朝日とは随分柔らかいのだと、私はここで朝を迎えて初めて知った。
鳥のさえずりに木々のゆらめき、花や大地の生きた香り。春の朝日はそれら全てを抱きとめて、柔らかな風と共にこの離れの部屋へと運んでくれる。

「きのうとは比べ物にならないくらいの晴天だ」

バケツをひっくり返したみたいに青一面で埋まった青空。驚くほどスッキリとした目覚めに、私の気分はそれはもう爽快だった。

「んぅ…」

隣の衣擦れに首をひねれば、まだ冷え込む空気に身を縮こませた竜胆さまが丸め込むように私の腕を抱き込んでいる。
こりゃちょっとやそっとじゃ起きないかもなぁと苦笑して、初めは優しく彼の布団をトントンと揺らした。

「竜胆さま、朝ですよ」

「んっ…あす、かぁ?」

「はい、飛鳥です。おはようございます」

「はよっ、ぅ」

「ふふ」

忘れられてたらどうしよう、なんて一抹の不安も杞憂に終わった。
うっすらと瞼を開いた竜胆さまは、その美しい瞳に私の姿を映し込むと、とろんと嬉しそうに綻んでくれる。

「朝ごはん準備してきちゃうので、ちょっと腕を離してもらっても良いですか?」

「…や、おぇ、も…」

「準備が終わったらちゃんと呼びに戻ってきますから。もう少し寝てて、ね?」

「…ん、ぅ。まって、る」

「はい」

のっそりと持ち上がった腕の合間から脱出して、ほとんど使うことがなかった自分の布団を畳んでしまう。
壁掛け時計を見れば時刻は六時を回った所。大体あと一時間後くらいに声をかければいいかと二度寝に洒落こんだ竜胆さまを見下ろして、私は手早く身支度を整えた。
昨晩この引き出しに着替え一式を用意してるから、なんて言われた茶箪笥から服を取りだし、ぺたぺたと冷たいフローリングを進んで浴室を目指す。
昨日はなんだかんだと体をきよめる暇も無かったし、適当にシャワーを浴びてから一日を始めることにした。

「えーっと卵に…」

朝食は一先ず和食にしよう。きっと彼の舌に馴染むのは和食だろうし、好き嫌いは特にないと言っていたから一先ず栄養バランスや彩りを念頭に脳内で献立を並べた。

「あ、あと対双子用に激苦特製ブレンドも準備しなきゃ」

忘れちゃいけない重要ミッション。どグソ野郎に撒く塩と劇物を用意すること。
流石に昨日の今日でここを訪ねてくるとも思えないが念には念を。と言うか、もはや毎日の日課にするので今日は記念すべき第一日目だ。
お嫁さんを取られ続けた竜胆さまの心中はきっと穏やかじゃないだろうし、昨日の態度からしてみてもあまり兄弟仲は良好では無いのだろう。
ここは私が一役買ってやらねばと決意を新たに闘志を燃やし、ミキサーですり潰した苦味のある野菜たちを裏ごししてコーヒーに混ぜていった。

ー…これは、最悪死人が出てしまうのでは。

右手に抱えたコーヒーカップ。その中身は心なしかグツグツと煮えたぎるように泡を吹き出し、時折緑色の何かが弾けては激臭を放つ。
あれ、もしかして私とんでもないブツを生み出してしまった…?なんて後悔もそこそこに、私はさらに引っ掴んだ塩を握りしめて境内の鳥居前に向かった。

「取り敢えず結界みたいな感じで出入りできないようにしとこ」

神社唯一の出入口。打ち水のごとく特製ブレンドを撒き散らし、さらに追い打ちをかけるように左手いっぱいに掴んでいた塩も降りたくる。
…あれ、これって効果がなかったらただ食べ物を無駄にしているだけなのでは。と罪悪感が胸を閉めたが、それでもまだ幾分か双子殿に対しての効果が見込める間だけは続けさせてくれと誰にでもなく言い訳をした。

「さて!それじゃあそろそろ竜胆さまを起こしに行くか」

パンパンと達成感に手を払って、空になったコーヒーカップ片手にくるりと踵を返す。
朝食準備は残すところご飯が炊けるのを待つのみであったし、竜胆さまに声をかけているうちにそれも完了する頃合いだろう。
朝食を終えたら今日は手始めに離れの掃除、それから炊事場周りも綺麗にしたいなと今日の予定を組み立てていれば、不意に背後でカツン、と石階段を蹴りあげるような硬質な音。
野鳥か野良猫でも遊びに来たのだろうかと呑気に思っていれば、段々とその足音にも似た何かが近づいてきて。


