甘い災厄


それが、どれだけ辛いのか、まつりにはわからないけれど、でも、夏々都は自分の痛みは許せても、だからこそ、痛みが『忘れられない』からこそ、他人に向けてしまった痛みのことは、許さないし忘れない。いつも、どこかで自分を責めている。本当は、いつも苦しいのだ。
なにも、なにひとつわかってあげられないとしても、せめて──
当たり前の平穏のなかに彼だって、存在が許されていることを、当たり前でいいということを、知って欲しい。
せめて、変わらない日常を、あげたい。

「あまり積極的だと、ちゅーされちゃうよ?」

左耳に囁いてみる。
これは内緒だが、彼が弱い場所のひとつだ。

「ん……」

びく、と僅かに反応を示す夏々都。そのまま耳をもぐもぐと食んでみる。
「うぅ……」

泣きそうに、呻かれた。 そのままぺろぺろと舌先で舐めたり唇を這わせたりしていると、頭にチョップが飛んでくる。

「な、な──にしてるんだよっ!」

「夏々都で遊んでいました」
「……あっそ。あんまり、くっついて来るなよ……」
夏々都が抱き付いて来たのにこの言われ様。
まつりは、本当のことを言おうか少し迷ってから、ただ、にっこり微笑んだ。















 駅に着くと、駅弁を買ってから、二人で近くで見つけたうどん屋さんに行くことにした。
 そこは地域にあるチェーン店で、値段もリーズナブルなだけでなく、うどんとは別に、丼も出している。

……というか、もはやそちらがメインみたいになっているという噂だ。

 まつりたちの住む町にも同じ店があるので、馴染みやすい気がした。店の前にあるショーウインドウにはうなぎとか、天ぷらとか、きつねうどん、お子様ランチが飾られていて、昼には家族連れが訪れる。
『いらっしゃいませ!』と書いてあるガラス越しには、盛況の様子が見えていた。
 二人で、カラカラと引き戸を開けて中に入る。中は喫茶店のような、ほの暗くて落ち着く内装で、テーブルの上にはあの丸いおみくじの機械まであった。
「二名様ですか?」
白いエプロンと帽子姿の店員さんが、営業スマイルで聞いてくる。頷くと、席が空くまで座っていてくれと、入り口すぐの長椅子に案内される。
「はーい」
と二人で椅子に腰かけて、渡されたノートのリストに名前を書くことにした。
「んーと、なんて書こう?」
 実際の名字は、この地域で書くと、影響を与えるだろうかとまつりは考える。とりあえず遠い親戚の名字にしておいた。
「待たされるのも、楽しいな」
店内をきょろきょろして、どんな食べ物があるのかを把握する。
きつねうどん、たぬきうどん、カレーうどん、天ぷらうどん、うなぎ、焼鳥、お子さまランチ、カレーライス……うーん、どれも美味しそうだ。

少し待っていると、すぐ目の前で客の男性がレジに向かい、まつりたちは席に通される。手前から3つ目の、角の席だった。







固定された椅子に座り、(まつりが奥の壁側席で、夏々都もその右隣に座った)テーブルにあるメニューを見る。

 だいたいが税抜きで400円とか500円とかそんな感じだが、その中でもうなぎはやはり高い。お好み焼きはなかった。
「うー、どれにしようかなー」
「お子さまランチとかどうだ?」
夏々都が楽しそうに提案する。まつりはお子さまじゃない。
むっとしていると「焼鳥とかあるぞ」と言われてそちらに興味が移ってしまう。
「焼鳥とネギトロ丼にする! あとアイスクリームとパンケーキ」
「駅弁食べられる?」
「当たり前だよ!」
「じゃ、ぼくは……」
夏々都は言いかけて、ピタリと固まる。

「どうした?」
なにか、思い出したのだろうか。
「いや、二年前も、ここに来たって思ってさ」
「そう、だっけ」

痛みを堪えるような、複雑な、苦しそうな表情で、夏々都は笑った。

「うん。カツ丼食べてた」
「カツ丼かー」

少しの、沈黙。
それから、彼は呟く。

「……あの人とも、来たかったなぁ。三人で」

誰の、ことなんだろう。まつりには、覚えがない。なぜ、それが過去形で表現されているのかも。
「誰? 彼女?」
面白がって聞いてみると、まあそうかな、と返ってくる。
けれど、寂しそうだった。
「……ぼくたちは、わかりあえないのかな。一緒に、生きて、欲しかったのに」

