黒ぶちの眼鏡を右手で軽く上げて定位置に戻すと、軽く笑って言った。

「いいねえ、悩める男。それでこそ恋ってものよ」
「結婚しているのに恋なんて」

中川の言葉に、思わずむせそうになる博樹は慌てて水を口に含む。

「いいじゃん、結婚したからって何も感じない夫婦になっちゃうより。俺の理想だよ。」
「僕は、安心のほうが欲しい」

中川の言葉に呆れたように博樹が言うと、彼はまた少し笑って席を立った。

「またちゃんと話聞くからさ。それまでせいぜい恋に悩んでな。」

もちろん奥さんを信じて、と付け足すように言って中川は社食を後にした。
博樹が瑛子を疑うはずはない。夫婦仲は良好だ。それでもこの胸の中の不安。それを、いつだって瑛子にかき消して欲しい。その瞳で見つめて、頬を寄せて、その肌の体温で教えて欲しい。自分が誰より特別な存在だ、と。想像しただけで瑛子が恋しくなるほどに、自分が彼女を好きなのだと自覚する。
あの夜、瑛子は笑って言った。何も心配することないのに、と。それは本当にそうなのだ。ただ。

ただ、僕は自分に自信がないのかもしれない。

あの夜の瑛子の眩しさを思い出すたび弱気な自分の本心に気づいて、慌ててそのネガティブな感情をかき消す。見苦しい。嫉妬も、弱さも、それらが瑛子の隣に立つ男にはふわさしくないものであることは、わかっていた。

「当直、するか」

勤務表を確認して、博樹はまた曇った表情でため息をついた。それでも、仕事はきちんとやりたい。瑛子の自慢の夫でいるためにも、瑛子を養っていくためにも、自分を必要としてくれる人のためにも。
それでも、博樹は自分が迎えに行けないその日に何もないように、と願わずにいられなかった。