遠くのほうでおばあちゃんの声が聞こえる。
「は~づ~き!居眠りしてるんじゃないよ!」

 あ、あたしったら、いつの間に寝ていたんだろう?
 あわてて横を見るとおばあちゃんがほうきを持ってあきれた顔で見ていた。
 あたしは今、銭湯の番台なるものに座っている。

「居眠りなんぞしてたら、わざわざ寒いのに来てくれたお客さんに失礼ってもんだよ」
 こんな寒い日の銭湯なんて人なんていやしないのに。

「もう子供じゃないんだから、そんな事言わなくたってわかるよ!もう!」
 あたしは最近この言葉をよく口にする。みんなが思っているよりあたしは、大人なんだよ。
「そうだねぇ、子供じゃないよねぇ」

 おばあちゃんは隅から隅まできれいになっているかチェックしながら、男湯の方に入っていった。
 銭湯というのは、町にあるお風呂屋さんだ。

 昔は家にお風呂が無い家が多かったから、いたるところにあった。しかしこの頃は家にお風呂の無い家はまれだし、アパートだって風呂ぐらいついているから銭湯はどんどん少なくなっていって、この辺ではここだけだ。

 番台と言うのは男湯と女湯の間にあって、入ってくる人にお金をもらうところ。

 番台は昔は風呂の湯の方まで見えたらしいが、この『夢の湯』にはついたてがわりのロッカーがあって着替える人の姿は見えない。

「ありがとうございま~す」
 ほかほかと暖かそうな顔になったおじいさんに、頭をちょこっと下げる。

 今日は日曜で、パパが家にいる。

 パパがいる土曜と日曜はここに座っておばあちゃんにバイト代をもらう。ちょっとしたお小遣いになる。おねえちゃんはファミレスでアルバイトをしているから、楽しい大学生活をエンジョイしているかもしれないけど、あたしはしがない中学生、身内でバイトがせいぜいだ。もうあたしだって、その位できる。家でパパと二人っきりだなんて、考えただけでも息苦しくなる。

 そんな銭湯のお手伝いだけど、ちょっと秘密がある。
 今ここにいるあたしはいつものあたしじゃない。
 ショートカットの椎名葉月は、今ストレートのロングヘアーだ。おばあちゃんの家の押入れの中からみつけた、お気に入りアイテム。ヘアーウィッグ、かつらみたいなもんだな。そして赤い太いフレームのめがねは、おばあちゃんの若いときのだ。少しレトロはいっちゃっているけど。
 どこから見たってあたし、葉月じゃない。万が一知っている人が来たってへっちゃら。


 おばあちゃんは、ふけて見えるって言うけどあたしは意外にきれいだと思うんだけど。
 現に昨日来たおじいさんが
「きれいなおねえさんだ。昔の桜小町みたいだねぇ」
 って言ってくれたし。パパ似じゃなくてよかった。

 ママ似かどうかはわからない。ママはあたしが小さな頃に、天国に行っちゃったからだ。
 覚えているのはやさしいぬくもりとお花の香りだけ。でも、家にあるママの写真はとってもきれいだ。すっごくきれい。
「葉月!お客さんだよ!ほれ」

 眠そうな目をしてぼ~っとしているあたしに、おばあちゃんがほうきの柄で男湯をさした。

 金髪の外人さんだ。あたしは愛想良く手を上げて見せた。顔を見るのは二度目だ。
「ハ~イ、ニッキー!」
 昨日、話しかけられたんだっけ。よく聞き取れなかったけど、名前をニッキーって言ったようだったからあたしは特別かわいらしい笑顔をつくってにっと歯を見せた。
「オ~、かわいい~」
 やった、ファン一号認定。意外や意外、あたしは接客業にむいているのかもしれない。

 特に今は黒い長い髪をさらさらとかきあげたりして、ちょっと大人の葉月だもの。笑顔を人に向けるのもなかなかうまくなってきた。

 いつも笑顔なんて作らないから、最初は頬がこわばったけどさ。 
 午後三時三十分、この時間から銭湯は開いている。

 今、家に風呂があるのが当たり前の世の中。
 こんなお金を払って風呂に入ろうなんて、あたし的には金持ちだなって思っちゃうんだよな。そりゃ、大きな湯船は気持ちいいしあったまるし魅力的ではあるが、なにもわざわざ歩いてくるのは面倒じゃないのかな?第一、北風に吹かれて帰るなんて湯冷めしちゃうんじゃないの?

