プロローグその2
 爽やかに(そよ)ぐ風が薄く白いカーテンを揺らした。薄くまろい光が漏れて、ソッと静かに彼は眼を覚ました。開いた窓をボウッと見つめて、それからゆったりと起き上がる。
 裸足のままでぺたぺたと床を歩き、そこから部屋にある質素な洗面台の前に立った。スッと手を伸ばして鏡面に映る自分に触れる。触れられないのにそこに確実にいる自分がとても嫌いだった。
 白い髪に紅い瞳。抜けるようにというか、病的にと言うべきか。ただただ白い肌に薄桃の唇。顔の造形にそこまで興味は無いけれど、どうやっても隠しきれない色の問題はどうしようもなかった。
 なのに、そんな自分を「綺麗」だと、「惹かれている」と言ってくれた人がいるのだ。
 「また会いに来る」と、「約束」だと。
 真っ直ぐな眼差しの真っ黒の瞳に、真っ直ぐの真っ黒い髪。嘘を吐くような人には見えなかった。そう思ってしまうのは自分の弱さだろうか。
 どうせ自分を珍しがっているだけなんだ。自分の事を理解しようともしない、そこらにいっぱいいる能無し共と一緒なんだ。
 だから、きっと来ない。そう思っているのに、また外で待とうと思っている自分に戸惑う。
 (…………。来てくれるのかな………。)
 サァッと一陣の風が吹き抜けて行った。

 第四話
 昨日の事…………。
 棗は外を歩きながらボウッと青空を眺めていた。青空はどこまでも高く蒼く澄み渡って、まるで槐の瞳のようだった。
 昨日帰って部屋から見た夕焼けを思い出す。それは紅く赤く緋くてまるで朱寿の瞳のようだった。
 今みたいな春の昼下がりの金色の光は槐の髪色だし、冬の雪は朱寿の髪色だ。
 ただとても美しい。
 棗は寄り道も程々に走り出した。うずうずと身体中が楽しみと期待で疼いて動かずにはいられない。クルッと振り返ると、電気屋のショーウィンドウでラジオが映画の予告を移し出していた。
 『全米が泣いた!〇〇先生の新作小説を映画化!あなたはまだこの恐怖と感動を知らない────!!』
 安っぽいコメンタリーの言葉が言った小説家は知っている。その人は人外と人間の哀しくも狂おしい愛しい小説を描く。その題名の小説は今は棗の心にずっしりとのしかかって来た。
 独り善がりの化け物と言う題名のその小説。
 内容は、こうだ。
 真っ白で真っ赤な人なのか化け物なのか分からない人型の異端が現れる。その化け物に女の子が惹かれるが、現実は甘くなく、女の子は引き離されてしまう。周囲は女の子を引き離している間に化け物を殺そうとする。
 化け物は女の子のためならばと受け入れる。が、化け物が殺されるその瞬間に女の子が飛び込んで来て化け物と女の子は死んでしまうのだ。
 彼と出会うまではとても悲しい非愛の物語だと涙出来た。けれど彼と出会ってからはとても他人事とは思えなかった。
 ぶるぶる頭を振って嫌な考えを頭から追い出す。そして館に向けて走り出した。

 「槐。」
 朝ごはんを作り、並べて朱寿を起こしに行こうとしたところだった。トン、トン、と軽く足音を響かせて朱寿が降りて来た。キィ………と音を立ててドアが開けられる。
 ボサボサの白い髪にメガネをつけた何時もの朱寿がひょこっと顔を覗かせて。自分の姿を認めてそのキツい眼差しが緩んだ。
 「おはようございます、朱寿。今ご飯出来たところですよ。」
 朱寿はまだ眠いのかぐしぐしと目を擦りながら椅子に座った。ベーコンエッグとパン、カフェオレ、朱寿はココアでオレンジが並ぶ食卓。
 「いただきます。」
 手を合わせて、それからフォークを手にとったところで気づいた。何時もは好物のベーコンエッグかココアにすぐに手をつける朱寿が今日はぼんやりと食卓を眺めている。
 フォークを持て余してしきりに窓を眺めるその動作に、直ぐにピンと来た。昨日のあの子、棗をまっているのだと。
 「ねぇ、槐。」
 声をかけようと口を開きかけた時に朱寿が自分から槐を呼んだ。
 「どうしたんですか?」
 ぶすっとして朱寿は窓を眺めた。紅い眼が細められる。
 「あいつ、今日来るかな?」
 予感は的中した様だ。朱寿はイライラしているように見えるがコレはきっと棗を無意識に待っていた自分への苛立ちだろう。自覚してからずっとイライラしているのか、と思わず笑いが込み上げた。
 「昨日、晴れてたら来るって言ってたですしね。来るんじゃあないですか?」
 ────あの子には随分と情けない姿を見せてしまった。情けなく泣いてすがってしまった。何故あんなに安心してみっともない姿を見せてしまったのかは自分でも分からない。
