二人で寄り添っているうちに夜が明けた。
 洞窟の外から「陛下―!」と呼びかける声と靴音が響いている。

(助けがきてくれたのね……)

 アシェリーは名残惜しい気持ちを堪えて、ラルフの胸から顔を上げた。

「陛下……そろそろ行かないと」

「……ああ、そうだな」

 ラルフはそう残念そうな表情で言うと身を起こした。そしてアシェリーに手を差し伸べてくれる。
 アシェリーは抑えきれない喜びに笑みを浮かべて彼の手を取った。

「こんな日がくるなんて嘘みたい……」

「俺も未だに実感が湧かない。絶対にお前と結ばれることなんてないと思っていたから……でも嫌な気分ではない。むしろ、とても幸せだ」

 そう言ってラルフはアシェリーの頬に落ちた髪をすくってくれる。

「陛下……」

「ラルフと呼んでくれ」

(いきなりそれは恥ずかしいわ……)

 過去では勝手に呼び捨てにしていたのに、記憶が戻ってからは『陛下』としか呼んでいなかったから。
 込み上げてくる羞恥心を抑えながら、どうにか口にする。

「ラ、ラルフ……」

 そっと唇が落ちてきて、二人は影を重ねた。
 ──その時、何かが落ちるような音が洞窟内に響いた。
 アシェリー達が慌てて身を引き離すと、洞窟の入り口には兵士達とサミュエルの姿があった。サミュエルが持っていた木の棒が落ちた音だったようだ。

「あっ、こ、これは、その……っ」

 赤面したアシェリーがどうにか言い訳をしようとしたが、サミュエルは自らの顔を片手で覆って手を振る。

「……もう察したよ」

 救護班がラルフの元へ駆け寄ってきて体調のチェックをしている。服はボロボロだったが傷一つなかったので、安堵した様子だ。

「良かった。アシェリー様が一緒だったので、無事だったんですね」

「まぁな」

 ラルフが従者達とやり取りをしていたので、アシェリーはサミュエルに近付いた。
 サミュエルは困ったような顔で笑っている。

「……本当は、アシェリーの気持ちに気付いていたよ。でも付け入る隙を狙っていたんだ」

「サミュエル……」

「アシェリーが幸せなら、それで良い」

 サミュエルがそう言った時、アシェリーは背後から誰かに抱きしめられた。振り返るとラルフだった。

「もう彼女を不安にさせることはない」

 なぜかラルフはサミュエルにそう宣言した。それが嬉しくて、アシェリーはラルフの手をぎゅっと握りしめる。

「ラルフ……」

 サミュエルは苦笑して「……じゃあ、そうしてくれ。俺は代わりなんて務まらないから」と言うと、手をひらひらさせて去って行った。
 アシェリーはラルフに向き直る。

「ところで、聖女様は……?」

 アシェリーが崖から落ちたのはアメリアを助けるためだった。しかし、その直前、彼女はアシェリーにつかみかかったところをラルフに見られている。

(さすがに無罪放免とするわけにはいかないかも……)

 相手が聖女とはいえ、アシェリーはまだ王妃の地位にいる。政教分離しているこの国では聖女より王妃の方が立場は上なのだ。アシェリーを害そうとしたなら捕らわれても仕方がない。

「どうやら、夜陰に乗じて逃げたようだ。兵士達は朝になって俺達と聖女がいないことに気付いたらしい」

 苦々しくラルフは吐き捨てる。
 アシェリーは呆然とした。

「逃げた……?」

(確かに素直に兵士につかまるような性格には見えなかったけれど……でも、いったいどこへ……?)

 アシェリーが悶々としていると、ラルフは顎を撫でながら言う。

「神殿か、聖女の養父がいるシュヴァルツコップ侯爵のところが有力だ。どちらにも使いを出す」

「……けれど彼らが簡単に聖女を引き渡すでしょうか?」

 アシェリーの疑問に、ラルフはニヤリと笑みを浮かべた。

「俺に考えがある」


 ◇◆◇


(どうしてこんなことに……っ!)

 アメリアは夜の森を苦労しながら走っていた。途中で何度も転び、頬や手足に傷を作る。

(あの女が勝手に私をかばって落ちたのよ! 私のせいじゃないわ……! ラルフ様だって、あんな悪女を助けようとしなければ崖から落ちなかったのに……っ)

 きっと、二人は助からないだろう。そう思いつつも万が一生きて発見されたら、アメリアは元王妃暗殺未遂容疑で取り調べを受けることになるかもしれない。それは嫌だった。

(いや、考えたくないけれど……もしかしたら国王暗殺の疑いまでかけられてしまうかもしれないわ)

 でも神殿までたどり着けば逃げられるはずだった。

(私は聖女なんだから、神官達は命にかえても私を護るはずだわ……!)

