家を出る前に姿見でもう一度服装を確認する。 今日は少しおしゃれな格好で行こうかな、って一瞬思ったがそれはやめた。
私は私。
首にはいつものマフラーを巻く。以前、里美に白いマフラーが似合うと言われてから白いマフラーを愛用している。
玄関でカズくんに連絡をしていないことを思い出した。スマホのメッセージアプリを開いて『おはよう。これから家を出ます。』と短いメッセージを送る。すぐに『おはよう。気をつけて。』と返信があった。
彼氏なんていたことが無いから家を出るとか、こんなにこまめな連絡に慣れていない。世の彼氏彼女達はこんな日常を送っているのだろうか…。と想像してみる。
秋の深まりと共に肌寒さが増してきた。駅まで歩く道のりは頬に当たる風が冷たい。橋の上をゆっくりと歩きながらふとカズくんの事を考えた。
(何しているだろう。さすがにまだ家にいるのかな?家はどこだろう。カズくんて、何歳なんだろう。私よりは年上に見えるけど…。)
そんなことを考えていて、ふと気づいた。
(私、カズくんの事何も知らない。)
当たり前だった。偽装の関係なのだから。無理に知る必要も無いのかもしれない。そう思ったとき冷たい風が心の中を吹き抜けるように胸がギュッとなる。
無意識にマフラーをきつく巻きなおした。
朝7時過ぎ、都心に向かう電車は少し混み合っている。出入り口付近に立ち窓の外を眺めながら電車に揺られた。このあたりは都心に働きに行く人たちのベッドタウンで、ファミリー向けのマンションや建売住宅などが並んでいる。
都心に近づくにつれ、電車も混み合ってくる。今日も例に漏れず、と言ったところだ。体の向きを変えるのも容易ではない状態だ。低身長の私は大抵人の胸あたりに顔が来てしまうのでどうしても人が持っている鞄が顔に当たったりコートのボタンに髪の毛が引っかかったりしてしまうが、これが私の日常で、六年間で大分慣れた。
駅に着くと雪崩のように電車から人が降りていく。出勤時間に遅れまいと急ぐ人の波にのって私も歩く。小柄な私にとって満員電車はとても疲れる。
「フゥ。」
小さくため息をつく。
人の迷惑にならないように前で抱っこするように持っていたバックパックを背中に背負い直しながら改札を抜けたその時…
驚きで目を見張ってしまった。
改札を抜けてすぐの柱に寄りかかり、ピンストライプの三つ揃えを着たカズくんが両手をズボンのポケットに入れて立っていたのだ。背が高く、足も長い。小顔で鼻筋も通っていて切れ長の目が色っぽく見える。きちんとオールバックに整えられた髪の毛からは芯の強さがあらわれている。
人混みでごった返す改札付近でも人目を引きつける容姿端麗な姿に見惚れてしまうのは私だけでは無いようで、行き交う人たちが振り返ったり、カズくんを見ながら何かささやきあっている。
カズくんはまだ私に気づいていない様子だ。背の低い私は人混みに埋もれているから。
立ち止まっていた私にサラリーマン風の中年男性が後ろからぶつかってきた。その勢いで前に転びそうになる。近くにいた男子大学生風の若者がとっさに腕をつかんで助けてくれた。
「大丈夫ですか?」優しく声をかけてくれ「大丈夫です。ありがとうございます。」とお礼を言いかけたときまだ支えてくれていた腕を振りほどくように肩を引っ張られた。
「ありがとうございます。彼女を助けていただいて。」
頭の上から声がして振り向くとカズくんが後ろから私の肩を抱くようにして立っていた。
その後男子大学生風の若者が見えなくなるまで無表情で見つめていたカズくんが少し眉をひそめ、私の手を握って来た。
一瞬ドキッとしたが、これも偽装彼氏役をしてくれているんだな、演技だ。と気づいた。
カズくんの手は大きく、そして冷たかった。
「カズくん、手、冷たい。」
