失恋

 それからしばらくして、我が家にはいつも通りの朝が少し違う形でやってくるようになった。
 葉月はお弁当を作るのを手伝うようになったし、パパも朝ごはんの用意をするようになった。

 『夢の湯』に行くと、葉月がヘァーウィッグもメガネもなしで番台に座っているとおばあちゃんが嬉しそうに言った。

 ふと気になって、店じまいの片付けをしているおばあちゃんに聞いてみた。

「番台に座っていておじいちゃんの声が聞こえる事、あった?」
 聞こえているのか聞こえてないのか、さっさと籠をかさねていくおばあちゃん。

 ふぅっと一息いれると
「まったく、ぽっくり逝きたいって言ってたのに心残りがあるなんて、まったくわがままなもんだよ!」
やっぱり、やっぱりおばあちゃんはおじいちゃんの声が聞こえるって知っていたんだ。

知っていて葉月を座らせようって言ったのね。

「まあ、約束を守れないのは心苦しいとは思うけどねぇ。なつかしいと思う暇もないよ。ぼやいてばかりじゃねぇ」
 おじいちゃんは、葉月が寂しくて笑顔を見せない事や友だちを作ろうとしないのは自分のせいだって思っていたんだ、きっと。
ふふふ、そうか、おばあちゃんとお話しするんじゃなくて、ただひたすら嘆いていたって訳ね。

せっかちなおじいちゃんらしい。
だけど、そんなに心配してくれているなんてありがたい。

葉月も少しずつだけど変わってきた。
そして、最近たくさん笑顔を見せてくれる。かわいい、屈託のない笑顔よ。


寒い毎日の中で、たまに小春日和が続いたりした。
今年の春は早く来るかもしれないわね。

そうしたら、桜もきっときれいな花を見せてくれるに違いない。
『夢の湯』に来た人にたくさんの笑顔をくれるだろう。

北風が吹くたびに、桜の木が満開になった姿を思い描いて過ごした。

わたしにとっても、新しい生活が待っている春。

満開の桜にちゃんと報告しよう、いろんな事がんばりますって。
すぐそこに来るだろう春を待ちながら、わたしは毎日を過ごしていた。

春が来る前にもう一つ大きな嵐が来るなんて、思ってもいなかったから。


その日わたしは、「エーデルワイス」にいた。

商店街では昔から桜まつりというのがあって、今では残り少なくなった商店だけどそれだけは毎年続いている行事だったからみんな一生懸命で元気がある。


その打ち合わせがあるので「エーデルワイス」は夕方から閉店して、オードブルを皿に盛ったりミートパイを焼いたりして忙しかった。

サトにいはいつものメニューと違うものを作るのがすごく楽しそうでいきいきしていて、素敵だった。
そんなサトにいの隣でいろいろとお手伝いするのは、ものすごく楽しかったの。

まるで、もう新婚さんみたいな気がしていた。
それとは逆にこの冬が終わったらわたしの大学生活も最後なのかな、とちょっとさびしい気持ちもあった。




そのうち、商店街の人が何人かがやってきた。

「この商店街も、あとを継いでくれる店は本当に少なくなっちゃったからねぇ、先が思いやられるよ」
 お肉屋さんのご主人が、ため息混じりに言った。

「ここはいいねぇ、こんなにいい跡継ぎがいるんだものねぇ」
とんかつ屋さんのおばちゃん。

すっごくおいしいとんかつを食べさせてくれるお店で繁盛しているんだけどね。
一人娘は結婚して遠くに住んでいて帰ってこないんだって、こぼしている。
「一人娘じゃなくて、息子がほしかったよ。」
 なんてぼやいている。
 
そんな感じで、そろそろみんな集まってくるだろうって時間になった時。

「大変だよ!沙友紀ちゃん!早く『夢の湯』にお行きよ、大騒ぎになってるよ!」
 花屋のおじさんとおばさん。

 とっさにわたしの脳裏を悪い想像が駆け巡った。

 おばあちゃんになにかあったの?胸の奥がどきんどきん音をたてた。

 おじいちゃんが亡くなった朝も、突然近所の人が家に来て知らせてくれたんだ。あわてて駆けつけた時にはもう、おじいちゃんは動かなかった。冷たくなって閉じた目はそのまま開く事がなかった。信じられなくて、何にもできなかった。

