悠李がどうして怒っているのか、わたしには分からなかった。
 大学の帰りに訪れた二人きりの静かな河川敷。
 灰色の低い雲の下、いつもならブルーアワーを映す夕方の穏やかな川面は白く濁っている。
 すぐ目の前を無言で歩く悠李の背中にはちらちらと粉雪が舞い、それは白い心の壁になってわたしの前に立ちはだかった。
 少しだけ距離を空けて悠李の後ろをついて歩く。
 見上げれば、潤いをなくした塵のような雪は絶え間なく降り注ぎ、わたしの頬や唇にひんやりと触れる。

 朝はいつもの悠李だった。
 風邪が治って、久しぶりに大学で会えて嬉しかったのに。
 おかしいと思ったのはお昼ご飯を食べ終えてからだ。
 学内のカフェを出たところで悠李と顔を合わせたものの、わたしとは目も合わさずに行ってしまった。
 どうしてか分からなかった。
 ただ、今は悠李に「一緒に帰ろう」と言われ、ここにいるだけだ。

 雪が頬をふわりと掠める。
 天気予報では積雪予報も出ていた。
 明日の通学時間には、一面の銀世界が広がっているだろう。
 その景色を、悠李と今の関係のままで一緒に眺められるのだろうかと、ふと不安になった。
 きっと、悠李はわたしに何かを伝えたいんだろうと思う。
 雰囲気から察するにそれは多分、いい内容じゃない。
 言いたいけど言えない。そんな悠李の態度は、わたしを傷付けずにどう伝えればいいのか考えているようにも見えた。
 
 わたしが気付かなかっただけで、今まで悠李に何かを我慢させていたとしたら。
 その我慢の限界を今日、迎えたのだとしたら。
 明日は真っ白に染まる街を、一緒に歩けないかもしれない。
 悠李の笑った顔をもう独り占めできないかもしれない。
 少し前に見た優しいはちみつ色の三日月は、今は澱んだ暗い雲の中だ。

「悠李」

 思わずその名前を口にする。
 いつもなら呼べば振り返って微笑んでくれるのに、今日は振り返りもしない。
 悠李の中では、答えは出ているということなんだろうか。
 理由も分からず、楽しみにしていた未来を突然取り上げられた気分だ。

―――もしかしたら、今日は悠李とキスをするかもしれないと思っていたなんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。

 張り切って髪をアップにしてきたけれど、今すぐに解いてしまいたい衝動を抑え唇を引き結ぶ。
 代わりに、じわりと視界が熱く滲んだ。

 「あいつとどんな話した?」

 悠李の声に、はっと息を呑む。
 目頭にたまった涙を服の袖で拭いながら、すぐに返事をしようと頭を捻った。
 でも、悠李の言う〈あいつ〉が誰のことなのかいまいち分からない。

「あいつって……誰?」

 悠李は背中を向けたまま、いつもの綺麗な横顔を見せ冷たい声で言い放った。

「塚本」
「あ……」

 そこでわたしは、お昼のカフェで塚本くんに会ったのを思い出した。
 悠李と付き合ってから、塚本くんと会ったのは今日が初めてだ。
 塚本くんは、わたしが悠李に片想いをしているのは薄々勘付いていたみたいだけれど、直接そのことについて話をしたことはない。
 もしかすると、わたし達が付き合っているのも知らないかもしれない。
 だからと言って、わざわざ報告するほどの仲でもなかった。
 きっとわたしが話さなくても、どこかで耳に入るだろう。
 今日もわたしの髪型が普段と違う、とか取り留めのない会話をしただけだ。

「特に悠李に話すような会話はしてないよ」
「言いたくねぇの?」
「そういう訳じゃないけど、そんなに大した内容じゃないからわざわざ言わなくてもいいかなって」

 悠李がその場でピタリと立ち止まる。
 それに合わせて、わたしも足を止めた。

「知りたいんだよ、彩月のことは全部」

 気が付けば悠李の腕の中にいた。
 今までにないくらい力強く抱きしめられて、少し息苦しいくらいだ。
 目の前の硬い胸に頭を押し付けられ、背中に回った腕にまたぎゅっと力が入る。

