「ここ、入って」

「はい」

案内されたのは離れの一室。敷地内に幾つか点在する建物の一つで、板張りの床があげる悲鳴から随分と年季のある建物であるのだと察せた。

「この離れと庭は好きにしてくれて構わないから。過ごしやすいように動かして。この先の廊下は全部の建物に繋がってて、四隅にある建物がここと同じ作りの離れ。それで中心が本殿もある母屋ね。風呂と炊事場は母屋にしかないから、必要な時はそっち。でもそれ以外の時はここで過ごしてくれると助かるかな」

「そ、それは勿論!と言うかこんなに立派な部屋を与えてもらえるとは思わず…むしろ良いんでしょうか、私なんかがこんな…」

普段の生活様式とはまるで違う様に目をむいた。いくら古ぼけたとは言ってもこの広大な敷地、あまつさえ庭までも自由にしていいと言われるとは全く予想していなかった。
だって庭を好きにいじれるなんて、季節の花も食べられる野草も、この立派な木だって剪定して、四季折々の風情を楽しむことが出来るということ。
こんな好条件とてもタダでは受け入れられず、信じられないとでも言うように竜胆さまを見上げれば、彼はああとつまらなそうに呟いて細く息を吐いた。

「まあ年頃の娘を住まわせるにはボロ臭い所だと思うけどさ。欲しいものがあれば言ってくれれば与えるから、とりあえず我慢して…」

「え、私の話聞いてます?待遇が豪華すぎて身の丈に会わないって話をしてるんですよ!!」

「え?」

ー…どうしよう、いまいち話が噛み合わない。彼が冗談を言っているような感じもしないし、かと言って私の主張を理解してもらえている様子もない。

もうこりゃダメだ。今の私たちに意思疎通なんてもんはない。そもそも妖と人間の価値観が同じなはずもないし、ここは一先ず私の主張だけを聞いてもらうことにする。

「あのですね、私がここに嫁ぐことで、家にいる父は一年間食うも生きるも苦にならない暮らしを保証させて頂いてるんです。今朝ここに来る前、そりゃもう大量の米やら保存食やらを何往復もして家に運びました」

「えっと、うん。まあ、嫁入りとは言え娘を生贄に差し出しているようなものだし、村としては妥当な判断なんじゃないの?」

「ええ、お陰で父は今まで以上にいい暮らしが出来るはずと、私は柄にもなくはしゃいでしまった訳でして。だからもうこれは相当の恩返しをしないと帳尻が合わないというか、むしろ奉公人のような気持ちで私は今日ここを訪ねさせていただいたんです」

「うん?」

「そしたらまあ信じられないほど住み心地の良さそうな場所を提供して頂いて、あまつさえそこを自由にしていい、更には欲しいものを何でも与えるなんて、マジで罰当たりそうで怖いというか。私の庶民…いや貧乏的な金銭感覚ではまるで理解が追いつかなく…」

ぶちぶちと並び立てる私の主張。端的に言ってしまえばタダより怖いものは無いのだから、何かしらの仕事を与えて帳尻を合わせて欲しいというお願いだ。贅沢をしろと金を渡されるより、窓をピカピカに磨いて欲しいと頼まれた方が心が軽くなる場合もある。今の私は完全に後者の人間なんだと、懇切丁寧に力説してみせた。

「だからですね、手始めに風呂掃除なんかをさせて頂ければと。浴室があるくらいですし、竜胆さまも普段から利用なさってるんですよね?」

「え、う、うん」

「それなら私が磨き上げて湯をためておきます!丁度夕暮れ時ですし、あ、一度見に行ってみてもいいですか?」

「え?あ、こっち…」

おろ、と多少戸惑いながらも竜胆さまは律儀に浴室の場所まで案内してくれて、次いでにその先には炊事場があるとも教えてくれた。
ありがとうございますと簡潔にお礼を告げて、私は一度離れに戻ると感慨もなく白無垢を脱ぎ去る。一応シワがつかないようにと吊り上げて壁に立て掛け、中に着込んでいたTシャツとジャージ(お父さんには散々止められたが早速役に立った)の裾をまくってすぐさま浴室の中を確認する。薪をくべて温度調節…なんて事になってたらどうしようかとも思ったが、ちょっと豪華な造りのお風呂は電気ボタン一つでお湯が湧く現代システムのようだった。

「よかった…流石にお風呂を火で沸かしたこと無いから…」

ご飯や洗濯ならひと通り家電を使わずに済ませることも出来るが、お風呂ばっかりは使い勝手が未知数だ。思わぬハイテクぶりに感謝しながら丹念に泡を擦り付け、ぬめり一つ無いように水圧を増したシャワーを当てる。
温度調整はいじらず、ぴっぴとボタンを押してお湯を沸かせば完璧だ。十分もかからず竜胆さまが一番風呂に浸かることが出来るだろう。
私はふんと一つ鼻を鳴らし、仕事を終えた達成感をみなぎらせながら浴室から出て濡れた手足を丁寧に拭いた。