 ラルフ達が亡くなっていれば、アメリアのしわざだという証拠はない。
 アメリアはアシェリーを殺すつもりではあったが、殺せなかったのだ。勝手に悪女がアメリアをかばって落ちただけ。アメリアが野営地からいなくなったことで犯行を疑われても、しらを切りとおせば済む話だ。
 街まで降りると、早朝から出ている辻馬車に乗って数時間かけて神殿に向かった。
 衛兵達はアメリアのボロボロの姿に驚いたようだった。
 アメリアは絶対に誰が来ても面会しないと告げて、お風呂で体を磨き、ゆったり食事をして、しばしの休息を取る。すると、あの森でのことが嘘のように思えてきた。

(まあ、ここにいたら安全よね。だって私は聖女だもの。この聖女の証がある限り、神殿は私を王宮に渡すはずがないわ)

 そう思いながら、アメリアは手の甲にある聖女の証の紋章に触れた。それは触れると今でも淡く輝く。

(後で総主教様に連絡を取って、事情を話しましょう。そうしたら、かばってくれるはずだわ)

 総主教は神殿の最高位の老人だ。アメリアが聖女であるという神託を授かり、神殿に迎え入れてくれた人物でもある。
 聖女を崇拝している彼ならアメリアの無罪を信じてくれるはずだ。
 そしてアメリアが自室で紅茶を飲みながらくつろいでいた時、慌ただしいノックの音がして総主教が入ってきた。仰々しく、たくさんの神官達を連れている。

「あら、総主教様! 良かったわ。連絡を入れようと思っていたところですのよ」

 女性の部屋だというのにズカズカと入室してきたことに内心ムッとしていたが、アメリアは笑顔で迎える。
 後のことを考えて下手に出たのだ。総主教には味方になってもらわねば困るから。
 総主教は眉間に深いしわを刻んで、これまで聞いたことがないような重々しい声で言った。

「陛下が聖女様の行方を捜しておられます。大変なことをしてくださいましたな。王妃様に害をなそうとするなど……」

(ラルフ様と悪女は無事だったのね……)

 それに安堵するより先に苛立ってしまう。どうせなら死んでくれていたら死人に口なしで、面倒もなかったというのに……。
 アメリアには聞き流せない言葉があった。眉をひそめて尋ねる。

「王妃様? それって、あの悪女のことですか? もう離婚したから、ただの子爵令嬢でしょうに」

「いいえ。お二人は離縁なさっておりません。巷では、なぜかお二人が離婚なさったと噂されていますが……」

「え……?」

 アメリアは愕然とした。
 仮にアメリアの行動が発覚したとしても、嫌われ者の元王妃が相手なら、聖女であるアメリアの罪はそこまで重くされないだろうと踏んでいたのに。
 現王妃の殺害を試みたことを知られたら、一般人なら処刑は免れない。たとえ聖女でもただでは済まないだろう。
 アメリアは総主教にすがりついた。

「総主教様、私は何もしていませんわ! 信じてください!」

「……ならば、どうしてお一人で戻ってこられたのですか?」

「それは……あんな場所にずっといるのが嫌になったですわ。そのくらい別に良いでしょう?」

 事も無げにそう言ったアメリアを、総主教は苦々しげな表情で見つめる。

「……こちらの神殿で働く者達から、あなたの振る舞いが聖女にふさわしくないと伺っております」

「まあ! 何をおっしゃいますの? 私は聖女ですわよ! ほら、ここに証が……」

 アメリアはそうヒステリックに怒鳴って、手の甲の聖女の印を見せる。だが、それはこれまでのように輝いてはおらず、どんどん光を失っているようだった。

「あ、あら? どうして……」

 狼狽するアメリアを、総主教はじっと見つめる。

「……先ほど、神託がくだりました。もはや、あなたは聖女ではないと」

「うそ……嘘よ、そんなの……!」

 叫ぶアメリアを神官達が取り押さえる。
 地面にうつ伏せにされたアメリアに向かって、総主教は冷たく告げた。

「あなたは教会の権威を失墜させました。せっかく神からいただいた力を使わず、自分本位に振舞った。それゆえに神が聖女の能力を奪ったのでしょう」

「そ……そんな! 私は間違いなくヒロインなのに!! 落ちぶれるなら、あの悪女アシェリーのはずでしょう!? 総主教様も陛下もどうして、あの女を捕まえないのよ!? 皆して頭イカレちゃったの!?」

 そうわめくアメリアに、周囲を囲っていた神官達がざわめく。

「悪女って、王妃様のことをおっしゃっているのか……?」
「なんと不敬な……」
「思っていたより気さくな御方だよな。俺、毎週治療してもらっているんだ」
「あっ、俺もだ! え、お前もアシェリー様ファン?」
「医療革命を起こしたんだよな。それで騎士団での死者が激減したらしい。偉大な御方だ」
「私も息子を王妃様に救われた」
「民のために自ら街で慈善活動をなさっていらっしゃるとは……なんと素晴らしい心根だろう」
「悪女の噂は確かにあったが、真っ赤な嘘だったようだ」
「それに引き換え、うちの聖女は……」

