春よ

 翌日は、三時過ぎから「エーデルワイス」に出かけた。
 お店は閉まっていて『またのお越しをお待ちしています』の札が風に揺れていた。

 だけど、中には人がたくさんいてがやがやと声が聞こえていた。

 カウベルを鳴らして中に入ってみると、
「いよぅ~、奥様のおでましだぁ」
「いい女はつらいねぇ」
 とんかつ屋のおじちゃんとおばちゃんだ。

 何か言われちゃうとは、思っていたけど。
「沙友紀ちゃん、おめでとうね~」
「きれいなお嫁さんになるだろうなぁ」
 花屋のおばさんとおじさんまで。

 奥から声がした。
「もう、気が早いですよ。まだまだ先の話ですから!落ち着いて下さいよ!」
 オードブルを運んできたサトにいが、みんなをしかるような目で見渡した。

 そうだ、昨日あんな事件があってみんな野次馬根性で『夢の湯』にかけつけちゃったから、その後の集まりは流れちゃったんだ。なんだか、責任感じちゃう。

 急いでエプロンをつけて、サトにいの手伝いを始めた。

「昨日は、大変だったな、もっとゆっくりで良かったのに」
 ミートローフを切り分けて、大きなお皿に盛り付けながら言った。

「ううん、連絡してくれて良かったのに。サトにいが助けてくれたから、わたしは大丈夫よ」
 サトにいは、にっこり微笑んで
「あれから、『夢の湯』大変だったって聞いた?」
「ううん、おばあちゃんも今日来るよね。まだ会ってないの。どうしたの?」

 どうもあの後ニッキーがこの商店街に、ううん『夢の湯』にお婿に来ると信じていた人たちがお酒を持寄ってきて飲みだしたんだって。
 ニッキーのこと、かわいそうだってみんなで慰めの会が始まっちゃったんだって。

 さらにテレビを見ていた人たちもかけつけちゃって、大騒ぎ。
 もう、銭湯は飲み屋と化した訳で、おばあちゃんも最後には酔っ払っちゃったんだってさ。

 信じられない、今までこんなの聞いたことがない。
 なので、二日酔いの向かい酒の人までいるみたい。
 そうか、だからこんなに早くから飲んでいるんだ。テーブルを見渡すともう、ビールが何本か空いているしワインも数本からっぽになっている。


 まったく二日がかりでの集まりが、まさに始まっていた。
 『夢の湯』に続いて「エーデルワイス」まで、今までにないくらいに大騒ぎ。

商店街の宴会がもう始まっていると聞いて、あとから何人もやってきた。
お店には人が溢れちゃって、入れないくらいになっちゃった。もう、いつもの集まりなんかじゃない。

 そのうち、おばあちゃんがやってきた。

「昨日は皆さん、お騒がせしましたねぇ、あの後ニッキさんはうちに泊まってぐっすり眠ってから朝、元気に帰っていきましたよ。どうもありがとうって伝えてくださいってさ」
 口々に(よかったよかった)って声が飛ぶ。なんでかしら、ニッキーはみんなにやけに好かれちゃっている。

「あれま~、もう酔っ払いはさっさと帰っとくれ!ちゃんとした桜まつりの相談をはじめようじゃないかい!昨日の続きはもうおしまいだよ!」
 さすがは、おばあちゃん。
 昨日から酔っ払っている人たちは、追い出されちゃった。

 でも、良かった。ニッキーは元気になってくれたみたいね。みんなのお陰かもしれない。
「すみませんでした」
 すみっこから小さな声を出した。

「あらま、沙友紀。ニッキさんあの絵置いてちまったよ!どうしたもんかねぇ?」
 みんなが(もらっちまえ!もらっちまえ!)って声を上げる。
 そんな訳にはいかないでしょう?もう、みんなったら。
 あんなに素敵に描いてくれたなんて、ほんとに嬉しいんだけど。

「本当にきれいな沙友紀ちゃん描いてくれたよね」
 花屋のおばさん。
「風呂屋の壁に飾っとこうよ!」
 とんかつ屋のおばちゃん。

 鮮やかな色彩が脳裏に浮かぶ。
 隅々にちりばめられた桜の花びらが、きらきら輝いていた。

 世界的に有名な芸術家だって、疑いようもないほどすばらしい作品だと思った。
 絵なんてわからない素人のわたしでさえ、すごい絵だってことはわかったもの。
 この辺の人だって、わたしと同じ素人だけどみんな感動さえしているみたいだった。
 口々にすばらしい、とかきれいだって興奮して話していたもの。