「…お、洗濯機もある。って事は、炊事場にも電気とガス通ってる可能性大だな!」

ふんふんと鼻歌交じりに使ったタオルを洗濯機に放り、脱衣場から廊下へ続く引き戸の取っ手へ指をかける。

「ふんふん、ふんふふ…っんわッ!竜胆さま!!」

ご機嫌で開いた扉の先。ぱっと開けた視界の先で、壁に持たれるようにしてこちらを見つめる真っ黒な瞳と目が合った。
私が慌ててカエルがひっくり返ったような声をあげれば、竜胆さまもほんの少し驚いたように肩を揺らし、それからこてりと首を傾げて、ごめんねと酷く困ったように眉尻を下げる。

「えっ、いやいや!竜胆さまが謝ることなんて何も無いですよ!私が上機嫌に下手くそな鼻歌ぶちかましてただけなので…。むしろ耳が腐ったら申し訳ないというか、どうお詫びしてしかるべきかと…」

「いや、それは別に気にしなくても大丈夫、だし。驚かせたのは俺だから…」

そう言って、竜胆さまは何かを思案するように私へそっと手を伸ばし、生白い指先が輪郭を辿るように頬を撫でた。冷ややかな感触に肩が震えて、何事だと目を見開けば眼前に迫る暴力的な美しさ。コシのある長いまつ毛に縁取られた双眸をふわりと細め、あの呑み込まれそうなほどに美しい瞳が私をじっと観察している。

しかし私の残念な語彙力では「うっわ綺麗な顔だな」位の感想しかだせず、ただ意味がわからないと眉をひそめて端正な顔を見上げれば、今度は彼が驚いたように目を瞬かせた。

「…あの、どこか体調でも悪いんですか?」

「えっ」

「え、って…。急に黙り込んで俯くくらい気持ち悪いとか、頭が痛いとかなんじゃ?」

熱あります?と長い前髪を払いのけて額を触ってみたけれど、なるほど分からん。人間の私とじゃ基礎体温が全く異なっているようで、彼の額は指先と同様驚くほど冷たい。
それじゃあやっぱり不調の原因なんて私の下手くそな鼻歌ぐらいしか無いじゃないかと青ざめた顔で思っていれば、ピピッ、と何ともいえぬ空気を切り裂く間抜けな音が浴室から聞こえた。

「あっ、お風呂…」

多分沸きましたけど、と扉前から身をずらして言えば。何処か心ここにあらずだった竜胆さまはハッとしたように顔を持ち上げて項をかいた。

「体調が悪いなら無理しない方が良いですけど、疲れが溜まっているとかならゆっくり湯船に浸かるのもいいと思いますよ」

「あー、うん。それじゃあ、そうさせてもらう」

「はい!ごゆっくり」

ゆっくりと引き戸が閉まったのを確認して、竜胆さまの挙動に微かな疑問を抱きつつも私は次の仕事へ向かう。
タダ飯を食らいに来た訳じゃないのだ。嫁として…と言うよりは、やっぱり奉公人や小間使いのような心境のまま。竜胆さまがお湯から上がる頃には温かいご飯を用意しておこうとこの場を離れ、さっさと炊事場に向かって足を動かす。

「待って、妖って人間と同じもの食べていいの?竜胆さまの好物ってなに…?人…?」

なんて新しい悩みを抱きながら。


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ちゃぷん、と水が跳ねた音に耳を傾け、久方ぶりにゆっくりと浸かった湯船の中で足を伸ばす。
水の滴る前髪を鬱陶しくかきあげながら、ふと今日新たに訪ねてきた彼女のことを考えた。

「…変な子、だったな」

まだ幼さの抜けきらないあどけない顔立ち。白無垢とのアンバランスさがどうにも目についた。
ぱっちりと開いた目で初めて俺を写しても、そこに恐怖や怯え、好意なんてものもまるで見えず。ただあっけらかんと、素朴なまでにありのままの少女が「妖」である俺を見つめていた。

「何が欲しいか尋ねて、迷いなく仕事が欲しいと言われたのには驚いたけど」

こちらを懐柔する手だてだろうかと警戒して様子を伺ってみれば、彼女は呑気に鼻歌を歌って出てくるし。ならば過去の女達みたく俺の見た目を気に入って取り入ろうとしているのかと身を寄せれば、真っ正面から体調を心配されてしまった。

贅沢でも、堕落でも、色事でもなく。彼女は本当にただ俺に尽くすつもりなのだろうか。
父の暮らしを豊かにしてくれたと、その恩返しのためだけに。彼女自身が言った、奉公人として。

「やっぱり君は、今までの子たちとは違うんだね」

嬉しい、嬉しい。期待を裏切られなかっかことも、彼女が真っ直ぐ俺を見てくれたことも。
用心深く冷たい態度で当たる俺に、それでも彼女は平然と笑った。名前を呼んでくれた。
僕の名前を呼ぶ声は、何一つ変わっていなかった。

でも。

「…お嫁さんには、なってくれないのかな」