「兄貴」

おつかれ、と言って笑う弟の和樹はまるで学生のように無邪気で若々しい。彼の隣には同僚の女医だという女性がいて、紹介してもらったものの、正直次に会っても顔と名前が一致しないんじゃないか、というくらい博樹の頭はまともに働いていなかった。

「もしかして兄貴、具合悪い?」
「熱がありそうですね」

研修医とはいえ後輩の医者二人を前に、博樹はついかっこつけて平気だと答える。
通りすがりのボーイにマティーニを頼む。アルコール消毒だね、なんてとても医者の言うジョークではない。五分ほどして差し出されたカクテルを口に含むといっきにアルコールで喉が熱くなる。

飲むときは何か食べながら。
まるで説法のように瑛子には常々そう話していた。消化器内科の専門医をしている自分のそんな話を信頼してくれている瑛子は自宅でお酒を飲むとき、いつもチーズやオリーブなどのちょっと食べるものをすぐに用意してくれる。
それでも医者だって所詮人間だ。お酒を飲めば酔うし、病気にもなる。冷静に診断をして、ただ冷静に妻を見ていられるときばかりでもない。

「お、出てきた」

和樹がどこか嬉しそうに言い、カウンター奥のカーテンの向こうからディーブブルーのドレスを着た瑛子が出てきた。この夜に溶け込むように、邪魔しないように、ここにいる人に居心地よく過ごしてもらうために瑛子はピアノを奏でる。軽やかな音。手元は見えないが、その細い指先はまるでダンスをするように鍵盤の上を走っているようだ。
演奏が始まって少ししたところで、小声で和樹の同僚の女性がそっと和樹に言った。

「映画の音楽だよね、確か」
「そうなの?俺はわからない。いい曲だけど」
「ミュージカルにもなっていたはず。とても素敵なアレンジだわ」

そんな彼らのやりとりも、すぐに博樹の耳から抜けていった。瑛子の演奏を、ひとつも取りこぼしたくないのだ。この場所にいる人たちにとって、食事のBGMであっても、自分にとっては何より貴重な音。

やがて曲目はまた雰囲気を変える。甘いジャズ。曲目はわからないけれど、なんとなく、これが和樹の言ってた‘とっておきの曲’なのかな、と博樹は思った。

恋とか愛とかそんな単純な言葉で表現できないような甘い旋律。どこかで聴いたことはある気がしたが、頭がまともに働いていないせいで、耳を傾けるのに精いっぱいだ。

たくさんの人に聴いて欲しい。でもこの音色を独り占めしたい。

そんな葛藤する気持ちが頭を駆け巡って、頭はますます混乱する。しまった、飲むべきではなかったか、と思ったところでカウンターに一人の男性が座った。
それはもう何度か見てすっかり覚えてしまった三藤不動産の御曹司だった。彼はバーテンダーと談笑しながらも、その視線はラウンジ隅のグランドピアノに向かっている。彼が瑛子を気にしているのはもう明らかだ。

博樹の中の嫉妬という感情がいっきに大きくなり、つい和樹のペースに合わせてもう一杯カクテルを頼んでしまい、頭は一層ヒートアップする。ああ、さすがにこれ以上は飲まないにしよう、と思ったところで30分程の演奏を終えた瑛子は無言で立ち上がった。
それに気づいた一部の人が労うように拍手をする。博樹も同じように拍手をし、そしてこれまでと同じように、やはり彼がカウンター席から熱い視線を向けている。その横で例によってディープブルーの、瑛子のドレスと同じ色のカクテルが用意されている。瑛子はカウンターに座る男性に向かって少し照れたように微笑んで頭を下げる。
座るのか。その隣に。甘いカクテルを受け入れて笑顔で話をするのか。

博樹の脳内のイメージ通りに、瑛子は丁寧な仕草で椅子を回転させて、そのカウンターの男性の横に座ろうとした。
その瞬間、博樹は自分でも驚く瞬発力で立ち上がってカウンターに向かって走った。

「瑛子は、僕の妻です」

それだけ言うと、それ以上はもう何も考えられず、何も言葉にできなかった。
ただ、薄れていく意識の中で、「知っています」という男性の声が聞こえたことと、よろめいて視界が暗くなったところで、自分の体が‘何か’に支えられていることだけはわかった。
そのとき、その何かが温かく、優しく、甘く、自分にとってかけがえのないものだと言うことだけは、確かに感じていた。