「いいか飛鳥。一段も踏み飛ばすことなく境内に続く階段を登るんだぞ」

「分かってるってば!もう流石に確認しすぎだよお父さん!これじゃ耳にタコどころかイカまで出来そう…」

「そ、そうだな。流石に三十回はやり過ぎか…。でも父さんは心配で心配で、本当はお前にこんな役目を背負わせたくなんか無かったんだ」

「それも分かってる。でも村が決めちゃった以上はしょうがないでしょ?ほら、バージンロードだと思って背筋シャンと伸ばす!」

「うう、やだあ…あすかぁ…!」

「わがまま言わないのおっさん!」

しくしくしくと肩を落とすお父さんの腕を引いて、履きなれない下駄で何とかバランスを保ちつつ石畳を進む。
道の脇に植えられた桜並木。随分前に花びらは散って、今は青々とした葉っぱが風になびいている。重なった葉の隙間から見える空はどんよりと重く、絶好の嫁入り日和とは言えないこの空模様がなんだか私らしくて小さく笑った。

「大体村の娘を妖様に差し出すなんて胡散臭いしきたり、もう何十年も前に廃止になった筈じゃないか」

「それが今年になって何故か復活しちゃって、さらに加えては村の隅っこで暮らす貧乏一家におハチが回ってきた、と。また我ながら運が悪すぎて笑えてくる…」

「笑ってる場合か。他人事じゃないんだぞ」

「当事者からしたってこんなのもう笑うしかないでしょ。そもそも妖なんて生まれてこのかた一回も見た事ないんだし…」

カロン、と踵を地面に擦り付けて。ぼんやりと見上げた先には古びた神社に続く石階段。所々塗装の剥げた朱色の鳥居が階段の頂上で佇んでいた。
お父さんが付いてこれるのはここまで。これから先は一人で、嫁ぎ先である妖の元まで行かなければならない。

「せめて人喰いじゃないと良いんだけど」

「滅多なことを言わないでくれ飛鳥。病気で母さんに先立たれて、お前までいなくなったら父さんは…!」

うりゅり、と瞳に涙の膜を張らせたお父さんを慌ててなだめ、ちょっとした冗談だと肩をすくめるように笑ってみせる。

「任期さえ終えれば帰って来れる。今までのお嫁さんたちもそうだったんでしょ?」

「あ、ああそうだ。今まで嫁いだどの娘も決まって一年で帰ってきたからな。そうじゃなかったら絶対お前を嫁入りさせたりするもんか」

「そうそう、だからそんなに心配しなくても大丈夫だよ。妖様に関すること以外の近況報告なら文を出して良いとも言われてるし、元気だってことは逐一報告するようにするからさ!」

だから笑って、と骨ばった体を抱き締めれば、白無垢が崩れることなんてお構い無しに力強く抱きしめ返される。ずびっと鼻がすする音も聞こえたけど、体を離す頃にはお父さんも不器用ながらの笑顔を浮かべてくれた。

「それじゃあ行ってきます!お父さん、体壊したりしないようにね」

「ああ。お前も、くれぐれも元気にな」

ひらりと手を振るお父さんに頷いて、最後にその姿をよく目に焼き付ける。
ここから先は決して後ろを振り返ることは出来ない。一歩、一歩、硬い階段を踏みしめながら、私はただ黙って頂上にそびえ立つ鳥居を目指した。

ーお父さんにはああ言ったけど、怖いものは怖いよねやっぱ…。ついつい見栄張っちゃって大丈夫なんて豪語したものの、私ほんとに生きて帰って来れるのかな。

地図からもはみ出しちゃうような小さな村。学校と呼んでいいのかも分からないような学び舎が一つと、村の皆がお世話になる診療所が一つ。公共施設なんてそのたった二つくらいなもので、あと残された特異な場所と言えば古くから伝わるこの神社くらい。