「ゆう、り」
「何で髪、あいつに触らせた?」
「そうだっけ……?」
「覚えてねぇの? まあ……覚えててもむかつくけど」
「全然覚えてない。髪型が似合ってるとは言われた、かも」
「喜んでた」
「だって嬉しいじゃん、褒められたら」
「おれが一番に見たかったのに」

 悠李は、自分の頬をわたしの頬にすり寄せた。
 すべすべとした肌が心地良く、どくどくと鼓動が早くなっていくのを嫌というほど感じた。
 さっきまで、嫌われているのかもしれないと思っていたのが嘘みたいだ。
 ドキドキする反面、ホッとする自分もいて思わず頬が緩む。
   
「悠李の肌、男の人っぽくなくて気持ちいいね」
「ガキだよ、おれは。自分でも分かってる。でも、彩月の前じゃかっこ付ける余裕なんかねぇんだよ」

 切羽詰まった悠李の声が鼓膜を打つ。
 ピンと張ったわたしの耳に悠李の鼻先がそっと触れ、唇から漏れた吐息が耳の奥に当たり、背中にぞくぞくとしたものが走った。

「ここにずっと閉じ込めときたい。おれのことしか考えられなくなったらいいのに」
「わ、わたしは悠李のことで頭がいっぱいだよ」
「でもあいつに笑いかけてた」
「それは話の流れで……」
「だめ。彩月の笑った顔はおれだけに見せて。こんなに可愛い顔、他の男には見せたくない」
「可愛いなんて……」
「ずっと見てたいのに、どきどきしてまともに見れないくらい可愛い。一目惚れだし、おれ」
「一目惚れ? 悠李が?」
「そうだよ。入学式の時に」
「わ、わたしも。わたしもそうだよ」
「まじ? この顔に生まれてきて良かった」
「何言ってんの」
「今だけでも自惚れさせて」
 
 二人でくすくすと笑い合う。
 
「悠李といる時が一番、どきどきするよ。どきどきするのは悠李だけだよ」

 悠李は身体を離して、熱を帯びた滑らかな瞳でじっとわたしを見つめた。
 恥ずかしい気持ちを堪え、わたしもゆっくりと視線を上げて見つめ返す。
 改めて間近で見ても寸分の狂いのない、整った中性的な顔立ちだ。
 誰が見ても完璧だと言うだろう。
 それなのに、一つも格好なんか付けないで素直にわたしに想いを伝えてくれる。

 ずっと焦がれて仕方がなかった。
 何度も諦めようと思ったけれど、諦められなかった大好きな人が、わたしのすぐ目の前にいる。

「ほんとはもっといい場所でしたいと思ってた。綺麗な夜景でも見ながら雰囲気作って、甘ったるいセリフ吐いて。彩月の一生に残る思い出にしたかった」

 悠李の両手で頬を包み込まれ、華奢で柔らかな親指がわたしの唇に触れる。

「でも今は、そんなことどうでもいいって思ってる」
「う……ん、」

 わたしは何度か頷いた。
 鼓動が暴れすぎて破れてしまいそうだ。
 俯きたくなるけれど、悠李の手がそれを許してくれそうにない。

「何のこと言ってるか分かる?」
「え……、あ、えっと……」

 悠李の顔がぐっと近付き、鼻先同士が掠め合う。

「したい、いい?」

 わたしはもう一度、大きく頷いた。
 二人で自然と目を閉じる。
 悠李の両手に促されて顔を上げると、まつ毛や頬にひんやりと冷たい雪が落ちてきた。
 瞼の向こうですぐに溶けていく、きっと白い色をした無垢で静かな雪。
 悠李の心を映した、三日月の欠片だ。
 幸せすぎて、このままわたしも一緒に溶けてしまうかもしれない。

 この初めてのキスが終わったあと、悠李に伝えよう。
 悠李との思い出は、どれも一生わたしの心に残るだろうと。