 泣いて、すがって、自分の罪を告白した。なんでそんなにみっともない自分が自分の中に残っているのかも分からない。
 不思議な子だ。暖かく温かくずっと一緒にいるかの様に気づいたらそこにいる。
 やっと朝食に手をつけ始めた朱寿を見つめる。この子の強固な心の扉を開いてくれるのは案外にあの子かもしれない。
 僕では、この子を救ってあげられない────。

 青空が覗いた窓から蒼い風が入った。

 「んッしょ、」
 壁を乗り越えてやって来たこの屋敷は、やはり美しい。綺麗な花々、舞い遊ぶ蝶。まるで楽園だ。桃源郷というのかもしれない。なんて、ふんわりとした感想を抱きながら棗はサクサクと芝を踏みしめた。

 この芝は、この樹木は。この花は、この池は。この壁は、この館はきっとあの二人の悲しみを知っている。苦しみと逡巡と、喘鳴と失意の涙を知っている。
 この場所にある美しく見える物達の持つ記憶を全て共有出来たらいい。あの人達の持つ苦しみを、悲しみを知りたい。少しでも救いになりたい。
 樹木についた猫の掻き傷のような傷跡を見つけた。ルシャが引っ掻いたのかと微笑ましく思い、また歩を進める。
 生まれ変わったら太陽になりたい。そしたら、私が雨を降らせない。降らした雨には虹をかけて、恵をもたらす。それとも、空になりたいのかもしれない。
 けれど、ソレは嫌だな、と心の片隅で思った。
 「また、来たの?」
 サクッと芝を踏む音が耳に届いて、振り返ると彼が桜の木の下に立っていた。サァッと蒼い風が通り過ぎていった。
 「来なくてもいいのに。」
 ボソッと彼が顔を歪めて呟いた言葉は何故かよく響いて自分の耳に届いた。つい、眉を歪めた。
 「……………っっ、」
 彼がソレを見て傷ついた様な顔になった。
 あぁ、やっぱり優しい子なんだな。自分に近づいた私が傷つくのを心配して言うけれど、それに傷ついた私を見る事すらも傷ついてしまう、心配になるほど優しい子なんだ。
 ゆっくりと微笑む。緑の葉がそよぎ、桜の花びらが風に乗って吹雪いていく。その風に乗って、自分の気持ちが彼に届く様に。
 「私は来るよ。」
 少し声が震えた。緊張で。自分が何を言っても彼には通じないんじゃないのかと、苦しかった。
 「私は来るよ、貴方や槐さんのために来るよ。それにここは綺麗だよ。ここに来たいの。私が、私の意志で。貴方が心配してくれてるのは、嬉しいけど、来るよ。晴れてる限り、毎日来るよ。絶対に。」
 言っていると、涙が勝手に溢れて伝った。頬が濡れた感触があって、指をあてがうと泣いていた。きっと、朱寿の苦しみが伝わって来たのだ。朱寿のせいにするつもりはないが朱寿の毒気に当てられたのだと思う。
 「んぅ…………、ひっく、」
 静かに涙が拭って俯いていると、芝を踏む音が躊躇う様にたどたどしく聞こえた後、遠ざかった。
 あぁ、やっぱり通じないのかな、さらに涙が頬を伝った。ザクザクと、芝を踏む音が近づいて来る。槐かと思って、泣いているのを咎められたくなくて身をキュッと縮めた時だった。
 「なんで、泣くの。泣かないでよ。」
 戸惑った様な幼い声が聞こえて、紅い色が自分を覗き込んだ。
 「つっ、…………。」
 紅い赤い眼と、真っ直ぐに視線が絡む。困り眉に、伏せがちな白いまつ毛。紅い眼が、キラキラと光を反射して。白い毛が、キラキラと光をまとって。
 「泣いてると、」
 朱寿が泣きそうな幼い声で呟いた。
 「僕も泣きたくなるから、泣かないで、よ…………。」
 いつもの張り詰めた様な逼迫した声とは違って、本当に戸惑うような、年齢相応の幼い声。伏せがちな紅い眼には薄く涙の膜がはって、紅がより一層煌めいている。
 不器用に、アイロンのかけられた白い生地に黄色の糸で縫い取りがされたハンカチが顔にそっと当てられた。弱々しく、細かく震える指先は痛くない様にと優しく頬の涙を拭う。
 優しさに涙が零れた。ボロボロ、ポロポロと雫が溢れて伝う。朱寿は、その一つを指先で掬った。真珠の珠のように丸くまろく零れた雫は、朱寿の指先に触れて砕けた。
 残念そうにそれを見て、朱寿は、私に無理やりハンカチを握らせた。そして、少し硬い親指でぐいぐいと涙を拭う。
 「泣くなって、言ってるのに。」
 自分が痛いように困った顔をして、泣きそうな顔をして、不器用にも涙を拭おうと頑張る彼は優しすぎる。なんで、貴方はこんなに悲しい人なの?なんで、そんなに無理してるみたいにに冷たくするの、私に少しでも心を見せてくれてもいいじゃない、貴方だって、苦しいんじゃない!