 どうしよう。おじいちゃん、お願いだからまだおばあちゃんを連れていかないで。

 もっともっとおばあちゃんには教えてもらいたい事も相談したいことも、数え切れないくらいあるんだもの。不安に胸が押しつぶされてしまいそう。
 目があったサトにいが(はやく行きな!)って言った。わたしはエプロンのまま走り出した。



 『夢の湯』の前には人だかりがしていた。

お客さんだってこんなに来ないよね。わたしは人を掻き分けて中に入っていった。

 「テレビかなんか?」とか「芸能人?」とか言っている人の声が聞こえた。

振り向くとテレビカメラを抱えた人が『夢の湯』の入り口で立っている。

 なに?どうしたの?

 まだまだ、遠くのほうから商店街の人たちがやってくるのが見える。
 ほんとに、この辺の人は何かあると野次馬になっちゃうのよね。

 男湯の扉が開けられていて、おばあちゃんがカメラに向かって頭をかいている。いつもと違う困った顔のおばあちゃん。
わたしの姿を見つけると声を上げた。

「ああ、さゆき~なんとかしとくれよ!」
 おばあちゃんは元気だ。なんともない、良かった。

 おばあちゃんの向かいに立っているのは、金髪のすらりとした青い目の外国人?ニッキーだ。

 でも、いつものニッキーじゃないの。だってニッキーったら紋付羽織袴。
 そうして、ニッキーの横に大きな四角くて薄い板みたいなものがあって何人かの人がそれを大切そうに床に立てている。

「ハ~~イさゆ~き!マッテマシタよ~ワタシ。少し早くなってシマイマシタガ、賞取ってしまったのでキマシタデス!」
 は?何がどうしたって?なんで紋付袴なわけ?

 わたしは、なにがなんだかわからなくて入り口に突っ立ったままでいた。

「あなたが、沙友紀さんですか?絵のモデルの人ですね?」

 わたしに眩しいくらいのライトが当たる。テレビカメラがわたしのほうをむいた。

 なんでテレビ?テレビに映ってわたし、どうしたらいいの?

 頭の中が真っ白になっちゃって、まぶしい光の中でわたしはうつろな消えてしまいそうな意識でようやく立っていた。いまにも座り込んじゃいそう。

「大賞をとった作品のモデルがあなただそうで、ほんとうに美しい人で想像していたのと寸分違いませんね」
 目の前のマイクを持った人が言った。

 寸分、なんだって?

 まぶしいのに少し目が慣れてきたわたしは、ニッキーの横のものを見た。

 そこには桜の花びらに囲まれたきれいな女の人が描かれている。ママに似ている。

 それは、金色の額に入った絵。なのかなニッキーの描くって言うシルクスクリーンっていうのがこれなのかな?きらきらライトが当たって光っている。

桜の花びらはピンク色に浮き出ていて今にも舞い踊りそう。
その中ではにかむように笑う少女。これが、わたし?

眩しそうにこちらを見つめている瞳にも桜の花びらが映っている。

きれい。ニッキーがこれを描いたというのなら、変な外国人なんてもう言えないかも知れない。
すごくきれいだ。いつまでも見ていたいと思わせる、そんな絵だ。

生きている息吹が込められているような気がする。
そして、愛情さえ感じられる。ニッキーが込めた思いみたいなものまで感じられちゃうの。


「あなたを思って描いたそうですよ。そしてこの絵が出来上がったらあなたにプロポーズをする決心だったそうです。あ、わたしはこの先は言わないほうか良かったかもしれませんね」
 何言っているの?

 さっきからこの人の言っている事、理解できないわ。

ニッキーが私の目の前にやってきた。

いつもみたいに自分の世界だけって感じじゃなくて、ちょっとはにかんじゃって、おかしいくらいに純情な少年みたい。

「コノ絵にワタシのココロをコメマシタ。ワタシと結婚、シテクダサイ!」
 だから、紋付袴?なの?
 どういうことなの?ニッキーがわたしにプロポーズ?

ニッキーは真剣な青い瞳を輝かせて、わたしの目を見つめている。

彼の目にはカメラもライトも関係ないみたいで、まるで世界に自分とわたしだけが見えているみたいだ。

 どうしよう。
 ああ、そういえば、少し前に何て言っていたんだっけ?