 と思っているあたしの右横の女湯の引き戸がガラガラと開き、女の人が子供を連れて入ってきた。幼稚園くらいの子二人。初めて来たらしくはしゃいでいる。

 そういえば先週も子供を連れてくる人、多かったな。子供は大好きだよね、広いお風呂。プールみたいだもんね。
 あたしも小さい頃、パパとおばあちゃんちの銭湯行くの楽しみだったな。あたしの場合、その後おじいちゃんのいるボイラー室とか行って怒られたりしてたけど、楽しかった。
 そろそろ、日曜日なんで人が増えてくる。

 左横の男湯の引き戸が立て続けに開いて、中年のおじさんとかおじいさんとか入ってくる。みんないつもの人らしく、あたしは手を出しているだけであまり仕事らしい事もしてない。みんな銭湯の回数券みたいな券を出してさっさと奥に行く。なんかわからない事があったらその辺にいるおばあちゃんを呼べばいいのだ。

「いらしゃ~い!!」
「ありがとうございま~す!!」
 あたしの精一杯の笑顔をつくる。たまに心も込めちゃう。
 普段のあたしからは想像も出来ない事を、ここに座るとできちゃうから不思議だ。
 ここにトータル、三、四時間座ってお小遣いをもらう。

 おじいちゃんが亡くなってから、おばあちゃんはパパの弟のおじさんとがんばって銭湯を開いているけど、毎日疲れた疲れたって言う。
 あたしが手伝ってあげると、おばあちゃんはその時間せっせと他の事ができて助かるって喜ぶから、とってもうれしい。一石二鳥ってわけ。あ、パパと顔を会わせなくてすむから一石三鳥だ。

 そろそろ、おばあちゃんが代わるって言ってくれる時間だ。そうしたら、休憩。
 母屋に行ってゴロゴロできるし、おばあちゃんちの棚の上からおせんべいなんか勝手に出して来て食べちゃう。極楽ごくらく。
 人は男湯も女湯も四、五人くらい入っているよう。
 恥ずかしいので顔を上げないから良くわからないけど、ロッカー手前にある籐で編んだ椅子に腰掛けてる人とかサービスで置いてあるお茶を飲んでいる人とかも一人二人いる。
 おばあちゃんがあっちこっちの人と親しげに話をしたり声をかけたりしながらこっちにやってくるのが見えた。
 きょうはここまでかな。そう思って立ち上がろうとした。その時、お尻の下に敷いてあった座布団がするっと足と一緒に動いて、『ゴン!』と自分の頭がぶつかる音が響いた。
 いたい。手を頭にあてる。おばあちゃんがあわてた顔で近づいてくる。
 ふにゃん、と視界がぼやけた。一瞬で真っ暗闇になる。誰かに引っ張り出されるようにふわんと身体が軽くなる。足元の力がぬけて、空中に放り出されたように頼りない。

 少し時間が経ったような気がした。
頭の後ろがずきずきする。目を開けるとまだ番台に座っているようだ。ふわふわした身体が宙に浮いている感じ。眠いようなぼんやりした、まるで夢の中にいるよう。

 あれ、おばあちゃんはどこ行っちゃったのかな。あれ、なんかちょっとの間にずいぶん人が増えている。
 銭湯は、がやがやとたくさんの人が出入りしている。この時間に多い年配の人だけじゃなくて、若い人もいるし子供もいる。みんな、話しをしたりして団体さんみたい。

 あ、なんでよく見通せるのかと思ったら、ついたて代わりのロッカーが無い。
 感じが違うけど、たしかにここは『夢の湯』だよね。
「ねえ、なんか他に仕事ある?」
 男湯の入り口付近から声が聞こえた。男の子がほうきを手に持ってこっちに声をかけている。
「下駄箱のまわりも掃除したよ。なんかあったらやるよ」
 男の子とはいってもあたしと同い年くらいだ。

 何を言っているんだろう?訳がわからないけど、いつからこの子ここにいるのかな?
 ん?なんかこの子見た事あるなぁ。だれだっけ?

