仕事が終わりあがったのは、もう二十二時を過ぎたころだった。

 疲れてへとへとになった自分は、いまだ傷が地味に痛む足に気づかないふりをしながら帰路についていた。じめっとした暑さが汗を出し、気持ち悪かった。

 電車に揺られ、あのマンションへ向かう。慣れないオートロックのエントランスを抜け、エレベーターで時間をかけて上昇していく。

 理人さんはまだ帰宅していないかもしれない、と思いつつ家の前に立つ。鍵で中に入ると、中の電気が付いていることに気が付いた。玄関には磨き抜かれた革靴が一足置いてある。

 帰ってるんだ。

 私は靴を適当に脱ぎ捨てた。そして無言のままリビングへ向かっていく。廊下を抜けて扉を開くと、ソファに腰かけている理人さんの姿が目に入った。

 彼はまだスーツ姿のまま、テレビもつけないままでいた。私に気づくと、はっとしたようにこちらを見て、安堵に包まれたような顔になる。

「京香さん、おかえりなさい」

 私は持っていた鞄を適当にその場に放る。そして挨拶もしないまま、黙って彼に近づいた。

「京香さん? 足、大丈夫ですか? あの、昨晩は」

 言いかけたのを、止めた。私の顔を見て、何かただ事ではないと気づいたらしかった。顔をがちがちに強張らせ、今にも泣きだしそうに目を真っ赤にしている私を見れば、普通なら感づく。

「……どうしました」

 私を見上げる。

 驚いたような、心配そうな顔をしている理人さんをみて、なんとも言えない気持ちになった。

 そのまま勢いよく、私は彼に向かって頭を下げた。

「お願いします、理人さんから婚約を破棄してください!」

 切羽詰まった自分の声は、不格好にも涙声だった。

 徳島さんに少し待ってもらうことになった自分だが、愚かなことに思いつく策はこれしかなかった。正直に頭を下げて、相手に許しを乞う。今自分にできることはこれ以外ない。

 嫌われる努力もすべて捨てて、ありのままの自分でお願いする。理人さんから結婚を断って貰って、援助の話をなしにしてほしい。

 理人さんのお父さんがうちを恨んでいることはよくわかった。でも、息子である理人さんは多分直接的に恨みはないはず。彼の良心にかけたかった。うちの家族はどうなってもいいから、社員のみんなが、今までと同じように働いていける環境が欲しい。お母さんが残してくれたものをそのまま残したいのだ。

「私からできないの、分かってると思います。穏便にすませられませんか。
 社員の人たちを守りたいんです、お願いします。理人さんから断ってください……恨むなら、会社じゃなくて、私個人を」

 涙が垂れて床に落ちる。小さな水たまりが足元に仕上がった。

 元の状態に戻してほしい。何とか理人さんの力で、穏便に終わらせられないだろうか。買収されるだけで、憎いうちという会社は無くなるし父も経営できなくなる。それで十分ではないか。これ以上、壊さないでほしい。

 色々言いたいことがあるのに、泣いて上手く言葉が出てこない。
 
 理人さんもうちと八神のことを知っていてこの話に乗ったんだという恨みとか、私を油断させるためにキスまでしたことを責めるだとか、今はそんなこと何も出来なかった。

 どうかうちの社員を助けてほしい。それだけだ。

「八神に比べたら少ないけど、母が必死に守ってきた社員たちなんです。大事なんです。あの人たちをどうしても守りたい。だから……理人さんから結婚をなしにして、社員を守れるようにお父様に相談してくれませんか……お願いします」

 頭を垂れて、何度も願った。昔のことを忘れて見逃してほしい。それだけ。

 しばらくそのまま涙を零して頭を下げ続けた。一体どれくらいそうしていただろう、静寂の中で自分の鼻を啜る音だけが響いていた。

 だがそんなとき、かすかな理人さんの声が、ぽつんと漏れた。



「そんなに……僕との結婚、嫌ですか」



 予想していたとはまるで違う言葉に、驚きで顔を上げる。そして目の前に見えた彼の表情を見て、私は言葉をのんだ。

 苦しそうに、それでいて悲しそうに、彼は視線を落としていた。いつも涼しい顔をしていた理人さんのそんな表情を見たのは初めてで、私は息を止めて立ち尽くした。

……どういう意味?