 桜が咲いたらプロポーズするとかしないとか言っていたような気がする?
 それって、絵を描き上げたらわたしにプロポーズするつもりだったって事?
 だけど、だけどなんでこんな大勢の中で返事しなくちゃいけないの?

 なんで、カメラの前なの?なんでテレビなの?
 わたし、断れないじゃない!

 ニッキーがわたしの事想ってくれていたのは絵を見ればわかるけど、いままで考えた事も無いのに。

なんて言おう、なんて。

ニッキーを傷つけないように、なんて断ればいいのかな。

断ったら、ニッキーが笑いものなっちゃうかもしれない。断れない。どうしよう。
でもイエスなんて言えないわ。わたしには、決めた人がいるんだもの。

完全にわたしの頭の中はパニック状態だ。

 
『まったくこの野次馬ったらないねぇ』
その時、わたしの耳に聞こえてきたガラガラの低い声。

『何言ってんだいこの連中ときたら、人の恋路にしゃしゃり出るんじゃないよ!』
呆れたようなセリフの後に優しい声で耳の近くで聞こえてくる。

『沙友紀にゃ心に決めた人ってぇのがいるんだろう?いいんだよ、沙友紀。かわいそうだからとかかっこ悪いとかそんな事考えなくていいんだよ。本当のことを言ってやるのが親切ってぇもんだよ。それが、相手に対する礼儀ってぇもんだ!』
 おじいちゃんの声。

 ああ、おじいちゃん、そうよね。

 そうだわたし、本当のこと言おう。心からごめんなさいって言おう。
 そう思ったら、きゅうに気持ちがしっかりしてきた。

 わたしは心にそう誓って、ニッキーの澄んだ青い目を見つめた。
ニッキーはわくわくしているみたいにわたしの返事を待っている。
「ごめんなさい、ニッキー」
 深く頭を下げた。

まわりの観衆が(おおぉ~)っと声を上げた。

(えぇ~)という声も聞こえた。

とたんにニッキーの青い目が潤んだ。澄んだ湖がにごってあふれて零れ落ちた。

マイクを持った人があわてている。そこらじゅうの人がどうしようとあせっているのがわかる。
(なんてこと)とか(かわいそう)とか言う小さな声が、わたしに突き刺さる。

ごめんなさい、だってわたしには決めた人がいるんです。大きな声で叫びたかったけど声にならなかった。
ふいに身体があたたかいもので包まれた。

「すみませんでした。沙友紀は僕のフィアンセなんです。ごめんなさい」
 突然声がして、サトにいがわたしの肩を抱いた。

 いつのまに現れたのかな、サトにいったら。わたし壊れちゃいそうなの。
 そうしてその場からわたしを覆い隠すように連れ出してくれたんだ。

 わたしの肩はガタガタと震えて止まらなかった。涙が頬をつたって落ちる。
 気がつかなかった、ニッキーの気持ち。

 ニッキーはちゃんとわたしに意思表示していたのに。

 もっとはやく気づいていれば良かったのに。いい加減に聞いていた彼の言葉。

 悲しくて自分がいやになって、消えてしまいたい気持ちでどうやって家まで帰ったのか覚えてなかった。
 でも、ぐちゃぐちゃになって立っていても、どうにもできないでいるわたしを救い出してくれたのは、サトにいだったのだけは覚えているの。


「大丈夫だから!心配しなくてもいいから!今日はゆっくり休んで。彼には後でもう一度俺が言ってくるから。謝ってくるよ、沙友紀の分までちゃんと謝ってくる」
 サトにいは、そう言ってわたしを家につれて帰った。

 だけど他にも、まだわたしの気がつかない事があったなんて思っても見なかった.。

 その晩、近所の人からパパはニッキー事件を聞いて帰ってきた。
 なんでもすごく大きな大賞を取ったニッキーを取材していた番組があって、その取材中にニッキーは「イカナクテハイケナイノデ、すみません」となんと羽織袴に着替えてきたそうだ。

 テレビの人たちは、てっきりフィアンセの元に知らせに行くものと思い、カメラが着いて来てしまったんだそうだ。そんな、しっちゃかめっちゃかな取材はところどころカットされていたけど、ニュースに流れていた。もちろん、芸能人じゃないのでわたしの顔は後姿だったり横顔だったりして、はっきりはわからなかったんだけど。