 そして、みんなはあの絵の飾る場所のことで話が盛り上がって、さらにモデルだっていうわたしの話になって最終的にはママの話に発展していった。


「や~みんな良く飲むね~。俺もう、飲めねぇよ~」
 階段を下りてきたのは洋ちゃんだった。

 昨日の、番組に流れた洋ちゃんの言葉を思い出して目を伏せた。
「おお~さゆき~おっめぇもてちゃうねぇ。もてる女はつらいよねぇ」
 カウンターに座ってミネラルウォーターをもらってビンごと飲んでため息をついた。

 サトにいが沙友紀も座って、って合図したからわたしも厨房を眺めながらカウンターに座った。

「そうそう、沙友紀!あいつさぁ、こんなもん持ってたんだぜ!」
 洋ちゃんは、手のひらをわたしの目の前に突き出した。
 洋ちゃんの手には、この間ニッキーが開かなくなった『夢の湯』の玄関から取り出したプラスチックの車のおもちゃが載っていた。わたしは首をかしげた。

「これ、おまえ覚えてねぇの?」
 え?わたしはそのおもちゃを良く眺めてみた。

 手のひらに乗る位小さい真っ赤なその車体はスポーツカーで、後ろの車輪が壊れてなくなっている。
そうそう、車体を地面につけて後ろに引いて手を離すと勢い良く走っていくんだ。
その頃、そんな車のおもちゃがはやったんだっけ。わたしの小さいころの事。

 それは、サトにいが買ってきたおもちゃだった。

 近所の子はみんなほしがったんだ。やさしいサトにいはみんなに貸してあげていた。
 わたしもほしくてほしくて仕方なかった。洋ちゃんもほしがった。

 小さくても細かい部分まで良くできていて、この辺では売ってないというのでわたしも洋ちゃんも特別にほしがった。

そんな小さなわたしは、ものすごく良い思いつきをした。

「わたし、サトにいのお嫁さんになってあげる」
そうしたらこのおもちゃは二人のものになるって訳だから。

今考えるとなんてゲンキンな子なのかしら、そんなずるい事言ったんだっけ。
 まあ、もともとわたしはサトにいが大好きだったんだけどね。
 その時は、すごくいい思い付きだと思ったんだ。こどもにしては。

 そうしたら、サトにいが真っ赤になっちゃって真剣な顔して「うん、じゃ約束するよ」って言ったんだっけ。

 それを聞いていた洋ちゃんが、わたしの手の中にあったこのおもちゃを、ひったくるようにして持って行っちゃったんだ。

それから、この車の姿はまったく見ることがなかったの。

それっきり忘れていたから、特に思い入れはなかったのかもしれない。
ほんとに、小さな出来事。

「オレさ~、小さい時さ、沙友紀のこと好きだったじゃん?でさ、この車があったから沙友紀は兄貴のお嫁さんになるんだって思っちゃったのよね。それでさ、意地悪なませガキは隠したのよ。これさえなければ、沙友紀は兄貴のお嫁さんにならないんじゃないかって」

 どこかに隠しちゃったんだろうとは思っていたけど、そんな理由だったなんて思わなかった。
 昨日から、洋ちゃんにはびっくりさせられっぱなしだね。


「そんな事知らなかったな、わたし。なんて言っていいか、ごめんね洋ちゃん」
 心から、そう言ったのに洋ちゃんは
「俺もませガキだったけど、沙友紀はもっとませガキだったんじゃねぇの?」

「ひど~い!謝って損した!ごめんね、かえせ!もう」
「まあまあまあ、でさ、あいつと飲んでてそんな話したわけね。そしたら、この中には愛を感じたんですとか何とか言ってさ。俺に言うわけよ。後悔してたら返したほうがいいですよ、ってさ」

 そう言うと洋ちゃんは、わたしの手のひらに壊れたおもちゃを載せた。

「洋ちゃん、『夢の湯』の玄関のすき間にこれ隠したの?いまさら、出てくるなんて不思議よね」
「あ~、ぜんっぜん覚えてねぇな。どこに隠したら見つからないだろうって、子どもながらに結構ない知恵しぼって考えたからなぁ」

