本当の恋とは言えなくて

完全に浮かれていたから回りに気を配る事が出来ていなかった。


「紬!」

突然の出来事に何が何だかわからなかった俺は、一瞬遅れて精一杯大きな声で名前を呼ぶと同時に手を伸ばしたが紬の手はすり抜けていき、宙を握った。

締めてしまっていたシートベルトをはずすのももどかしく焦って車内から飛び出す。

後ろに停めてあった白い軽バンの後部座席に無理やり押し込まれる紬が見えた。

「紬!紬!」
バカみたいに紬の名前を叫ぶ。

急いでいるはずなのに足がもつれる感覚があってあせるが、何とか運転席のドアが閉められる瞬間にそれを阻止することが出来、男が着ていたパーカーを掴み引きずりおろした。

転がるようにして落ちて来た男に馬乗りになる。

「お前!紬に何を!」目深に被っている帽子をつかみ取り、首もとを締め上げた。

「後から割り込んできたのはお前だろ!取り返しただけだ!!」

男は怯えたような顔でそう毒づく。

腸が煮えくり返るおもいが沸き上がってきた俺はその男を殴り付けようとした…


「副社長!そこまでにして下さい!」

聞き覚えのある声にハッと我に帰る。
振り向くと秘書の松下妙子がスマートフォンを片手に立っていた。

その後ろからホテルのドアマンの男性スタッフが二人駆けつけ男を押さえつけた。

「副社長、もうお立ち下さい。…あ、警察ですか?私ホテルKOMAYAMA の副社長秘書です。只今、当ホテル前で誘拐未遂が起こりまして…はい、以前からご相談させて頂いていた不審者の…」

松下がテキパキと警察に通報している姿を呆然として見ていたが…

「…っ紬?!紬は?!」
軽バンの後部座席に駆け寄り紬を探す。

ホテルのベルボーイスタッフが紬を抱き起こし、「大丈夫ですか?」と声をかけているのが目に入った。

力無くダラリと下がっている手を見て心臓が止まりそうになる。

ベルボーイを押し退け、紬を抱きしめる。
「紬? 紬? 目を開けて!紬!」
いくら呼び掛けても反応が無い事で頭が真っ白になってしまった。


遠くでパトカーと救急車のサイレンが聞こえた気がした…。