 葉月なんか、
「なぁんだ~ニッキーったらわたしのファンなのかと思ったら、おねえちゃんが本命だったなんてな~」
 とか言ってげらげら笑っちゃうんだもの。ニッキー、ちょっとかわいそうよね。

 テレビに流れているワンシーンなんだけど、そのうちの一つを見てわたしは驚いた。
 なんと、洋ちゃんが映っているやつがあったの。

 わたしがニッキーに(ごめんなさい)を言った後サトにいに連れて行かれた後の事だと思うんだけど、洋ちゃんがちょっとだけ映っちゃっているの。

姿は少しだけだった。
テレビカメラはどたばたを避けて、ニッキーのシルクスクリーンの絵を大写しにしていた。
だけど、声が聞こえちゃっていたの、その番組だけ。

絵の向こう側で(おお~ん)というニッキーの泣き声。そして、その後に洋ちゃんの声が
「沙友紀は小さい頃から兄貴と結婚するって約束してたんだよ!俺なんかもう小さい頃に失恋してるんだからおまえだけじゃねぇよ、悲しいのはよ!元気出せ!」
 そして、声はカットされた。

 それがどんな事なのか、まだはっきりわかったようなわかんないような複雑な気持ちだった。

 だって、洋ちゃんが失恋?わたしに。今まで考えてもみないことだった。

 いつも、突然現れては意地悪な事ばっかり言っていた洋ちゃん。だけど、一つ一つ思い出してみると裏には思いやりが詰まっていた。

 鈍感なわたしは、いろんな人たちを傷つけていたのかもしれない。そう思うと、やるせなくて気持ちが沈んできちゃう。


「あはは、沙友紀はもてるんだなぁ。やっぱりママの子どもだなぁ。ママはそりゃもっともっともてたんだけどね。そのライバルたちを蹴落としてパパが勝ち残ったという訳なんだがな!」

 急にパパは陽気になって、嬉しそうにまたママ自慢を始めた。

「じゃさ!ママがたくさんの中からパパを選んだのは、何が決めてだったの?」
 葉月が、意地悪な質問をする。

 そうだね、ママはパパのどんなところを選んだのかしら?
「だってさぁ、パパってハンサムでもないしお金持ちでもないし、特別なところってどこよ?」
 きっつ~い、葉月ったら。

「そりゃ、心だよ。ハートだよ。それから思いやりかな」
 一生懸命考えているパパは、ちょっとかわいくておかしかった。

「そりゃそうだ!パパにはそれくらいしかないもんね。あ~あ聞くんじゃなかった。恋愛の参考に聞いたあたしが馬鹿でした!」
 そう言って、葉月は笑った。つられてわたしも笑い出した。
 でも、ママのパパの事を話しているときの顔を思い出していた。

 ママは愛おしそうにパパの事話していたよね。そして、小さいときに口癖のように言っていた言葉も思い出した。
「わたしが小さい頃にママが言ってたよ。パパはママが転校してきて一人ぼっちだったときに、一番に友だちになってくれたって。それから、たくさんの仲間に出会えたって。みんなパパが横にいてくれたからだって言ってた」
 
その言葉に、葉月は舌をだして

「うっひょ~、びっくり!パパったらいいとこあるじゃん!まんざら捨てたもんじゃないね!」
 だって。
「そうだろ!だから、パパが一番だったんだよ。他の人には(ごめんなさい)って言ってもさ。パパが一番なんだからしかたないんだよ!」
 ものすごく嬉しそうなパパだった。

 後になって思ったんだけど、パパのその言葉ってわたしに対して言ってくれた言葉だったのかな。
 噛みしめると、いろんな気持ちがついてくるその言葉。

 悲しい思いをさせたくなくても、自分の気持ちにはうそはつけないんだものね。


 その晩は驚きと悲しみと後悔と、そしてあったかい気持ちがわたしを取り巻いている幸せを思って眠りについた。
いろんな事があった一日は終わろうとしていた。

春が来る前の大きな嵐だったのかもしれない。
あったかい春よ、早く来てね。桜の花がたくさん咲くのを心から待っているからね。