ー立ち入りを禁ずるって散々言われてきたからなぁ、この場所。初めて間近で見たけど、ビックリするぐらい古いし汚い…。

残り一段を慎重に踏み越え、僅かに上がった息を整えるように深呼吸を一つ。階段おおよそ150段。体感では随分と高い所まで登ってきた。

「確か鳥居の前で一礼して…」

私の身長を優に超える大きな鳥居。その端っこでこじんまりと身なりを整え、腰から上を真っ直ぐ折るように頭を下げる。

「花江飛鳥、ただいま嫁入りに参りました」

何度も家で練習した流れをそれでも緊張しながら行う。微かに声は震えたけれど、きっと妖様には届いたのだろう。シャン、と不思議なほど響く鈴の音が鳴って、辺りの空気がガラリと変わったのが分かった。

「目を閉じて。そのまま十歩、真っ直ぐ進め」

男の人の声がした。はっきりと聞こえたその指示に私は黙って従う。
目を閉じ十歩、踏みしめる感覚が石から砂利に変わったのを感じて、境内の中に入って来たのだということを察した。
立ち止まって数秒。微かな息遣いが耳をかすめるたび、見られているのだと言うことを意識する。居心地の悪さを覚えながら、それでも私は黙って次の指示を待った。

「…うん。それじゃあ顔をあげて、ゆっくりと目を開けて」

こくりと控えに頷いた私は、声の通り下げていた頭をゆるりと持ち上げ、固くつむった瞼を開いた。

その瞬間、パチリと光が弾けるような明かりが視界いっぱいに差し込んで。そのあまりの眩しさに瞬きをすれば、次第に明かりにも慣れた視界が正面に立つ人影の輪郭をおぼろげながらにも映し出す。

現代じゃあまり見慣れなくなった濃紺色の着流し。ゆったりと開いた裾や襟首からは、青白いくらいに透明感のある肌が晒されている。
ゆるりと誘われるように目線を上げれば、カラスの羽みたいに艶やかな髪がさらりと揺れて。涼し気な目元をした真っ黒な瞳が、頭一つ分高いところから私のことをじっくりと見下ろしている。

「君が俺のお嫁さん?」

吐き出された音が、澄み切った冬の冷気みたく私の耳に届いた。それにぱちくりと瞬きをして、はたと私は自らの役目を思い出す。

「竜胆さま、で、しょうか」

質問に質問。当たり障りのない対応としてはタブーな気もするが、どうしてもこれだけは確認しておかなくてはいけなくなった。

この村に唯一残る神社に済むと言う妖、竜胆。それがわたしの嫁ぐべき相手で、村連中が持っている唯一の情報だった。過去何人もの娘が嫁ぎ、無事に帰ってきているのにも限らず、だ。
帰ってきた娘は五体満足、それでも決まって神社で過ごした一年間のことをまるで記憶していない。長い階段を登りきったと思ったら、次の瞬間には家族に囲まれて階段下にいた。彼女たちの身体や言葉からは、妖の素性を探る情報源は何一つ残っていなかったのだ。

だからこそ村民は妖の姿に想像を重ね、決まって娘を一年後には返す律儀さから温厚な類の生き物なのだろうとアタリをつけた。
だがまさか…

ーまるっきり人の形…と言うか。こんなに綺麗な姿をしてるとは。

竜胆さま、と不躾にぶつけた私の質問に、彼は数度目を瞬かせて。それからひとつ小さく頷くと、さて次は君の番だとでも言うように質問の答えを待っている。
たしか私は、お嫁さんか、と問われたのだ。ほんの少しだけためらいながら「はい」と言えば、彼は特に言及することなく身をひるがえして後ろを向いた。

「じゃ、案内するから」
「えっ、あ、わかりました!お願いします!」

スタスタと神社の敷地を進む長身を慌てて追いかけ、これは初っ端から不安が続くぞと天を仰ぐ。多分コミュニケーションに難アリなタイプだ、彼は。
目が合ったのも初めの一度だけ。それもあの美しい瞳はとびっきり冷めた色をしていた。
興味が無い…と言うか、多分快くは思われていないのだろう。私が好みじゃなかったんだなぁと楽観的に考えることもできるけど、あれは多分。もっと根本的な所から私を、「人間」を嫌悪している。
それに聞こえちゃったんだ。ほんの少し前を歩く大きな背中。骨ばった足が履き潰す草履の音に交じって、

「…今度はどれだけもつかな」

なんて地を這うようなど低音でつぶやかれた言葉が。


ー…ごめんお父さん。嫁いでそうそう、五体満足で帰る自信が無くなりました。