「まだうちの会社もここまで成長していなかった頃だ。私は父を早くに亡くしてね。会社を継いだ時もまだまだ若造で、右も左も分からない状況でとにかく必死に経営していたんだ」

「そうだったんですか……」

「町田という社員については聞いたかな?」

「え、ええ」

「そう、それがすべての始まりだ。私にとってはあまり知らない社員の一人だった。大事な取引先を怪我させえらく怒らせたってことで、理由も聞かずに責任を取れと叱責したのを今でも覚えている」

「それで、祖父がそちらに殴り込みに行ったと」

 私が恐る恐る聞いてみると、八神社長は大きな声で笑った。

「殴り込みか、物騒な言い方だ。だがまあ勢いはそれくらいあったな。会社の受付で私に話があると言い動かず、たまたま通りがかってしまった私を見るなり、会社に響き渡るような声で怒鳴り散らされた」

「ひえっ……」

「『社員を一人の人間として尊重出来ない会社はすぐに滅ぶ』『経営してる人間としてもっとしっかりしろ』と」

 笑いながら彼は言うが、私は冷や汗ものだ。おじいちゃん、あまりに無謀すぎる!

 聞いた話では確かに八神社長に非はあったが、だからと言ってほかの社員の前で叱責はよくないことだ。しかも自分より大きな会社に。私から言わせれば、おじいちゃんももっと経営者として冷静さを身に着けるべきだったな。

「そ、それは、祖父がとんだご迷惑を」

「迷惑? とんでもない。
 私は彼の言うことを聞いて目がさめたんだ。事実、町田さんに事情を何も聞かず辞めさせた。まさか、彼女が酷いセクハラに遭っていたなんて全然考えもせず。
 あの頃、うちの会社は経営が危ない頃だったんだ」

 驚きで目を丸くした。でもそういえば理人さんも、そんな時期があったと言っていた。そりゃずっと順調に経営し続ける会社は稀だ、どこも波はある。でも、やっぱりあの八神にそんな頃があったなんて想像しにくい。

「自分に何が足りないのか分かった気がした。あの後、私は慌てて町田さんに連絡して、戻ってきてもいいと伝えたんだ。だが振られた。うちよりずっと小さいけど、五十嵐さんのところで働きたいんですってきっぱり言われてね」

 苦笑いしながら彼は言う。

「それから考え方を改めて、社員の立場や気持ちを思って経営するように心がけた。働く環境に気を付け、もちろん給与のことも考え直した。そうすると社員のモチベーションがあがり、業績や効率も上がり、徐々にだが会社は成長していった。あなたのおじいさまが、あの時私に叱ってくれなければ、今の八神はないんだよ」

 優しく目を細めて彼は言う。その顔に、偽りはないように見えた。では、恩がある、というのは、祖父に経営について怒鳴られたことだというの?

 信じられない。祖父の驚きの行動を、そんなふうに受け取っただなんて、この人自身も元々とてもいい人じゃないだろうか。