声をかけるが、チラッとこっちを見ただけで無言で手を引いて歩き始めた。
「カズくん、おはよう。何か…怒ってる?」
背の高いカズくんの顔を下からのぞき込むように見上げ、たずねる。
今朝はちゃんと約束通り家を出る前に連絡もした。気分を害すようなことは何もしていないはず。
それとも怒っていると思ったのは気のせいで、ほぼ無表情の彼の気持ちを読み間違えてしまったのだろうか。
カズくんは立ち止まり、少し背をかがめて私と目線を合わせた。
「怒ってないよ。紬には。」
と一言。
近くで見る彼の頬が寒そうに少し赤らんでいた。思わず手を伸ばして触る。
「冷たい!上着もマフラーも無くあんな所に立ってるからだよ!」
つい子どもを叱る調子で言ってしまった。
カズくんは少し口角をあげて表情が和らいだように見えた。
またかずくんから手をつないできて歩き始める。
周りの目が気になり、キョロキョロしてしまう。
「また転びそうになってた。」
「あ、あれは…良くあることだから。」
「守ってあげるって言ったのに、ごめん。他の人に助けられるところを見るなんて…」
そこまで言うと言葉に詰まったように黙り込んでしまった。
そのまましばらく歩いたが、私の方から手を離した。
「もうお互いの職場の近くだから。」
その言葉に納得をしたのか小さくうなづき、隣に並んで歩き始めた。
背の高いカズくんは私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。それがなんとも言えず心地よかった。
保育園の入っている雑居ビルの近くまで来た。
「じゃあ…」と手を振って別れようとしたとき
「紬、ちょっと…」
ビル横の細い通路に腕をつかんで引き込まれた。一瞬驚いてカズくんを見上げる。
両手を顔をに当ててキスをされた。親指でカバーした偽装のキスを…。
まだ戸惑っている私を胸に抱きしめ「虫除け。」とささやく。
「え、またいたの?あの人。」少しおびえてカズくんのスーツを強く握ってしまった。
「いや。居たらいけないから。どこで見てるかわかんないだろ。」
それもそうだ、とも思うが朝からこんな…
「で、でも恋人同士って、朝からこんな感じなのかな?」
カズくんの胸の中は安心できる。柑橘系の爽やかな香りと広い胸。
「んーわからないけど、こんなもんじゃないの?」
とぼけたような返事。
慌ててカズくんから離れる。
「わからないのにやってるの?!」
カズくんがプッと吹き出すように笑う。たっくんに向けるようなくしゃっとした笑顔だった。
「紬は表情豊かだな。目をまん丸にしたり、プゥッと膨れたり。」
お団子にした髪の毛の上から頭を撫でられた。
「あー!今馬鹿にして笑ったね!もう!!」
ふくれっ面で怒ったように言ってしまったが、内心カズくんの笑顔が見られてうれしかった。心がポカポカと暖かくなるような感覚だ。
「仕事、終わったらちゃんと連絡すること!わかった?」
子どもに言うような言い方をされ、ちょっとカチンとくる。恋人、と言うより子ども扱いなのかも。
「わかってるよ!でも、もうこんなふうに迎えに来たり送ったりしなくていいからね!」
両手を腰に当てて強がって言う。
カズくんはフッと微笑んだだけで何も答えず、ビルの入り口に向かって歩き始めた。あわてて後ろをついてビルの入り口まで行く。
軽く手を振りビルの中に入ろうとすると「紬!」と呼びかけられ、立ち止まる。
「行ってらっしゃい。」無表情だが少し口角を上げて言う。
「行ってきます。カズくんも行ってらっしゃい!」ついつい笑顔全開で挨拶をしてしまった。益々子どもっぽいと思われてしまったかも知れない。
「行ってきます。」軽く手を上げてそう言うカズくんは恐ろしいほどかっこよかった。
偽装の恋人を演じるのはハードルが高いな、と思った。エレベーターの中は一人だったのに自分の心臓の音がやたらと響くような気がしてうるさかった。
