「アリシア・アイオライト公爵令嬢。貴女との婚約は破棄させていただく! 今後二度と、私の視界に入らないでいただきたい!」

「……グラム殿下。理由をお伺いしても?」

 学園のパーティーホールを貸し切って行われる最高学年だけの夜会。
 学生生活が残り半年となるので、成年としての心構えを持つための最後の練習の場、という建前なのだけれども、実際のところは最後に羽根を伸ばすための催しだ。

 領地が遠い者達は卒業式を待たずに帰るなんてことはざらだし、他国からの留学生に至ってはこのパーティーを終えたらすぐにでも出立するという者も多い。
 婚姻や就職が決まらなかった次男坊以下(ヤンガーサン)の多くが駆け込む騎士団も、卒業三か月前から地獄の訓練合宿を始めるのが慣例だしね。

 そんなパーティーの最中、参加者全員を凍り付かせたのが我が婚約者にしてこの国の第四王子であるグラム・ノワルージュ殿下だ。
 端正な顔立ちに澄んだ碧眼の彼だけれど、今は眉間に大きな皺が刻まれ、怒りと憎しみを湛えた瞳で私を睨み付けていた。
 怒髪天を衝く勢いのグラム殿下に周囲はやや引いてしまっているが、列席者達からぽつぽつと漏れ聞こえる言葉が私の胸に刺さる。

 『氷結姫』。『冷血令嬢』。『鉄面皮』。

 どれもこれも、私を侮蔑するための言葉だ。
 何を言われても動じず、顔色一つ変えない姿は、人のこころを持っていないからに違いない。
 深い蒼の瞳もあらゆるものに無関心な冷たさを感じる。
 そんな風に言われ、いつの間にか囁かれるようになった二つ名だった。
 こんな大きなパーティーの最中にもひそひそと不名誉な二つ名が囁かれ、まともに言葉も交わしたことのない相手にまで嫌われていることを思い知って泣きたい気持ちになってしまう。
 私だってこころがないわけでも、傷つかないわけでもないのだ。
 しかし殿下と婚約してからずっと我慢していたせいか、一向に涙が出る気配はなかった。
 私の胸中など知らぬと言わんばかりに、グラム殿下は怒りに任せてまくし立てる。
 
「心当たりがないわけではなかろう。貴様は醜い嫉妬からポピー・リンドバーグ子爵令嬢に嫌がらせを行っただろう。貴様のような性根の腐った者を王家に迎えることなどできるはずがない!」

 グラム殿下の言葉に合わせて、パーティー列席者の人垣からパステルピンクのドレスを身に纏った令嬢が前に出た。
 ポピー・リンドバーグ子爵令嬢だ。
 やや幼さを感じさせる顔は悲壮感に満ちており、くりっとした丸い目には今にもこぼれんばかりの涙が溜まっていた。
 私とは大違いな、庇護欲をそそる外見。
 とはいえそれは本当に外見だけの話で、彼女は視線を逸らすこともなく私を睨み、そして事もあろうにグラム殿下の横に立った。
 王族の、それも婚約者を持った相手の横に許可もなく立つのは無礼極まりない行為だ。
 しかし当のグラム殿下がそれを許し、あまつさえ彼女の腰に手を回してしまったのだからもう何も言えない。

 グラム殿下に促されたポピー嬢によると、私は多くの取り巻きを使って、彼女の私物を壊したり、授業で良い評価が得られないように妨害したり、食事にゴミを入れたりと嫌がらせをしたらしい。
 なるほど、真実であれば真っ直ぐで優しい気性のグラム殿下がご立腹なのも頷ける。
 事実であれば、だけれど。

「恐れながら殿下。ポピー嬢の言葉には何の証拠もございません」
「彼女の怯え切った表情を見ろ! これが演技だとでもというのか!?」
「少なくとも彼女に嫌がらせをしたのが私だという証拠はありません」

 表情で物事の真偽がつくはずもなかろうに。
 今までは優しさの現れだと目をつぶってきた彼のおかしな理論に、うんざりしてしまう。
 為政者としては問題でも、人の心に寄り添う優しさは素敵なものだと思っていたのだ。