 「苦しいの…………?なんで、泣くのさ。僕のために何かしたいっていうなら、早く泣き止んでよ。」
 思い出したようにそう言って私の顔を覗き込む。その瞳が、その髪が、その綺麗な顔立ちが柔らかく光を反射して棗の目に届いた。涙の膜の向こう側で、彼の色がぼやけた。
 「苦しいのは、貴方でしょう?私よりも苦しくて私よりも優しくて、苦しいのは、貴方でしょう?!」
 そう言って、彼に向かって微笑んだ、つもりだ。涙で顔はぐちゃぐちゃだし、ぐるぐるぐちゃぐちゃした感情で上手く笑えているのかすらも不明だ。
 「つっっ!!」
 彼が息を呑んだ音が聞こえた。涙を拭うために私に触れた指が細かく震える。桜の雨が私達を包む。桜の淡い芳香に包まれ、ぼんやりとした景色の中で確かに彼は悩みながらそこにいた。
 「…………………、」
 静かに、何も言わなくなった彼に疑問を抱いて、涙でぼやける視界を拭った。彼は、驚いたような顔をして紅い瞳から透明な、けれど悲しみと苦しみの色が詰まった涙を零していた。棗の言った言葉に驚いて、泣いている自分にも驚いて、どうしていいのか分からなくて、ただただ静かに涙を伝わせていた。
 「あんたは、バカだ。」
 ふと、口を開いて彼は確かにそういった。けれど、その顔は迷い戸惑い、それでも言ってやったと晴れていた。
 「僕なんかに、槐なんかに固執して。僕を見透かしたみたいに言って、本当に大バカだよ!こんな僕にそんなに良くしたっていい事なんてないし、ずっとそばにいる訳じゃないくせに、」
 ボロボロと涙をこぼして、彼はその細っこい身体から力の限り叫んでいた。
 「どんなに言ったって、心なんてわかるもんか!どうせ見捨てて去って行くんだ!信じたいなんて思っちゃう僕がバカなんだろ!僕がわがままだって言えよ!怖いって言えよ!そうやって、お前も去ってくんだろ、つっ」
 ボロボロこぼれる涙を、拭おうとがむしゃらになって、手の甲や手のひらでぐしぐし擦る彼。それでも涙が止まらなくて、ソレが悪い事のように振る舞う彼。
 「ソレが、貴方の苦しみなの?」
 喉がキュッと萎縮していて、声が引っかかった。一言一言を発する度に胸がズクズクと傷んだ。彼は、怒っているというよりも、子供が癇癪を起こして泣き叫んでいるように泣いていた。天邪鬼な心が張り裂けるほど、彼は今、今を叫んでいたのだ。
 「そんな訳ないだろ、僕は強いんだから、苦しいなんて有り得ないんだ!寂しくないし、僕が悲しいなんてない!見捨てられたって、別に良いんだ!!!なのに、なのになんでそんなに僕の中に入って来るのさ!」
 僕は、弱いんだ。僕は苦しいし、寂しい。強いって思わないとやっていけないんだよ。ごめん、ごめんね。こんな事言いたいんじゃないんだ。僕に関わってくれるのは、嬉しいんだ。でもそれで優しい君が傷つくのが嫌なんだ。
 目の前の、棗という女の子が揺らいで見える。
 強いよ、君は。優しいよ。君は。聡くて、寄り添える人だ。でもそれは僕以外の誰かにとっておかないと、ダメだよ。だって、僕は真っ白で真っ赤な化け物だから。化け物に取り憑かれたら、君が幸せになれないじゃないか。
 「私は、あなたといて怖くも苦しくも無い!あなたは、私といると苦しいの?」
 ズクっと心臓が嫌な音を立てて疼く。涙が勝手に溢れて止まらない。もう何年も泣いてないんだ。僕は強いから泣かないはずなんだ。なんで、君は僕の中に勝手に土足で踏み込んで、優しさなんて、僕にとっては迷惑なものを振りまいてるんだ……。違う、こんなこと思いたいわけじゃない。