 口々にそう漏らす神官達に、アメリアは狼狽した。
 人々の向けてくる視線は冷たい。

「どっ、どうして!? 悪女はあの女よ! 皆騙されてるわッ!」

 総主教は大きくため息を落とす。

「……シュヴァルツコップ侯爵から、あなたを一族から除籍すると通達がありました。後で書類をお持ちします」

 養父のシュヴァルツコップ侯爵は保身のために、アメリアを切り捨てたのだ。アメリアの頭に血が昇る。

「なんて姑息な男……!」

 もとよりお互いに信頼はしていなかった。ただ利害が一致したゆえの契約関係。それでもあっさり見捨てられたことにアメリアは憤慨する。
 暴れるアメリアに総主教は言った。

「もしあなたを聖女と神が認めるなら、私は何があっても護ったでしょうが……いまや、あなたは何の能力も持たない一般人です。……それでも私の心情的には追放程度で終わらせてあげたかったのですが……悪く思わないでください。あなたを引き渡さなければ、陛下は宗派を変えるとおっしゃったのです」

「宗派を変える……?」

 ヴィザル教がこの国で一番信じられている宗教だ。
 しかし同じ神を信仰しながらも解釈の違いによって生まれた別の宗派もある。

「ええ、同じ神を信仰する宗教は他にもありますゆえ。……しかし、そんなことをされては我がヴィザル教は大打撃です。王族が信奉するという後ろ盾がなくなれば、信者も別の宗派に流れてしまうでしょう」

「そんな……」

 アメリアは呆然とつぶやいた。
 総主教はアメリアを捕えている者達に「連れていけ」と命じる。
 ガックリとうな垂れたアメリアを神官達が引き連れて行った。


 ◇◆◇


 アシェリーはラルフと共に王宮の正面玄関にいた。
 兵士達に連れられて行くアメリアを遠くから見つめる。彼女はアシェリーと目が合うと激しい憎悪のこもった瞳で睨みつけてきた。しかし兵士に気付かれ、乱暴に引っ張られていく。それに文句を言っている姿が遠目でも分かった。

(……本当は、彼女がもっと反省している様子だったら修道院送りくらいに減刑してあげたかったのだけれど……)

 最初、ラルフは元聖女を処刑すべきだと主張した。それを押しとどめたのはアシェリーだ。
 しかしアメリアは一貫して反省する態度は見せず、あまつさえアシェリーを罵倒した。
 そのせいでラルフや臣下達が怒ってしまい、石切り場で強制労働十年の刑が言い渡されたのだ。体力に自信がある男でもなかなか過酷な刑である。
 それでもアシェリーの嘆願でアメリアは死刑を逃れることができたのだが……。

(……生きてさえいれば、挽回するチャンスはあるわ)

 厳しい生活を続けるうちに過去の行いを思い出して猛省してほしい。そうすればアシェリーみたいに人生が良い方向に変わるかもしれない。

「……良かったのか? 元聖女を処刑しないで。あいつ、全然反省してないぞ。これからだって反省するかどうか」

 ラルフは未だに不満そうだ。
 アシェリーは苦笑する。

「……やり直すチャンスは与えられるべきですから。もちろん被害者が許した時のみですけどね」

 アシェリーはラルフに向き直る。

「私も陛下が許してくださったおかげで、今こうしているのですから。……だから、アメリア様にも機会をあげたい」

「……アシェリー」

 しみじみとした口調で、ラルフは「そうだな」と、うなずく。
 彼の手が伸びてきて、アシェリーの落ちてきた髪を耳にかける。そして、そのまま身を屈めたのでアシェリーは瞼を伏せた。
 二人の唇が重なる。

「──俺は今、幸せだ」

「……私もです」

 そして顔を見合わせて笑い合った。
 これまでの不仲を知る兵士達が、未だに驚愕の眼差しでアシェリー達を見つめてくる。それが、おかしくてたまらない。
 日に日に仲良くなっていく二人は、もはや今は偽りの夫婦ではなかった。


 ◇◆◇


 フリーデン王国のラルフ国王というと愛妻家として有名だ。
 幼馴染で結婚した二人は三人の子宝に恵まれ、生涯寄り添って幸せに暮らしたという。
 悪女アシェリーがラルフ国王を脅して結婚したのだと主張する学者もいるが、参考になる資料は多くはない。
 二人の逸話は大半が仲睦まじいエピソードで彩られていた。
    ──書籍『フリーデン王室の歴史』より抜粋




 了