 夫となる人に求めるのは誠実さと優しさ。その二つだけだ。
 本当ならば私だけを見て愛して欲しいと思ってしまうけれど、貴族家同士の結びつきをつくるための結婚でそれを望むことは難しい。
 だからせめて、互いを慈しめる相手を、と思っていたのだけれど。
 どうやら私は人を見る目がまるでなかったらしい。

「では、誰がやったのだ。言ってみよ」
「存じ上げません。ここで私に訊ねるよりも、学園の教師陣に相談なさるべきではありませんか?」

 はっきりと私に疑いの眼差しを向ける彼からは、私を信じる気持ちも、思いやる気持ちもまったく持ち合わせていないことが伺えた。

「う、嘘です! 私はアリシアさんが命令するのをハッキリ聞きました!」
「アリシア! やはりお前が命じたのではないかッ!」

 ポピー嬢の言葉に流されたグラム殿下は再び私に嫌悪の視線を向ける。
 いくら彼女が証言したところで先ほども言った通り、証拠はないのですけれども。
 こんな人のために厳しい王妃教育――それも王太子殿下含めて三人の王位継承者すべてに何かあったときのためだけに――を受けていたかと思うと、情けなくて涙が出そうになる。
 このまま受け入れても良いんだけれど、流石に業腹だし万が一にでも悪評が立っては我が家名に泥を塗ることになってしまうので少しだけ言い返すことにする。

「『私物を壊した』『授業で良い評価が得られないように妨害した』『食事にゴミを入れた』。ポピー嬢、嫌がらせはこれですべてですか?」
「あ、あとおばあ様からいただいた大切なドレスも破いたでしょう! クローゼットでビリビリになったドレスを見て、どれほど悲しかったか……!」
「ポピー……安心しろ、私がついている。アリシアにはきちんと謝らせ、罪を償わせる」
「グラム様! そんな、私はただ、嫌がらせを止めてもらえれば……」

 平民の間で流行っていると噂のラブロマンス小説にも出てこないであろうベッタベタな二人のやりとりに大きな溜息を吐く。
 こんな人のために時間と心を砕いてきたのかと思うと、本当に自分の見る目のなさにガッカリだ。

 人のことを言えたものではないけれど、グラム殿下は私の何を見ていたんだろうか。
 婚約から7年。少なくとも私は良い関係をつくるために努力をしたつもりだ。
 彼の好みに合わせた服飾品を選んだり、食べ物も彼に合わせてやや脂っこくて塩気の強いものも我慢して笑顔で食べた。手紙もこまめに書いたし、お茶会を開くときは同性が相手であってもきちんとお伺いを立てた。時には彼の政務を朝から晩まで手伝っていたこともある。

 ――その結果がこれだ。

 私はそんなことをする人間だと思われていたのだろうか。
 欠片も信じて貰えていなかったと思うと、悲しいを通り越して虚無感がこみあげてきた。

「『私物を壊した』のは、多くの人が見ている前で、ですか?」
「そんなはずないでしょう! 誰も見ていない隙にこっそり――」
「それ、意味がありますか?」
「えっ」

 驚く彼女は、どうやら本当に理解していないらしい。

「私は家格的に貴女よりもずっと上の立場にいますし、グラム様の婚約者――失礼、元婚約者としても貴女より上です」

 ポピー嬢から不満気な視線が向けられるけれど、流石に爵位制度そのものに異を唱えるほど愚かではなかったらしい。
 反論はないようなので続ける。

「貴女を攻撃したいのであれば、衆目の中で堂々と行えます。誰も見ていない時を見計らう必要も、隠れる意味もありません」

 そもそも、私ははっきり口に出すだけで忖度される立場である。だからこそできるだけワガママを言わないようにしていたし、感情を表に出さないように我慢していた。
 グラム殿下の名誉に泥を塗らないよう、ずっと我慢してきたのだ。
 それどころか、ちょっとした行動でもグラム殿下にお伺いを立てていた。
 その結果として感情が表に出てこなくなり、『氷結姫』『鉄面皮』『冷血令嬢』なんていう不名誉なあだ名をつけられてしまったのだけれど。