洋ちゃんは、ミネラルウォーターを飲み干すと
「うぃ~気もちわりぃ。しかしあいつ、人から好かれるやつだねぇ。ここいらのアイドルみたいになっちまったぜ!」

 どうも、ニッキーはたくさんの人の励ましで大泣きしていたのも、少しずつ笑顔になっていき最後はまるで地元の人みたいに商店街の人たちに溶け込んじゃっていたんだって。

 そうだね、ニッキーがこの辺に現れるようになってから、不思議な事がたくさん起きたような気がする。

 それに、わたしの周りでも大切な人たちの気持ちが、今までになくわかったりして。
 感謝と大切な気持ちと、いろんな事を考えた期間だった。

 ニッキーも洋ちゃんも、わたしは大好きだったけど、結局は失恋させちゃった事には変わりないしな。

「ニッキーにも洋ちゃんにも、謝らないとね、ごめんなさい」
 洋ちゃんはゲップをしながら、舌を出した。
「ここいら辺じゃ、お互い様って言葉でなんでも片付けられちゃうからさ。まあ、仕方ないやね」
 そうだね、みんなのあたたかい気持ちにも感謝。


 わたしは、その日の集まりはたくさんの人に喜んでもらえるように心を込めてお手伝いをした。
 洋ちゃんは(だめだ、はきそう!)と言って、自分の家に帰っていった。


「サトにい、洋ちゃんのこと知ってた?」
 って聞くと
「知ってたよ。小さい頃からね。だけどこれだけは兄弟でも、譲れないからね」
 ってサトにいは、さらりと言った。
 わたしの手にはおもちゃの赤い壊れた車が残された。いろんな気持ちが詰まっているみたいで大切に持って帰ることにしたの。



 それから、最後の大学生活が始まった。

 このキャンパスともお別れかと思うと、みょうに寂しい気もした。友だちも愛おしかった。
 新しい講堂、古い校舎、空高く昔から立っているだろうポプラの木。

まだ咲かない花壇の花たち。

 みんなみんな、パパやママが学生の頃から変わらないものたち。
 あ、新しい講堂は(俺たちのときはぼろぼろの今にも壊れそうなとこだったぞ)ってパパが言っていたけどね。

 一日一日が大切なものだって思えて、授業もじっくりと聞いちゃったりした。
今まで居眠りばかりの難しい講義もなんだか楽しい気がしてきちゃうから、不思議なものだわね。

 久我先生の教室に行く前のロビーに応接セットが置いてあって、その前を通りかかってわたしは、動けなくなった。

そのロビーの壁にはついこの間まで油絵が飾ってあった。

だけど、今そこは周りの空気まで明るくするような絵に変わっていた。

油絵や水彩画とはまったく違ったその色彩は、朝日を浴びているみたいに輝いて見えた。

そう、その絵に描かれているのは、まさしく『夢の湯』

誰が何と言ってもそれは『夢の湯』で、間違いようがないと思ったの。

どっしりとした反り返った瓦屋根。空高く突き出ている煙突。

銭湯の前にある古い桜の木はきらきらと眩しいくらいの花々を揺らせている。

木の下にはあのベンチが置かれていて、桜を見上げて人が座っている。
銭湯から出てきた人のほかほかした笑顔。まわりで遊ぶ子どもたち。

そして、眩しそうに空をみあげているのは、ママ?
ママがいる。

両腕を広げたくらい大きなその絵は、まるで『夢の湯』にいるような気持ちにさせる。
ふと、右端を見た。エヌ、アイ、なんてよむんだろう?

きゅうにわたしの身体に電気が走った。ニコルソン、ニッキーの絵だ。
じゃ、シルクスクリーンなんだ、これ。いつのまにこんな絵を描いていたんだろう。


「すごいだろう?昨日、ニッキーが寄付すると言って持ってきたんだよ。シルクスクリーンだから何枚か同じものがあるだろうけど、すばらしいものだろう?ここ、きみが連れて行ったところなんだね?沙友紀に見せたいと言っていたよ。わたしも、きみがこんなに暖かい人たちに見守られて生まれ育ったんだなぁと思ったね」

動けなくなっていたわたしの後ろから、久我先生が絵を見上げて嬉しそうに呟いた。

「きみがいなくなると本当に寂しくなってしまうな。そのうちきみのパパのところにお酒でも持って伺おうかね?泣かれちゃうかなぁ」
 久我先生はわたしにウィンクをして見せた。