私は私。
首にはいつものマフラーを巻く。以前、里美に白いマフラーが似合うと言われてから白いマフラーを愛用している。
玄関でカズくんに連絡をしていないことを思い出した。スマホのメッセージアプリを開いて『おはよう。これから家を出ます。』と短いメッセージを送る。すぐに『おはよう。気をつけて。』と返信があった。
彼氏なんていたことが無いから家を出るとか、こんなにこまめな連絡に慣れていない。世の彼氏彼女達はこんな日常を送っているのだろうか…。と想像してみる。
秋の深まりと共に肌寒さが増してきた。駅まで歩く道のりは頬に当たる風が冷たい。橋の上をゆっくりと歩きながらふとカズくんの事を考えた。
(何しているだろう。さすがにまだ家にいるのかな?家はどこだろう。カズくんて、何歳なんだろう。私よりは年上に見えるけど…。)
そんなことを考えていて、ふと気づいた。
(私、カズくんの事何も知らない。)
当たり前だった。偽装の関係なのだから。無理に知る必要も無いのかもしれない。そう思ったとき冷たい風が心の中を吹き抜けるように胸がギュッとなる。
無意識にマフラーをきつく巻きなおした。
朝7時過ぎ、都心に向かう電車は少し混み合っている。出入り口付近に立ち窓の外を眺めながら電車に揺られた。このあたりは都心に働きに行く人たちのベッドタウンで、ファミリー向けのマンションや建売住宅などが並んでいる。
都心に近づくにつれ、電車も混み合ってくる。今日も例に漏れず、と言ったところだ。体の向きを変えるのも容易ではない状態だ。低身長の私は大抵人の胸あたりに顔が来てしまうのでどうしても人が持っている鞄が顔に当たったりコートのボタンに髪の毛が引っかかったりしてしまうが、これが私の日常で、六年間で大分慣れた。
駅に着くと雪崩のように電車から人が降りていく。出勤時間に遅れまいと急ぐ人の波にのって私も歩く。小柄な私にとって満員電車はとても疲れる。
「フゥ。」
小さくため息をつく。
人の迷惑にならないように前で抱っこするように持っていたバックパックを背中に背負い直しながら改札を抜けたその時…
驚きで目を見張ってしまった。
改札を抜けてすぐの柱に寄りかかり、ピンストライプの三つ揃えを着たカズくんが両手をズボンのポケットに入れて立っていたのだ。背が高く、足も長い。小顔で鼻筋も通っていて切れ長の目が色っぽく見える。きちんとオールバックに整えられた髪の毛からは芯の強さがあらわれている。
人混みでごった返す改札付近でも人目を引きつける容姿端麗な姿に見惚れてしまうのは私だけでは無いようで、行き交う人たちが振り返ったり、カズくんを見ながら何かささやきあっている。
カズくんはまだ私に気づいていない様子だ。背の低い私は人混みに埋もれているから。
立ち止まっていた私にサラリーマン風の中年男性が後ろからぶつかってきた。その勢いで前に転びそうになる。近くにいた男子大学生風の若者がとっさに腕をつかんで助けてくれた。
「大丈夫ですか?」優しく声をかけてくれ「大丈夫です。ありがとうございます。」とお礼を言いかけたときまだ支えてくれていた腕を振りほどくように肩を引っ張られた。
「ありがとうございます。彼女を助けていただいて。」
頭の上から声がして振り向くとカズくんが後ろから私の肩を抱くようにして立っていた。
その後男子大学生風の若者が見えなくなるまで無表情で見つめていたカズくんが少し眉をひそめ、私の手を握って来た。
一瞬ドキッとしたが、これも偽装彼氏役をしてくれているんだな、演技だ。と気づいた。
カズくんの手は大きく、そして冷たかった。
「カズくん、手、冷たい。」
声をかけるが、チラッとこっちを見ただけで無言で手を引いて歩き始めた。
「カズくん、おはよう。何か…怒ってる?」
