本当の恋とは言えなくて

「もう大丈夫だから。」
そっとカズくんの体を押し退けて立ち上がる。カズくんも立ち上がり、私の表情を読み取ろうと目を覗き込む。

「ちょっと酔っぱらっちゃって、カズくんが偽装の婚約者が必要なことうっかり忘れてた。ごめんね、自分の事しか考えてなくて。」

なるべく明るく言う。

「…じゃあ…」

「うん、続けよう。もうしばらくこの関係を。」

「紬…。」
目を覗き込んで名前を呼ばれ、胸が締め付けられるように痛んだ。

本物の恋人を呼ぶように名前を言わないで…

「カズくん、まだ仕事あるんじゃない?ごめんね、心配かけて。じゃあ、また明日。」
笑顔で捲し立てるように言う。
早く一人になりたかった…。

カズくんの顔を見れないまま後ろを振り返るとパシッと手をつかまれた。

「待って。今日お母さんは?」

「夜勤で留守だよ。」

「…じゃあ…家に来てよ。」

「え?」思いがけない言葉に心臓が飛び出すかと思った。

「今の紬を一人にしておけない。そんな無理やり笑ってるような顔をしてる紬を。」
 

繋いだ手に力が入って痛いくらいだった。逃がさない、とでも言うように。

「でも…。」

私が戸惑って返事に困っていると、繋いだ手を引いてマンションの方へと歩き始めた。

「ちょ、カズくん!?」

「荷物、用意して。」
グイグイと引っ張って歩く。表情は見えない。


何を考えているの?


カズくんはマンションのオートロックの前に来ても鍵を開けようとしない私の両肩に手を当て、まっすぐ見つめてきた。

唇を噛んでうつ向く。
どうしたらいいのかわからなかった。私の心の中に芽生えた気持ちに気づいてしまったから…。

私は カズくんのことが好きになってしまったかもしれない。 偽装の関係で、勘違いしちゃダメだって、あれほど言い聞かせていたのに。 本気になんて、なってはいけないのに。 

抱きしめられると離さないで、って思う。 

初めてのキスも、ホントは嬉しかった。カズくんにとってはきっと気まぐれのキスだろうけど。

「鍵、開けてよ。じゃないとまたここでキスするよ。」
無表情でそんなことを言う。破壊力のある脅し文句だと思った。 

「そ、そんな…」
あわててオートロックを開け、エレベーターのボタンを押す。

フッとカズくんの表情がやわらいだ気がした。

胸がキュンとした。
そんなのダメだってわかってるのに…。