 大好きな先生。

 会えなくなると思うと、目頭が熱くなる。

「本当に、お世話になりました。わたし先生の授業大好きでした」
 それだけ言うのが精一杯だったのよね。

 ニッキーにも、会いたいなと思った。でも会えないなとも思う。
 辞めちゃうけど、わたしはこの学校が大好きだな。本当に、このキャンパス忘れない。
 少しずつ春が近づいているんだろう、木々に小さな緑色の芽がちらちらと見えていた。


 その日は金曜日で授業がめいっぱいあったので、「エーデルワイス」に寄れない日だった。
 帰り道、『夢の湯』の明かりが特別明るく暖かい気がして、女湯の暖簾をくぐった。

「いらっしゃ~い」
 元気な声が聞こえた。
「はづき?」
 番台には葉月が座っていた。にこにこ顔で愛想のいい笑顔だった。

「どうしたの?」
 わたしが葉月に聞いたその目に映ったのは、今日見てきたばかりのニッキーの『夢の湯』の絵だったの。その絵が、女湯の壁にどんと飾ってある。


「なに?なんでこの絵がここにあるの?」
「ほらほら、おねえちゃん!ここ、ここ見てよ!」

 葉月が差し出した雑誌には、目の前にある今日二度も見た『夢の湯』の絵の写真が掲載されている。
「連続してすごい賞をもらったんだよ!ニッキーったら!それをここに飾ってくださいってもってきたんだよ、今」
「え?今」
 何がなんだかわからなくてわたしは葉月に聞き返した。

 雑誌には、その絵をバックににこにこ顔のニッキーが立っている写真も映っている。
 そうか、たしかシルクスクリーンとかって何枚もあるって久我先生言っていたっけ。

「ハ~イ!さゆ~き!シバラクアエマセンデシタガ元気デシタか~?製作ニ時間ガカカッテしまいマシタが、ヤットデキアガリマシタので学校とユメノユに持ってキマした」
 ほっかほかの湯気を立てているのは、ニッキーだった。

男湯のほうを見ると、そこにはこの間の桜のはなびらと少女の絵が飾ってある。
やっぱりあの絵は、わたしよりママに似てない?

「この間は、本当にごめんなさい」
「ナニ言っているデスカ?フィアンセワタシに会いにキマシタデス。とってもイイヒト、アンシンです」
「サトにいが?」
「本当にこの町キニイリマシタ。ワタシ、ココに住むことにシマシタ」
「え~?ニッキーやったじゃん!おねえちゃんは決まっちゃってるけどあたしはまだフリーだよ!」
 葉月が、大きな嬉しそうな声をあげる。

「ソシタラ、毎日ユメノユにキマスデス。ラッキーですね」

 にこにこしっぱなしのニッキーに後ろを、文房具やさんのおじさんが「ニッキさんおやすみ」と声をかける。

こっちのお花屋さんのおばさんとおばあちゃんが「ニッキさん、絵楽しませてもらいましたよ」と手を振って出て行く。

「ニッキさん、本当に二つも絵を飾っといていいのかい?」
 とおばあちゃんがとんかちを片手にやってきた。

「急に呼び出されたんだよ、おばあちゃんにさ!忙しくて手が足りないから来てくれって!バイト代弾んでほしいとこだけど、今日はニッキーに免じてタダにしとくね」
 葉月が口を尖らせる。なんだかおかしくなって、笑っちゃうわ。

 今日はやけに人が多いなって思っていたら、
「ニッキさんの絵があるって聞いてここいらの人がみんな来ちゃうもんだから、大忙しだよ!嬉しい悲鳴ってやつだよ!」

 そりゃそうかもね。あれだけ大騒ぎしたニッキー事件だもの、ニッキーの新しい絵が『夢の湯』に来たって聞いたら、み~んなやって来るに決まっている。

「いらっしゃ~い」
 そんな事考えている間に、何人もの人が暖簾をくぐってやってくる。

 なんだか、あわただしくなった『夢の湯』の手伝いをやるのはすごく楽しかった。
 ニッキーの絵には人だかりがしていて、ここが銭湯だって気づかないくらい。
 『夢の湯』はまるで美術館になっちゃったみたいだ。