背の高いカズくんの顔を下からのぞき込むように見上げ、たずねる。
今朝はちゃんと約束通り家を出る前に連絡もした。気分を害すようなことは何もしていないはず。
それとも怒っていると思ったのは気のせいで、ほぼ無表情の彼の気持ちを読み間違えてしまったのだろうか。
カズくんは立ち止まり、少し背をかがめて私と目線を合わせた。
「怒ってないよ。紬には。」
と一言。
近くで見る彼の頬が寒そうに少し赤らんでいた。思わず手を伸ばして触る。
「冷たい!上着もマフラーも無くあんな所に立ってるからだよ!」
つい子どもを叱る調子で言ってしまった。
カズくんは少し口角をあげて表情が和らいだように見えた。
またかずくんから手をつないできて歩き始める。
周りの目が気になり、キョロキョロしてしまう。
「また転びそうになってた。」
「あ、あれは…良くあることだから。」
「守ってあげるって言ったのに、ごめん。他の人に助けられるところを見るなんて…」
そこまで言うと言葉に詰まったように黙り込んでしまった。
そのまましばらく歩いたが、私の方から手を離した。
「もうお互いの職場の近くだから。」
その言葉に納得をしたのか小さくうなづき、隣に並んで歩き始めた。
背の高いカズくんは私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれる。それがなんとも言えず心地よかった。
保育園の入っている雑居ビルの近くまで来た。
「じゃあ…」と手を振って別れようとしたとき
「紬、ちょっと…」
ビル横の細い通路に腕をつかんで引き込まれた。一瞬驚いてカズくんを見上げる。
両手を顔をに当ててキスをされた。親指でカバーした偽装のキスを…。
まだ戸惑っている私を胸に抱きしめ「虫除け。」とささやく。
「え、またいたの?あの人。」少しおびえてカズくんのスーツを強く握ってしまった。
「いや。居たらいけないから。どこで見てるかわかんないだろ。」
それもそうだ、とも思うが朝からこんな…
「で、でも恋人同士って、朝からこんな感じなのかな?」
カズくんの胸の中は安心できる。柑橘系の爽やかな香りと広い胸。
「んーわからないけど、こんなもんじゃないの?」
とぼけたような返事。
慌ててカズくんから離れる。
「わからないのにやってるの?!」
カズくんがプッと吹き出すように笑う。たっくんに向けるようなくしゃっとした笑顔だった。
「紬は表情豊かだな。目をまん丸にしたり、プゥッと膨れたり。」
お団子にした髪の毛の上から頭を撫でられた。
「あー!今馬鹿にして笑ったね!もう!!」
ふくれっ面で怒ったように言ってしまったが、内心カズくんの笑顔が見られてうれしかった。心がポカポカと暖かくなるような感覚だ。
「仕事、終わったらちゃんと連絡すること!わかった?」
子どもに言うような言い方をされ、ちょっとカチンとくる。恋人、と言うより子ども扱いなのかも。
「わかってるよ!でも、もうこんなふうに迎えに来たり送ったりしなくていいからね!」
両手を腰に当てて強がって言う。
カズくんはフッと微笑んだだけで何も答えず、ビルの入り口に向かって歩き始めた。あわてて後ろをついてビルの入り口まで行く。
軽く手を振りビルの中に入ろうとすると「紬!」と呼びかけられ、立ち止まる。
「行ってらっしゃい。」無表情だが少し口角を上げて言う。
「行ってきます。カズくんも行ってらっしゃい!」ついつい笑顔全開で挨拶をしてしまった。益々子どもっぽいと思われてしまったかも知れない。
「行ってきます。」軽く手を上げてそう言うカズくんは恐ろしいほどかっこよかった。
偽装の恋人を演じるのはハードルが高いな、と思った。エレベーターの中は一人だったのに自分の心臓の音がやたらと響くような気がしてうるさかった。