「授業への評価もそうです。こそこそする意味なんてありません」
「それは……」
「おおかた、私に現場を目撃されて嫌われるのを避けるためだろう! 違うか?」

 言葉に詰まったポピー嬢をグラム殿下が庇った。ポピー嬢はそんな殿下に潤んだ瞳で熱っぽい視線を送っている。
 おそらく、彼女がグラム殿下に横恋慕して、何とか想いを遂げるために色々とでっちあげたというのが真相だろう。

 先ほどまでは黒幕が私だと勘違いしているだけという可能性も考えていたが、はっきりと私がやったと嘘を吐き、殿下には隠そうともしない慕情を向ける。
 婚約者の私を排斥しようとしたとか、そんなところかしら。

「では料理はいかがでしょう」
「ま、間違いなくアリシアさん自身が私の食事に――」
「殿下が入って来られない女子寮で、私が誰にも見つからないようにこっそりですか」

 問いかければ、旗色が悪いことに気付いたのかポピー嬢は口を噤んだ。

「貴族位を持っている学園の教師陣はともかくとして、シェフは平民です。私が『ポピー嬢には食事を出すな』と命じれば貴女の食事はなくなります。わざわざゴミを入れる必要はありません」

 そこまで言い切ったところで、グラム殿下に視線を向ける。

「しかし殿下のお考えも分かります。感情に振り回されて権力を振りかざす。そんな行動をとる人間は、幼稚すぎて王家にはふさわしくありませんものね?」
「うっ……」

 もちろん私のことではなく、殿下の言動に対する皮肉である。
 腐っても王族なので口に出せば不敬罪になってしまうが、これくらいならばいくらでも言い逃れができる。
 私自身の自戒です、とでも言えば良いだけだし、文句をつけようものならグラム殿下自身が幼稚だと認めたようなものになる。

 殿下が沈黙したところで、全部放り出して帰ろうかな、と思ってしまう。
 誰もが楽しみにしていたパーティーを台無しにしてしまった上に、私の七年間の努力を無下にされた。全部投げ出してしまいたくなってきた。

 家に帰ったらお父様に申し出て、女子修道院にでも入ろうかしら。神の伴侶として祈りを捧げる生活はさぞ穏やかなことだろう。

 現実逃避をしていると、人垣から一人の男性が前に出た。
 海洋国家ポセイダリスから留学されているガブリエル殿下だ。
 赤銅色の肌に黒髪とエキゾチックな風体に、鍛え抜かれた体つき。ふてぶてしい笑みには獰猛さが滲んでおり、どこか獅子のような野性味を感じさせた。
 海路を使った他国との商取引が盛んなポセイダリスでは、海賊に負けないようにと王族は武芸を磨く。彼の引き締まった体躯や雰囲気はそうして練り上げられたものだ。

「さァてと。随分な雰囲気になっちまったが、このままじゃ埒が明かねェ。かといって王族絡みの痴話げんかに首を突っ込める奴もいねェ。違うか?」

 公の場では絶対に許されないレベルの粗野な喋り方。
 海賊を相手にすることもあってポセイダリスでは語気の強い喋り方が好まれるのだと聞いたことがあるが、ガブリエル殿下の場合はこれでいてマナーや教養の授業も満点である。
 要は使い分け、ということなんだろうが、小さい頃から必死で頑張ってきた私よりも高得点なのが非常に納得いかない。いつだって余裕しゃくしゃく、という態度なのがまた何とも癇に障るのだ。
 勝ってやろうと何度も特訓し、それでもこのパーティーに至るまで一度も敵わなかったけれども。