 だけど、みんな嬉しそうな顔をしてお湯に入ってくから、やっぱり銭湯なのよね。

 ニッキーは、たくさんお湯に入ってたくさんの汗を流して、笑顔を取り戻したのかもしれない。
そう思うと、お風呂って心の洗濯までしてくれちゃうのかもしれないと思える。


 あかちゃんを連れた若いお母さんがやってきた。
「あらら、とんかつ屋の若女将がきたねぇ!」

 おばあちゃんが紹介してくれたのは、とんかつ屋さんの娘さんで結婚して北海道に住んでいたんだって。
旦那さんが板前さんで、お店をついでも良いと言ってくれて戻ってきたらしい。

これで、とんかつ屋さんのおじちゃんもおばちゃんも喜んでお店に出られるわね。

「おねえちゃん、これでとんかつ屋も安泰だよ!あそこのとんかつうまいからなぁ!」
 葉月が夢見るような表情をする。
 今晩のメニューは、とんかつに決まりね。帰りに寄って帰ろうかな。

「わたし、ニコルソンさんの絵大好きなんです!」
 お母さんの声に、かわいいあかちゃんがあどけない顔でわた飴みたいに微笑んでいる。
 おばあちゃんは、せっせとあかちゃんの世話なんかして楽しそう。
「あかちゃんの世話は大変だけど、かわいいから昔なんて取り合いで世話したもんさ!」

男湯にも女湯にも、たくさんの人が溢れていたの。
あの時、湯けむりのむこうで見た風景みたいに。
 『夢の湯』がまるで昔に戻ったように。


 頭の上に手ぬぐいをのせて、鼻歌なんかを歌って涼んでいるニッキーにみんなが挨拶をしていく。
 その度、手を握り締めて
「ワタシココニ住む事にシマシタノデ、これからもヨロシクオネガイシマ~ス!」
 とか言っているし、まったくニッキーには振り回されっぱなしよね。

 ニッキーが小さな子どもに何かを手渡しているのを見たわたしは気になって声をかけた。

「ニッキー、あの時もらった石って何だったの?」
 ニッキーは不思議な顔をして、番台に歩いてきた。

 子どもにあげていたのは小さくて丸い物だったから、もらった不思議な石のことを思い出していた。
「何のことデスカ?アノコにアゲタノハ、金平糖デス。ホラ!」
 ニッキーの手にはビニールの袋に入った金平糖が黄色、ピンク、白とかわいらしくゆれている。

「これ、金平糖の形してないじゃん!」
 葉月のオーバーに両手を広げてのリアクションに吹き出した。
 金平糖のお星様みたいに飛び出ているトッキのところが削れてまるで、石ころのようになっている。
「ソウデスカ?でもコンペイトウです」
 大切そうに袋から一つ取り出して葉月に渡して自分の口にも入れた。葉月がそれを口に放り込む。
「うん、味はお砂糖だ!でもお星様じゃない金平糖なんてかわいくないじゃん!」

 わたしは、もう一度聞いた。

「ピンク色の石、もらったでしょ?不思議な石。会いたい人に会えるって」
「ナンノ事デスカ?ワタシがアゲタノハ、コンペイトウデス」

 うそだ、あれは金平糖なんかじゃない。硬いきれいな石だったじゃない。
 今飾られているあの絵の中の風景は、いつのこと?

 あれはいつかの夢みたいな、昔の世界の『夢の湯』じゃないの?

 あの石で昔を垣間見る事ができるとしたら、ニッキーは昔の『夢の湯』を見てきたんじゃないの?
 もしかして桜に包まれた絵も、『夢の湯』に描かれている人も、ママなんじゃない?

 わたしの疑問がいっきにつながった気がした。

 もっとちゃんと聞こうと思ったのに、ニッキーは何かを思い出したみたいに
「オオーそうね~!さゆき、はづき。チョットコッチニ来てクダサイ!」
 と言って表に飛び出した。

「なんなのよ~いそがしいのにさ~」
 と葉月がぼやきながら番台から降りてきた。
わたしも一緒に扉をあけて暖簾を手で寄せた。

「イッツ、ベリィナイス!ンン~」
 感心顔で桜の木の下に立っているニッキーの横に、真新しい木のベンチが置いてあった。
 今までの朽ち果てたぼろぼろの悲しいベンチの変わりに、ぴかぴかの座席が用意されている。

「プリ~ズ!」
 と仰々しく手を添えて、席へ誘うニッキーに、びっくりしてわたしも葉月も恐るおそる座ってみた。

 見上げると桜の木の大きな幹を背に、枝がいっぱい空に向かって腕を伸ばしている。
 それは本当に自由に、おおらかにやさしくあたたかく。
 春になったら、きっと満開の桜の花で空が見えないくらいだよね。目をつぶるとありありと脳裏に浮かんでくる。去年もその前も、ずっとずっと昔から咲いている桜の花。

