午後の仕事がひと段落したタイミングで、医局でコーヒーを飲んでいた博樹のスマートフォンが静かに揺れる。
デスクに置いてあったそれを手に取ると、メッセージを見た博樹はごくわずかに顔を歪めた。
弟から飲みに誘われるなんて珍しい。
そう博樹は思ったが、次の瞬間に待ち合わせ場所の連絡をもらって納得する。そこは妻の瑛子が週に2回、ピアノを弾いているラウンジだった。

1か月ちょっと前のことだった。瑛子は音大のピアノ科を卒業こそしたものの、人前で演奏することはたいして好きではない、と言って専業主婦をしていた彼女が少しだけピアノを弾く仕事をすると言い出したのだ。
恥ずかしそうに、少し俯いて、そっとやわらかな卵豆腐に箸を差し込みながら瑛子は言う。

「半年間だけだし、自分にできるならやってみたいなと思って」

話によると、どうやらもともとは瑛子の友人の後輩がそのホテルのラウンジでピアノを弾くアルバイトをしていたらしい。しかし、この秋から後輩はウィーンに留学することになり、その半年間の代わりを打診されたということだった。

「どうして急に。何か欲しいものでもあるの?」

勤務医とはいえ博樹は妻一人を養うのには十分な給料をもらっていたし、不自由をさせているつもりはなかったので、つい確認したくて聞いた。

「そんなのじゃないの。週に2回だけだし、演奏会と違うからそんなに緊張しなくていいって言われたから、せっかくだしやってみようかなって。」

瑛子は照れたように笑う。おそらく、その言葉に嘘がなくて素直な気持ちであることは、博樹にはきちんとわかっていた。
ただどうして急にそんなことを思ったのか、ということを気にならないはずはない。

「博樹に迷惑はかけないようにするわ。週に2回、帰りがどうしても22時くらいになってしまうのだけは、申し訳ないけれど」

夜22時まで瑛子が家にいない日があることによって、博樹は迷惑をかけられるとは思わないが、心配してしまうのは間違いなかった。

「なるべく迎えに行くようにするよ。僕が行けないときはタクシーを使うように」

本心で心配する博樹に対して瑛子は小さく笑った。

「子どもじゃないんだから、大丈夫よ。でも、そうね。迎えに来てくれるときがあるなら、一緒に帰りたいわ。そんなこと今までないから、新鮮よね」

楽しみ、と言って笑顔になる瑛子を前に、博樹はやっぱり落ち着かないでいた。アルバイトとはいえ、瑛子が人生で初めての仕事に行くということ。いつも家で料理をしたり、ピアノを弾いたりして自分を待ってくれていた瑛子が、外でピアノを弾くのだ。それは、誇らしいことであると同時に、どうしても気になってしまう。この家で自分のためだけにピアノを弾いていてくれた瑛子が外に出てしまうのだ。

「来週から頑張るわね。」

張り切る瑛子に、博樹は悩ましい顔つきで、うん、とだけ返事をした。