 こっちを見て答えを待っている男の子に、何て言おうか考えているとお腹のあたりから声が出た。
『なんだ、へんなやつだなぁ。急に家の仕事手伝うなんて。いつも何度言っても顔なんか出しゃあしねぇのによぅ~』
 う、あたしの声がおっさんの声になってる、て言うかしゃべってないし。
 どうもあたしは番台の上の方に浮いているようだ。そうか、このおっさんは番台に座っているんだ。
 まだ、その声はつづく。

『あんまりちょこちょこ居られたって、うるせいや!手伝いだったらここに座るか、夜の風呂掃除のときに出てこいや!』
 なんか、このしゃべり方すごく懐かしい。男の子は恥ずかしそうにうつむいて
「そろそろ、来るかもしれないし」
 口の中でぶつぶつ言っている。
『じゃまだ。とっとと帰れ!』
 おっさんは、男湯のお客さんに向かって声をかける。
『うちの息子も、だれに似たんだかうじうじしてて困っちまうんでさぁ~』
 籐の椅子に座っていた白いひげのおじいさんが、がはがはと豪快に笑った。元気いっぱいの笑顔。おじいさんとは言っても身体はまだまだ、たくましく威勢がいい。

「そのくらいの年の子は、思春期で感受性が強いもんですよ」
 意外な事を言うんだ、職人さんみたいな感じなのに。
 男の子は表できょろきょろあたりを伺っている。誰かが来るのをまっているんだ、きっと。
 男の子のどきどきが伝わってくるようで、あたしまでどきどきしてきちゃったよ。

 ふわふわの身体がきゅうに引っ張られる気がした。目の前の光景がゆらゆらとかすんでいく。だんだん暗くなっていく。真っ暗な世界を通り抜ける。
 突然、地震のように世界が揺れた。ぐらぐらぐらっ!
 
「はづき~、しっかりしなよ!ほ~れ」
 ペチン、いたっ。頬をたたかれて気がついた。あれ、今のは夢かはたまた幻か。
「いたいよ~おばあちゃん!かわいい孫の顔たたくかなぁ~ふつう!」
 おばあちゃんは安心したらしくにっこりと微笑んだ。
「そのへらず口がきければ、だいじょうぶ。さあ、もうそろそろおねちゃんも帰ってくるだろうし、家に帰んなさい」
 あたしの後頭部にはでっかいたんこぶができていた。
 
 今見た『夢の湯』、あれは何だったんだろう?夢にしては、話し声が今聞いたばかりのように耳に残っているのは何でかな?妙にリアルだよね。

 不思議な出来事にまだ変な感じが抜けきらなかったけど、あたしは『夢の湯』から外へ出た。
 外は北風が冷たくてマフラーもなんの役にもたっていない気がした。

 銭湯の前は自転車がいくつか置いてあった。
 自動販売機でホットのレモンティを買って飲みながら、角のコインランドリーを曲がる。番台は背中が隙間風で冷えるからホットレモンティは、体中に血がいきわたるような気がしてほっとする。

 振り返ってみると、『夢の湯』は神社みたいな瓦の屋根が、寒くないよと言っているみたいにどっしりとあぐらをかいているみたいだ。前にある桜の木は枝をかさかさ風に揺らしている。
 桜の枝の向こう側に、『夢の湯』の煙突がビルに隠れるようにひっそりと見える。

 なんだかここは、ぽっかり時代に取り残された場所みたい。少しだけ寂しい気がしてぶるっと震えた。
 おばあちゃんちの銭湯から歩いてすぐのマンション、そこがあたしのおうち。サラリーマンのパパと大学生のママ代わりのおねえちゃん。
 天国のママはいつも写真の中から笑ってる。

 ママが亡くなって何年になるんだろう。あたしは幼稚園生で、ずっと泣いていた気がする。そばでおねえちゃんがしっかり抱きしめてくれていたのを覚えている。だからおねえちゃんには頭があがらない。

 飲み終えた缶をゴミ箱にポ~ンと放り投げる。『びん・かん』と書いた札がゆれる。ストライーク!きょうも、まあまあ良い一日だ。

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