「本当は他国のアレコレに首突っ込むのはご法度なんだが、仕方ねェから俺が仕切ってやる」

 宣言したガブリエル殿下は、グラム殿下に笑みを向けた。白い歯が見える笑顔は快活だけれど、有無を言わせぬ迫力があった。 

「グラム殿下は婚約破棄を望まれるので?」
「あ、ああ。当たり前だ!」
「アリシア嬢はどうするかね?」
「……殿下の申し出を受け入れましょう」

 こんなことを言われた後で再び信頼関係が築けるはずもない。家同士の繋がりを壊してしまったことに申し訳なさを感じるし、寂寥感もある。
 愛はなくとも、同じ時を過ごし、同じ目線で物事を見る仲間だと信じていたのだ。
 どうせ涙は出ないのだけれど、泣きたくなるのをぐっとこらえる。
 ここで涙の一つも流せれば、せめて不名誉なあだ名だけでも返上することができるのかも知れないけれど、自分の自由にできるものではないので仕方ない。

 ガブリエル殿下はわざわざ自分から調停を買って出たのだ。うまく話をまとめてくれるだろうから、それまで我慢するだけで良い。
 そう言い聞かせて、俯かないよう、涙を零さないように自らのこころを抑えつけた。
 ぱん、と両手を打ち合わせたガブリエル殿下は、にっかりと笑った。
 先ほどまでの猛獣のような笑顔ではなく、幼さを感じさせるような、無垢な笑み。

「よし、ならコレで話は終わりだな。――さて、アリシア嬢。せっかくフリーになったんだ。俺の女になれ」

 …………………………………………はい?

 言われたことが理解できずに固まってしまったけれども、聞き間違いでもなければ言い間違いでもなかったらしく、ガブリエル殿下は言葉を重ねる。

「見た目は元より、強気で芯がある良い女だ。その上、面白ェくらいころころ感情が動く。見てて飽きねェ。最高だ」
「ば、バカな! こんな『氷結姫』のどこを見たら感情が動いてると言うんだ!?」
 
 グラム殿下の口から『氷結姫』という言葉が発された。
 思わず感情が爆発しそうになる。
 ずっと。
 ずっと、ずっと。
 ずーっと、あなたのために我慢してたのに!
 悔しくて悔しくて、怒鳴りつけてやりたくなる。
 しかし、私が何かをするより早く動いた人がいた。
 ガブリエル殿下だ。

 鍛え抜かれた大きな身体が風みたいな速度で動いたかと思うと、グラム殿下の胸倉をつかんで持ち上げていた。

「俺の女を侮辱してんじゃねェぞ! 次舐めたこと言ったら全面戦争も覚悟しろッ!」

 あまりの剣幕に、パーティー会場全体がシンと静まり返る。
 隣国で次期国王となる人間が、戦争を口走る。それは決して冗談で済まされる話ではなかった。
 ガブリエル殿下は真っ青な顔で震えるグラム殿下をぞんざいに放り投げると、私の元へ歩み寄る。

「おい。返事、聞かせてくれ」
「わ、私は『氷結姫』で、そんな、言葉遣いが乱暴な――……」

 理解を超えた出来事に混乱してしまい、まとまらない思考をそのまま口走ったところで、ガブリエル殿下は大きく髪をかき上げた。
 ざざっとオールバックに整えた彼は私の眼前で跪き、右手を差し伸べる。

「ポセイダリス王国皇太子、ガブリエル・ド・フェルミエール・ポセイダリスがお願い申し上げる」

 空気が変わった。
 低く力強い声が歌い上げるように言葉を紡ぐ。

「王族に連なる者として民のため、国のために血の一滴までを使う覚悟ではいるが、今だけは一人の男として、一人の人間としてただ一度のわがままを言わせていただきたい」

 誰もが息を呑んだ。

「――アリシア嬢。どうか私の妻になってはいただけないでしょうか。必ず、すべてを懸けて貴女を幸せにしてみせます」

 今まで見たことがないほど真剣な眼差しで、私をじっと見つめる殿下。
 ……反則だ。
 
「わ、私は、『氷結姫』です。『冷血令嬢』で『鉄面皮』で……」
「貴女は感情豊かだ。海よりも深い色をした貴女の瞳は、何よりも貴女のこころを教えてくれている」
「そんな、だって、みんな――」
「『みんな』なんてどうでもいい。その瞳に、どうか私だけを映してはくれないか」

