テントの中でアシェリーと軍医が話しているのを遠くで眺めながら、アメリアは銀のスプーンをぐっと噛みしめた。

「アメリア様、そんなに食いしばると歯が欠けてしまいます……!」

「うっさいわねッ!」

 心配してそう声をかけてきた女性神官に、アメリアはスプーンを投げつけた。女性神官は「アメリア様……」と呆然とつぶやき、地面にへたりこんでいる。他の神官達がオドオドと周囲で見守っていた。
 アメリアはそれを気にする様子もなく、ギリリと奥歯を噛みしめる。

「どうして陛下は私をおそばに置いてくださらないの……!?」

 本当だったら、アメリアはラルフと食事しているはずだった。しかし誘われなかったので、仕方なくアメリアから「一緒に召し上がりませんこと?」と声をかけたのだ。
 ラルフは了承してくれたが、すぐに部下が報告を持ってきたせいで「すまない」と言って立ち去ってしまった。後に残るのは、スープを一口も食べるヒマさえなかったアメリアだけ。仕方なく自分のテントに戻り、一人寂しく食事していたのだ。

(まさか、あの従者わざとじゃないでしょうね……!?)

 ラルフの従者の意味ありげな視線を思い出し、アメリアは忌々しい気持ちになる。

「今、悪女はそばにいないのに……」

 アシェリーは軍医らしき男達に囲まれ、談笑しているようだった。
 その時、テントの外から誰かが歩きながら会話している声が耳に届く。

「アシェリー様は本当に素晴らしいお方だよな。誰か悪女なんて言い出したんだろう」
「本当だな。アシェリー様のおかげで軍でも死者が激減した」
「陛下と離縁なさってからは、王都の治療院で慈善活動なさっているらしいな。働かなくても生活できるだろうに。すごい奉仕の精神だ」
「陛下に依頼されて医療部隊の指揮をしてくださっているらしい。軍医長が感涙してたな」

 そんな他愛もない会話が交わされ、声が遠ざかっていく。
 アメリアはぐっとスカートを握りしめた。

「どうして……ッ!?」

 本当なら、それらの賛辞を聞くのはアメリアだったはずだ。
 ここに聖女がいるのに、ラルフを癒す未来の王妃がいるのに、人々はアメリアのことは眼中にないような態度をしている。それが癪に障った。
 それがアメリアの悪評による部分も大きいことに、彼女は気付いていない。

「あの女さえいなければ、きっと物語は元の流れに戻るはず……」

 そう暗い目でブツブツとつぶやくアメリアに、女性神官達は不可解そうな眼差しを向けていた。


 ◇◆◇


 食事を終えるとアシェリーはサミュエルと合流し、軍医達に野戦病院に案内された。
 後方部隊の中でも一際大きなそのテントには、床にたくさんの寝床が並べられている。
 アシェリーはラルフから医療部隊の指揮を任されているので、薬品の確認や、消毒や手洗い、患者の衣類の洗濯、排せつ物の処理の流れなどを伝えた。

「野営地から水場は近いのですよね? 崖の下から水を引っ張るんですか?」

 アシェリーがそう軍医長に尋ねた。
 出立前に確認した地図によると、野営地の近くには崖があり、その下には流れの激しい川がある。

「いえいえ。一番近いのは確かに崖の下の川ですが、そちらは足元が危ないので使いません。それより少し距離はありますが、森の中には小川や湧水もあります。洗濯や手洗いにはそちらの水を使っています」

「なるほど……」

 いくつかのやり取りの末に、アシェリーはうなずいた。
 アシェリーの要望通りにラルフがしっかりと着替えやシーツ、人員なども配備してくれているので問題はなさそうだ。

(あとはできるだけ被害が出なければ良いのだけれど……)

 治療師であるアシェリー達の出番など、なければそれに越したことはない。
 アシェリーがサミュエルと共にテントを出た時、ふと部下と話しているラルフの姿を見かける。
 彼はアシェリーに気付くと、こちらに手を振って近付こうとしてきた。
 ──その時。

「陛下ぁ!」

 甘ったるい声を上げて、アメリアがラルフに抱きついた。まるでアシェリーに見せつけるようにしながら言う。

「ラルフ陛下とご一緒できて、アメリアとっても嬉しいですわ!」

 そう言いながら、ラルフの胸板を撫でている。彼の腕に胸を押し付けるというあからさまなやり方に周囲の顔が引きつっていることにアメリアは気付いていない。

(……聖女様)

 アシェリーの顔が強張る。

「すまないが、ちょっと放してくれないか」

 ラルフが硬い表情でそう言ったが、アメリアはむしろガッチリと彼の腕をつかんで離さない。さすがに彼も振り払うことまではできないようで、困って雰囲気が漂っている。

(小説では、こんなことをしていなかったように思うのだけれど……)

 小説と違う聖女の性格に内心困惑しつつも、アシェリーは首を振った。

(……これが本来の小説の流れだわ)

 そう自身に言い聞かせ、その場をそっと離れる。
 背後で「アシェリー」とラルフの呼ぶ声が聞こえたが、アシェリーは聞こえなかった振りをした。
 なぜか、勝手にあふれた涙が頬を濡らす。

(……二人を見守ると決意したはずなのに、ダメね……)

 今のラルフなら、アシェリーを処刑したりしないだろう。それだけで満足して悪者は退散するべきなのに、思いきれない自分がいた。
 まだ残っている彼への気持ちが未練となって、アシェリーをさいなむ。
 木にもたれて深く深呼吸した。目を腫らしたままでは戻れないから、少し時間をつぶすことにしたのだ。

「……アシェリー」

 そう呼びかけられて振り向くと、そこに立っていたのはサミュエルだった。
 アシェリーは慌てて目元を手で隠す。

「……ちょっと埃が目に入ってしまったみたい」

「そっか……」

 サミュエルはそれ以上追及しなかった。
 居たたまれなくなって、アシェリーはその場を後にする。もっと一人きりになれる場所を探そうと思ったのだ。
 しかしラルフが遠くからこちらに向かってくるのが見えて、アシェリーは別方向に足を向ける。

(どうしてこっちに来るの? 聖女様は……?)

 戸惑いながらも、今は顔を合わせるわけにはいかなかった。泣いている理由を説明したくない。
 アシェリーがその場から遠ざかりながらそっと背後を窺うと、サミュエルがラルフを睨みつけている姿が目に入った。
 その不敬さにぎょっとしたが、ラルフは気まずそうに視線を逸らすだけだ。そして、サミュエルと会話することなく彼はテントに戻っていく。
 サミュエルは、もしかするとアシェリーの気持ちを慮って行動してくれたのかもしれない。けれど、その命知らずなやり取りに肝が冷える。

(……でも、今の陛下は意味が分からない)

 アシェリーのことを追ってきたこともだが、サミュエルとの険悪な態度も。原作と違うことばかりだ。
 それに不安をおぼえながら、アシェリーは胸を押さえて、そっと息を吐いた。