「おわくっせーーーーーーーッ!!!!!」

「えっ!!!?」


キンッ、と境内中に響き渡るのではないかと言うほどの大声に私は目を見開いて振り返る。
いやだって野良猫もカラスもスズメも普通は喋ったりしないし。ならこの声の主は明らかに人、もしくは私が呑気にも邂逅フラグを建てまくっていた例の人物しか居ないわけで。

「んだこの激臭!鼻曲がるっつーか頭イカれる!にっげ!何かもう呼吸がにげぇ!」

「いや嘘でしょまじ?昨日の今日にしてこんな簡単にエンカウントすることってあるの世の中。正直全然会いたくないって言うか心の準備とか全く出来てないんですけど」

「ちょ、何ブツブツ言って…ってアレ?女の子がいる」

「ギャッ、ばれた!!」

パタパタと着流しの袖口を振って匂いを追い出していた目の前の男。その男の黒とも赤ともとれるような不思議な色合いをした瞳が、じっと私の姿を見視認した。

「ここに居るってことはアレか、君も竜胆の。あ、俺の事わかる?」

「どグソ…けふん。竜胆さまのご兄弟、ですよね」

「え、なんか今信じられない暴言聞こえたんだけど幻聴?」

「信じられないなら幻聴だと思います」

ぴょん、と帯状に伸びた激臭を飛び跳ねて回避した男は、若干眉をひそめながらもジャリジャリと砂を踏みにじって境内を進む。明日からはゴーヤとピーマンを割増して何とか拡散できるようにしよう、なんて特製ブレンドの改良を胸に誓って彼の様子を観察していれば、男は私から歩幅三歩分辺りのところで足を止めた。

「なんか君変な子だね。普通妖前にしてんだからもっとビビったりするもんじゃないの?それかカッコイーって黄色い声援送るとか」

こてりとイマイチ腑に落ちない顔色で首を傾げた彼に、こちらもちょっと意味がわからないと首を捻って応戦する。

「いや…。妖って言われても私竜胆さましか知りませんし。妖が怖いって思う前例がそもそも何も無いのでなんとも…」

「じゃあ好印象ってこと?」

「それはあくまで竜胆さまに限った話ですよ?妖がって一括りにできる事じゃないでしょ、多分」

「ふーん…。あ、じゃあ黄色い声援は?」

「それはもっと意味わからん」

「えーっ」

いやえーってなんだよ。と言うか本当にこの人?妖?めっちゃ馴れ馴れしいんだが。気づけば充分に用意されていたはずの間合いも着々と縮められているし、もはや私は真上でも見上げる勢いで至近距離に立つ彼のことを見ている。

「はは、君ほんと変わってんね。自慢じゃないけどさー、俺にこんだけ近づかれて顔色一つ変えない子って中々いないよ?」

真っ赤にも真っ青にもなんねー、なんてケラケラ楽しそうに笑う男に、私ははあ、とただ生返事を送るだけだ。

「きゃーかっこいい抱いてーとか、殺されるーとか、そう言うの全く無いわけ?」

「はぁ、無いですね…」

「ふぅん、生意気」

「あでっ」

つん、とほんの少し強めに額を指先で小突かれて。涙混じりに見上げた男の顔は確かに竜胆さまと遜色ないほどに美しく、人間離れしていた。
瞳の色さえ除いてしまえば顔の造りもよく似ている。ただ、表情の作り方がまるで違うように見えた。
そして、彼の指先は酷く熱い。

「今回はまた随分と毛色の違う女の子だと思ったけど、君やっぱ面白いわ。ね、名前は?俺は椿って言うんだけど」

「はあ、椿さん」

「うん。で、君の名前。教えて?」

「いやそれは無理ですね」

「えっ今の流れで断るの!?」

「だって昨日のたった一日だけでも貴方には用心しろって竜胆さまに口酸っぱく言われちゃったんで。多分こうして話しているのですらおいおい怒られる…」

「あすか!!」

「ああほらもう最悪だ。ド修羅場だ」

嫌な事って嫌なほど連続して起こるよね。
それに名前も意図せずあっさりバラされちゃったし。

まさか私までもが修羅場に巻き込まれるとは思わなかったな、なんて魂を飛ばすように遠い目をしていれば、ざかざかと駆け足で近づいていた足音が私の真後ろ、と言うか私を抱え込む形で止まる。