 「もうヤダよ………、ほうっておいてよ。僕は1人でやれるんだから、寂しくなんてないから、もう傷つけたくないから、早く君も僕を忘れてよ…………。」
 そこまで言うのが、精一杯だった。もう自分の傷も彼女の傷も、槐の傷も抉りたくなかった。自分のことで精一杯だった。卑怯で、臆病な自分が何もできるわけないと、ずっと殻に篭っていたのに。彼女を置いて、館に走って行った。
 「待って!!!!」
 待ってって言って誰が待つのさ、 本当にバカじゃないのか、僕なんかに構って、
 「本当に、バカ、だなぁ…………。」
 声が、言葉が震えた。怖かった。けれど嬉しかった。アレ以上話していたら自分が見たくない醜い自分まで見えてしまいそうで。けれど、自分にまっすぐ向き合って、言葉を投げかけてくれるのが嬉しくて嬉しくて。
 部屋に戻って、鍵をかけた。そのまま、ズルズルと地面にへたり込む。
 「バカ、だ!僕なんかに構って、本当に、バカだ!は、ははっ、こんな僕でも、いいのかなぁ、ねぇ、いいのかなぁ。素直じゃなくて、ヘタってばかりだけど、あの子といていいのかなぁ……。」
 ぐすぐすと自分のみっともない泣き声だけが部屋に響く。ずっとずっと1人だった。槐とここに来た時は、やっと仲間が出来たと思った。槐1人が自分といてくれればそれでいいと思えた。それほど、人と関われたのが嬉しかった。
 でも、どんどん強欲になって、新しい友達が欲しくなって、外に出たんだ。けれど、けれど現実は甘くなくて、自分は化け物だったと気付かされただけで。
 「僕は、僕なのに。化け物じゃないのに。でも、みんな化け物って言うから、きっと化け物なんだ。」
 震える声が、部屋に響く。空いた窓から差し込む蒼と光がとても苦しくて。もう泣き疲れた後なのに、どうしようもなく泣きたくなった。
 「誰か、教えてよ…………」
 独白だけが染み込んで行った。

 第5話
 「棗ちゃん!?」
 朱寿が行ってしまった後で、ぼんやりと涙を流していたら、優しい陽だまりの声が聞こえてきた。ふと振り向くと、抱えていた荷物を全て放り出して、槐がかけて来るところだった。
 「棗ちゃん、どうしたの!?こんな地面に座り込んで、泣いてるし、どうしたの?もしかして、朱寿に何か言われたのですか?」
 槐の暖かい少しざらついた手が頬を掬って上を向かせた。深海の瞳が自分を映してくるりと輝いた。暖かい瞳に、またもや涙が溢れる。
 「槐さん、私ね、朱寿を助けたいの。一緒に外を歩きたいし、笑って欲しいの。なのに上手くいかない、あの子を泣かせてしまった…………。」
 槐は、目の前でポロポロと涙を零す棗を愕然として眺めた。朱寿が、あの子が泣いた?ずっと昔に、1度だけしか泣いたことの無いあの子が泣いた?どういうことなのだろう。自分にすら心をあまり見せないあの子が涙なんて激情を見せるはずがないのに。
 その事にまた愕然とする。
 これじゃあ僕が変な人じゃないか。あの子が誰に涙を見せようと勝手じゃないか。でも、でも、何年も共に過ごしてきてあの子は僕に心を閉ざしてたって事なのか?
 分からない、分からない!
 「ちょっと、朱寿のところに行ってみるよ。棗ちゃんも、来る?」
 彼女が、芯の強い真っ黒な瞳を揺らして自分を見る。そのしなやかな首を縦に降るのに時間は要らなかった。漢字(かんじ)