 必死さすら感じられる彼の言葉は、どこまでも本気であることが分かってしまった。
 思わず返答しようとしたところで。

 ――ぽろりと、目から雫が零れるのを感じた。

 顔を手で触れば、私は随分と久しぶりに涙を流していた。
 私を気遣ってか、ガブリエル殿下が大きな身体で包むように抱きしめてくれた。じんわりと優しく、でも火傷しそうな熱が伝わってくる。

「ぽ、ポセイダリス王国万歳!」
「ポセイダリスとノワルージュの友好に!」
「愛が育んだ両国の絆に万歳!」
「お二人の婚姻に!」

 どれほどそうしていただろうか。
 会場のあちこちから、ポセイダリスとノワルージュ王国を褒め称える声が聞こえてきた。婚約すらしていないのに、まるで結婚までが確定したかのように誰もが祝いの言葉を叫んでいた。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげれば、人垣に紛れて切れ者で有名な宰相のご子息が申し訳なさそうな笑みを浮かべているのが見えた。

 ……なるほど。

 隣国の次期国王が戦争を口にしてまで私の身を欲したのだ。万が一にでもうまくいかなければ、本当に戦争が起きる可能性があった。
 おおかた、宰相令息は戦争回避のために列席者たちを焚きつけて、私の退路を断ったつもりなのだろう。
 ……そんなの必要ないんだけれど。

「……ああ、クソ。もっとこっちに寄れ」
「また乱暴な言葉遣い」
「良いから。お前の泣き顔を見るのは俺だけで良いんだよ。ほら、隠せ」
「命令しないで、乱暴者」

 私の言葉に、彼はくく、と喉を鳴らす。

「気が強い女が好みだって言ったろ」

 キッと睨んだら、太陽みたいな笑顔が返された。



 その後、グラム殿下はポセイダリスとの関係を考えて王族から籍を抜かれた。陛下の温情で田舎に小さな領地をもらい、愛しのポピー嬢とそこで暮らしていくことになった。
 離婚は許されず、領地から一歩でも出れば反逆扱いで処断されるらしいけれど、好きな人と一緒ならばきっと幸せになれるだろう。

 一方、私はといえば。

「アリシア様でしたらこちらのドレスが――」
「いいえ、アクアマリンの瞳に映えるのはこちらで――」
「ガブリエル殿下の瞳の色を纏われるのが――」

 これまた戦争回避も含めてなのでしょうけど、さっさとポセイダリス王国に送り出された。
 ガブリエル様が皇太子ということもあり、実家で雇っている全員よりも多い侍女たちに取り囲まれ、毎日あーでもないこーでもないと忙しく過ごしている。
 曰く、挙式までに私をもっとも美しく見せるデザインや色合いを探すんだそうだ。
 ちなみに挙式は私がポセイダリス式のマナーを覚えてから。

 実のところ、思っていたよりもノワルージュ王国の作法とは違いが多くて苦戦している。
 留学してすぐに完璧なマナーを披露したガブリエル様が如何に優秀だったかを、改めて思い知らされていた。

「ゆっくりで良いぜ。ま、俺はノワルージュ式は余裕だったけど」
「すぐ習得してみせるわ。……レッスンを今までの三倍にしましょう。とりあえず午後もレッスンをするわ」

 睨みながら言えば、

「ばか。婚約中の甘い気分も長く味わいたいんだよ。午後はデート行くから駄目だ」

 子供みたいにはにかみながらそう返されてしまい、マナーレッスンを詰め込むわけにもいかなくなってしまった。

 ……どうやら、彼に敵う日がくるのは当分先になりそうである。
 最初は少し怒っていたけれど、潮の香りと、ガブリエル様みたいな日差しの中街を散策している内に、これも悪くないと思えるようになった。
〈了〉