「…おこしに帰ってくるって言った」

きゅうっ、と肩に回された腕。それをポンポンと優しく叩いて、できるだけ安心させるように柔らかく笑う。

「ごめんなさい。朝からちょっと天災に巻き込まれて…」

「ちょっと待って天災って俺の事?君ほんわかした顔して結構な毒吐くよね」

「あすか、アレは歩く猥褻物だから見ない方がいい。俺の事だけ見てて」

「おいおい酷い言い草じゃねえの竜胆。ほぼほぼ同じ顔しといてよく言うわオニーチャン?」

「お兄ちゃんじゃない」

「おとーとがいいって?んまどっちでもいいか、対して変わんねぇし。なあお嬢ちゃん」

「あすか耳も塞ごう。アイツの声からは対人間用の有害物質がでてる」

「まじですか!?」

「ンなわけあるか。ちょっと君たちの会話ふわふわしすぎじゃない?」

つうか竜胆が過保護すぎんだわ、と椿さんは分かりやすく肩を竦めて見せた。

「俺はまだなんもしてねえし。そんなに警戒されると悲しいんだけど?」

「いや自業自得じゃないですか?竜胆さまの歴代奥方に漏れなく手を出してたんじゃ警戒されて当たり前ですよ」

「奥方ー?…っつぅとアレか、毎年無理やり送り付けられてた供物の」

「えっ供物…!?」

「…椿、余計なこと言わないで」

「んだよ。お前自分は食わねえ要らねえって言ってたじゃん。あれ実は怒ってたのか?」

「全然怒ってない、けど今の余計な発言には怒ってる」

なんだか双子が言い争いをしているが正直こっちはそれどころじゃない。
何ともまあ無視できない物騒なワードに私は慌てる。そらもうめっちゃ慌てた。

ーえ、歴代の奥方様ってやっぱり人身供物が目的…?てことはイコール私も供物じゃん?物理的に美味しく頂かれるってこと…?

まさか今日綺麗にしようと意気込んでいた炊事場で近い未来私が調理される事になるとは、なんて皮肉…っていうか絶対嫌だな。

「ちょっ、竜胆さま。痛くしないで…!」

「えっ!…う、うん。しない、よ?優しく、うん。大事にする、けど…」

「えー、緊張するなら竜胆の前に俺で練習すれば?俺上手いし、痛いことなんて絶対しないよ?」

「いやいや誰がどうやったって痛いですよ。あの、せめて怪我した時の血をちょこっと分けるとか…。最悪ほらあの、吸血鬼みたいな感じでちゅうちゅう吸ってもらえれば…」

「…あれ、この子なんか勘違いしてない?」

「…あすかはそのままでいて。俺が大事にするから」

「え、っちょ、ぐ、ぐるじぃ…!」

がばちょと力強い抱擁から逃れるようにじたばたと暴れる。
そこでふと目に止まったのが昨夜竜胆さまに思い切り吸いつかれて残った赤黒いあざ。も、もしかしてこれも本当は…なんて私が青ざめたのを目敏く見つけた椿さんが、珍しいものを見たように切れ長の瞳をぱちくりと数度瞬かせた。

「竜胆、それ…」

「見ないで」

「いや無理だろそんな分かりやすいとこ。…つうか何お前、めっちゃ本気じゃん。そんなん初めてだろ」

「椿には関係無いでしょ」

「いやいや何言っちゃってんの。かわいーかわいー兄弟の色事なんて、俺が首突っ込まない訳なくない?」

「最悪だお前」

ぶちぶちと恨めしそうに睨みつける竜胆さまに、椿さんは至極楽しいとでも言うようにニヤリと笑った
これはあれだ。多分彼は性格が悪い。

「あの、竜胆さま。取り敢えず朝ごはん食べちゃいませんか?私もう結構空腹で…」

「え、なに。朝飯って君が作ってるの?」

「まあ一応嫁ぎに来ましたから」

「あー、なんか君の場合は嫁ぐってのあながち間違いじゃ無さそうだよねぇ。ごしゅーしょうさま」

「竜胆さま。なんかあの人めっちゃ失礼です」

「ごめんね。なるべく視界に入れないように母屋に戻ろう」

「あ、待って待って俺も食いたい!つか食うから!あのねー、俺の好物は甘いもの!」

私の肩を抱いて翻った竜胆さまは、つかつかと椿さんを引き離すように早足で進む。
しかし椿さんもさしてきにした様子もなく、と言うかむしろ意気揚々と楽しげな口調で私たちの後をついてまわった。勝手知ったる、と言った様である。
昨日竜胆さまも言っていたように、彼もまたこの神社に帰ってくるべき一人なのだろうと言うことを何となく肌で感じながら、明日からはもっと苦味の強いコーヒーを三杯分くらい撒いてやろうと私は心に誓った。