「これ、ニッキーが?」
 わたしはニッキーを見つめた。
「イエ~ス」
 得意そうな顔で胸を張るニッキーに、なんてお礼を言っていいのかわからないくらい。
「サンキュー、ニッキー!」
 葉月が彼に飛びついた。
 葉月はもう昔の、自分の気持ちを正直に表せる女の子に戻ったんだね。

「なんとかしなくちゃと思ってたんだけどねぇ。ありがたいもんだ」
 おばあちゃんが出てきて、木を見上げて
「なつかしいねぇ、ここで銭湯をやろうって思ったのは、この桜の木があったからなんだよ!あの世でおじいちゃんも喜んでくれてる事だろうねぇ」
 遠い目をしておばあちゃんが、桜の木の幹にふれた。

 おばあちゃんの顔を見てニッキーは真剣な顔をして言った。

「ワタシ、住むところサガシテマス。ドコカこの辺シリマセンカ~?」
「住むところなら、この間お前さんが泊まった部屋が空いてるよ。じいさんの部屋も空いてたねぇ」
 きっとその部屋って、結婚するまでパパが使っていた部屋だ。

 銭湯につながった母屋は、小さい時のわたしたちの遊び場だった。

 そうか、おじいちゃんもいなくておばあちゃんは広い家におじさんと二人っきりなんだね。
「イインデスカ?じゃキマリデス!ワタシ、ユメノユにスム事にシマス。アア、ワタシお手伝いシマスデスよ」
 ニッキーは『夢の湯』に住む事にしたみたいだった。

 葉月は、
「おっもしろくなりそうじゃん!」
 と笑った。
「いいねぇ」
 とおばあちゃんがうなった。
「よろしくね」
 わたしが言った。


 ニッキーに初めて会ったのは桜の木の下だったっけ。不思議な人。
 そこいらへんから、ずっといろんなことが起こった。

 今年の冬から春までのほんの短い、毎年寒さに震えて過ごすだけの季節。
 こんなにたくさんの出来事があったなんて。

 サトにいにされたプロポーズ。
 変な外国人のニッキーに会った事。

 大学を辞める決心をした、そして調理師の学校に行く事を決めた。
 パパと生まれて始めての、喧嘩。そして仲直り。

 ニッキーがテレビの前でプロポーズ。

 一冬に二人の人からプロポーズされるなんて、誰が想像しただろう。

 わたしが、サトにいのお嫁さんになると決めた事。

 近所の人たちの暖かさにも触れたよね。いままでそんなことわかりきっていた事だったけど、心からあったかいなって思えた。優しい人ばっかりだなって思えた。
 わたしはこの町に生まれて、良かった。たくさんの大好きな人たち。
 
 そして、昔の『夢の湯』の世界を垣間見たのは、幻だったのかしら。

 おじいちゃんの声を聞いたのは、夢の中の出来事だったのかな。
 ママがわたしにかけてくれた言葉。

 それは、信じがたい事ばかりだったけど。でも今は、夢じゃないと信じられる。
 全部、本当の事だって。

 だって胸の奥のあったかいとこには、ママの言葉もおじいちゃんの言葉もしっかり詰まっているもの。
 大好きな人たちの生きてきた証みたいなもの、それが今のわたしたちに繋がっているんだって。
 自信を持って生きていける。

 どんなに苦しい事があったとしても、わたしは大丈夫。たくさんの人たちからもらった気持ちを持って生きているんだから。身体中にたくさんの思いが詰まっているんだもの。



 きっと、春になったらまた大騒ぎをして、ニッキーが引っ越してくるに違いない。

 そしてなんと、『夢の湯』に住む事になるなんて。まるで家族ができたみたいね。

 「エーデルワイス」も忙しい毎日に違いない。そして忙しそうに働いているサトにいのそばには、わたしがいる。
 洋ちゃんは、まだまだわたしたちに意地悪な事を言うのかもしれない。

 葉月もパパを邪険にすることがあるかもしれない。

 でもね、みんなみんな大好きなひとたち。

 わたしは桜の木の空高いところに、ピンク色の固いつぼみを見つけた。
 ああ、春はもうすぐそこに来ているんだ。
 みんなみんな、桜の花を待っているからね。

 


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