「夏々都」
まつりは名前を呼ぶ。よく、わからないけれど。それでも────

「ご注文を承ります!」

突如、店員が二人に割って入ってきた。

「うわわわ……」

夏々都は驚いたように、まつりの影に隠れる。









「焼鳥、ネギトロ丼、アイスクリーム、おにぎりセットで」
 夏々都が頼まないのでまつりは勝手にメニューを決めて店員に注文する。
「これでいい?」
聞いてみると、夏々都は、うん、ありがとうとおずおずとまつりの影から出てきて、なにかを誤魔化すようにメニューを眺め出す。

おにぎりセットはおにぎりと漬物、味噌汁のセットで食の細い夏々都にも食べやすそうだった。かしこまりました、と先に水のグラスを二つ、手渡されたので、ひとつずつ手に取る。
店員が離れて行ってから、夏々都はぽつりと言った。
「再会したの、まだ昨日のことみたいだよ」

そうだろうか。まつりは、随分前から側にいた気がするけれど。
「あの頃は、初めて見たもの、たくさんあったね」
「そうだな。しばらく、閉じ籠ってたみたいなもんだし……世界は、数年でガラッと変わるって、よくわかったよ」
「そうだね。駅とかも変わってた」
「最近はいろいろ、慣れたけどさ」
「そう? でも、最近またひとつ『初めて』を、ソファーの上で……」
「あー! ああー!」
「うるさい」
バカみたいな会話をしていると、店員のお姉さんが二人の間のテーブルに、お盆を持ってきた。










「あ、来たね」
まつりは言う。
「みたい、だね……」
夏々都が頷く。それから、いただきます、と二人それぞれ箸を装備し、それぞれの食事をした。

とても美味しくて、幸せだったし、夏々都もちびちびとおにぎりを平らげていて、それを見ながら、まつりは癒された。
デザートは二人で分けて食べた。また、いつかここに来ようと思ったが、帰り際に、カップル優待券をもらったのは、未だに解せない。

 そしてまた、道端のバス停で時間を確認し、バスに乗った。夕方だからか、小学生やサラリーマンで、まあまあ混んでいる。
「着いたら夜になるよ」
今度は窓際の席になったまつりがそう言うと、夏々都は、夜かー、と曖昧なリアクションをする。
「えへへ、宿を借りて、それから……」
考えていると、夏々都はなぜだか、少し照れたようにまつりから目を逸らし始めた。
「なに、そわそわして?」聞いてみるが、答えは返って来ない。

 いつの間にか、町は少しずつ薄暗くなりはじめている。夕方が近付いてくる。それを眺めながら、まつりはガラスに映る夏々都の表情に注目する。
俯いているが、どこか──熱に浮かされたような……熱?
「だ、大丈夫!?」
慌てて振り向いて、彼の腕を掴む。嫌そうに振り払われて、なんだか苛立ち、無理矢理こちらを向かせると、彼の目は潤み、頬はやや赤かった。
「……まつり?」
夏々都は不安そうにまつりを見上げる。

 いつか彼自身が言っていたのだが、極端な環境移動、場面変更は、彼の身体に負担をかけるのだという。たとえ隣町程度の距離でも、いや、10階以内のエレベーターであっても、すぐに体調を崩してしまうのだ。
今回も、彼の体調もふまえて隣町くらいの旅行にしたが、朝は元気そうだったので、油断していた。
「具合悪い?」
「ん……」
顔を覗き混むと、照れたようにはにかむ。少し可愛い。
「大丈夫だから」
「熱は……」
顔に手を当てようとしたら、避けられた。
「だ、だから、近い」
「そりゃ、熱をはかるから」
「大丈夫って言ってるだろ……っ」
無理矢理、座席に押さえつけて口付けると、夏々都は、黙った。
 抵抗が弱々しいので、そのまま行為をエスカレートさせようと思ったら、ぎりぎりと足を踏まれる。
「外ではするなって、あれほど……」